城山キリスト教会説教
二〇二三年六月一八日 豊村臨太郎牧師
マルコの福音書二章一三節〜一七節
聖書人物シリーズ
「取税人レビ」
13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
「聖書人物シリーズ」として、イエス様と出会って人生が変えられた人たちをとりあげています。今日は「取税人レビ」です。
レビは、先ほど読んでいただいたマルコの福音書2章、ルカの福音書5章、マタイの福音書9章に登場します。マルコとルカでは「レビ」という名前で紹介されていますが、マタイの福音書では「レビ」ではなく「マタイ」となっています。ですから「取税人レビ」は、マタイの福音書を書いた「マタイ」本人だと考えられています。
「取税人」だったレビがイエス様と出会い、イエス様と共に生きるようになり、後にイエス様を私たちに伝える「マタイの福音書」を書く者とされたのです。今日はそのようなレビ(マタイ)とイエス様との出会いを見ていきましょう。
1 レビについて
レビは、ガリラヤ地方のカペナウムという町の取税人でした。地図にあるようにカペナウムはガリラヤ湖北部の岸辺に面した町です。この写真は現在の様子です。こういう遺跡が残っています。湖の岸辺に面していますね。
この町では、イエス様の弟子ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネが漁師をしていました。また、カペナウムはイエス様の活動拠点でもありました。イエス様はガリラヤ地方の町々や村々を旅されましたが、度々、カペナウムに戻って滞在されています。
当時、ガリラヤ地方はローマ帝国の属州でした。町と町を結ぶ街道には関所があり、ローマはそこを通る物品に課税し、税金をとりたてていました。カペナウムも交通の要所でしたので収税所があり、レビはそこで取税人として働いていました。
皆さんは、「取税人」と聞いて、どのようなイメージを持たれるでしょうか。当時のユダヤ社会において「取税人」は忌み嫌われる職業でした。ユダヤ人は「自分たちは神様の選びの民だ」という自負がありました。「本当の支配者は唯一の神様だけで、自分たちのお金は神様だけに献げられるべきだ」「イスラエルの国が再建される為に使われるべきだ」と、考えていたからです。それなのに、「取税人は、異邦人であるローマの手先となって税金を集めている。」「奴らはローマの犬だ、汚れた罪人だ。神の救いを受けることなど決してできない。」そのように「取税人」を軽蔑し嫌っていました。
また、「取税人」の仕事はローマ政府からの請負制でした。ローマには決められた額の税金を納めればよかったので、取税人の中には人々から余分にお金を集めて、その差額で私腹を肥やす人もいました。不正が多く、ローマの権威を笠に着て強引な取り立てを行う者たちもいたようです。ですから取税人は多額の収入を得ることができました。また、仕事柄、当時ユダヤの人々が使っていたアラム語だけでなく、ローマ帝国の共通語であるギリシャ語にも通じる教養を持っていたと言われます。
このように聞くと、レビの人物像が浮かび上がってきますね。彼は「取税人」として高い収入があり教養もありました。でも、同胞からは嫌われ軽蔑されてました。それでも、毎日、カペナウムの取税所に座って仕事をしていたのです。そんな彼がイエス様と出会いました。
2 レビとイエス様との出会い
ある日のことです。レビが働いていた収税所の近くをイエス様一行が通り過ぎようとされました。この時すでにイエス様の評判はガリラヤ地方全体に広がっていました。「イエス様の話を聞きたい」「イエス様のみわざを見たい」と、イエス様の行くところ、行くところに大勢の人がついてきていました。
一方でレビは、いつものように「取税所にすわって」いました(マルコ2・14)。イエス様が近づいてきても、「自分には関係ない」そう思っていたでしょう。一行が通り過ぎるのを待ちました。
でも、次の瞬間です。レビが予想しないことがおこったのです。なんとイエス様が彼の前で足をとめて、彼のことをじっと見つめて次のように声をかけられたのです。
「わたしについて来なさい」(マルコ2・14)
レビはびっくりしました。「人々の注目を集めているイエスが自分の目の前に立ち止まり、『わたしについて来なさい』と声をかけるなんて、いったいどういうことだろう。」彼はどまどったはずです。でも、聖書はレビの反応をシンプルにこう書いているのです。
「すると彼は立ち上がって従った。」(マルコ2・14)
なんとレビはイエス様の招きにこたえて立ち上がり、取税人の仕事をおいて、イエス様に従っていったのです。どうしてでしょう。なぜ、彼はこのような大胆な決断ができたのでしょう。
3 レビの決断の背景
おそらく、この時、彼は心の中で「自分の人生はこのままでいいのだろうか…。」そのような思いを抱いていたのだと思います。彼は取税人として経済的には満たされていました。生活も安定していたでしょう。レビが実際に不正を働いたとは書いてありません。しかし、普通に考えれば取税人の特権だった差額で儲けることをしていたでしょう。不正に対する後ろめたさや罪悪感を感じていたかもしれません。同胞のユダヤ人からは軽蔑されて、自分の仕事に誇りを持つこともできなかったでしょう。「自分は人の役にたっている」「いい仕事をしている」そう思える仕事ではありませんでした。きっとレビは「この先、人生どうなるのか…。」そんな思いを抱えながら、毎日、毎日、取税所に通って仕事をしていたのでしょう。
収税所は人通りの多い場所にありましたから、当然、イエス様の噂は彼の耳に入っていたはずです。マルコ2章には、レビとイエス様が出会う直前に、カペナウムの町でイエス様が「中風の人」を癒された出来事が書かれています。その時、イエス様は人々にこうおっしゃいました。
「わたしには罪を赦す権威がある。」(マルコ2・10)
また別の箇所でイエス様は、「わたしは人々の暗闇を照らす光だ」(ヨハネ8・12)ともおっしゃいました。
ヨハネ14章6節では、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14・6)と権威と確信に満ちてお語りになりました。
そのようなイエス様ことばをレビも聞いていたはずです。ひょっとしたらこっそりイエス様の話を聞きにいっていたかもしれません。彼はイエス様の確信に満ちたことばを知っていたけれども、「自分には関係ない」と思っていました。自分自身に語りかけられていることばとして受け取っていなかったのです。
しかし、この時、彼の人生とイエス様のことばが結びつきました。なぜでしょうか。イエス様が彼のところきてくださったからです。イエス様が彼を見つめ「わたしについてきなさい」と直接語られたからです。その瞬間、レビは「このイエス様についていこう」と決断し立ち上がることができたのです。
そして、もう一つ、彼の決断の背後にはイエス様が彼を知ってくださっていたということがあります。
4 レビをご存じだったイエス様
今日の冒頭マルコ2章13節には、「イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。」(マルコ2・13)と書かれています。「イエスはまた」とわざわざ書かれているは、イエス様がカペナウムのこの道を何度も通られていたからです。イエス様はその度に取税所に座っているレビをご覧になっておられたでしょう。レビがイエス様のことを意識するよりも前に、イエス様がレビを知ってくださっていました。
福音書の中には、イエス様がレビ以外の何人かの弟子たちを選ばれたことが書かれています。その時も共通しています。いつもイエス様の方から彼らに近づいて、彼らをご覧になって、「わたしについてきなさい。」と声をかけられています。
カペナウムの町で漁師をしていたペテロとアンデレの時もそうでした。ガリラヤ湖のほとりで仕事を終えて網の手入れしているとき、イエス様の方から歩いて彼らのところに近づかれて、彼らをご覧になって、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4・19)と声をかけられました。イエス様に招かれたペテロたちは網を置いてイエス様についていきました。
イエス様はヨハネ15章16節でこうおっしゃいましたね。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15・16)
レビがイエス様に従うことを選び決断する前に、すでにイエス様の方が彼を選んでくださっていたのです。
このことは、私たちにも言えることですね。皆さん、いろんなきっかけで教会に来られたり、イエス様を信じるようになった経緯はそれぞれです。家族や友人に誘われたとか、クリスマスやコンサートなど、一度、「教会に行ってみよう」と扉を叩いた方もおられるでしょう。そこにはそれぞれの決断と勇気があります。
私も牧師家庭に生まれて幼いときから教会に通っていますが、10歳の時に「イエス様を信じよう」と決心しました。自分の感覚としては、自分で決めて選んだという実感です。でも、聖書は実はそれよりも前にイエス様が私のことをご存じで、私が選んだ背後に、神様の見えない御手があり、イエス様が私を選んでくださっていたのだと教えるのです。私たちはみんな神様に選ばれ、イエス様に見つめられ、イエス様に招いていただいた存在です。
5 レビの家での宴
さあ、立ち上がってイエス様に従ったレビはその後何をしたでしょう。仲間たちを呼び宴を開いたと書いてあります。
それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。(マルコ2・15)
レビの人生がこれから新しく始まるときに、彼は取税人仲間たちを招いて宴を開いたのです。新しい人生の出発式のようなものです。そこには罪人と呼ばれて差別されている人々が招かれました。罪人というのは職業的な理由で戒めや律法を守ることができなかった人たちです。取税人や罪人がレビの家に招かれ同じ食卓を囲みました。その真ん中にはイエス様がいてくださって楽しい宴がおこなわれたのです。
イエス様はレビの家で人々から嫌われ差別されていた人々、どんな人も分け隔てなく共に食事をし親しく過ごしてくださったのです。レビも含めて招かれた人たちは嬉しかったでしょう。楽しいパーティーでした。
しかし、そのような麗しい様子を家の外から眺めて水を差す人々がいました。当時の宗教家、パリサイ人や律法学者たちです。彼らは宴を家の外から批判的に眺めながら、イエス様に直接ではなく、弟子たちに文句を言い始めました。
「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」(マルコ2・16)
「罪人ども(酷い言い方ですね)、こんな人たちと何で関わるのか?飲み食いするのか?」宗教指導者たちは取税人や罪人とは決して関わらなかったからです。「自分たちはきよい、彼らに関わると汚れる」と思っていたからです。
でも、イエス様はそんなパリサイ人たちにいわれました。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2・17)
「あなたがたは、『自分は正しい、きよい』と言っているかも知れない。しかし、わたしは『自分が正しい、きよい』と思っている人ではなく、『自分は正しくない、罪人だ』そう自分の弱さをみとめている人の為に来たのです。その人を招く為に来たのです。」とイエス様はおっしゃったのです。
イエス様のことばをそばで聞いていた取税人や罪人は嬉しかったでしょう。今までそんな風に自分たちのことを思ってくれる人はいなかったからです。「ああ、イエス様は私たちを受け入れ私たちの友となってくださるのだ。」レビの家に招かれた一人一人もまた、レビを見つめ、レビに声かけ、レビを招かれたイエス様に招かれたのです。大きな喜びが家中を包んだのです。
6 レビ(マタイ)の確信
最初に紹介したように、レビはマタイの福音書を書いたマタイと同一人物と考えられています。彼は自分を招き新しい人生を与えてくださったイエス様とこの後も行動をともにします。そして、最終的にその素晴らしさを「マタイの福音書」にしるしています。それを今私たちは直接読むことが出来ます。素晴らしいですね。彼の証言です。
そして、マタイが記したマタイの福音書の最初と最後には、彼がなぜイエス様についていくことができたのか、イエス様に従い続けることができたのか、その確信が見えてくる箇所があります。
マタイの福音書の初め、1章23節では、イエス様についてこのように書かれています。
「その名はインマヌエルと呼ばれる…神が私たちとおられるという意味である」(マタイ1・28)
「イエス様は私たちと共にいてくださるかた」という確信です。
そして、マタイの福音書の最後28章20節のことばは、イエス様の約束です。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)
「わたしはあなたがたを捨てない。いつも、いつまでも、ともにいる」というイエス様の約束です。
もし、マタイがイエス様に従っていって途中で捨てられてしまっていたら、そんなむなしいことはないですね。でも、そうではありませんでした。イエス様について行くというのは、イエス様の方がけして私たちを見捨てることがないのだというマタイの証言です。
「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいるのです。」この約束があるからイエス様についていくことができる。いつまでもイエス様が御手で私をとらえ、いつまでもイエス様が私と共にいてくださるから、だから、私はイエス様についていくことできる。それがマタイの確信です。
「あのときカペナウムの取税所で『自分の人生、お金を数えていきていくだけだだろうか。空しい、不確かだ』そう思って座っていた私に、イエス様が『わたしについてきなさい』と声をかけてくださった。そして、あのときだけではなくて困難な時にも、十字架で亡くなって『ああ、もう見捨てられた』そう思った時にも、イエス様は復活されて『いつもともにいる』と約束してくださった。『わたしについてきなさい』と言われたお方はいつまでも私とともにいてくださるお方なのだ。」それが、マタイの確信であり、聖書が私たちに語っているメッセージです。
そして、その確信は、今、「イエス様、あなたを信じます。」そう告白する私たち一人一人の確信でもあります。イエス様は今朝も、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがとともにいます」そう語りかけてくださっています。そのイエス様に「イエス様、ありがとうございます。あなたに信頼して、あなたと共に歩んでいきます。」そのような告白を持ってこの週も歩んでまいりましょう。