城山キリスト教会説教
二〇二三年四月三〇日 豊村臨太郎牧師
ヨハネ四章四六節〜五四節
聖書人物シリーズ
「王の役人」
46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。
47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。
48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。
52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。
53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。
54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。
聖書人物シリーズ。今日のとりあげるのは、カペナウムという町に住んでいた「王室の役人」です。イエス様がガリラヤのカナという町におられた時に「王室の役人」がイエス様のところにやってきました。ヨハネはこの「王室の役人」とイエス様との出会いを紹介するにあたって、4章46節で、わざわざ「再びカナという町」に行かれたと書いています。
イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。(ヨハネ4・46)
「カナ」は、「イエス様が水をぶどう酒に変えられた奇蹟」が起こった町です。それはイエス様が確かに神の子救い主であることを表す「しるし」(証拠としての奇蹟)でした。ヨハネがわざわざ「王室の役人」とイエス様との出会いが、「カナ」で起こったと書いているのは、この出来事が水をぶどう酒にかえられたのと同じように、イエス様が神の子、救い主であることを証している大切な出来事なのだということです。
そして、この出来事には「イエス様を信じる」とはどういうことか、「イエス様への信仰」がどういうものかというメッセージが込められているのです。今日は、そのことを考えていきましょう。
<王室の役人の来訪>
「カナ」にいたイエス様の所に、「カペナウム」から「王室の役人」がやってきました。「カペナウム」は「カナ」から30キロほど離れた町です。徒歩だと7〜8時間、半日以上かかったでしょう。
「王室の役人」と訳されていることばは、単に下っ端の役人ではありません。「王(バシレウス)」という言葉から派生した「バシリコス(王に仕える役人)」です。つまり、王に直接つながりのある人物、おそらく、当時ユダヤをおさめていた領主ヘロデ・アンティパスに仕える、身分の高い役人、高級官僚だったと思われます。今で言えば、県知事の元ではたらく官僚のトップでしょう。そんな人物がわざわざ、田舎の大工の息子であるイエス様に会いにきたのです。
それほど、この時イエス様は有名でした。イエス様の噂はガリラヤからユダヤ全体に広まりつつあり、立場を超えて多くの人の目にとまっていたのです。イエス様が語られる福音は、さまざまな壁を越えて、いろんな場所に、いろんな立場の人に力強くとどいていたのです。でも、何もないのに立場の高い「王室の役人」自らイエス様の所にやってくることはありません。人間的に見れば、イエス様は身分の低い人です。普通なら、わざわざ会いにいくような関係性ではありません。呼びつけても良いくらいです。でも「役人」は、切羽詰まった理由がありました。「息子が死にかかっていたから」でした。だから、役人は自分から「イエスのところへ行き」、「息子をいやしてください」と願ったのです。
どんな人にとっても、身内の病気や死など、苦しい経験です。そして、そのような自分ではどうすることもできない状況になった時、わらをもすがる思いで神様を求めるのではないでしょうか。それは、ご利益的な動機からの求めかもしれません。でも、神様はそれさえも用いて、イエス様のもとに導いて下さいます。そして、ひとたびイエス様のところに導かれたならば、イエス様ご自身がとらえてくださいます。
<イエス様と役人と対話>
この役人は、プライドも捨て藁をもすがる思いで「息子を癒して下さい」と願いました。すると、イエス様は「役人」にこう言われました。
「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」(ヨハネ4・48)
「しるしと不思議」つまり、「目に見える何かを見ないかぎり、信じないでしょう」ということです。なんだか冷たい印象ですね。突き放しているようにも感じます。でも、実は、このような対話のスタイルは、ヨハネの福音書でイエス様と誰かが会話するときの一つのパターンです。「ニコデモ」「サマリヤの女」の時もそうでした。対話の相手がイエス様に語りかけ、それに対してイエス様が一見、関係のないような、すれ違っているような返事をする。それに対して相手が答え、またイエス様が語りだす。そのように段々イエス様との会話が、物事の核心へと進んでいくのです。
私たちにもそんな経験があるかもしれません。たとえば、教会にきたばかりのとき、「礼拝で話を聞くけれどよく分からない。でも、何か心にひっかかる。また聞いてみよう。」そうやって礼拝に通う中で、少しずつイエス様との対話が進んでいくということがあります。
この時「役人」は「息子の病気を癒して下さい!」と願いました。それに対して、イエス様は「わかった」とも「だめ」とも答えず、「しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」とおっしゃいました。それは、イエス様との会話の中で、彼のイエス様への姿勢が「目に見える何かをもとめる」そのような姿勢から変えられていくきっかけでもあったのです。
では、この時、役人がもっていたイエス様への信仰の姿勢はどういうものだったでしょうか。彼の次のことばからわかります。
「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」(ヨハネ4・49)
「このままだと、息子は死んでしまいます。早く来てください!」という願いですね。彼にとって重要だったのは、彼がこの時イエス様に求めたのは「今すぐ」「自分の家に」イエス様に来てもらうこと。そして息子を「直し」「生かして」もらうことでした。言い換えれば、自分が思う時に、自分が思う方法で、自分が願う場所に、イエス様を求めています。自分の理解(信仰の枠)の中にイエス様を引き込もうとしているのですね。
もちろん。イエス様に願い、自分のところに来ていただくことは悪いことではありません。必死でイエス様を求めているのですから。だから、イエス様もそんな彼を受けとめて会話を続けてくださっています。しかし、イエス様は彼の願いを受けとめつつ、さらに信仰の深みへと導こうとされているのです。
<イエス様のことば>
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(ヨハネ4・50)
イエス様に必死に食らいついた役人に対して、「帰りなさい。あなたの息子は直っています。」直訳は「行け!あなたの息子は生きる!」です。「このままだと死んでしまいます」「今、死なないうちにきてください」といった彼に対してイエス様は「大丈夫、息子のところに帰りなさい。彼は生きるから」といわれたのです。
それを聞いた役人はどうしたでしょうか。ヨハネは淡々とこう書いています。
「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」(ヨハネ4・50)
この役人は、イエス様の宣言を聞いたとき、役人は「信じて帰り」ました。この「信じた」ということばは、ギリシャ語特有の「過去の一点を表す」アオリスト時制です。イエス様のことばを聞いた瞬間、彼の内面に確かな変化が起きました。どんな変化だったのでしょう。それは、「しるしと不思議」つまり、イエス様のわざを「見て信じる信仰」から、「イエス様のことば」を聞いて信じる信仰へと変化したのです。一緒にきて、イエス様に触れてもらう、自分の願う時に、自分が想像できる方法でイエス様に働いてもらう「信仰」から、時間と空間を越えて、自分の枠を越えて働かれる、イエス様のことばを信じる信仰に変えられたのです。イエス様のことばを聞いた時に、彼の内側から、イエス様の語られることばへの信頼が引き出されました。イエス様への信頼を引き出す力強い宣言だったのです。
これは、私たちイエス様を信じる一人一人にも与えられている信仰です。私は時々思います。「イエス様が目に見えて、一緒にいて触れてくださったらいいのに。」でも、イエス様は目に見えませんね。さわることもできません。
しかし、聖書はこう言っています。イエス様はこう約束されました。
「わたしはあなたがたのところに助け主(聖霊)を遣わします。」(ヨハネ16・7)
パウロも言っています。
「神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊(聖霊)を、私たちの心に遣わされました。」(ガラテヤ4・6)
聖霊なる神様が、イエス様を信じる私たちの内に住んでくださいます。そして、そのお方がイエス様のことばを「聖書のことば」を信じることができるように助けてくださいます。不思議ですけれども、私たちが聖書を読むとき、イエス様のことばを聞くとき「本当にそうだ」と信頼して、歩むことができるように、聖霊が助けてくださるのです。そして、私たちが聖書のことばを聞いて、イエス様のことばに信頼して一歩一歩あゆんでいくとき、私たちの枠の中にイエス様を留める信仰から、私たちの理解を超えて働いてくださる「イエス様への信頼」へと広げられていくのです。
<帰路につく役人>
イエス様と会話する中で「イエス様のことばを信じる信仰」が与えられた役人は帰路に着きます。「カナ」から「カペナウム」は、約30キロの道のりです。どんなに急いでも半日以上はかかりました。途中で野宿したかもしれません。その間、いろいろと考えたと思います。これは想像でしかありませんが「イエス様と会話したその瞬間は信じられたけど、本当にそうだろうか?癒されてなかったらどうしよう…」私ならそう考えます。心の支えは「息子は生きる」というイエス様のことばだけです。きっと何度も、何度も心の中で思い出したでしょう。疑いが来るたびに、みことばを思いめぐらす。そんな旅だったと想像します。
彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。(ヨハネ4・51)
その道すがら、遠くから誰かが駆け寄ってきます!よく見れば家のしもべたちです。最悪の事態を伝えるのなら一人でもすんだことでしょう。でも「しもべたち」と複数ですから、きっとみんな嬉しくて嬉しくて、我先にと、急いで知らせにきたのでしょう。「ご主人様!坊ちゃんが癒されました!」の朗報です!王の役人は、大喜びしました。「いつ息子は治ったのか?」「いついつです。」しもべから話を聞いてみれば、息子が癒された時間は丁度イエス様が「息子は生きる」とおっしゃった時間だったのです。イエス様のことばの通りでした。旧約聖書のイザヤ書55章11節にはこのような言葉があります。
「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55・11)
この聖書にあるとおり、イエス様が語られたみ言葉は真実です。必ず成就します。そして、その事実を通して、一人一人の信仰が確かなものとされていくのです。
最後にヨハネは、「イエスは…このことを第二のしるしとして行われたのである。」と記しています。イエス様が神の子救い主であることの「証拠としての奇蹟」です。イエス様は「息子は生きる」とおっしゃいました。つまり、この癒しの出来事を通して、イエス様が私たちに「生きよ!」と宣言してくださるお方。「永遠のいのち」を与えてくださる「神の子救い主」であるということを、ヨハネははっきりと伝えているのです。
私は、今日の「王の役人」とイエス様との出会いの出来事から、改めて教えられました。イエス様というお方は、私たち一人一人と大切に向き合ってくださるお方、私たちの、時には、自分かってな御利益主義とも思えるような願いも受けとめてくださり、その上で、さらに「イエス様のことば」に信頼する信仰、つまり、聖書のことばに信頼して歩む信仰へと導いてくださっているのだと教えられました。今、イエス様は目に見えませんけれども、すばらしい約束、聖書のことばが与えられています。そして、イエス様を信じる一人一人の内に、聖霊なる神様が実際に住んでくださっています。そのお方がいつも共にいて、聖書のことばがわかるように、ほんとにそうなんだなと実感できるように、助けてくださいます。
この「王の役人」に「息子は生きる」とおっしゃったイエス様は、私たちにも「生きよ」と宣言し、永遠いのちを約束してくださっています。今、永遠の神様と共に生きるいのちです。そこには、赦しがあり、平安があり、癒やしがあります。そして、私たちの地上のいのちには、限りがありますけれども、死んで終わりではない、やがて復活し、イエス様と共にいきる、永遠の希望が約束されているのです。この素晴らしいイエス様の約束の中に生かされていることを感謝しつつ、この週も歩んでいきましょう。