城山キリスト教会説教
二〇二三年八月二〇日           豊村臨太郎牧師
マルコの福音書一章四〇節〜四五節
 聖書人物シリーズ
   「ツァラアトに冒された人」
 
 40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」
41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
42 すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
43 そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。
44 そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
45 ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。(新改訳第三版)
 
 新約聖書からイエス様と出会って人生が変えられた人を取り上げています。今日は「ツァラアトに冒された人」です。この人はイエス様と出会い、病が癒され、新しい人生を歩み始めました。この出来事はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に書かれていますが、今日はマルコの福音書を中心にみていきましょう。
 
1 イエス様のもとに来たツァラアトの人
 
 イエス様がガリラヤ地方で福音を宣べ伝えておられた時のことです。この頃、イエス様は町や村々を巡り会堂で教え、病気の人を癒し、悪霊に束縛されている人たちを解放されました。そのようなイエス様の評判はガリラヤだけでなくイスラエル全体に広がってきました。そんな噂を聞きつけたのでしょう。一人の「ツァラアトに冒された人」がイエス様のところにやってきたのです。
 「ツァラアト」がどんな病であるのかはっきりと断定はできませんが重い皮膚病のようなものです。旧約聖書レビ記13章には「皮膚に白い腫物やかさぶた、あるいは光る斑点のようなものができ…」(レビ13・2)と症状が書いてあります。また、ツァラアトは人の体だけなく衣服や家の壁にもみられる現象も指しています。レビ記14章には「壁が緑がかった、または赤みがかったくぼみであって…」(レビ14・37)と書いてあります。おそらく「カビのようなもの」だったと考えられます。
 ユダヤ社会ではツァラアトに冒された人は隔離されました。宿営の外に住み人の前を通るときには「私は汚れた者です。汚れた者です。」と叫ばなければなりませんでした。ツァラアトの人がいる半径4キュビト、1キュビトは指先から肘までの長さ45センチほどですから、半径約2メートルの範囲には近づいてはいけませんでした。また、ツァラアトの人のいる方向から風が吹いたなら、100キュビト(約45メートル)風下にいても汚わしいと言われたほどなのです。
 ツァラアトは肉体も辛い症状ですし、人々から疎外され精神的にも苦しい、そして、神殿から閉め出されて礼拝することができませんでした。肉体的、社会的、宗教的な三重の苦しみの中にあったのです。
 そんな彼がイエス様のところに近づいてきました。マタイの福音書には、この時、イエス様の周りには「大勢の群衆がイエス様に従った」と書いてあります。マタイの福音書5章から7章には、イエス様が小高い山の上で人々に教えを語られたことが書いてありますので、その後、大勢の人々がイエス様について山を下りてきたのでしょう。その群衆の中にツァラアトの人は入っていったのです。周りの人々はぎょっとしたでしょう。「なんで、こいつがここにいるのだ!」さーっと周囲から人が遠のいたはずです。人々が遠巻きに見守る中、彼はイエス様の前にひれ伏し、こう叫びました。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」(マルコ1・40)
 皆さん、この人がどんな思いでイエス様に叫んだか、切実な思いが想像できますね。彼はイエス様の噂を聞いていたのでしょう。「このお方は病を癒すことのできるお方だ。権威あることばを語り、愛に満ちたお方だと聞いている。きっと私を癒して下さるに違いない。今しかない!」勇気をもって人目を気にすることなくイエス様の前にひれ伏したのです。「イエス様、もし、あなたがお望み下さるなら、私をきよくすることがおできなります。」そう言って、イエス様にすがったのです。
 
2 イエス様の対応
 
 そんな彼の必死の叫びにイエス様はどうされたでしょう。三つのことが書かれています。
 
 (1)「深くあわれみ」
 
 この「あわれみ」という言葉は決して上から目線のものではありません。心のそこからあふれる思いです。「内臓」という言葉から派生して「内臓がよじれるほどの痛みや苦しさを伴う感情」を意味します。英語は「コンパッション」と約されています。「一緒に苦しむ」という意味です。つまり、イエス様は彼の肉体的な痛み、社会的な孤独、礼拝が出来ない心のうえ渇き、それら全ての苦しみをご自分のこととして受けとめられたのです。
 このようなイエス様の「あわれみ」は福音書の他の箇所にも出てきます。マタイの福音書9章36節には「群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」(マタイ9・36)と記されています。イエス様は人生に迷いどこに行くべきかわからなくなっている人々を深く憐れんでくださったのです。
 またルカの福音書7章13節では、息子を亡くし悲しんでいる母親に「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。」(ルカ7・7)と書かれています。 イエス様は病に苦しんでいる人、悲しんでいる人、人生に迷いどこに行くべきかわからなくなっている人、それらの苦しみをご自分のことのように受けとめ理解しあわれんでくださるお方なのです。
 ヘブル書にはそのようなイエス様について「私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4・15)と書いてあります。イエス様は私たちと同じ人としてこの地上の生涯を生きてくださいました。それが意味しているのは、私たちが経験する痛みも悲しみも孤独も涙も、イエス様は同じように経験してくださったということです。だから、もし、私たちが「自分のこの苦しみは誰もわかってくれない」と感じる時があったとしても、イエス様はすべてご存じです。あわれみの心をもって私たちを慰めてくださるのです。
 
 (2)「手を伸ばして、彼に触られた。」
 
 そして、イエス様の二つ目の対応は「手を伸ばして、彼に触られた」ということです。これは当時としては考えられないことでした。ツァラアトの人の半径2メートル以内に近づくことができない、45メートル先から吹く風すら汚らわしいとされていたのです。まして、その人に直接手で触れるなんてとんでもないことです。でも、イエス様は、その人の変色した皮膚に肉がむき出しになった患部に直接さわってくださったのです。恐る恐るではありません。心のそこから沸き上がる深いあわれみをもって手を置いてくださったのです。
 「手を置く」という行為は、新約聖書の中でイエス様がよくそうされました。でも、旧約聖書にはあまりでてきません。「手を置く」行為は特別な時だけです。どんな時に「手を置く」かというと、「相手を祝福する」時です。イサクがヤコブに、ヤコブがその子たちに手を置いて祝福する、そういったときです。つまり、イエス様が手を置かれたのは「あなたを祝福します」という祝福の印でもあるのです。
 福音書の他の箇所でもイエス様は小さな子どもたちを呼び寄せて「手を置いて」祝福されました。また、あるときには大勢の病気の人、一人一人に「手を置いて」祝福し癒してくださいました。この時も、誰も触れることがなかった彼の体に手を置いて祝福されたのです。「今、あなたは病気の中にいます。自分を呪っているかもしれない。絶望を感じているかもしれない。しかし、今、神様の祝福があなたにあるように!」そのようなメッセージを込めて、イエス様は彼に手を置き彼の体に触れてくださったのです。
 
 (3)「わたしのこころだ。きよくなれ。」
 
 そして、続けてこうおっしゃいました。「わたしのこころだ。きよくなれ」と。このツァラアトの人に対する「きよくなれ」ということばは驚くべき宣言です。彼にとっては雷に打たれたようなことばだったはずです。なぜなら、ツァラアトは「きよくない」状態、「汚れている」状態だったからです。
 みなさん、私たちは旧約聖書を読むとき、時々「理解がむずかしい」と思う箇所がありますね。そのことの一つに「汚れている」とか「きよい」という言葉の意味があります。
 聖書にでてくる「きよい」ということばは、元々「区別する」「切り分ける」という意味のことばです。つまり、聖書が語る「きよい」状態は、「神様によってはっきりと区別され、神様の所有とされている」「神のものとされている」状態のことです。イスラエルの人にとって、これはとても重要なことでした。「私たちは神様によって他の民族とは区別された、特別な神の民」という自覚をもっていました。だから、異邦人はけして「きよくない」のです。
 旧約聖書(レビ記)の中には「きよいもの」と「汚れているもの」がことこまかく指定されています。「ツァラアト規定」以外にも、「食べ物の規定」があって、食べてよい「きよいもの」と食べてはいけない「汚れているもの」がありました。「ひづめが割れていて反芻するもの」は「きよい動物」です。それ以外のもの、例えば豚は「汚れたもの」とされました。また、魚では鰭と鱗があるものは「きよいもの」でした。でも、鱗がないウナギは食べてはいけない「けがれたもの」でした。
 私たち現代日本人は、そういう箇所を読むと、「汚れたもの」は「不浄のもの」で非衛生的で文字どおり「汚いもの」というイメージをもってしまいます。でも、けしてそうではありません。聖書は豚が不衛生な動物で、牛は衛生的な動物といっているわけではないのです。実際、どちらもちゃんと調理すれば食べることができます。そのもの自体が汚いとか、綺麗とか、不衛生とかではないのです。
 では、何故、細かい「食べ物の規定」があるのか。それは、生活のあらゆることを通して、「神様によってはっきりと区別され、神様の所有とされている」状態があるということを学ぶためです。旧約聖書の律法は「食物の規定」などを他にもさまざまな「規定」を通して、それを徹底的に教えているのです。そして、「ツァラアト」は、「きよくない」「神のものとされていない」状態、「汚れた」状態だったのです。
 イエス様は、その彼に対して「きよくなれ」とおっしゃいました。つまり、「あなたは神のものとされる」「神の所有の中にいれられる」という驚くべき宣言だったのです。「今から、あなたは神のものです、神様の愛と恵みを受け、神様を礼拝し、神様との親しい関係の中に生かされるのです。」それが「わたしのこころです」と言われたのです。
 このイエス様の心は私たち一人一人に対する心でもあります。イエス様は私たちに「きよくなれ」と言ってくださり「あなたは神様のものとされた存在です」と招いてくださいます。なぜ、神のものとされるのでしょうか。聖書は、私たちはみんな、本来、神様に背をむけてしまった罪ある存在だと教えます。聖なる神様は人間をそのままの状態で受け入れることはできません。誰一人、自分の力や努力で自分をきよい者とすることはできないのです。
 しかし、神様はそのような私たちを「きよいもの」「ご自分のもの」とするために、神の一人子であるイエス・キリストを遣わしてくださいました。唯一、きよいお方である、神の御子イエス様が、私たちのすべての罪と汚れを背負って十字架にかかってくださいました。第一ヨハネ1章にはこう書かれています。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1・7)そのお方を信じるとき、私たちは無条件で罪のない「きよいもの」「神様のもと」とされるのです。
 パウロも、第二コリント5章25節でこう言っています。「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」言い換えるなら「私たちがイエス様によって神のものとされるためです。」
 私たちはクリスチャンであっても、時々こう思うかもしれません。「自分はきよくない」「ふさわしくない」「もっと熱心に、あれをしてこれをして」と。いつのまにか、「自分で自分をきよくしよう、自分で神様に受け入れてもらおう」そう思う傾向がありますね。でも、聖書はその必要はないと教えるのです。
 なぜなら、イエス様が「あなたはきよい」「神のものとされている」そう宣言してくださったからです。だから、今日も私たちはイエス様によって神様のものとされ、神様の愛を受けとり、自由に賛美し、主を礼拝することができる神の民とされているのです。そして、イエス様が律法をすべて成し遂げてくださったので、私たちイエス様を信じるクリスチャンは、もはや、旧約聖書の戒めに縛られる必要はなくなりました。細かい「食物規定」にも縛られることはありません。豚肉もうなぎも美味しく食べることができるのです。
 
3 癒されたツァラアト
 
 さあ、イエス様のことばを聞いたツァラアトの人はこの後どうなったでしょうか。「すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」(マルコ1・42)とあります。イエス様が手を置いて祝福され、イエス様が「きよくなれ」と宣言された瞬間、そのことばの通り、彼のツァラアトが消え癒されたのです。彼は大喜びしたでしょう。そんな彼にイエス様はこういって立ち去らせました。「神殿にいって祭司に見せなさい。そして、感謝のささげものをしなさい。」(マルコ1・44)旧約聖書のレビ記に書かれている通りです。ツァラアトが治った時には、まず、祭司に見せてきよくなったという宣言をうけささげものをするという律法がありました。イエス様はその既定の通り、決められたルールに従って社会復帰しなさいといわれたのです。
 もう一つ、イエス様は「気をつけて、誰にも何も話さないようにしなさい」(マルコ1・44)とも言われました。不思議ですね。せっかく素晴らしい体験をしたのだから、出来るだけ多くの人に伝えた方がいいのはないでしょうか。イエス様は「すべての人に福音を伝えなさい」とおっしゃってもいるのに、この時は何でこういわれたのでしょう。その理由は、イエス様によって癒された人が、そのことをところかまわずに話してしまうと、もっと多くの人が押し寄せて、イエス様の癒やしや不思議なわざを求めて殺到して混乱してしまう可能性があったからです。この時のイエス様はそれを避けるために、彼に「黙っているように」と言われたのです。
 でも、みなさん。私はこう思います。たとえこの後、彼が誰に何も言わなかったとしても、イエス様の素晴らしさは伝っていったはずです。これまで社会から隔離されていた彼が健康な社会生活を送っていれば、そのこと自体がイエス様のすばらしさを伝える十分な証です。
 私たちたちもイエス様の素晴らしい経験をするときがあります。もちろん、人に話していいときもあるでしょう。でも、経験した出来事が素晴らしければ素晴らしいほど、自分が興奮して話せば話すほど、それを聞いた人がひいてしまうこともあります。だから、私たちがイエス様の素晴らしさを体験したなら、その素晴らしさを自分自身の内に蓄えて、その恵みを覚えながら落ち着いて生活するということも素晴らしいことです。
 なぜなら、イエス様の福音はそれ自体、広がっていくものだからです。またイエス様を信じる者の内に住んでくださる聖霊なる神様が、私たちとともに働いてイエス様の恵みと祝福が、私たちを通して自然な形で伝わっていくと信じるからです。
 しかし、この人はあまりにも嬉しかったのでしょう。イエス様のことを言いふらしてしまいました。その結果、イエス様の噂がさらに広がり、イエス様は表だって町に入ることができなくなりました。度々、静かな場所に退いたと、マルコは記しています。
 今日、私たちはイエス様によってツァラアトから癒された人、イエス様によって「きよい」「あなたは神様とのものです」と宣言され、人生が回復された人の出来事をみました。イエス様は彼を、深くあわれみ、手をおいて祝福してくださいました。「わたしの心だ。きよくなれ。」といってくださいました。このイエス様の心とことばは、私たちにも向けられています。
 (1)イエス様は、私たちに愛とあわれみを示してくださるお方です。
 (2)目には見えない御手で触れ「あなたがどんな状況の中にあっても、神様の祝福があるように」と語ってくださいます。
 (3)そして、「あなたは、きよい、わたしによって神のものとされていた」と宣言してくださるのです。
 このイエス様のこころとことばをうけとり、この週もそれぞれに置かれている場所で主を見上げ礼拝してまいりましょう。
 最後に聖歌232番「罪とがを赦され」を賛美しましょう。