城山キリスト教会夕拝説教
二〇二三年四月一六日          豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ「ベテスダの池にいた人」
ヨハネ五章一節〜九節
 
 1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
 
<ベテスダの池で>
 
「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」(ヨハネ5・1)
 
 ある時、イエス様はユダヤ人の祭りに参加するためエルサレムに行かれました。当時のユダヤには幾つか大きなお祭がありました。ユダヤ三大祭りと呼ばれる「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」です。今日の箇所の「ユダヤ人の祭り」は、おそらくこのユダヤ三大祭りのどれかだったのでしょう。エルサレムには国中から大勢の人々が集まっていました。
 イエス様は主にイスラエルの北部ガリラヤ地方で活動されることが多かったのですが、ユダヤ人の祭りの時にはエルサレムに上り参加しました。そこでも人々に福音を語り病人をいやされたりなさいました。
 
「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。」(ヨハネ5・2−3)
 
 エルサレムの北東には「羊の門」と呼ばれる町への入り口がありました。大勢の人たちが羊の門をくぐってお祭に参加するため列をなして神殿に向かっていました。羊の門の近くに、今日の出来事の舞台となる「ベテスダと呼ばれる池」がありました。「ベテスダ」という言葉には「あわれみの家」という意味があります。たくさんの病気の人や、目の見えない人、足が不自由な人が、あわれみを求めて癒されることを願ってこの池に集まっていました。「ベテスダの池」には「五つの回廊」がありました。屋根付きの廊下です。この写真はイスラエル博物館にある復元模型です。おそらくこういう形だったのではないかと考えられています。池の大きさは、長さが100メートル、幅が50メートル、深さも10メートル以上あり、とても大きな池だったようです。
 想像してみてください。町中がお祭ムードの中で、祭りに参加することも祝うことも出来ない大勢の人が池の周囲と真ん中にある「五つの回廊」に横たわっていたのです。そもそも、なぜ大勢の人々がこの池に集まるようになったかというと「ベテスダの池」に次のような言い伝えがあったからです。「主の使いが時々この池に降りてきて水を動かす。その時、最初に池に入った者が癒される。」当時、この池からは地下水が湧き出ていました。ときどき池の底から水が湧き上がり、ぶくぶくとあわがでて池の表面が動きました。人々は、「池の表面が動くのは、目に見えない天使が水をかき回しているからだ。その時、最初に池に飛び込んだ人の病気は治る」と信じていたのです。医者に見放され、もう治る見込みがない人たちが藁をもすがる思いで迷信に頼って集まっていました。
 
<イエス様の問いかけ>
 
「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。」(ヨハネ5・5)
 
 イエス様は、その人をご覧になってこう声をかけられたのです。「よくなりたいか。」(ヨハネ5・6)
 病気の人が「良くなりたい」のは当然ですね。でも、この人はイエス様にこう答えます。
「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(ヨハネ5・7)
 彼は、素直に「良くなりたい」とは言えませんでした。無理もありません。38年間というのは、とっても長い年月です。その人から「良くなりたい」という願いを奪うのに十分な長さです。おそらく、彼はいろいろな医者のところにいったでしょう。薬もためしたと思います。でも、一向に病気はなおりませんでした。何をやっても無駄で、期待しては裏切られの連続だったと思います。「もう自分が良くなることはない。」「無理だ。不可能だ」そう思って当然です。
 彼は孤独も感じていたでしょう。ベテスダの池に来たけれど(おそらく誰かに運んでもらったのでしょう)でも、どう考えても自力で最初に池に飛び込むことはできません。水が動くのを一緒にまって寝たきりのこの人を池に入れてくれる友だちもいませんでした。自分を心配してくれる人も、助けてくれる人もいない。孤独だったはずです。
 それでも、この人は「ベテスダの池」から離れることができませんでした。裏を返せば、もうここにしか自分の居場所がなかったということです。「このまま池にいても希望はない。かといって他にいくところもない。この場所にいれば少なくとも人々の施しを受けて生きて行くことができる。」だから、この人はイエス様の「よくなりたいか」という問いに、真正面から「はい。良くなりたいです。」そう答えられなかったのです。無意識のうちに「このままの状態でいい」と思っていたのかもしれません。
 しかし、イエス様は、そんな彼の心の状態をご存知でした。イエスは、彼が希望を失い伏せっているのをご覧になって、その状態がもう長くて良くなることをあきらめてしまっているのを知って、その上で、なお彼に「よくなりたいか」とお聞きになったのです。彼の内側にもう一度「良くなりたい」という思いがわきあがるように、心の奥底にある「やっぱり良くなりたい」という願いが、もう一度回復されるように、イエス様は声をかけてくださったのです。
 私たちにも、この人と同じように「よくなりたいです」と素直にイエス様に求めることができないときがあるかもしれません。問題がなかなか解決せずに長引いてしまうようなとき、「イエス様、どうせ無理です」「良くなるように思えません」「もう求める気持ちもありません。」そんな思いになってしまいます。しかし、イエス様は、たとえ私自身が諦めてしまっていても、なお語りかけてくださるのです。もちろん、イエス様は私たちの心を無理にこじ開けようとはなさいません。しかし、私たちを見てくださって、私たちの心の中にある願いをご存じで、それをイエス様に求めることができるように「よくなりたか」と声かけてくださるのです。
 マタイ福音書11章28節でイエス様はこう言われました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)
 「よくなりたいか」と語ってくださるイエス様は、同時に「わたしがあなたを休ませてあげます。」「わたしに重荷をおろしたらどうですか」と私たち一人一人に語ってくださるのです。
 
<イエス様の命令>
 
 続けてイエス様はこの人に言われました。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ5・8)
 この時イエス様は「わたしがあなたを池にいれてあげます」ではなく、「これから私が病気を直します」でもなく、「起きて!(あなたのその足で立って)床を取り上げて、歩きだしなさい!」と命じられたのです。みなさん、38年も伏せっていた人に、一度も立つことができなかった人に、「起きなさい。床をとりあげて歩きなさい」というのは不可能なことですね。しかし、イエス様は、この時、不可能と思えることを言われました。なぜならイエス様にはその力があるからです。人にとって、どんなに不可能だと思えることでも、イエス様は無から有を産み出すことができるお方、不可能を可能にすることができる、神なるお方だからです。
 他の福音書の中で、あるときイエス様は激しい嵐に向かって「黙れ、静まれ」命じ、そのひと言で嵐を静められました。自然界を治める方であることを示されました。他の箇所でも、病気で苦しんでいる多くの人を癒されました。また、五つのパンと二匹の魚という僅かな食べ物で五千人以上の人の空腹を満たされました。イエス様は、たとえ人々が「不可能です。無理です。」と思ってしまうときにも、「不可能ではない、起きよ」と命じられたのです。イエス様は神なるお方、そのことばには力があるからです。
 
<イエス様への応答>
 
 この時、イエス様のことばを聞いたこの人はどんな反応だったでしょう。驚いたはずです。「そんなこと突然いわれても…」「本当になおっているのだろうか…」「立てるだろうか…」戸惑ったはずです。しかし(これは想像ですが)目の前におられるイエス様を見たときイエス様のあたたかいまなざしを感じたはずです。イエス様のことばを聞いた時、その力強さによって、彼の心に内側から勇気が湧いてきたのでしょう。「この方は、他の人とは違う。このお方の言う通りにしてみよう。」そして、イエス様が命じられたことばに応答し、勇気を出して足に力をいれたのです。
 「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」(ヨハネ5・9)
 イエス様が命じられた通りに彼は癒されました。そして、それまで寝ていた「床を取り上げて」、自分の足で立ち上がり歩き出したのです。このことが意味するのは、彼がこれまでずっと伏せっていた「ベテスダの池」が、この瞬間から彼の生活の場所でなくなったということです。38年間、病に伏して、迷信に頼り、「もう治らない。」「誰も助けてくれない」「このまま生涯を終えるのだ」そのような諦めの場所、失望の場所に伏していた彼が、イエス様に出会って、イエス様のことばに信頼して、勇気をもって立ち上がった時、癒され新しい人生がスタートしたのです。
 では私たちはどうでしょうか。私たちは実際にベテスダの池に伏せっているわけではありません。でも、人生のいろいろな出来事の中で時には伏せってしまうようなときがあります。肉体的な弱さを感じることがあります。精神的な面でも落ち込んだり、信仰が躓いたりすることだってあります。自分は元気だと思っていてもいつのまにか落ち込んだり、イエス様を見上げられなくなってしまうことだってあります。
 でも、イエス様はそんな私たちのところに来てくださって、私たちを見つめてくださって、心の内にある願いを理解してくださって「良くなりたいか」と声をかけ、「起きなさい」「わたしのことばに信頼して、歩んでいきなさい」そう語りかけてくださいます。
 なぜなら、イエス様は昨日も今日もいつまでも変わらないお方だからです。私たちは揺れ動きます。落ち込みやすい存在です。浮き沈みがあります。でもイエス様はけして変わることのないお方です。日々、変わらないみことばをもって私たちに語りかけてどんなときも励ましてくださいます。
 
<復活のいのち>
 
 今日の箇所で、イエス様は「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ5・8)と言われました。「起きて」ということばは、別の箇所では「よみがえる、復活する」と訳される言葉なのです。
 先週は、イエス様の復活をお祝いするイースターでしたね。イエス様は私たちの罪の為に十字架に掛かり、尊い命をささげてくださいました。そして、三日目に死を打ち破り復活してくださいました。今も生きておられます。復活されたイエス様が神の子救い主としての権威をもって「起き上がりなさい」「わたしが、新しいいのちを与える、そのいのちに生きなさい」と力強く語ってくださっているのです。
 そして、皆さん、聖書にはこうも書かれているのです。
「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。」(1コリント6・14)
 すごい約束です。イエス様をよみがえらせてくださった神様が、その御力によって私たちもよみがえらせてくださる、起き上がらせてくださる。この約束は、一つには私たちがこの地上の命を終えた後、新しいからだと永遠のいのちが与えられて天のみ国にいかされるという約束です。
 また、この約束は天国の希望だけでなく、今、イエス様を信じて生きる歩みの中で、日々イエス様から力を受けて、イエス様のことばに支えられながら生きることができる、その約束でもあります。
 私たちは落ち込んでしまうことがあります。伏してしまうようなときもあります。でも、何度でも何度でもイエス様のことばによって立ち上がらせていだだけるのです。イエス様とともに生きる「永遠のいのち」に生かされているのです。
 「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。」この確かな約束が与えられている恵みに感謝して信頼しながら、この週もともに歩んでまいりましょう。