城山キリスト教会説教
二〇二三年一〇月一日           豊村臨太郎牧師
ルカの福音書一〇章三八節〜四二節
 聖書人物シリーズ
   「マルタとマリヤ」
 
 38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(新改訳第三版)
 
 福音書からイエス様と出会った人たちを紹介しています。今日は「マルタとマリヤ」という姉妹を取り上げます。
 
1 ベタニヤのマルタとマリヤ
 
 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。(ルカ10・38)
 
 今日の出来事は「さて、彼らが旅を続けて行くうちに…」という書き出しで始まります。「彼ら」というのは「イエス様と弟子たち」このことです。どんな「旅」だったかというと、イスラエル北部のガリラヤ地方から南にある首都エルサレムに向かう旅です。聖書を1ページバックしていただいて、ルカの福音書9章51節にはこう書いてあります。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」(ルカ9・51)新しい訳の聖書「新改訳2017」では「イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」となっています。つまり、イエス様は、これから十字架に架かり、復活して天に昇られるという、「救いのみわざ」をなされる為にエルサレムに向かっておられたのです。
 その旅の途中、イエス様たちが「ある村」に立ち寄られました。ヨハネの福音書から、この村が「ベタニヤ」だったことがわかります。ベタニヤは、エルサレムから2.8キロほど離れた場所にあります。歩いて40分くらいでしょうか。この町には、イエス様の支援者たちがいて、イエス様がエルサレムに行かれる時には、このベタニヤを拠点にしてエルサレム市街や神殿に通われました。
 マルタとマリヤが、この時、初めてイエス様をお迎えした可能性もありますが、おそらく既に面識があって「イエス様、ぜひ、家にいらしてください。」と、マルタたちが願ったのだと思います。いずれにせよ、マルタとマリヤは、喜んでイエス様一行を家にお迎えしたのです。
 ちなみに、今日の箇所には登場しませんが、彼女たちにはラザロという兄弟もいました。聖書には、誰が年上だったのか書いてありませんが、「マルタ」という名前は「女主人」という意味なので、おそらくマルタが一番姉だったのではないかと思います。
 またヨハネの福音書の11章では、イエス様が亡くなってしまったラザロをよみがえらせてくださった出来事がかかれています。弟のラザロが亡くなるという家族のお葬式のような場面ですが、その時、父や母、夫や子は一切出てきませんので、おそらく、家族はマルタ、マリヤ、ラザロの三人だったのだと思います。
 そんなマルタの家にイエス様一行が滞在されました。この滞在は、単に旅人が一晩家に泊まったということだけではありません。ルカの福音書10章で、イエス様は弟子たちを伝道のために町や村に送り出されましたが、その時、こう言われています。
「その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。…彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。」(ルカ10・7ー9)
 つまり、イエス様たちが、どこかの町や村にいって、その家に滞在されるということは、そこで「福音」が語られるということです。その場には沢山の人が集まって、イエス様の「神の国が近づきました」「救いがきました」というメッセージが語られたのです。同じように、この時、ベタニヤのマルタの家にイエス様が向かえ入れられたというのは、そこでイエス様の福音が語られ、イエス様を信じる人が起こされる、そんな時だったと想像できます。
 
2 イエス様を迎えたマルタとマリヤ
 
 「…喜んで家にお迎えした。」(ルカ10・38)
 
 姉のマルタはイエス様に喜んでもらいたいと思いながら、せっせともてなしの準備を始めました。足をあらうための水を用意し、食事の支度し、寝床の準備もしたでしょう。イエス様だけでなく少なくとも12人の弟子がいるのですから大忙しです。ベタニヤの町に住んでいるイエス様を慕う人たちもぞくぞくと集まっていたでしょう。パーティーのような夕食会が始まりつつあったのです。
 マルタは「イエス様が来て下さった。何を食べていただこうかしら。」そんな風に思いながら準備を進めたのでしょう。でも、ふとイエス様の方を見ると妹のマリヤが目に入ったのです。彼女は「主の足もとにすわって、みことばに聞き入って」(ルカ10・39)いました。普段のマルタなら気にしなかったかも知れません。でも、この夜は忙しく動き回っています。自分とは対象的にマリヤは何にもせずに座ってじっとイエス様の話に耳を傾けていたのです。
 それを見た瞬間、マルタの心が騒ぎました。「マリヤときたら、自分だけイエス様のそばに座って話を聞いて、少しは私を手伝ってくれてもいいじゃない。」最初は、小さな思いだったかもしれません。でも、次第に時間が進むにつれて忙しくなり、マリヤに対する怒りが込み上がってきました。「やっぱり、我慢できない」。マルタはその思いをマリヤ本人にではなくイエス様にぶつけたのです。
 「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(ルカ10・40)
 このマルタの気持ちわかりますよね。姉として家の女主人としてイエス様をもてなさければならないのに、マリヤは何も手伝わない。それは自分だって話を聞いていたいですよ。でも、同じように自分も座っていたら誰が準備をするのか。なのに妹ときたら全然手伝わない。しかも、イエス様もイエス様で少しは私の気持ち理解してくれてもいいじゃないですか。空気読んで下さいよと、そんな気持ちだったのでしょう。
 ルカは、この時のマルタの様子を、「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず」(ルカ10・40)と書いています。この「気が落ち着かず」というのは「脇道に引きずりこまれる」「心を取り乱して、本筋からずれる」という意味です。 マルタは本筋からずれたのです。最初は喜んでイエス様をお迎えしました。でも、あれも、これもと、準備をするうちに、自分のキャパシティーを越えて、段々と本筋からずれてしまいました。喜んでイエス様をお迎えするという気持ちがどこかにいってしまったのです。それほど、自分が出来る範囲を越えてしまっていたのかもしれません。そして、「ただ座っている」妹をみたとき、「なぜ手伝わないのか」という怒りが湧き、それを放置しているイエス様に対しても不満が湧いてきたのです。「あなたは何ともお思いにならないのでしょうか」とイエス様をせめたのです。
 
3 イエス様のことば
 
 そんなマルタにイエス様は何とおっしゃったでしょうか。
 
 (1)「マルタ、マルタ」
 
 最初にイエス様は、彼女の名前を「マルタ、マルタ」と呼ばれました。聖書の中でときどき同じような例があります。
 例えば旧約聖書の出エジプト記で、エジプトの王室で育ったモーセが同胞イスラエルを救おうとして行動を起こしますが失敗し、荒野に逃げて羊飼いとして生きていた時です。神様は、挫折の中にいたモーセに対して燃える柴の中から声をかけられました。その時も「モーセ、モーセ」と呼びかけられました。
 また、使徒の働きでは、クリスチャンを迫害していたサウロ、のちのパウロが、迫害の息をはずませてダマスコに向かっていたとき、突然、天からのまばゆい光に打たれて倒れました。目が見えなくなりました。その時もイエス様は、「サウロ、サウロ」と彼の名を呼ばれました。いずれも、大切なことが語られるときに繰り返し名前が呼ばれています。
 今日の箇所でも、イエス様はイライラしているマルタに「マルタ、マルタ」と名前を呼び「これから私は大切なメッセージをあなたに伝えますよ」と、そんな気持ちを込めて優しく語りかけてくださったのです。
 そして、次にこういわれました。
 
 (2)「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」
 
 この時、マルタはイエス様に「私の気持ち分かってくれないのですか」という気持ちをぶつけました。そのマルタにイエス様は「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」と言われたということは、イエス様がマルタの気持ちをよく分かってくださっていたということですね。
 「心配して、気を使っている」は、新改訳2017では「思い煩って、心を乱しています。」と訳されています。イエス様は、マルタの「思い煩い」も、腹が立ってイライラして「心が乱れてしまっていること」も理解してくださっていました。そして、「あなたは色んな事を心配しています。私の為に気を遣ってくれています。心を乱すほどに、私のことを思ってくれている」と語ってくださっているのです。
 そう考えると、私たちもイエス様にお祈るとき、時にはマルタのように自分の気持ちをストレートにぶつけていいのだなと思いますね。
 続けてイエス様はとても大切なことをいわれました。
 
 (3)「必要なことは一つだけです。」
 
 イエス様は、マルタがイエス様をお迎えする上で、あれもこれもと「多くのこと」が必要だと思っていたことに対して、「どうしても必要なことは一つだけです」とおっしゃったのです。
 このイエス様の語りかけは、私たちにとっても大切なことばですね。私たちにとって「どうしても必要なこと」は、最優先しなければいけないことは何でしょうか。それは、主なるイエス様を礼拝することです。イエス様に心からの賛美をささげ、誉め讃え、みことばを聴き、礼拝することです。
 黙示録4章11節に「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。」(黙示録4・11)とある通り、私たちの状況や場所や時にかかわらず、主なるイエス様は、いつも賛美されるべきお方、崇められるべきお方、礼拝されるべきお方です。これは「どうしても必要なこと」で、私たちにとって最優先のことです。
 私たちはこうして毎週、会堂に集まり、また、ネット中継を通して、主なるイエス様を礼拝しています。それは、私たちにとって何よりも必要なことだからです。私たちを造り、私たちを愛し、私たちを生かし、支えてくださっている神様との関係の中に生きる上で「どうしても必要なこと」です。
 もちろん、それは必ずしも「日曜日」の「この時間」でなければならないということはありません。日曜に仕事があったり、用事があってその時間に礼拝できないかもしれません。でも、私たちは週のどこかで、主を賛美し、みことばを聞き、礼拝しながら生きていますね。礼拝には主からの安息がありますし、癒やしがありますし、礼拝によって私たちは神様からの励ましと力強い支えを受けることできます。
 だから、みなさん、今朝も礼拝していますが、これはすばらしいことですね。なぜなら、イエス様が、「必要なことは一つだけです」と言われた、そのことばに答えて私たちはここに来ているからです。また、インターネットを通して、ともに礼拝しているのです。それはイエス様のことばへの応答です。
 そして、私たちにとって「礼拝が最も大切なこと」という大前提の上で、私たちの生活にはいろんな現実があって、それぞれの場所で、主とともに歩むんでいく中で、いろんな行動を選び取っていくことがあります。その上で、次にイエス様がおっしゃったことばも、またとても大切なことを教えています。
 イエス様は続けてこうおっしゃいました。
 
 (4)「マリヤはその良いほうを選んだのです。」
 
 私たちはここを読むとき「その良いほうを」と訳されているので、イエス様がマルタとマリヤを比較して、「立って給仕をしていた」ことより、「座って話を聞く」ことが優れている、と理解するかもしれません。でも、ここでイエス様は、マルタとマリヤの行動を比較しているのではありません。この箇所の聖書の原文では、比較することばが使われていないのです。
 「マリヤは良いほうを選んだのです」の直訳は、「マリヤは(自分にとって)最善の取り分(ベストのわけまえ)を取った。」です。つまり、この日、この時のマリヤにとって「イエス様のそばで話をきくこと」それが彼女の「取り分」であって、イエス様をもてなす具体的な行動だったのです。だから、イエス様は「それを取り上げることはない」と言われました。
 最初イエス様が来られたとき、マルタもマリヤも二人とも喜んでイエス様をお迎えしました。マルタは給仕をし、マリヤは座って話を聞きました。二人とも、同じように「イエス様が来て下さった」と心から喜んでイエス様をもてなしていたのです。
 でも、そんな中でマルタは「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」と次第に自分の「分」を越えてがんばりすぎたのです。無理をしたのです。そして、マリヤと自分を比べて「何故で同じように、給仕しないのか」と思ったわけです。
だから、そのようなマルタに対してイエス様は「今、マリヤは、自分にとって最善の取り分を選んでいるのです。それが取り上げられるとはありません。」と言われ、「比べる必要はないのですよ。彼女をそのままにしておきなさい」と、語られたのです。
 でも、このマルタの姿は、私たち、また教会の中でもおこりやすいですね。マルタのように考えやすいものです。「主に喜ばれるように奉仕したい。」そう思って何かを始めるうちに、いつの間にか、人を見て「自分だけやって、あの人はやっていない。」と、マルタ的になりやすい傾向があります。だから、もし、私たちがイエス様に仕える思いをもって何かをするなかで、重荷に感じたり疲れたり、人と自分を比べて批判する思いにもってしまったり、また、自分を責めることがあったとしするなら、イエス様の前に、手を止めて、静まって、イエス様のことばに耳を傾けたいですね。「その時、それぞれに、最善の取り分がある」「人と比べる必要はない」「疲れて心を取り乱すほどに、無理する必要はない」イエス様は愛をもって、私たちに語りかけてくださっています。
 さて、この後のマルタとマリヤの行動は、聖書に書いてありません。でも、私はこんな想像をします。マルタはイエス様のことばを聞いた時、ふと気がついて「そうか、自分は無理していたな。ちょっと一休みして、マリヤと一緒に話を聞こう」そうやって、イエス様がお語りになる話をしばらく聞いた後、「そろそろ、みんなお腹が減ってきたかもしれない。料理を温めなおそうか」と、また立ち上がって食事の用意をしはじめたかもしれません。そしたら、マリヤも「姉さん私も手伝うわ」って、二人で給仕をしたかもしれませんね。
 また、別の日にはマリヤが給仕して、マルタが話を聞くという場合があったかもしれません。「給仕することも」「話を聞くことも」両方とも大切なことだからです。時と場合によって、その人がイエス様から受ける必要や、イエス様になすべきことは変わって良くて比べる必要はないからです。
 
4 マルタとマリヤの姿から
 
 今日、私たちは「マルタとマリヤ」の姿から大切なことを学びました。
 大前提として、「どうしても必要なことは一つ」、それは「主を礼拝すること」です。主なるイエス様は目には見えませんが、今日も私たちのところに来てくださっています。私たちは、その主を心から歓迎し、主に礼拝をささげています。素晴らしいことです。イエス様が「どうしても必要なことは一つです」と、言ってくださっているからこそ、その言葉に応答して、私たちはこうして礼拝をささげています。
 そして、私たちは主を愛して主とともに歩む中で、それぞれに「良い取り分」、主への「もてなし」があります。人と比べる必要はありません。無理をする必要もありません。みなさん、それぞれに選び取って行動していますね。時には教会で何かの奉仕をすることかも知れないし、一人で静まって聖書を読むことかもしれません。誰かのために祈ること、互いに助け合うことかもしれません。みんな違いがあっていいし、その時によって変わっていいものです。パウロはエペソ2章10節でこういっています。
 「私たちは神の作品であって、…私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2・10)
 主なるイエス様が「良い行い」を備えてくださっています。だから、自分を見失って喜びを失ってしまうほど無理する必要はありませんし、人と比べる必要はありません。それぞれが、私たちのところに来て下さったイエス様を喜んでお迎えする心で、できることをその時々に選びとりながら、主を礼拝しつつ、この週も歩んでまいりましょう。