城山キリスト教会説教
二〇二三年一〇月一五日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一一章一節〜一五節
聖書人物シリーズ
「ラザロ(前編)」
1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(新改訳第三版)
聖書人物シリーズとして、福音書からイエス様と出会った人たちを紹介しています。前回はベタニヤの「マルタとマリヤ」でした。今回は彼女たちの兄弟ラザロです。
ある時、ラザロが病気で危篤になり、その後、亡くなってしまいます。しかし、イエス様は死んでしまったラザロをよみがえらせてくださいました。
ヨハネの福音書には、この「ラザロのよみがえり」を含む、イエス様がなさった七つの奇蹟が記録されています。それらは、イエス様が「救い主」であることをはっきりと示し、イエス様がどのようなお方であるかを福音書を読む人に伝えています。
今日の「ラザロのよみがえり」は、七つの奇蹟のなかで最後に記されていて、イエス様の働きについて非常に大切なことを教えるものです。ですから、今回は二回に分けて「ラザロのよみがえり」の出来事をご一緒に見ていきましょう。
1 ラザロと姉妹たちとイエス様
まず、最初にラザロ、マルタ、マリヤとイエス様との関係について触れます。彼らが住んでいたベタニヤは、エルサレムから2.8キロほど離れた小さな村でした。イエス様はエルサレムに行かれる際にはベタニヤの彼らの家に滞在されました。
前回、ルカの福音書10章から「マルタとマリヤ」がイエス様をお迎えした出来事を読みました。イエス様が彼らの家に行かれたとき、姉のマルタはもてなしの準備におわれ、妹マリヤはイエス様の足下に座って話を聞いていました。その様子を見たマルタは手伝わないマリヤに腹を立て、イエス様にこう言って不満をぶつけました。
「イエス様。私だけがこんなに働いているのに、何ともお思いにならないのですか。手伝いをするように妹におっしゃってください。」(ルカ10・40)
みなさん。普通は家にお客様を迎えたとき、こんなことは言いませんね。でも、この時、マルタは自分が思っていることをイエス様に率直に言うことができています。イエス様と彼女が何でも話せる間柄だったと考えられます。少なくとも、イエス様のことをよく知らないという関係性ではなかったといえます。
妹のマリヤについても、ヨハネの福音書12章に書いてあります。彼女はイエス様に高価なナルドの香油を塗りました。イエス様のためなら高価な香油をささげることもいとわなかったのです。
また、マルコの福音書には、イエス様が十字架に架かるまでの最後の一週間、昼間はエルサレムの神殿でお話しになり、夜はベタニヤにもどって行かれたと書かれています。おそらく彼らの家に滞在されたのでしょう。
イエス様は、ある時、ご自分のことについて「狐には穴があり、空の鳥には巣があります。しかし、人の子(キリスト)には枕する所がありません。」(マタイ8・20)と言われました。
ヨハネの福音書1章には、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)と記されています。そんなイエス様にとって、ベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロの家は、数少ないほっとできる場所であり、安心して落ち着くことのできる場所だったのです。
2 ラザロの病
そんな彼ら家族に、ある時、辛い出来事が起こりました。弟のラザロが病気で危篤状態になったのです。この時、イエス様はユダヤ人たち、特に宗教指導者たちから「あいつは神を冒涜している」と考えられて、命を奪われそうになっていました。だから、イエス様はこの地方を少し離れ、ベタニヤから歩いて一日ほど離れた場所に滞在されていたのです。
マルタとマリヤは、ラザロが危篤状態になったので、すぐにイエス様のところに使いを送りこう伝えました。
「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(ヨハネ11・3)
ここで彼女たちは、ラザロのことを「あなたが愛しておられる者」と呼び、彼が病気であることを伝えています。「イエス様、あなたはラザロを愛してくださっています。ラザロの最善をなしてくださるお方です。早く来てください。」そんなイエス様に対する期待と願いが込められた訴えです。
実はここで、彼女たちが使っている「愛しておられる者」という言葉は、この後の11節でイエス様がラザロのことを「わたしたちの友ラザロ」と呼ばれたときの「友(フィロス)」と、同じ言葉から派生しています。「愛しておられる者」と「友」は同じ意味のことばなのです。
そして、この「友」は、この後、クリスチャン一人一人を表す表現として使われるようになったのです。ヨハネは福音書以外にも手紙を書いていますが、ヨハネ手紙第三の15節でこう書いています。
「平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。」(3ヨハネ15)
ここでヨハネは、自分の教会員と宛先の教会員同士を「友人」と呼び合っています。この「友人」が「愛しておられる者」と同じことばなのです。
つまり、「主が愛しておられる者」というのは、ラザロだけではなくて、この後のクリスチャンたち、そして、今、教会に集う一人一人、この福音書を読んでいる私たちに対しても語られていることばなのです。
皆さん。私たちはイエス様を信じています。みんな「イエス様が愛しておられる者」なのです。イエス様は私たちを愛してくださっています。私たちのことをご存じで最善を成してくださるお方です。だから、この時のマルタとマリヤのように、自分の問題を、悲しみを、正直に祈ることができます。「イエス様、あなたが愛しておられる私はこういう状態です」とイエス様に祈り求めることができるのです。
3 神の栄光のため
さて、マルタとマリヤからの知らせを聞いたイエス様は、次のようにおっしゃいました。
「この病気は死で終わるものでなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(ヨハネ11・4)
ここでイエス様は「このラザロの出来事によって神様の栄光があらわされる」と言われました。「神の栄光が現される」「神のわざがなされる」と、イエス様が同じように語られた出来事がヨハネ9章に書かれています。生まれつき目の見えない人を癒された奇蹟です。
あるとき、イエス様が道を通っておられると生まれつき目の見えない人がいました。彼を見た弟子たちはイエス様にこう言いました。
「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9・2)
酷い言い方ですね。当然、目の見えない人にも聞こえたと思います。しかし、これは当時のユダヤ人の普通の考え方でした。病気の原因は本人が犯した罪、もしくは、家族の罪が影響していると考えられていたのです。だから、弟子たちは「こうなったのは誰のせいですか」と、彼の過去に目をとめ原因を探したのです。
しかし、イエス様はこうおっしゃいました。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9・3)
つまり、イエス様は彼の過去ではなく、未来に目を向け、この人の上にこれから、神さまのみわざがなされると言ってくださったのです。そして、イエス様のことば通り、彼の目を癒して神様の栄光が現されたのです。
ラザロに対してもイエス様は同じだったのです。「この病は死で終わらない、このことを通して神様の栄光が現される」と言われ、この後、実際に死んでしまったラザロを生き返らせてくださり、イエス様のことばの通りに神の栄光が現されるのです。
私たちも自分の過去に縛られやすい存在ですね。何か困難がおこると「あれが問題だったのでは」「これが悪かったのでは」と、過去に目を向け原因を探ります。もちろん、反省することは大切ですが、必要以上に過去と現在を結びつけて、因果応報的に考え、過去に縛られてしまうことがあります。
しかし、イエス様は、決して「おまえの罪のせいだ。過去のあの出来事のせいだ、先祖のたたりだ。」などとは言われません。主を信じる私たちの上に「神のわざが現わされる」と語ってくださいます。イエス様は過去ではなく未来の希望を語り、神様の栄光のために、イエス様のみわざを、私たち一人一人の上に行ってくださるお方なのです。
4 イエス様の「時」
しかし、この時、イエス様はすぐには出発されませんでした。こう書いてあります。
イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。(ヨハネ11・5ー6)
皆さん。この箇所を読んで不思議だと思いませんか。「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」普通なら「だから、急いで出発した。」や「すぐにラザロのところに向かわれた。」と続くのではないでしょうか。でも、この時、イエス様は「なお二日とどまられた」のです。
イエス様がおられた場所からベタニヤまでは約一日の距離です。使いの者がマルタとマリヤのもとから出発してイエス様のもとに着くまでに一日。そこからイエス様が二日とどまられて三日。出発してベタニヤまで一日。合計で四日も経ってしまうのです。
もし、自分が待つ立場だったら、この四日間がどんなに長く感じることでしょう。「イエス様、愛しておられるなら、なぜもっと早く来てくださらないのでしょうか。」そう言いたくなります。この時、彼女たちはイエス様に「待たされた」のです。
私はこの「待たされた」という箇所を読んで思い出した人がいます。マルコ福音書5章のヤイロという人です。
彼にも病気で危篤の娘がいました。「イエス様に何とかして欲しい」と願ってイエス様のもとにやってきました。「イエス様、私の小さい娘が死にかけています。どうか来て下さい」とイエス様の前にひれ伏して願いました。
するとイエス様はすぐに家にきてくれることになりました。「これで安心だ」ヤイロはホッとしたでしょう。でも、その途中に予期せぬ事が起きます。突然、12年間、「長血」に苦しんでいた女性が現れて、イエス様に癒されるという出来事がおきたのです。
最初、癒された女性は誰にも分からないようにその場を去ろうとしました。でも、イエス様は立ち止まって、わざわざ彼女を近くに呼び寄せて話し始めたのです。ヤイロにしてみれば気が気ではありません。「イエス様、一分一秒でも早く娘のところに来て欲しいのです」そんな気持ちです。
しかも、その途中に家から使いの者がやって来て、なんと「お嬢さんはなくなりました。」と言うではありませんか。ヤイロは絶望に突き落とされました。
しかし、そんな彼にイエス様は、「恐れないでただ信じていいなさい」(マルコ5・36)、「わたしを信じなさい」と語られたのです。そして、語られたことばの通り、イエス様は亡くなった娘のところに行き、彼女をよみがえらせてくださったのです。絶望に突き落とされたヤイロをイエス様が引き上げてくださったのです。
ヤイロは「待たされ」ました。今来て欲しいという時にイエス様はきてくださいませんでした。しかし、ヤイロは、自分ではもうどうすることもできない状況に置かれた時、イエス様のみわざを体験したのです。
私たちにも、祈ってもすぐに問題が解決しないときがあります。自分が願う時や方法にあてはまらないと、「イエス様、何故ですか。どうしてすぐに答えてくださらないのですか。私を愛してくださっていないのですか。」そう考えてしまうことがあるかもしれません。
でも、この出来事から教えられる大切なことは、「主は愛してくださっている」だから、「待たされる」時があるということです。イエス様の「時」があるのです。
もちろん、祈ってすぐに答えが与えられるときもあります。でも、それだけでがイエス様の愛ではないのです。時には、主が「愛しているからこそ」待たされることがあるのです。矛盾しているようにとれるかもしれませんが、イエス様は私たちが「お手上げです。絶望です。もう見込みがありません。」という状態にまで、私たちを「待たされること」があるのです。
その上で、イエス様は大逆転してくださるお方なのです。イエス様は、私たちが失望することがあっても、けして失望で終わらせることがないお方だからです。聖書はそう約束しています。
そのことを教える大切な出来事として、イエス様は、この後ラザロを実際に死からよみがえらされてくださるのです。そして、イエス様のことばとみわざの確かさが、聖書に記録されて、今なお、世界中の人が励まされ、私たち一人一人も励ましをうけることできるのです。
旧約聖書ハバクク書2章3節に次のようなことばがあります。
「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2・3)
どんなに「時」が遅く感じても、私たちを愛してくださっている主の愛は変わりません。待たされることがあっても、主は最善のタイミングで最善のみわざを行ってくださいます。
5 ラザロのもとへ
イエス様はマルタとマリヤからの知らせを受けてから二日後、「もう一度ユダヤに行こう」(ヨハネ11・7)とラザロのもとに向かわれます。でも、弟子たちは、「たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」(ヨハネ11・8)といいました。「イエス様。もう少し様子をみましょう。わざわざ今、いかなくてもいいではないすか」と提案したのです。
しかし、イエス様は、「大丈夫、太陽が上っている昼間に歩けばつまずかないように、神様がいのちをあたえてくださっている間は、どんな迫害があっても大丈夫、心配しなくてもよい。」と答えられました。
そして、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」(ヨハネ11・11)「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(ヨハネ11・14ー15)そう言われてラザロのもとに向かわれたのです。
最終的にイエス様がベタニヤに到着されるのは、ラザロが死んで四日経ってからでした。つまり、彼が完全に死んでいることに疑問の余地がなくなります。それによってイエス様が死んだ人をよみがえらせることのできる方であることが、この後、より明確に示されることになったのです。
この続き、イエス様がラザロをよみがえらせてくださる出来事(11章後半)は、次回、ご一緒にみることにします。
最後に、皆さん。今日の箇所から受け取ることができる大切なメッセージを振り返りましょう。
(1)私たちはみんな「主が愛しておられる者」です。
「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とあるように、イエス様は私たちのことを愛し、私たちの最善を成してくださるお方です。だから、自分のありのままをイエス様に祈り、お伝えしましょう。今、抱えている問題を、苦しや悲しみを、願いをそのまま祈っていきましょう。イエス様は私たちの祈りを聞いてくださっています。また、祈ってもすぐに答えられないときがあるかもしれません。でも、大丈夫です。
(2)イエス様の時があるからです。
「イエスは・・・なお二日とどまられた」とあるように、私たちも「待たされる」ことがあります。しかし、主の愛は私たちが思うよりもずっとずっと大きいのです。たとえ失望することがあったとしても、けして失望に終わることはありません。「主よ、もうお手上げです。自分ではどうすることもできません。」そのような状況の中でも、主は、私たちに最善みわざをなしてくださいます。
「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2・3)
この聖書の約束を告白しつつ、「主に愛されている者」としてこの週も歩んで参りましょう。