城山キリスト教会説教
二〇二三年一一月一二日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一一章一七節〜四五節
 聖書人物シリーズ
   「ラザロ(後編)」
 
 17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
 38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
 45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(新改訳聖書第三版)
 
 聖書人物シリーズ、今日は、イエス様によって死からよみがえらされたラザロの後編です。前回から一ヶ月ほどあきましたので、これまでの流れを振り返ります。
 ラザロには、マルタとマリヤと言う姉妹がいました。彼らはエルサレムから3キロほどの場所にあるベタニヤという村に住んでいました。イエス様はエルサレムに来られた際には、よく彼らの家に滞在されました。とても親しい間柄だったのです。 ある時、ラザロが病気で危篤状態になりました。マルタとマリヤは、急いでイエス様のもとに遣いを送り、「あなたの愛する者が病気です。」と伝えました。マルタがラザロのことを「あなたの愛する者」と呼んでいることからも、彼らとイエス様との親しい関係だったことが分かりますね。また、「あなたの愛する者」という呼び方ですが、この後、キリスト教会の中で、イエス様を信じるクリスチャン、一人一人を指す表現として使われるようになりました。イエス様は、ラザロのことも、マルタもマリヤも愛しておられました。そして、同じように私たち一人一人も「愛する者」と呼んでくださいます。
 そして、この時、イエス様は、「ラザロが危篤」の知らせを聞いてから、すぐにその場所を出発されませんでした。なお「二日その場所にとどまられた」のです。「一刻も早く来て欲しい」というマルタとマリヤの思いを越えたイエス様のご計画、イエス様の「とき」があったのです。そこから、私たちはイエス様が私たち一人一人を愛してくださっていると同時に、私たちの考えるタイミングや思いを越えた、イエス様の「とき」に、最善を成してくださることを学びました。
 そして、今日は、いよいよイエス様がラザロのもとに到着し、彼をよみがえらせてくださった出来事です。さっそく、見ていきましょう。
 
1 ベタニヤに到着されたイエス様
 
 イエス様がベタニヤの村に到着された時、残念ながら「ラザロは死で墓に葬られて、四日もたっていた」(ヨハネ11・17)のです。
 当時のユダヤは、人が亡くなるとなるべくはやく墓に葬りました。ある文献によると、当時こういう考えがあったそうです。「死者の魂は三日、遺体の上を漂って元の体に戻ろうとする。でも、遺体が腐敗しはじめる四日目ごろからは、もう魂が体に戻ることをあきらめて去って行く。」つまり、ここでイエス様がベタニヤに到着されたときに、「四日もたっていた」ということは、当時のユダヤ人の理解では「もうラザロの魂は体にもどることがない」「完全に死んだのだ」と人々が思うタイミングだったということです。人間的に考えて100%望みがないという状況で、イエス様は到着されたのです。
 その時、「大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた」(ヨハネ11・19)のです。
 当時の葬儀では、一週間は嘆き悲しんで過ごしました。その後の一ヶ月も喪の期間が続きます。ラザロ、マルタ、マリヤを慕う大勢の人が集まって、ともに嘆き悲しみ、彼女たちを慰めていたのです。ベタニヤの村には彼らを大切に思う仲間が沢山いたということですね。
 皆さん。私たちにとっても、辛い時や悲しい時にそばにいてくれる存在は本当に慰めです。一緒に涙を流すことの出来る仲間が、そばにいるということは、悲しみの中にある人にとって大きな助けとなります。
 この時のマルタとマリヤの周りにもそのような仲間が大勢いました。そこへ、「イエス様がベタニヤに到着された」という知らせが入ってきました。マルタは大急ぎでイエス様のところに行きました。
 
2 マルタとマリヤの思い
 
 この時、マルタは色んな思いを抱えていたでしょう。
 「もっと早くイエス様に知らせればよかった。」
 「弟ラザロの為にもっと何か出来たのではないか。」
 そのような後悔の思いもあったかもしれません。そして、マルタは開口一番、イエス様こう言いました。
「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11・21)
 「イエス様、なぜ、もっと早くきてくださらなかったのですか。あなたがいて、神様に求めてくださったら、ラザロは死ななかったはずです。」
 もちろん、マルタはイエス様がラザロを大切にしてくださっていることも、最善を成してくださることも信じていました。でも、それは「ラザロの息がまだあるうちに、病気であっても生きているときにイエス様が来て下されば大丈夫」という考えでした。でも、「実際にラザロが死んでしまった今はイエス様が来て下さっても、どうすることもできない」そう思っていたようです。
 そんなマルタにイエス様はこう言われました
「あなたの兄弟はよみがえります。」(ヨハネ11・23)
 マルタはそれを聞いてすぐにこう言いました。
「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」(ヨハネ11・24)
 これは、当時多くのユダヤ人たちがもっていた理解です。いつか、やがてこの世の終わりの日がきたとき、死んだ者が復活するという信仰をマルタも持っていたようです。でもそれはいつかであって、今、イエス様が実際に死んだ人をよみがえらせる力を持っておられるとは理解していなかったのです。
 すると、イエス様はさらに続けて、こう言われました。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11・25ー26)
 でも、マルタはイエス様がおっしゃった意味を十分に理解できずに、「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」(ヨハネ11・25ー26)と答えました。
 イエス様は、今、現在のことを言われました。でも、マルタは、イエス様のことばが、今ではなく遠い将来に起こることのように感じていたようです。そして、家にいたマリヤを呼んで、イエス様のもとに連れてきました。妹のマリヤも、マルタと同じ反応でした。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」(ヨハネ11・32)
 マルタもマリヤも、「生きているときにイエス様が、おそばにいてくれたら大丈夫だ」というイエス様への信頼を持っていました。また、「いつか終わりの日によみがえる」ということも、「イエス様が神の子キリストである」ことも、漠然と信じていました。でも、今、自分が家族を失った悲しみと失望、その現実には結びつかなかったのです。
 でも、これは正直な反応ですよね。家族が亡くなって悲しみと失望の中で、いきなりイエス様が「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われても、「一体、イエス様は何をおっしゃっているのか」「なんで早くきてくださらなかったのですか」「生きているうちにきてくださらないと意味がないじゃないですか」と考えるのは自然な反応です。今、ラザロが今生きかえるなんて考えもできない、彼女たちの予想を遙かに超えたものだからです。
 イエス様はそんな彼女たちをけして責めてはおられません。彼女たちの正直な思いを受けとめてくださった上で、イエス様は語られたことばの通り、行動してくださるのです。
 
3 ラザロの墓へ
 
 イエス様がラザロの墓に向かおうとなさる時、マルタとマリヤのそばには涙を流している人々が大勢いました。それをご覧ったイエス様の様子がこう書かれています。
 
(1)「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(ヨハネ11・33)
 
 これは「身震いする、自分自身を震わせる」という激しい感情を表す言葉です。イエス様は激しく憤られましたが、何に対して霊の憤りを覚え心の動揺を感じられたのでしょうか。悲しんで泣いている人々にでしょうか。そんなことはありません。イエス様のことばの真意を理解することができないマルタとマリヤに対してでしょうか。それも違いますね。これまでのマルタ、マリヤ、イエス様とのやりとりから考えれば、そんなことはないのは明らかです。
 ここでのイエス様が覚えられた憤り、それは、人を悲しませ、失望に突き落とす「死」に対してです。「死」は人にはどうしようもできません。人は死に対して無力です。だから、私たちはみんな「死」を恐れますし、怖いから考えないようにします。イエス様は、人からすべてを奪い、恐れさせ悲しみに突き落とす「死」に対して憤られたのです。
 その姿から、イエス様が「救い主」として「死」の恐れから私たちを解放し、いのちを与えるために来てくださったことを知ることができます。
 
(2)「涙を流された」(ヨハネ11・35)
 
 死に対して憤られたイエス様は、悲しんでいる人とともに涙を流されました。イエス様は、泣く者と一緒に泣いてくださる方です。私たちの苦しみや弱さに同情できない方ではありません。私たちの悲しみをご存じで共に涙を流してくださいます。
 先ほど、いっしょに涙を流してくれる存在がどれほど大きいかと話しましたが、もしかしたら「私にはそんな人いない」と思われる人がいるかもしれません。でも、あなたがそう思ったとしても、イエス様がいてくださいます。だから、私たちは、悲しい時にはイエス様といっしょに思いっきりの涙を流したらいいのです。
 そして、素晴らしいことに、聖書には神様がその涙を拭ってくださるとも書いてあります。
 イザヤ書258節には、「神である主はすべての顔から涙をぬぐい」(イザヤ25・8)と書かれています。
 ヨハネの黙示録21章4節には、神ご自身が「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(黙示録21・4)と書かれています。素晴らしい慰めのことばです。
 ですから、私たちは、天の父なる神様の愛の中で、ともに涙を流してくださるイエス様の前で、私たちのうちに住んでくださる聖霊なる神様とともに、安心して泣いていいのです。
 
(3) 「ラザロよ。出て来なさい。」(ヨハネ11・43)
 
 そして、いよいよイエス様はラザロが安置されている墓の前に立たれました。墓をふさいでいる石をとりのけるようにお命じになり、神様に祈られ、そして、大声で叫ばれました。「ラザロよ。出て来なさい!」
 すると、どうでしょう。ラザロが「手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。」(ヨハネ11・44)と書いてあります。死後四日もたって、普通なら腐敗が始まっている、そんなラザロが埋葬されたままの姿でよみがえって墓から出て来たのです。素晴らしい奇蹟が起こりました。マルタとマリヤもびっくりして喜んだことでしょう。「イエス様がおっしゃった通りだ!」本当によみがえらせてくださった。そして、この出来事を目撃した大勢の人がイエス様を信じたのです。
 このラザロ復活の奇蹟を通して、イエス様がどのようなお方であるのかがはっきりと示されました。それは、イエス様が、「死に打ち勝つことの出来るお方、いのちを与えるお方」であるということです。イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11・25)と、語られたことばが真実であることがはっきりと示してくださったのです。
 そして、イエス様は、この後、いよいよ十字架に向かって進んでいかれます。ご自分のいのちをかけて、十字架につけられ、死から復活されることによって、イエス様を信じるすべての人が、やがて復活し、あたらしい命が与えられる、その約束が確かなものとされていくのです。今、私たちは、その約束の中に生かされています。
 
 皆さん。今日はラザロの復活の出来事を見ました。
 もちろん、今、私たちはラザロのように、死んですぐに生き返るわけではありません。この時、よみがえったラザロも、このあと永遠に生き続けたわけではありませんでした。この地上の死を経験しました。きっと、その時、ラザロの周りにいた人は、イエス様のことば「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」という、ことばを思い出して慰められたはずです。
 同じように、私たちもみんな、人生の終わりがきます。でも、イエス様を信じる者は、たとえこの肉体のいのちが終わっても、やがて復活し、天の御国に入れられ、神様と共にいきることができる、死で終わらない命があると聖書は約束しています。
 そして、この約束は、遠い将来のことだけではなく、今の毎日の生活に希望を与えるのです。
 私自身、死というものを考えたとき、正直、まだ漠然としています。(もちろん、明日どうなるかはわかりませんが)死は遠い先のように感じています。でも、今回「ラザロの復活の出来事」を読みながら、「そうか、イエス様が、死を解決してくださった。」「死は人には解決できない問題だから、その死をイエス様が解決してくださったなら、イエス様に解決できない問題はない」「私が日々抱えている身近な問題に、イエス様が解決を与えてくださる」「そういうイエス様と一緒に生きているのだ」そう考えると嬉しくなりました。
 私たちは、それぞれの人生の歩みの中で、「自分ではもう無理だ」「イエス様は、ここまで解決してくださるかも知れないけれども、ここからは無理だろう」そう思ってしまうこともあるかも知れません。でも、イエス様は、死を打ち破ることができるお方です。だから、このお方を信頼し生きるとき自分では真っ暗だと思っても、そこにイエス様の光が与えられるのです。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と語られたイエス様は、今も生きておられます。私たちの生活のただ中にいて、私たちの思いを越えた、イエス様の解決を、イエス様のときに、与えてくださるお方です。そのイエス様とともに生きる恵みを味わいながら、この一週間も歩んでいきましょう。