城山キリスト教会説教
二〇二三年七月九日 豊村臨太郎牧師
マタイの福音書一五章二一節〜二八節
聖書人物シリーズ
「カナン人の女」
21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。(新改訳第三版)
皆さんは「祈っても答えられない。求めてもなかなか与えられない。」そのように感じることがあるでしょうか。今日登場する「カナン人の女」は、そのような経験をした人です。
マルコの福音書では「ツロ・フェニキアの女」と呼ばれています。ユダヤ人ではない異邦人の女性です。
この女性には娘がいて悪霊に束縛され苦しんでいました。彼女はイエス様が近くに来られたことを知り、助けを求めてやって来ました。最初、イエス様は彼女に対して一見冷たく感じるような態度をおとりになりました。しかし、いくつかのやりとりがあって、最終的にイエス様は彼女に「あなたの信仰はりっぱです。」そう言って褒めてくださいました。そして、彼女の願いのとおりに娘を癒してくださったのです。
イエス様から「あなたの信仰はすばらしい」と褒められた人です。すごいですね。今日は、イエス様がこの女性のどのような姿をご覧になって「あなたの信仰は素晴らしい。」と褒めてくださったのか、そして、彼女の姿から「祈り」について、ご一緒に考えていきましょう。
<ツロとシドン地方に向かわれたイエス様>
初めに出来事の背景に少し触れます。
21節に「イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。」(マタイ15・20)と書いてありますが、「そこ」というのはガリラヤ湖のほとりにある町カペナウムのことです。
この頃、イエス様はカペナウムを拠点にガリラヤ地方を巡っておられました。会堂で教え、病気の人を癒し、悪霊に束縛されて苦しんでいる人たちを解放されました。イエス様の噂はガリラヤ地方だけでなく、イスラエルの国全体に広がり、都エルサレムにいるパリサイ人や律法学者たちの耳にも入っていたのです。
彼らは旧約聖書の専門家です。人々に間違った教えが広がらないように異端取締役を自負していました。イエス様の噂を聞き、エルサレムからガリラヤ地方まで様子を見にやって来ていたのです。そして、イエス様が安息日に病気を癒したり奇蹟をなさる姿を見て、その言動を非難しました。イエス様は彼らの偽善的な教えや愛のない行動を見抜かれて厳しく批判なさいました。イエス様とパリサイ人・律法学者たちとの間に対立と緊張関係が起こり、それが熱を帯びていったのです。
イエス様は、そのような不必要な緊張関係や彼らからの攻撃をさけるために、別の場所で静かに過ごしたいと願われたようです。弟子たちを伴って、今日の舞台となる「ツロ・シドン」と呼ばれる異邦人の地に退かれました。
「ツロ・シドン」は、カペナウムの町から北西に40〜45キロほどいった地中海沿岸の町々です。ちなみに、このツロ・シドン出身なのが、列王記に出てくる悪名高きアハブ王の妻イゼベルです。イゼベルはシドンの王様の娘でした。アハブ王は地中海貿易で栄えていたシドンのお姫様イゼベルと政略結婚して、この地方を味方につけたのです。それと引き換えにイスラエルには外国の神々が持ち込ました。
<カナン人の女>
さて、イエス様が異邦人の地ツロについた時のことです。一人の女性がやってきて叫び声をあげました。
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」(マタイ15・22)
娘の状態がどのようなものだったのか詳しくは書いてありません。悪霊によって突然ひきつけのようなものを起こしたり、倒れたり、暴れたりしたのかもしれません。とにかく酷く苦しんでいる状態でした。母親は娘のことを思うと胸が締め付けられたことでしょう。しかし、自分ではどうすることもできません。そんなときイエス様の噂をきいたのです。「ユダヤ人たちが『ダビデ王の末裔、救い主だ』と呼んでいる人物がやってきた。不思議なわざをおこなうらしい。娘を何とかしてくれるかもしれない」彼女はイエス様のもとにきて「助けてください」と叫び続けたのです。カナン人である彼女がどれほど聖書のことを知っていたのか、またイエス様が「救い主」であることをどれほど深く理解していたのかは分かりません。少なくとも「このイエスというお方は娘を助けてくれるに違いない」そう考えてイエス様のもとにきて熱心に救いを求めたのです。
<イエス様の反応>
そんな彼女にイエス様はどう対応をされたでしょうか。こう書いてあります。
イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。(マタイ15・23)
なんと、助けを求める彼女を無視されたのです。それでも、この女性は叫びながらイエス様についていきました。「助けてください、助けてください。」と。彼女があまりにもうるさいので、イエス様のそばにいた弟子たちは言いました。「イエス様、この婦人をもう返してください。うるさくてしょうがありません」そういって彼女を追い返そうとしたのです。しかし、女性はあきらめません。尚もイエス様に叫びながらついて行きました。
どのくらいの時間が経過したことでしょう。ついにイエス様が口を開かれたのです。こうおっしゃいました。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」(マタイ15・24)
今の私たち日本人には少しわかりにくい表現ですね。でも、当時の人々には理解できる表現でした。「イスラエルの家の失われた羊」というのは、神様に背を向けて神様から心が離れてしまったユダヤ人たちのことです。つまり、ここでイエス様は「わたしは、まず、ユダヤ人たちが神様に立ち返るために、神様から遣わされたのです」と言われたのです。
もちろん、福音書を読むとイエス様は異邦人を拒絶されていたわけではありません。異邦人にも癒やしをなさいました。そして、この先イエス様が十字架にかけられて復活された後には福音はユダヤ人だけでなく、異邦人、そして、世界中のすべての人に伝えられていきます。
ですから、ここでイエス様が言われたのは、「福音はまずユダヤ人に伝えられて、そして、異邦人へ伝えられるという順番があるのです。それが、神様がお定めになった方法です。その神様に今わたしは遣わされているのです。」と言われたのです。
<あきらめないカナンの女>
それでも、彼女はあきらめませんでした。
イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。(マタイ15・25)
イエス様はさらに言われました。
「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」(マタイ15・26)
「子どもたち」はユダヤ人のことです。「子犬」というのは異邦人であるこの女性のことでした。イエス様は「わたしはまずユダヤ人に遣わされているのです。今はそういう時なのです」と、彼女に念を押されたのです。
皆さんどうですか、もし自分がこの女性だったらどう思いますか。私なら「イエス様、あんまりじゃないですか」と思ったとでしょう。「イエスという男は噂にきいていたのと違う。期待外れだった。」あきらめて帰ったでしょう。
でも、この女性は違いました。イエス様にこう言ったのです。
「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイ15・27)
つまり、彼女はイエス様が話された内容を聞いて「そのとおりです」と認めた上で、それでも「小犬であっても食卓から落ちるパンくずをもらえるのではないですか」と食い下がったのです。
彼女はこう考えたのでしょう。
「イエス様、もちろん食卓の食事はその家の人のものです。でも、もし食卓の食事が豊かで有り余るほどのパンがあったなら、そして、子どもが食べたパンくずが机の下にこぼれ落ちるなら、小犬でもそれを食べることができるのではないでしょうか」
「同じように、イエス様、あなたの恵みを受けるのはまずユダヤ人なのでしょう。でも、もし彼らからあなたの恵みがこぼれおちるなら(現に、今、あなたは異邦人の地にきてくださっています)私たち異邦人であっても、あなたの恵みを受けることができるのではないでしょうか。」
「パンくずのように、小さな恵みでも娘は助かります。」
そのような思いで彼女は目の前のイエス様にすがりついたのです。イエス様は、その姿に驚かれました。
「ああ、あなたの信仰はりっぱ(大きい)です。その願いどおりになるように。」(マタイ15・28)
イエス様がそうおっしゃった時、彼女の娘は癒されました。まさにイエス様の恵みがあふれ流れ、癒しが起こったのです。素晴らしい奇蹟が起こりました。
この「カナン人の女」の出来事は、これから後、イエス様の福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも広がっていくことを示す象徴な出来事の一つです。
そして、今日私たちはこの「カナン人の女」の姿から、イエス様への祈りについて大切なことを学ぶことができます。
<カナン人の女の姿に学ぶ>
@ イエス様に願い続ける姿
私たちは色々なことをイエス様に願って祈ります。時にはすぐに答えられるときもありますが、「祈っても、叫んでも、求めても、答えがない。」そんな経験することがあります。そんなとき私たちは「神様に願ってもらちがあかない。意味がない。」と途中であきらめて、願っていることさえ忘れてしまうことがあるかもしれません。
聖書は「神様は生きておられ、祈りをきいて、答えてくださる」と約束しているのに、まるで神様が沈黙されているように感じるときもがあります。この女性も「助けてください!」と何度も叫んでいるのに、イエス様はなかなかお答えになりませんでした。どうしてでしょうか。この時のイエス様の意図は書かれていません。
でも、イエス様が沈黙されてお答えにならなかったという事を通して、結果的に彼女から「イエス様に求め続けるという信仰」が引き出されたことは事実ですね。
詩篇の中でダビデも神様に叫んでいます。
「わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」(詩篇22・2)
「あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。」(詩篇69・17)
ダビデは何度も何度もしつこく祈り続けています。
イエス様は、マタイの福音書7章でこう言われました。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7・7)
これは一回限りではなく「〜し続けなさい」という継続の言葉です。求め続け、捜し続け、たたき続けていくときに開かれていくことがあると、イエス様は教えられているのです。
また「願い続ける」というのは、別の意味では「あきらめない」ということです。この女性は、あきらめずイエス様に食い下がりました。イエス様に無視されても、弟子たちに追い返されそうになっても「あなたに助けてもらうまで、恵みをいただくまで帰りません」と諦めず、泥くさく願ったのです。
私たちは聖書の中に、彼女のように「泥臭く」「あきらめず」「しつこく」神様に願い求めていく姿を見ることができます。
例えば、旧約聖書の創世記32章にはヤコブという人が出て来ます。彼は自分の故郷を離れ、もう一度故郷に帰る途中、神の使いと格闘しました。(創世記32・22ー32)長い格闘の末に神の使いはヤコブのもものつがい(腰の部分)を打ちました。するとヤコブの腰骨がはずれて立ち上がれなくなりました。もう勝負ありです。でも、ヤコブは神の使いにすがりついてこう言ったのです。「私を祝福してくださるまで、あなたを去らせません。」しつこく泥臭く食い下がったのです。すると最終的に神の使いはヤコブを祝福してこういいました。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦…ったからだ。」(創世記32・28)
この「イスラエル」という名前には「神と戦う者」という意味があります。また「神によって強い者よ」という意味でもあります。もものつがいを打たれたヤコブは足を引きずって歩くようになりました。人間的には弱い姿ですね。でも、神様によって強い者とされて、神様と一緒に歩む者とされたのです。そして、神様の恵みをすべての人々に流す祝福の民イスラエル民族の父となったのです。
イエス様に祈り求める姿は、時にはヤコブのように、ダビデのように、カナン人の女のように、神様に食い下がる、そのような姿でいいのですね。そういう粘り強さをもイエス様はよしとされ「りっぱな信仰」と呼んでくださるのです。
A 恵みの大きさに目をとめた
そして、彼女から学ぶもう一つのことは、イエス様の恵みの大きさに目をとめたということです。
イエス様が「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われたとき、彼女はこういましたね。「そのとおりです。あなたの恵みはまずユダヤ人のものです。でも、食卓の下の小犬である異邦人の私もいただけるほどに、あなたの恵みは大きいではないですか。」
彼女はイエス様の恵みはこぼれ落ちるほど大きいという事実に目を留めて、イエス様の恵みを根拠に願ったのです。「異邦人である自分は本来イエス様に助けてもらえないものです。それでもイエス様、あなたは私の娘を憐れんで下さると信じます。なぜなら、あなたの恵みはこぼれ落ちるほど豊かだからです。食卓から落ちた僅かな恵みで十分なほど、あなたの恵みは素晴らしいのです。」そのような彼女の告白をイエス様はすばらしいといってくださったのです。
ですから、私たちもこの女性のように、「イエス様、あなたの恵みはあふれるほどの大きなものです。こぼれ落ちたパンくずほどでも十分です。」そのようにイエス様の恵みに目をとめ、その恵みをほんの少しでも味わい続けていったなら、そこに大きな神様の働きを知ることができるのです。
パウロも、エペソ3章18節、19節で溢れるほどのイエス様の愛と恵みの大きさを語っています。
あなたがたが・・・その(キリストの愛の)広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。(エペソ3・18―19)
イエス様の愛と恵みは人知をはるかに超えて広く、長く、高く、深く、溢れるほどに大きいのです。そして、その愛と恵みは私たちそれぞれの必要を満たすことができるものです。そこに目を留め祈り求める姿を、イエス様は「すばらしい」「あなたの信仰はりっぱです」と、今朝も私たちに語りかけてくださっています。
皆さん、今、祈っていることや願い求めていることがあるでしょうか。ずっと続いている問題や抱えている病、家族の救い、友人のこと、仕事のこと、みんなそれぞれに抱えている祈りの課題は違います。もしかしたら、ずっと祈っているけど答えがないと感じていることがあるかもしれません。私にもあります。だからこそ、あえて、今日この「カナン人の女」の姿から励ましを受けたいのです。
「イエス様に祈り続けること」を。
「イエス様の恵みはあふれるほどに大きい」ということを。
そのことを覚えながらともに祈り求めていきましょう。時には、「一人では祈り続けることができない。祈ることも疲れてしまった」という時もあります。その時には、お互いのために一緒に祈ることができたら幸いです。そして、私たち、イエス様を信じる者の内に住んでくださる聖霊なる神様も、私たちのために取りなし祈ってくださっています。
ですから、それぞれが思う「このこと」「あのこと」「この人のために」「あの人のために」そこに主の恵みが注がれていくように、具体的な問題の解決が進んでいくことを願っていきましょう。イエス様は、昨日も今日もいつまでも変わらない方です。今日、この礼拝の中におられます。「イエス様、私の祈りに答えてください、恵みを注いでください」そのような祈りをもって、ともに歩んでいきましょう。