城山キリスト教会説教
二〇二三年五月二一日 豊村臨太郎牧師
ヨハネ八章一節〜一一節
聖書人物シリーズ
「姦淫の女」
1 イエスはオリーブ山に行かれた。
2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
聖書人物シリーズとして、イエス様と出会って人生が変えられた人々を紹介しています。今日とりあげるのは「姦淫の女」と呼ばれている女性です。
当時のユダヤ社会では、特に大きな罪と考えられているものが三つありました。一つは、「偶像礼拝」、もう一つは「殺人」、そして、「姦淫」の罪です。「偶像礼拝」は、この世界と人を造られた「まことの神様」と私たち、人との関係を壊すものです。「殺人」と「姦淫」は、人と人との関係を壊してしまいます。だから、聖書は、人にとって大切な神様との関係、人と人との関係を壊してしまう、この三つの行為をすることがないようにと教え、繰り返し戒めています。その原則は今も同じです。
今日の女性は、その罪の一つ「姦淫」を犯してしまいました。しかも、現行犯で捕らえられました。しかし、実は、この出来事の背後には、ある人々の思惑がありました。それは、当時、イエス様を妬んでいたパリサイ人や律法学者と呼ばれる宗教指導者たちです。彼らは、イエス様を陥れる為の罠として、この女性を利用し、姦淫をするように仕組んだようです。そして、その現場を押さえたのです。もちろん、この女性が罪を犯したことは事実ですが、同時に、宗教指導者たちのイエス様に対する妬みや敵意という渦の中に、この女性が巻き込まれていったという出来事でもあったのです。
今日は、その出来事にイエス様がどのように対応し、この女性にどのようなことばをかけられたのか、ご一緒に見ていきましょう。
<エルサレム神殿で>
1 イエスはオリーブ山に行かれた。
2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。(ヨハネ8・1ー2)
ある時、イエス様はオリーブ山に行かれ、そこから神殿に通い、人々に教えを語っておられました。この出来事が書かれているのは、ヨハネの福音書8章ですが、一つ前の7章には「仮庵の祭り」の出来事が書かれています。この時、イエス様は祭り参加するたにエルサレムに滞在しておられたのでしょう。夜はオリーブ山で過ごし、日中は神殿に通っておられました。朝早く、イエス様がオリーブ山から神殿にいくと、沢山の人がイエス様の周りに集まって、イエス様の教えに耳を傾けていました。「神殿で座って教える」というのは、当時のユダヤ教指導者の正式な教え方でした。
神殿に座って教えを語るイエス様、その周りに人々が集まる様子を見た律法学者たちやパリサイ人たちの心は穏やかではありません。「ガリラヤのナザレからやって来た大工が、まるで正式なユダヤの教師のように振る舞っているではないか。何を勝手なことしているのか!」この時、すでにイエス様の噂はガリラヤからエルサレムまで、国中に広がっていました。ユダヤの指導者たちはイエス様を危険人物と見なし、嫉妬と憎しみに駆られ、なんとかイエスをおとしめようと考えはじめていました。そして、一つの「罠」をしかけるのです。
<律法学者たちの罠>
3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、4 イエスに言った。(ヨハネ8・3−4)
イエス様のもとに「姦淫の現場でとらえられた女性」が連れてこられました。「姦淫」つまり、夫婦以外で肉体関係を持つこと、今で言えば不倫です。この女性が既に結婚していて別の男性と関係をもったのか、それもと女性は独身で既婚男性と関係をもったのか、細かいことは書かれていません。いずれにせよゆるされない行為の、その最中に捕らえられました。
旧約聖書の申命記22章22節には、姦淫の罪について厳しくこう書かれています。
「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない」(申22・22)
注意したいのは、姦淫を犯した場合、男女「ふたりとも死ななければならない」と書いてあることです。しかし、この時、イエス様のところに連れてこられたのは、「ひとりの女性」です。男性がいません。意図的なものを感じます。
また、当時のユダヤ社会では姦淫の罪で死刑になることはほとんどなかったと言われています。それは、死刑にするには「姦淫の現場を二人以上の証人が目撃していなければならない」という条件があったからです。考えてみれば、密会の現場を現行犯で、しかも、2人以上で目撃するなんて実際にはほとんど起こりえないことでした。でも、このときはそれが出来たのです。そこからも、きな臭さを感じます。
当事者の一人である男性はいなくて、女性だけが引きずりだされ、しかも、バッチリ目撃証人がいました。そこからも、この出来事が、イエス様を告発するために律法学者やパリサイ人たちが仕組んだ罠だったというこがわかります。彼らは、意気揚々とイエス様に言いました。
「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。」(ヨハネ8・4)
女性はどんな気持ちだったでしょう。仕組まれた罠だったにせよ、自分にも落ち度はありました。おそらく相手の男性に少なからず好意を寄せていたと思います。でも、男性にも裏切られ、利用され、一人だけ捕らえられてしまいました。姦淫の現場で捕らえられたのですから、たぶん着の身着のままだったでしょう。人々の前にさらされて、どんなに恥ずかしかったか、後悔したと思います。
しかし、この場にきた宗教指導者たちは、そんな彼女をことはお構いなしに、イエス様の前に彼女を突き出しこういいました。
「モーセは石打ち(死刑)にせよと言っていますが、あなたはどう思いますか?」(ヨハネ8・5)
実は、この質問はイエス様がどのように答えたとしても、イエス様を陥れることができるものでした。もし、イエス様が「石打ちにしなさい」と答えたら、どうでしょう。「お前は、愛とあわれみを説いて『私は罪人を招くためにきた』と言っているくせに、この罪を犯した女を裁いて死刑にしろと命じた。言っていることとやっていることが違うじゃないか。」つまり、イエス様を「言行不一致のいい加減な奴だ」と非難することができるのです。
さらに、当時、ユダヤ人たちは自分たちの宗教に関することでは石打ちにすることもできました。でも、基本的にはローマ政府の支配下にあったので、ローマの許可を得ずに勝手に死刑を宣告するなら、イエス様をローマへの反逆者として訴えることもできたのです。
では、もし、イエス様が「石打ちにしてはならない」と答えた場合はどうでしょう。その場合、「お前は、神様の律法を守らないつもりか。そんなお前が救い主であるはずがない」と責めることができます。イエス様がどう答えたにしても、イエス様を陥れることができる。そのような悪意に満ちた質問だったのです。さあ、イエス様はどう対応されたでしょう。
<イエス様の対応>
イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。(ヨハネ8・6)
イエス様は、彼らの質問を無視して地面に字を書き続けました。何を書いておられたのでしょうね。子どものころ、聖書を読んで、兄弟で「イエス様、何を書いていたのだろうか」と話したの思い出します。ある人は、「十戒」じゃないかとか、「罪のリスト」じゃないか、いろいろ考えます。でも、聖書に書かれていないのでわかりません。ここから言えることは、イエス様は彼らを無視された、沈黙されたということです。沈黙されることで、イエス様の方法で、この問題の本質に迫られようとしています。
どれくらいの時間がたったでしょうか。パリサイ人たちは、きっとイライラしていたでしょう。すると、イエス様は立ち上がっておっしゃいました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)
「罪は裁かれるべきです。しかし、彼女の罪を裁くことのできるのは、いったい誰ですか、それは罪のない者だけです」という主張です。イエス様のことばが、その場にいた人々の心に響きました。その瞬間まで、パリサイ人や律法学者は、イエス様に対する憎しみがありました。「イエスは偽預言者だ!俺たちが化けの皮をはいでやろう!」また、姦淫の女の罪を裁く思いがありました。「この女も姦淫を犯した。現行犯で捕らえた。律法に書いてある通りだ!俺たちは間違っていない!」自分たちは律法を守っている、罪がないと思い込んでいる彼らの心に、イエス様は「罪のない者が石を投げなさい」という言葉が投げかけられたのです。イエス様のことばによって、その場にいたみんなが、自分自身の内面を見つめさせられたのです。
<去って行った宗教指導者>
9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。(ヨハネ8・9)
そして、その結果、年長者から、ひとりまたひとりとその場を離れていきました。人生を長く生きた人からです。その場にいたみんなが、「自分はこの女性を裁くことはできない」そう思ったのです。なぜなら、「自分も同じ罪や過ちを犯しかねない」存在であることに気づいて、良心の呵責を感じたからです。
実際に、「姦淫」「殺人」「盗み」など、罪をおかすことがなかったとしても、正直に自分をみつめれば一つ間違えば自分だっておかしたかもしれない。「私にはまったく罪がありません」と誇れる者はひとりもいませんでした。ローマ人への手紙3章10節に「義人はいない。ひとりもいない」とあるとおりです。イエス様が言われた「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」ということばは、その場にいた人の心に響いたのです。
そして、年長者からさっていきました。でも、みなさん。本当は、ここでイエス様のもとから去ってはいけなのですね。いや去る必要はなかったのです。なぜなら、イエス様こそ、その罪を解決してくださるお方だからです。イエス様は、マタイの福音書でおっしゃいました。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。…わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9・12−13)
つまり、もし自分の罪に気づいたのなら、良心の呵責を感じたなら、そのままわたしのもとにとどまりなさいということです。この時のイエス様の沈黙とことばは、人々に罪を気づかせるのと同時に、それに気づいたのなら、そのまま私のもとにとどまりなさいという招きでもあったのです。昔、こんなことをおっしゃる方がいました。「教会にいったら、罪、罪と言われるから嫌だ」確かにそう感じる時があるかもしれませんね。聖書のことばによって、私たちの心を見透かされるような、罪を示されてドキッとさせられる時があるかもしれません。でも、そこで終わりではありません。イエス様のことばは、聖書のことばは、そこに光をあてて解決を与えるものだからです。
<ひとり残った女性>
「女はそのままそこにいた。」(ヨハネ9・9)
この時、唯一、イエス様のもとにとどまったのは誰でしょう。この女性だけでした。彼女は自分を捕らえた人々が去っていきましたので、その人たちの流れにのって自分も立ち去る事ができました。でも、そうしませんでした。イエス様のところにとどまったのです。結果的に、この女性だけが「イエス様の招き」に応えたと言えます。「女はそのままそこにいた」だけでした。それは積極的な行動ではなかったかもしれません。でも、罪の現行犯で捕らえられ、惨めで恥ずかしい情けない、そのままの自分で彼女はイエス様のところにとどまったのです。それが、彼女のイエス様への応答となりました。彼女の行動は小さかったかもしれない、でも、去って行った律法学者たちとの大きな差となりました。
<イエス様のことば>
イエス様は彼女に言われました。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」(ヨハネ9・10)
彼女は応えました。「だれもいません。」(ヨハネ9・11)
するとイエス様は、彼女に驚くべきことを宣言されたのです。
「わたしもあなたを罪に定めない。」(ヨハネ9・11)
彼女に罪の赦しを宣言してくださったのです。
皆さん。本来、聖書が厳しく罰している姦淫の罪を罰することができるのは誰ですか。この女性を石で打つことができるのは、罪に定めることができるのは誰でしょうか。
詩篇75篇7節には「まことに 神こそさばき主」と書かれています。罪を裁くことができるのは、唯一、主なる神様だけです。そして、使徒の働き10章42節では、イエス様の弟子ペテロが「イエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方である」と言っています。つまり、神と等しいお方であり、さばき主であるイエス様だけが、本来、彼女を石で打って裁くことができるお方です。その、イエス様が「わたしもあなたを罪に定めない。」と罪の赦しを宣言してくださったのです。
これは、けして安易に罪を見逃すのとは違います。聖書には、「罪から来る報酬は死である」(ローマ6・23)と書かれています。人は皆、罪のために裁かれ罰せられるべき存在です。けれども、イエス様は私たちひとりひとりの罪を背負って十字架についてくださいました。
新約聖書ペテロの手紙第一 1章24節には、「(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と書いてあります。イザヤ書53章4節、5節にも、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。
イエスの赦しの宣言は、二千年前、あの十字架で罪人の身代りとなって、すべての罪の罰を受けてくださったという事実に基づいています。罪に定めることのできる唯一の方が、自分自身を罪に定め、死をもって罰を受けてくださった。だからこそ、イエス様の赦しの宣言には、本当に力があるのです。そして、イエス様がおっしゃった「わたしもあなたを罪に定めない。」(ヨハネ9・11)という宣言は、今、イエス様を信じる、私たち一人一人にも語られています。私たちはこの赦しの宣言の中に生かされているのです。 そして、もう一つ、最後にイエス様は言われました。
「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ9・11)
「ここから、新しい人生を歩んで行きなさい」というメッセージです。みなさん。もう一度、今日の出来事、女性の立場になって考えてみてください。姦淫の現場で捕らえられて石で打たれてもしかたない。自分に落ち度がある、文句は言えない。これで人生終わり、命を失う危機でした。そこにいるみんなが自分を罪にさだめようとしたときに、イエス様だけが「あなたを罪に定めない」と、赦しを宣言してくださいました。「ああ、こんなお方がいるのだ」感動したはずです。そして、イエス様は彼女に「行きなさい。」といってくださいました。「ここから新しい出発がはじまるのですよ」「元の虚しい生活に戻ることのないように注意して歩んでいきなさい」。
つまり、イエス様によって赦されているということは、過去に戻る生き方でなく、新しい生き方へと繋がっていく、「ああ、こんな私も神様によって愛されている」「イエス様によって完全に赦されているのだ」「新しい命に生かされている」「生きていっていいのだ」その安心の中を、恵みの中を歩んでいくことができるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5・17)
この聖書に約束されている通り、私たちはイエス様によって新しくされた者です。もちろん、私たちの歩みには、時には困難があり、葛藤があり、罪の誘惑があり、時には罪を犯してしまうこともあるでしょう。いろいろなことが襲ってきます。でも、どんな時も、私たちを招き、私たちを赦し、いつも一緒にいてくださるイエス様がおられます。そして、イエス様を信じる者のうちに住んでくださる聖霊なる神様が私たちいつも助けてくださいます。だから、安心して、イエス様の恵みの中をこの週も歩んでまいりましょう。