城山キリスト教会説教
二〇二三年九月一〇日 豊村臨太郎牧師
マルコの福音書五章一節〜二〇節
聖書人物シリーズ
「ゲラサ人の男」
1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。
5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。
9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。
12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
14 豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。
15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
16 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。
17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。
18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。(新改訳第三版)
新約聖書からイエス様と出会って人生が変えられた人を紹介しています。今日は「ゲラサ人の男」とイエス様との出会いです。この出来事はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に書かれていますが、今日はマルコを中心に、マタイ、ルカも参照しながら見ていきましょう。
1 ゲラサ人の地
イエス様はガリラヤ湖の北西にある町カペナウムを拠点にガリラヤの町や村々を巡っておられました。ある時、イエス様は弟子たちに「舟にのって向こう岸へ渡ろう」とおっしゃいました。ガリラヤ湖の反対側(南東)にある「ゲラサ人の地」に向かわれたのです。
「ゲラサ人の地」は「デカポリス」と呼ばれる地方にありました。「デカポリス」は、ギリシャ語で「十の都市」という意味です。ヨルダン側の東側にある十の都市が同盟を組んだ地域で、外国人が多く住んでいました。ユダヤ人にとって異邦人の地です。そこに住む人々はユダヤ人たちが汚れた動物として食べてはいけなかった豚を平然と飼っていました。つまり、聖書の世界とは関係のない生活を送っている異教の地、多神教の地でした。当然、ユダヤ人たちが進んで足を踏み入れない場所です。しかしイエス様は、そのような「ゲラサ人の地」にわざわざ舟に乗ってやってこられたのです。福音書を読むと、この後、すぐにイエス様は湖を渡ってガリラヤにもどられます。つまり、今日の主人公である「ゲラサ人の男」に会うために来られたのです。
イエス様は、いつも一人の人を大切になさる方です。以前、ヨハネの福音書で「サマリヤの女」紹介しました。彼女に出会われた時もそうでした。イエス様は、当時のユダヤ人が決して通らないサマリヤをわざわざ通り、心が乾ききっていた彼女に声をかけて心の渇きをいやしてくださいました。ヨハネの黙示録には、イエス様が「戸の外に立ってたたく」と書いてあります。イエス様は一人の人のところに足を運び、心の扉をたたくお方なのです。だから、どんな人でも心の扉を開いて「イエス様お入りください」とお迎えするなら、イエス様は喜んで一人一人の心に住んでくださる方なのです。
2 汚れた霊につかれた人
イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。(マルコ5・2)
イエス様が舟から陸に上がられると「汚れた霊につかれたゲラサ人の男」があらわれたのです。
(1)「墓場から」
彼は「墓場から」出てきました。ルカの福音書には、「彼は長い間…家に住まないで墓場に住んでいた。」(ルカ8・26)とあります。当時の墓場は岩に掘った洞窟で出来ていて、そこは犯罪者の隠れ場になったり、貧しい人々がしかたなく住処としているような場所でした。また当時、死人に触れた人は汚れていると見なされました。そこにあえて長い間、住んでいたということは、彼が普通の社会に生きることができない、社会から切り離された「汚れた場所」に住んでいたということです。
(2)「鎖でも縛っておくことができない」
彼は凶暴で誰も対処することができないほどの超人的な力をもっていました。だから、人々は彼を恐れて、彼から危害を受けないように墓場に追いやったのでしょう。
(3)「自分のからだを傷付けていた」
また、彼は昼も夜も裸で大声で叫びながら石で自分のからだを傷付けていたのです。正常な社会生活を送ることができず、人としての尊厳を奪われ、墓場で死人同然に扱われていたのです。これが「汚れた霊につかれた」この人の状態でした。
私たちはこういう姿を読むと、今でいう精神的な病気だったのではないかと理解するかもしれません。でも、新約聖書の福音書の記者たちは、「病気」であることと「汚れた霊」また、「悪霊」に束縛されていることを区別しています。「病気」の時は、「イエスは癒された」と記していますし、「汚れた霊につかれている」ときは、「追い出された」と区別しています。
3「汚れた霊」
皆さん、「汚れた霊」とか「悪霊」と聞くと、違和感を覚えたり、恐ろしく感じたり、荒唐無稽なことのように思ってしまいやすいですね。また、私たち現代人は目に見えることが全てで、目に見えるものだけが実際に存在すると考えてしまうこともあります。しかし、世界には目に見えないけれど、確かに存在するものが沢山あります。例えば電波は目に見えませんが、その働きによって携帯電話やテレビは作動しています。インターネットのWi-Fiもそうです。この世界には目に見えないけれども実在するものが沢山あります。
そして、聖書は、私たちの内面にまで影響を及ぼす目に見えない存在があることを教え、それを「霊」と呼んでいます。
そもそも、神様御自身が「霊」なる方です。ヨハネ4章28節に「神は霊である」と書いてあるように、神様は目には見えませんが確かにおられ、私たちを生かし、支え、日々の生活を守り導いてくださっています。その目に見えない神様を私たちが、よく知ることができるように、目に見える肉体を持って来てくださったのがイエス様です。イエス様によって、私たちは「霊」である神様がどのような方であるかをより深く知ることができるのです。
また、聖書は「霊」について、私たちに悪い影響を及ぼそうとする霊的な存在、「汚れた礼」「悪霊」の存在を教えています。悪霊の一番の目的は、私たちを神様から引き離し、神様との関係を破壊することです。そして、時には人との関係や自分自身を傷付け、破滅へと導こうとします。はっきり悪霊だとわかるようなやり方をすることもありますが、私たちが気づかないような場合も多いのです。
例えば、「神なんか存在しない。自分一人で生きていける」「神は私を愛しているというけど、そんなわけがない。」「私の赦されない」「私は無価値な存在だ」そのような疑念や不信を植え付けてくることもあります。もちろん、疑ったり、不安を感じること全てが「汚れた霊」のしわざだといっているのではありません。時にそういう方法で、私たちと神様との関係を引き離そうとすることがあるということです。
パウロもエペソ人への手紙の中で「悪霊」を「暗やみの世界の支配者たち」と呼んで、こういっています。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6・12)
聖書はそのような霊的な存在がいると記しています。
しかし、だからといって、私たちはむやみに「汚れた霊」「悪霊」を恐れたり心配する必要はありません。今日の箇所でわかるように、イエス様は「汚れた霊」よりもはるかに偉大な権威と力のある方です。ヨハネ12章31節でイエス様は、そのような「悪しきもの」を「この世を支配する者」と呼び、ご自分がこの地上に来られらたことによって、「今、この世を支配する者は追い出されるのです。」とおっしゃいました。
また、ヨハネの黙示録20章10節には、「悪霊」たちの最後がはっきりとこう記されています。
「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」(黙示録20・10)
最終的に「悪しきもの」は完全に滅ぼされてしまうと、聖書ははっきりと教えています。だから、私たちはイエス様を信じ、主だけを礼拝し、主に信頼して歩んでいれば全く恐れる必要はないのです。だから、安心してください。
聖書は、「汚れた霊」の存在を否定してはいけないと教えますし、同時に、恐れる必要もないと教えているのです。
4 イエス様による解放
さあ、そのように人を傷付け、混乱させ、人生を破壊する方向へと向かわせようとする「汚れた霊」に束縛された「ゲラサ人の男」がイエス様のところに走ってきました。
(1)「汚れた霊よ。この人から出て行け」
そんな彼にイエス様は「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われました。すると彼は、大声でこういったのです。
「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」(マルコ5・4)
イエス様が力ある神の子であることがよく分かっていたのですね。当時の人々や弟子たちよりも分かっていました。イエス様が神の子であること、そして、到底かなわないお方であることを汚れた霊はわかっているのです。
だから、この汚れた霊はイエス様を恐れました。マタイ8章29節では「神の子よ、…まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」(マタイ8・29)と言っています。最終的に自分が滅ぼされることをしっているのです。もう、勝ち目がない「苦しめないでくだい」とお願いしているのです。
(2)「お前の名は何か」
すると、イエス様は「おまえの名は何か」と言われました。彼は「私の名はレギオンです」と答えました。「レギオン」というのは、当時の世界最強のローマ軍が所有する軍団のことで、六千人で編成されていました。つまり、それほど多くの汚れた霊がこの人を苦しめ混乱させていたということです。
しかし、イエス様にとっては、どんなに多くの霊であろうが問題ではありません。イエス様はこの直前にガリラヤ湖を渡ってこられたとき嵐にあわれました。その時、イエス様は風と湖に向かって「黙れ、鎮まれ」と一言で嵐をおさめました。つまり、イエス様が自然界をおさめることのできるお方でり、イエス様のことばには力と権威があることがしめされたのです。
そして、この時、イエス様は人の内側のどんな混乱も同じように一言で静めることがお出来になるお方であることを示されようとしているのです。ただ、一言「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言葉を発するだけで十分でした。
(3)二千頭の豚に
だから、レギオンは「豚に乗り移らせてください」と願ったのです。イエス様がそれを許されると二千頭の豚が崖から湖になだれ落ちて溺れ死んでしまったと書かれています。なぜイエス様は、豚に乗り移ることをお許しになったのか、聖書に書いてないのでよくわかりません。でもこの光景を思い浮かべるとき、二千頭の豚の中に六千を意味するレギオンと名乗るほどのおびただしい汚れた霊がのり移って崖から落ちていったという、そのことから、この人がどれほどの混乱して、どれほどの苦しみの中にいたのかということがわかります。
大切なことは、イエス様のことばによって、墓場に住み、着物も着けず、自分の体を傷つけていた人が解放され、彼、本来の姿に戻ったということなのです。
皆さん。イエス様のもたらす福音の力は、ここにあるのです。イエス様は、人をどんな束縛からも解放してくださる方です。自分が誰だかわからなくなってしまうような混乱から、本来の姿に回復してくださる方なのです。ガラテヤ書5章1節に書いてある通りです。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5・1)まさにイエス様の福音の力です。
5 新しい出発
イエス様によって解放されて正気に戻ったこの人は、イエス様にこう言いました。「お供させてだくさい」(マルコ5・18)ルカの福音書では、はが「イエス様の足もとに…すわっていた」(ルカ8・35)と書かれています。それは「あなたの弟子にしてください」「弟子としてついていかせてください」という意思表示でもあったのです。
それまで、社会から孤立し、孤独の中で混乱し、自分を傷付けることしかできなかった状態から、彼本来の姿に戻り、自由が与えられ「イエス様あなたについていかせてください」と、願う人にかえられたのです。
そんな彼にイエス様はこうおっしゃいました。
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(マルコ5・19)
あなたには帰る場所がある、あなたが伝えるべき人々がいると、このゲラサ人の男にしかできない使命をイエス様は与えてくださったのです。
福音書の中で、ある人はイエス様についていきました。また、ある人はもといた場所にとどまります。共通しているのは、イエス様に新しい人生が与えられ、それぞれの場所で「主がしてくださったこと」を伝えることでした。
彼はイエス様の言うとおりにしました。家に帰り、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを話したのです。家族はびっくりしたはずです。でも、以前は、破壊的な言葉を夜昼叫び続けていた彼が「イエスというすばらしいお方にであった。私を解放し、救ってくださった。」という言葉から、イエス様の福音を聞いたのです。そして、彼の人生に起こった出来事は家族だけにとどまらず、「デカポリス地方」に広がっていったのです。ゲラサ人の男性は、イエス様のみわざを証しする人として、新しい人生を出発させたのです。
今日の出来事を通して私たちは、イエス様がどのようなお方であるか、イエス様の福音の素晴らしさを知ることができます。
(1)イエス様は、わざわざゲラサ人の男に会うために湖を渡られたように、いつも一人の人を大切にし、一人の人を救う為に足を運んでくださるお方です。私たち一人一人のところにも来て心の中に住んでくださっています。
(2)イエス様は、権威と力あることばによってこの人を解放されました。イエス様のことばには人生を変える力があります。だから、私たちは聖書のことばに信頼し、安心して生きることができるのです。今、私たちは、このゲラサ人の男と同じように墓場に住んでいるわけではありません。でも、まるで墓場に追いやられているような孤独を感じたり、心が混乱したり、自暴自棄なって、自分自身を傷付けしまうことがあるかもしれません。「神様なんていない」「自分はひとりぼっちだ」「愛される価値がない」「生きる意味がない」そのような思いや言葉が、自分の心を束縛してしまう時があるかもれません。
しかし、イエス様のことばは、聖書は、今もかわらず力と権威をもって私たちに語りかけます。「あなたは愛されている」「わたしがいのちをかけるほどに価値がある」「わたしはあなたと共にいる。けして一人にはしない」と私たちに語りかけています。そのような、イエス様のことばを通して、私たちは自由にされ、解放されるのです。
(3)そして、その福音を受け取った私たちは、イエス様が彼に「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(マルコ5・19)と語られたように、私たち一人一人にも、それぞれの場所がある、実際の家族だけでなく、友人、知人、同僚、周りの人々、あなたを通してわたしの恵みが伝っていくのですよと、イエス様は語ってくださっています。
この愛と恵みに溢れたイエス様の力あることばに信頼しつつ、安心してこの週も歩んでまいりましょう。