城山キリスト教会説教
二〇二三年九月二四日           豊村臨太郎牧師
マルコの福音書一〇章一七節〜二七節
 聖書人物シリーズ
   「富める青年」
 
 17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
 23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」
24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(新改訳第三版)
 
 聖書人物シリーズとして、これまでは主にイエス様がガリラヤ湖周辺の町々で活動されていたときに出会った人々を取り上げてきました。福音書の後半には、イエス様が北のガリラヤから南の首都エルサレムに向かわれたことが記されています。イエス様はその途中にもいろいろな人々と出会われました。
 今日はその中から、イエス様がヨルダン側の東側に位置する「ベレヤ地方」と呼ばれる場所で出会った「富める青年」と呼ばれる人を取り上げます。彼もイエス様と出会って人生が変えられた人と言いたいところですが、今日の箇所には、彼がイエス様のもとから去っていったと書いてあります。でも、イエス様に出会って、彼はそれまで自分がもっていた考え方とは違う、大切なメッセージを聞いたことは事実です。今日はその内容を見てきましょう。
 
1 富める青年
 
 あるとき、イエス様が道を歩いておられると一人の青年が駆け寄ってきました。ルカの福音書では「役人」と書いてあります。これは「指導者」「議員」「会堂司」と訳す場合もあります。最高議会サンヘドリンの議員だったのか、それともユダヤの会堂の役員のような立場だったのかもしれません。若くして人々から人望を集めていたユダヤのリーダーだったのでしょう。
 さらに、10章22節には「この人は多くの財産を持っていた」(マルコ10・22)とあります。ルカは、もっとストレートに「たいへんな金持ち」(ルカ18・23)と書いています。
 実は、当時ユダヤ社会では、繁栄は神様の祝福のしるしと見なされていました。財産が沢山あれば、それだけ神様に愛されていて、少なければ少ししか愛されていない、マイナスにでもなれば「呪われているんじゃないか」という風に極端に考える場合もあったわけです。「この地上で富めば富むほど、神様に祝福されているのだから、永遠のいのちを受けて天国に入るのは確実だ」と思われたわけです。この青年は若くして人望があり、財産もあり、この後の会話からもわかるように戒めもしっかり守っていたというわけです。誰の目にも「この人ほど天国に近い存在はない」と見えていた人物です。
 そんな彼がイエス様にこう聞いたのです。
 「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(マルコ10・17)
 おそらく彼はこう考えていたのでしょう。「自分は正しく生きているし、祝福の結果として財産も得ている、だから、このままいけば『永遠につづく神の祝福の中に生きることができる』それは確実なことだと。その上で、今、多くの人々の注目を集めているイエスという「尊い先生」から、「あなたはそれでよい。いまで十分」と、お墨付きをいただきたいと思ったのでしょう。あるいは、もう少し求道する思いがあって「天国行きを百パーセント確実にするために、もし何かやり残したことがあるのであれば教えてほしい」と思ったのかも知れません。いずれにせよ、彼にはイエス様から聞きたい答えがすでにあって、それを引き出そうとしている、そんな印象を受けます。
 
2 イエス様の答え
 
 そんな彼にイエス様はこうおっしゃいました。
 
 (1)「尊い方は神おひとり」
 
 「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」(マルコ10・18)
 ここで「尊い」と訳されているは「良い」という言葉です。マタイの同じ箇所では「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。」(マタイ19・17)と書かれています。イエス様は「あなたわたしを『良い先生』と呼んだが、『良いお方』は、神様のお一人だけです。」「あなたが求めているものを与えることができるのは、人ではなく神様お一人なのです。」と強調されているのです。
 今、私たちは聖書を通してイエス様が父なる神様と同じ性質をもつお方、神様であることを信じています。だから、イエス様のことを「良いお方」と呼んでいいのではないかと思います。でも、この青年はイエス様を「神様である」とは理解していませんでした。あくまでも人として素晴らしい教師、自分が知っているどんなユダヤ教の指導者よりも深い教えをくださる指導者として理解していました。その「良い先生」から「良い」答えをもらい「永遠のいのちの確証を得たい」と願ったのです。
 だから、イエス様は彼に「神様だけが唯一の良いお方です。あなたが求めている「永遠のいのち」をお与えになることができるのは神様です。」と教えられたのです。
 その上でイエス様は「神様は聖書でこう教えておられるでしょう」と次のことばを言われました。
 
 (2)「戒めを守りなさい」
 
 イエス様は、モーセの十戒の後半を引用されて、それを守りなさいと言われました。
 「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」(マルコ10・19)
 みなさん。これを聞いてどう思われますか。「あれっ、イエス様らしくないな」と思いませんか。イエス様は、いつもは「人は律法の行いではなく、ただ信仰によって救われる」と教えておられます。それなのに、何故ここでは「戒めを守りなさい」とお答えになったのでしょうか。
 それは、この青年の質問に問題があったからです。彼は、自分の生き方を認めてほしくて、そして、それを確かなものにするために、さらに私は「何をしたらいいか」と質問したのです。つまり自分が何かを行うことによって「永遠のいのち」を受けることができると考えていたのです。自分の力で「救い」を確かなものとすることができると思っていたわけですね。だから、イエス様は、「もしあなたがその方向でいくなら、自分の行いで救いを得たいなら、神様の戒めを完全に守りなさい。」とお答えになったのです。
 でも、どうでしょうか。神様の戒めを完全に守ることのできる人がいるでしょうか。誰もいないですね。本気で守ろうと思っても、守ることができない不完全な自分の姿に気づくだけです。モーセの律法は、そのような気づきへと私たちを導く養育係のようなものだと、パウロもガラテヤ書で言っています。
 ある時、イエス様は山の上で教えを語られました。(マタイ5章参照)その時、イエス様は、神様の戒めの基準の高さを教えられました。例えば、兄弟に向かって怒ったり批判したりするなら人殺しと同じだと言われたのです。私は7人兄弟です。男5人、女2人、数えきれないほどの兄弟喧嘩をしてきました。もちろん、この「兄弟」という表現は、実際の肉親だけでなく同胞を意味することばです。いずれにせよ、誰かに向かって怒ったり、非難したりしたら、人殺しと同じだと言われたら、誰もその基準を守ることはできません。
 また、イエス様は心の中で情欲を抱いて女性を見るのは姦淫と同じだといわれたのです。表面的に非の打ち所のない生活をしていたとしても、心の中に汚れた思い、憎しみ、妬みがあるなら、神様の基準に達することはできないというのです。とてつもなく高い基準です。誰もそれを満たすことはできません。
 だから、聖書は人には救い主が必要だと教えているのです。唯一神の基準を満たすことの出来るお方、救い主イエス・キリストが必要なのです。その救い主イエス・キリストを信じることによってのみ人は救われる、それが聖書のメッセージです。
 でも、この富める青年はどう答えたでしょうか。
「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」(マルコ10・20)
 即答したのです。すごい自信です。もちろん、彼は真面目で道徳的にもきちんと生きていたのでしょう。戒めを厳格に守り人々の評価もよかったはずです。周りの人も、「彼ほど神の国に近い存在はない」と考えていました。だから、彼は、「私は、そのような教えをみな小さい時から守っています。」といえたのです。そして、イエス様に「それなら合格、あなたなら大丈夫。」と言って欲しかったのです。しかし、そんな彼の思いは、次のイエス様の言葉でついに崩れてしまいました。
 
 (3)「あなたには、欠けたことが一つあります。」
 
「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。」(マルコ10・21)
 イエス様は、「あなたが自分の行ないによって永遠のいのちを得ようとするなら、実際に『完全な行い』をすることによって、それを示してみなさい」と言われたのです。
 そのイエス様のことばを聞いたとき、彼は、「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。」(マルコ10・22)のです。がっかりしたのです。自分が求めていた答えをイエス様がくださらなかったからです。
 私たちは、この彼の姿から大切なこと教えられます。それは、もし、自分の行ないや努力によって「救いを得よう」とするなら、そこには失望と悲しみが襲ってくるということです。だから、聖書は繰り返し「行ないではない。行いによっては救われない。永遠は保証されない」と記しているのです。
 この時、彼は自分の本当の姿に気づくことができませんでした。いや、うっすら気づいていたかもしれません。でもイエス様の前に認めることができませんでした。「自分はできている」そして、イエス様に「その方向で良い」と答えてほしかったのです。でも、それをくださらなかったイエス様に失望して悲しみながら去って行ってしまったのです。
 でも、皆さん、ここで彼が「イエス様、私にはできません」と言えたら、どんなに素晴らしかったでしょうか。なぜなら、イエス様はそれを待ってくださっていたからです。その証拠に、この時、イエス様は「彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。」(マルコ10・21)と書いてあります。「見つめる」は「顔をじっと見つめる」という意味です。「いつくしんで」は、愛を意味する「アガペー」からくることばです。つまり、イエス様は愛をもって彼の顔をじっと見つめてくださっていたのです。
 さらに言えば、このイエス様のまなざしは、後に弟子のペテロがイエス様を裏切って、三度「知らない」と言ったとき、イエス様が振り返ってペテロを「見つめられた」と同じことばなのです。つまり、イエス様は人の弱さも、それを認めることが出来ないこともご存じで、それを責めるのではなく愛といつくしみを持ってじっと見つめてくださるお方なのです。そのイエス様のまなざしが、この時、青年にも向けられていたのです。
 「自分が何をすれば永遠のいのちを得ることができるのか」「あと、何を積み重ねればオッケーなのか」そう思っている彼が「自分の力ではないのだ」そのことに気づいてほしい、そのような願いでイエス様は彼を「見つめ、いつくしんで」おられたのです。
 このあと「富める青年」がどうなったのかは聖書には書かれていないのでわかりません。ある学者は、彼は後で思い直してイエス様のもとに戻ってきてイエス様を信じたのではないかと考えます。そうであってほしいですね。
 
3 誰が救われるのか
 
 さあ、この出来事を傍らで見ていた人がいました。イエス様の弟子たちです。彼らは、びっくりしておろおろしていました。「この青年が救われないのなら、いったい誰が救われるんだろう」「彼は、戒めはきちんと守っているし、若いのに模範的だし、神様に祝福されて金持ちだし、それに比べて俺たちは」すると、イエス様は弟子たちにこう言われました。
 「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マルコ10・25)
 みなさん。このイエス様のことばを誤解しないでいただきたいのは、ここでイエス様は「お金が悪い」とか「裕福になっちゃ駄目」だとか「金持ちではいけない」とおっしゃっているのではないのです。この出来事の一連の流れから理解することができるように、イエス様がおっしゃっているのは、「どんなにお金があっても永遠のいのちを買うことはできない」「お金で救いを得ることはできない」ということです。また、人は何でもお金で得られるかのような考え方で生きてしまうこともあります。お金が私たちを縛り、苦しめることもあります。そのことをイエス様は警告なさっているのです。聖書は、お金や富が悪いといっているのではありません。大切なのはそれぞれ神様から与えられたものを感謝し、神様から託された物として適切に管理し、賢く用いていくことなのです。
 しかし、弟子たちは、イエス様のことばの真意が理解できませんでした。「らくだが針の穴を通るなんて、全く不可能ではないか。金持ちは神様の祝福を受けているはずなのに、神の国に入るのが難しいとしたら、誰ひとり無理じゃないか」と思って、こう互いにいいあったのです。
 「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」(マルコ10・26)
 イエス様は彼らをじっと見て大切なことを言われました。
 「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ18・27)
 ルカの福音書では、「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18・27)と書かれています。皆さん、今日、是非この言葉を覚えて帰ってください。
 永遠のいのちを得ることは人には出来ません。でも、神様はすべての人に永遠のいのちを与えることがおできになります。ヨハネ3章16節にこうあります。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
 神様は、自分の力で「神様の基準」に達することのできない私たちを責めるのではなく、裁くのでもなく、愛してくださっています。そして、私たちために大切なひとり子であるイエス様を救い主として送ってくださいました。なぜでしょうか。「永遠のいのち」を与えるためです。私たちは、そのお方を信じるだけで救われ、無条件に永遠のいのちが与えられます。それは神様の一方的な恵みです。まさに「人にはできないことが、神にはできるのです。」
 パウロはエペソ2章8節でこう言っています。
 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません」(エペソ2・8)
 人の行いでは救われない。でも、神様は恵みによって私たちを救うことができるのです。だから、もし、私たちが「自分の力では救いを得ることはできない」「神様の前に立つことができない」と気づくことができたなら、それは素晴らしいことです。だって、イエス様には「人にはできないことが、神にはできる」からです。イエス様の前に「私にはできません」と告白し、しかし「あなたにはお出来になりました」と救いを求めたらよいのです。
 私たちは、この素晴らしいイエス様の約束の中にいかされているのです。「人にはできないが、神にはできる」からこそ、こんな私が罪ゆるされて、尽きることのない永遠のいのちをいきるものとされたのです。私たちは自分で十字架につくことはできますか。罪がある私たちはできません。でも、人にはできないけれど、神なるイエス様が十字架についてくださいました。
 復活もそうです。人が死んでよみがえるなんて不可能なことです。でも「人にはできないけど、神様ならできます」だから、私たちの人生は死んで終わりではなく復活の希望があります。
 クリスチャンの日々の歩みも同じです。私たちは、「自分にはできない」と落ちこんでしまうときがありますね。置かれた状況、背負わなければならない責任、目の前の問題や課題の中で落ち込むことがあります。「乗り越えられるだろうか」「自分にできるだろうか」重くて、苦しくて「自分にはできない」そう思うことがありますよ。でも、「人にはできなくても、あなたにはできなくても、神にはできる、イエス様にはできる」のです。
 「人にはできないことが、神にはできるのです。」皆さん。この約束を語ってくださったイエス様は、昨日も、今日も、いつまでも変わらないお方です。私たちは、そのイエス様のことばを聞き、イエス様を信頼し、聖霊なる神が私の内に住み、ともに歩んでくださっています。だから、私たちには勇気が与えられます。希望があり、喜びがあり、安心があります。「人にはできないことが、神にはできる」この約束を握りながら、この週もイエス様の恵みの中をともにあゆんでまいりましょう。最後に「大いなる方に」を賛美しましょう。