城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年九月一八日            関根弘興牧師
              第一サムエル一章一節〜一八節
 サムエル記連続説教1
   「ハンナの祈り」
 
 1 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。2 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。4 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。5 しかしハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。6 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」9 シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」12 ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。13 ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。(新改訳聖書第三版)
 
 今まで新約聖書を読んでいましたが、これからしばらく、旧約聖書のサムエル記から何回かに分けて説教をしていきます。
 
1 旧約聖書と新約聖書
 
 聖書は、旧約聖書と新約聖書からなっています。
 旧約聖書は、神様が天地万物を創造されたところから始まっています。最初の人アダムとエバは神様のもとで安心して生きていたのですが、自分が神のようになろうとする高慢な思いを持ち、神様に逆らい、結局、神様から離れて生きるようになりました。愛と真理といのちの源である神様との関係が損なわれてしまった結果、人は本来あるべき姿から大きくずれた生き方をするようになってしまったのです。ありのままの自分を愛せなくなり、自分を恥じるようになりました。また、お互いに批判し合い、憎しみを抱き、争うようになりました。人生の目的を見失い、行くべき道がわからなくなり、自分勝手で利己的で的外れな生き方をするようになったのです。聖書のいう「罪」とは、「ずれている状態」を意味しています。人は神様の支配の中でこそ本来の自由で自分らしい生き方ができるのに、神様から離れてしまったために、ずれた生き方をするようになり、罪と死の力に支配されて生きことになってしまったのです。
 そういう状態の人間を救うために神様は、救い主を送る計画を立ててくださいました。ただ、救い主を実際に送る前に、人々が救い主を受け入れることができるよう、準備させる必要がありました。その準備期間の出来事が旧約聖書に書かれているのです。
 旧約聖書には、次のような三つの大きな目的があります。
@神様から離れ、神様のことがよくわからなくなっている人々に、あらためて神様がどのような方であるかを教える。
A人々に、自分が神様から離れた的外れな罪の状態にあることを自覚させ、神様との関係を回復するためには救い主が必要であることをわからせる。
B救い主が来たとき、その方が神様から遣わされた本当の救い主であることがわかるように、救い主についての様々な手がかりを与える。
 神様は、この三つの目的を実行するために、まずアブラハムとその子孫であるイスラエル民族をお選びになりました。それは、彼らが特に優秀だったからではありません。むしろ、少数の、弱い、欠点の多い民族を選んで、祝福し、導き、育んでいく様子を具体的に見せることによって、他の民族にも、また後の時代の人々にも、神様のことを理解させるためだったのです。
 旧約聖書の記録を読むと、イスラエルの人々が私たちと同じ弱さや欠点を持った失敗の多い人々であったこと、そんな人間に対して神様がどれだけ大きな愛と忍耐をもって接してくださるかということ、また、神様が私たちのためにどんなに素晴らしいみわざを行ってくださるかということを知ることができるのですね。
 神様は、イスラエルの民に律法を与えて彼らと契約を結ばれました。「もしあなたがたがわたしの律法を守るなら、幸せに生きることができる」という契約です。律法の基本は何ですか。それは神を愛し、自分を愛するように隣人を愛するということです。もしこの愛を無視して生きていくなら、当然、幸せは遠ざかっていきますね。律法を与えられたイスラエルの人々は口々に「私たちは、律法を守ります」と誓いました。しかし、すぐに違反してしまいました。良いとわかっていてもできない、悪いと思っているのにやってしまうわけです。自らが、その行いによって、罪人、つまり、内側がずれた状態であることがわかるわけです。そして、その状態を自分の力ではどうすることもできないのですね。実は、神様が律法をお与えになったのは人々に自分が罪人であること、自分の力で神様の律法の基準に達することは不可能であることを自覚させ、救い主が必要であることを教えるためだったのです。
 そして、いよいよ神様は救い主イエスを遣わしてくださいました。それが新約聖書です。旧約聖書の古い契約では人は救われませんでした。でも「救い主イエスを信じれば救われる」という新しい契約によって、誰でも救われ、神様との正しい関係が回復され、新しい生き方を始める道が開かれたのですね。
 
2 旧約聖書のイスラエル民族の歴史
 
 さて、旧約聖書のイスラエル民族の歴史は、大きく三つに分けることができます。族長たちの時代、士師たちの時代、王たちの時代です。
 まずイスラエルの父祖アブラハムが神様を信じて約束の地カナンにやって来ました。そのアブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、ヤコブから十二人の息子が生まれました。このヤコブの時代に飢饉があったので、イスラエルの民はエジプトに移住しました。そのエジプトでの約四百年の間にイスラエルの民はおびただしく増えていきました。彼らに脅威を感じたエジプトの王は、イスラエルの民に過酷な労働を課すようになりました。そこで、イスラエルの民は、神様の助けを叫び求めました。すると、神様は、モーセを遣わし、奇跡的な方法で彼らをエジプトから脱出させてくださったのです。その後、イスラエルの民は、神様の守りと導きを受けながら荒野で約四十年間生活することになりました。そして、ついにカナンの地に入り、十二部族がそれぞれ割り当てられた場所に定住するようになったのです。そこまでのことが旧約聖書の最初の創世記からヨシュア記までに書かれています。
 その次が士師(さばきつかさ)の時代です。カナンの地に定住したイスラエルの民は、部族ごとにまとまってはいましたが、バラバラな状態でした。その約二百年間のことが士師記に記録されているのですが、一つのパターンが繰り返されているのを見ることができます。人々が神様に背を向けた生活を始める→敵国に攻撃や圧迫を受けて苦しくなる→神様に助けを叫び求める→神様が士師(さばきつかさ)を起こして敵に勝たせてくださる→しばらく平穏な時が続く→人々はまたすぐに神様に背を向けた生活を始める、という繰り返しです。喉元過ぎれば熱さ忘れるという言葉の通り、人々は調子がよくなるとすぐに神様を忘れて自分勝手な生き方を始め、困難が襲うと「神様、助けてください」と叫び始めるという繰り返しだったのです。神様は、そのたびに彼らの叫びに答えてさばきつかさを与えてくださいました。士師記には十二人の士師が登場します。中でもギデオンやサムソンは有名ですね。
 そして、最後のさばきつかさとして登場するのがサムエルです。今から約三千前のことです。サムエルは、さばきつかさであるとともに預言者でもあり、神様の命令によってイスラエルの最初の王サウルと次の王ダビデを選び、王に任命した人です。つまり、士師の時代と王の時代の橋渡しをした人だったのです。バラバラな十二部族が一つの王国となる歴史の分岐点で大きな役割を果たしたのですね。今日の箇所には、そのサムエルの誕生の契機となる出来事が書かれています。
 
3 エルカナの家族
 
 1節を見ると、サムエルの父エルカナの高祖父(曾祖父の父)は「エフライム人ツフ」とありますが、これはエフライム部族の人という意味ではありません。第一歴代誌6章27節を見ると、この家系は、レビ部族の中のケハテ族だったことがわかります。つまり、エフライム地方に住むレビ部族の家族だったわけです。
 エルカナには二人の妻がいました。ひとりは、ペニンナ(豊かな髪の女)もうひとりは、ハンナ(いつくしみ)という名の女性です。
 ところで、旧約聖書には、複数の妻を持つ人物が数多く登場します。それで、聖書は一夫多妻を認めているかと思ってしまう方もいますが、そうではありません。創世記2章24節に「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」とあるとおり、聖書は人が造られた最初から一夫一妻の原則を教えているのです。しかし、人は、そうした本来の姿を忘れてしまいました。自分の力を誇示するためたくさんの妻やそばめをもったり、周りの諸国があたまりまえのように一夫多妻であったため、何も考えず同じようにしてしまったりということがあったのです。聖書には一夫多妻を禁止する直接的な言葉は書かれていません。しかし、一夫多妻がもたらす家庭内の葛藤や悲劇が繰り返し記録されています。それによって、一夫多妻がいかに愚かなことであるかを示しているのです。
 「聖書が記録していること」と「聖書が認めていること」とは区別しなければならないというのが、聖書解釈の原則です。
聖書に書いてあるからといって、それが聖書が認める正しいことだというわけではないのです。特に、旧約聖書を読むときには、その原則を覚えておきましょう。
 さて、エルカナの家庭も一夫多妻だったために問題が起こっていました。夫に愛されているハンナに対して嫉妬と憎しみを抱いていたペニンナが、ハンナを苛立たせるような言動を繰り返していたのです。
 今日の箇所では、家族そろってシロに礼拝に行ったとありますね。この当時は、まだエルサレムに神殿はありませんでした。イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野を旅していた時、神様は「会見の天幕」と作るようお命じになりました。移動式の神殿のようなものです。この天幕の奥の中には、「契約の箱」が置かれました。この箱は、内側も外側も純金で覆われ、中には十戒が刻まれた二枚の石の板、荒野の旅の間ずっと神様が与えてくださったマナと呼ばれるパンが入った壺、そして、モーセの兄アロンの子孫が祭司として神様に選ばれたことを示すアロンの杖が納められていました。この会見の天幕と契約の箱は、神様が共にいてくださることを示し、神様の約束と戒め、養いと導きを象徴するものでした。当時は、それがシロに置かれていたので、人々は毎年、シロに行って礼拝と感謝のいけにえをささげていたのです。
 エルカナの家族も毎年、家族総出でシロにやってきました。そして、皆で食事をするのですが、ハンナは、子どもがいないことでペニンナから嫌がらせを受け、食事を取ることができずに泣いていたのです。
 夫のエルカナは「どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」どういうことかというと、「私がいるからいいじゃないか。十人の息子がいるよりも私がいたほうがいいだろう」と慰めたのですね。でもこうした言葉は、ハンナの痛みや悲しみを癒やすことはできませんでした。
 
4 ハンナの祈り
 
(1)祈りの姿
 
 しかし、ハンナは、ペニンナに仕返しや反撃はしませんでした。夫に八つ当たりすることもありませんでした。立ち上がって主の宮に行って祈ったのです。13節に「くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった」と書かれていますから、声に出さずに、でも、心を注ぎ出して、主の前で激しく泣きながら祈ったのです。私たちのすべてを理解することができるのは、神様だけです。私たちにはどうしようもない問題を解決することができるのも神様だけです。ハンナは、そのことをよく知っていたので、神様の前でありのままの思いをさらけ出しながら祈ったのですね。
 詩篇62篇8節に「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」、また 詩篇142篇2節に「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します」と書かれています。
 皆さん、祈りには、上手な祈りや下手な祈りなどというものはありません。言葉が途切れても大丈夫です。主は私たち自身も気づいていないような、言葉で言い表すこともできないような内側の思いや願いもすべて理解してくださる方だからです。
 だからこそ、私たちは誠実に祈ることが大切です。表面的に美辞麗句を並べるだけで心が伴っていないなら、その祈りは無意味になってしまいます。マタイ6章5節で、イエス様はこう言われましたね。「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」祈りが自分の信仰深さを見せつけるパフォーマンスになっているなら、それは虚しいということです。私たちの神様は、見せかけだけの祈りには興味がありません。心からの祈りに耳を傾けてくださるのです。
 
(2)祈りの内容
 
 ハンナはこう祈りました。「主よ。もし、あなたが私に男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
 「その子の頭に、かみそりを当てない」というのは、ナジル人の誓願と呼ばれるものです。神様に身をささげたしるしとして、髪を切らないのです。一定の期間だけナジル人の誓願を立てた場合は、その期間が過ぎると髪を剃りましたが、生まれつき神様にささげられた者として生涯髪を剃らない場合もありました。有名なのはサムソンですね。ハンナは「もし男の子が与えられたら、その子を主におささげすることを誓います。その証しとして、その子の髪は剃りません」と訴えたのです。
 
(3)エリの言葉
 
 長い間、くちびるだけ動かして祈っているハンナの姿を見て、祭司エリは、最初、ハンナが酔っているのだと思いました。しかし、悩みの中で祈っていたことを知ると、「安心していきなさい。神があなたの願ったその願いをかなえてくださるように」と言いました。多分、エリは、このような言葉を、祈りに来た人には誰にでも言っていたのではないかと思います。祭司として普通の言葉かけをしただけでした。しかし、ハンナは、その言葉を聞いて、確信を持つことができたのです。
 私は牧師をしていて不思議だと思うことがあります。それは、何千という言葉を使っても、その人の心に届かないこともあれば、いつも語っている「神様が助けてくださいますよ、神様が守ってくださいます。大丈夫ですよ」というようなひとことが、その人を勇気づけることがあるのです。そういう姿を私はこれまで何度も見てきました。お互いにかけ合う「神様の祝福がありますように。助けとささえがありますように」というひとことが、相手の心を慰め、励まし、力づけることがあるのですね。
(4)ハンナの確信
 
 ハンナは祈りの結果、確信と平安を得ることができました。18節には「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」と書かれていますね。以前とは違う心の状態を持つようになったのです。ハンナの置かれた状況がまったく変わっていなかったのにもかかわらずです。それは、ハンナが「主は男の子を授けてくださる」と確信したからでしょうか。
 私は、ハンナはもっと深い確信を得たのではないかと思うのです。それは、「主は私の心からの願いをご存じで、私に最善のことをしてくださる。だから、自分の願いどおりになってもならなくても、主に信頼していれば大丈夫だ」という確信です。
 イザヤ30章15節には「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と書かれています。祈りは、心の中の嵐を少しずつ静めていきます。私たちに落ち着きを回復させ、主に信頼することの大切さをあらためて気づかせてくれるのです。天地万物を創造した神様がおられるのだから、この神様に委ねて生きていけばいいのだという信仰が湧いてくるのです。
 ピリピ4章6節ー7節にこう書かれています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
 私たちは、自分の力ではどうしようもできないような状況に直面することがあります。そんな時こそ、自分だけでいろいろと思い煩うのではなく、主の前で心を注ぎだし、内側にある思いや願いを神様に知っていただきましょう。そうすれば、「もはや以前のようではなかった」と言うことのできるほどに、神様からの不思議な平安を得ることができるでしょう。そして、そういう経験を繰り返しながら、主に支えられて生きる幸いを味わい知る人生を送らせていただきましょう。