城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年一〇月二日            関根弘興牧師
              第一サムエル三章一節〜二〇節
 サムエル記連続説教2
   「しもべ聞きます」
 
1 少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。2 その日、エリは自分の所で寝ていた。──彼の目はかすんできて、見えなくなっていた──3 神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。4 そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります」と言って、5 エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ」と言った。7 サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。8 主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。11 主はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。12 その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。13 わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。14 だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」15 サムエルは朝まで眠り、それから主の宮のとびらをあけた。サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた。16 ところが、エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは、「はい。ここにおります」と答えた。17 エリは言った。「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」18 それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」19 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。20 こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。(新改訳聖書第三版)
             
 前回お話ししましたように、旧約聖書の中のイスラエル民族の歴史は、大きく三つに分けることができます。族長たちの時代、士師たちの時代、王たちの時代です。
 サムエルは、士師たちの時代の最後に登場し、王たちの時代への橋渡しをした預言者です。
 前回は、サムエルの母ハンナの祈りを見ましたね。ハンナは、不妊の女で、そのために心に憂いと悲しみを抱えていました。彼女は宮で心を注ぎ出して祈りました。そして、「もし男の子を授けてくださったら、その子を主におささげします」と祈ったのです。その祈りのあと、ハンナは平安を得ました。自分の願いが叶っても叶わなくても、すべてをご存じの主にお任せすれば大丈夫だという確信が与えられたのでしょう。
 主は、ハンナに男の子を与えてくださいました。ハンナはその子をサムエルと名付けました。そして、その子が乳離れすると、ハンナは、主に約束したとおり、シロの主の宮にいる祭司エリのもとに連れて行って、その子の生涯を主にささげたのです。サムエルは、祭司エリのもとで教育や訓練を受けることになりました。まるで全寮制の学校のようですね。
 
1 祭司エリと息子たち
 
 祭司エリは、当時、イスラエルの民の指導的な立場にいました。4章18節には「彼は、四十年間、イスラエルをさばいた」とあります。ただ、当時のイスラエルは、部族ごとにばらばらで、士師記の最後に「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」と書かれているような状態でした。ですから、祭司エリは、主の宮の責任者としての権威はあったでしょうが、国全体を強力に指導できるほどの力はなかったでしょう。
 このエリには二人の息子がいました。将来、エリの祭司の働きを引き継ぐ立場です。それは、イスラエルをさばく者、つまり、民の指導者として生きていくことを意味していました。  ところが、この二人の息子は、欲望のままスキャンダルまみれの生活をしていました。2章12節ー13節に「エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについてもそうであった」と書かれています。彼らは、主との正しい関係を持とうとせず、祭司の役割も責任も理解していなかったのです。そして、身勝手で不道徳な行為を繰り返していました。 たとえば、2章13節ー17節にこう書かれています。「だれかが、いけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを、大なべや、かまや、大がまや、なべに突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルに、このようにしていた。それどころか、人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、『祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです』と言うので、人が、『まず、脂肪をすっかり焼いて煙にし、好きなだけお取りなさい』と言うと、祭司の子は、『いや、いま渡さなければならない。でなければ、私は力ずくで取る』と言った。このように、子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。」
 神様は、律法の中で、ささげ物について厳密な規定を設けておられました。まず、ささげた動物の血や脂肪はいっさい食べてはならないと命じられています。血は、祭壇のまわりに注ぎかけ、脂肪は焼いて煙にして主にささげるのです。「血や脂肪を食べるものは、主の民から断ち切られる」と厳しく警告されています。また、祭司には、胸と右ももの肉が与えられるという規定もありました。残った肉は、ささげた人が自分の家族とともに主の前で感謝しながら食べるのです。
 ところが、エリの息子たちは、どの部位の肉でもかまわずに自分のものにしたり、血や脂肪のついた生の肉を要求したり、それを押しとどめようとする人から力ずくで奪ったりしていたのです。当時の人たちにとって、肉は何よりの贅沢品ですね。しかし、この二人は、主にささげるべき最上のものさえ自分たちのために取り上げてしまったのです。彼らは、主に仕える働きであるはずの祭司の務めを、自分の傲慢と貪欲のために利用したのです。
 そればかりではありません。2章22節を見ると、彼らは、なんと、会見の天幕の入り口に神殿娼婦を置いて淫らなことをしていました。当時の世界には、儀式の中に性的なものを取り入れる宗教がたくさんありました。土地の豊饒と結びつけて神殿娼婦を置いたのです。それは、神様が忌み嫌われることでした。しかし、エリの息子たちは、神様に逆らうことを行っていったのです。
 私は牧師の家庭で育ちました。祭司の子供みたいなものですよね。ですから、母からよく言われました。「弘興、おまえは祭司エリの息子のようになってはいけないよ。」しょっちゅう言われました。牧師の子供だからといって、みな従順なわけではありませんから、母は心配だったのでしょう。私の家は小遣いなどほとんどもらえませんでした。ただ、日曜日だけは、礼拝の献金をしなさいとお金を手渡されたのです。献金箱が回ってきたとき、握りしめた硬貨を手放すのが辛かったですね。エリの息子は肉を横取りしましたが、私も献金箱から少しだけいただけないかと思ったこともよくありました。ですから、この箇所を読むといつも母に言われたことを思い出すのですね。
 さて、父親の祭司エリは、この息子たちのことで心を痛めていました。民の間にも悪い噂が広まっていました。そこで、息子たちを戒め、2章25節でこう言っています。「人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」主に対して罪を犯すことの深刻さを教えようとしたのですね。しかし、「彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころであったからである」と書かれています。彼らの頑なな態度が、自らの滅びを招くことになったということです。彼らが、祭司としてまったく相応しくない生き方を続けているので、主は彼らを退けることになさったのです。
 今日の箇所の1節で「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」とありますね。これは、当時の人々の心の状態を暗示している言葉でもあります。祭司の息子だけでなく、多くの人々が神様を軽んじていました。神様のことばを聞こうとしませんでした。神様はいつも語りかけておられるのですが、人が心を頑なにして耳をふさいでしまっていたのです。
 そんな時代状況の中で、主のことばを聞き、それを人々に宣べ伝える預言者サムエルが登場したのです。
 
2 預言者サムエル
 
(1)サムエルの成長
 
 小さい頃から宮で育ったサムエルは、エリの息子たちの姿を見ていたと思います。しかし、サムエルは彼らのようにはなりませんでした。2章26節に「一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された」とあるように、礼拝に来る人たちからも信頼される者として成長していったのです。
 サムエルの母ハンナは、毎年礼拝にくるたびに、サムエルの体に合う上着を作って持って来ました。だんだん大きくなっていく上着を作りながら、ハンナは、サムエルの成長を喜んでいました。ハンナはサムエルに会うたびに、主が自分の祈りに応えてくださったこと、また、サムエルの生涯が主のものとしてささげられたことなどを話して聞かせたのではないでしょうか。また、サムエルはそのことをエリからも聞いていたかもしれません。それで、生涯をかけて主に仕えていく使命を自覚するようになっていたのかもしれませんね。
 3章1節に「少年サムエル」とありますが、この「少年」と訳される言葉は、赤ちゃんから二十代、三十代にまで使われる、かなり幅のある言葉だそうです。たぶん、このときのサムエルは、十二歳くらいだっただろうと考えられています。
 
(2)主の宮での生活
 
 さて、サムエルが過ごした主の宮には、契約の箱が安置されていました。前回お話ししましたとおり、この契約の箱の中には、十戒が書かれた二枚の石の板、荒野で神様が与えてくださったマナという食べ物が入ったつぼ、神様に選ばれた大祭司が誰であるかを示すアロンの杖が収められていました。その箱は、神様がともにおられ、養い、導いてくださることを象徴的に表すものでした。そして、その箱の安置されている主の宮は、神様が民と会ってくださる場所とされていました。サムエルは、小さい頃から宮で寝泊まりしていましたから、主の宮はサムエルにとって最も身近で安心な場所だったのですね。
 詩篇23篇6節には「私は、いつまでも、の家に住まいましょう」とあります。また 詩篇27篇4節には「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために」と書かれています。
 私たちにとって、「主の家に住む」とはどいうことでしょう。教会に寝泊まりすることですか、共同生活をすることですか、違いますね。主の家の中心は礼拝です。ですから、「いのちの日の限り、主の家に住む」というのは、生涯を礼拝をささげながら生きていくということなのです。
 サムエルが宮にいたときには契約の箱がありましたが、今は、礼拝の場に契約の箱はありませんね。しかし、契約の箱が象徴的に現していた神様の臨在、養い、導きを、御自身の身をもって現してくださる方がいます。それはイエス・キリストです。この方がいつも私たちとともにおられます。イエス様こそ、私たちを導く光であり、いのちのパンであり、また、大祭司として私たちのために神様のみまえでとりなしをしてくださる方です。私たちは、いつも礼拝を通して、そのイエス様の内にある豊かな恵みとまことを味わいつつ、生ける神様を賛美し、仰ぎ見ながら歩んでいくことができるのです。つまり、「主の家に住む」とは、イエス様に信頼し、イエス様と共に歩み、この方を礼拝し生きることだ、と言うこともできるのですね。
 
(3)主の語りかけ
 
 さて、ある夜、サムエルが契約の箱の安置されている主の宮で寝ていると、「サムエル、サムエル」と呼ぶ声が聞こえました。サムエルは、2エリに呼ばれたと思い、エリのもとに走って行きました。しかし、エリは「私は呼ばない。帰って、お休み」と言うのです。そして、同じことが三度繰り返されました。三度目にエリは、主がサムエルを呼んでおられることに気づきました。そこで、「今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい」と教えたのです。そして、また「サムエル、サムエル」という声が聞こえると、サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と答えました。
 主は、サムエルに何をお語りになったでしょうか。あなたなら、主から何を聞きたいですか。普通は、良いことを聞きたいですね。しかし、サムエルに語られたメッセージは、大変ショッキングな内容でした。自分がお世話になっている祭司エリとその子どもたちに厳しいさばきが下されるという内容だったのです。サムエルは、それを祭司エリに伝えることを恐れました。しかし、朝になったら、エリはきっと主が何をお語りになったか尋ねてくるでしょう。サムエルは困惑して顔がこわばっていたでしょうね。
 すると、エリはこう言いました。「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」エリは、サムエルの様子から、主がサムエルにお語りになった内容を薄々気づいていたのかも知れませんね。以前、2章では、名前は記されていませんが預言者の一人がエリのもとに来て、エリと息子たちに対する主の厳しいさばきの言葉を語りました。それでも、エリは、息子たちの悪行を止めさせることができませんでした。そんな自分や息子に対して神様が何を語られても、素直に受け入れようと考えていたのでしょう。
 それに、エリは、サムエルが主のことばを聞いて語る預言者に選ばれたことに気づいていました。預言者は、良いことでも悪いことでも神様から聞いた内容をそのまま人々に知らせなければなりません。忖度があってはならないのです。ですから、エリは、主のお語りになったことをすべて話すようにサムエルに言いました。そこで、サムエルは勇気を出してすべてを話しました。すると、エリは、「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」と答えたのです。
 時々お話ししているように、牧師だって間違いを犯すことはありますね。もし牧師が間違ったことを教えていたらどうしますか。また、牧師が自分勝手に公私を分けずに私利私欲に溺れた行動をしていたらどうしますか。牧師を戒めるのは、勇気がいるかもしれませんね。せっかくの忠告が受け入れられないこともあるかもしれません。しかし、もし聖書から外れたことを教えたり、姿があったら、サムエルのように勇気を持って語る必要がありますね。教会の中で大切なのは、それぞれが聖書から正しい主の声を聞いて、互いに戒め、励まし、主の喜ばれる道を進んでいこうとする意識を持つことなのです。
 
(4)しもべ聞きます
 
 神様は、サムエルに語ってくださいました。その時、大切なのは、「しもべ聞きます」という態度です。「主よ、お語りください」という心を持って礼拝に参加することは大切な基本姿勢です。私たちは、どちらかというと、「主よ、しっかり聞いてください。しもべ語りますから」というほうが多いかもしれませんね。もちろん、それが悪いわけではありません。前回見たとおり、ハンナは「主よ、私の願いを聞いてください」と心を注ぎだして祈りましたね。また、詩篇5篇1節-3節には「私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。主よ。朝明けに、私の声を聞いてください」という祈りが記されています。ですから、「しもべ聞きます」と「しもべ語ります」は、車の両輪のようなものです。私たちは聖書を通して主の言葉を聞き、主に心の思いを聞いていただくのです。
19節ー20節に「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った」と書かれていますね。
 サムエルは、祭司エリから祭司の仕事をいろいろ教わったことでしょう。神殿で儀式を執り行うこと、いけにえを献げること、礼拝に来た人たちに助言を与えること、契約の箱の番をすることなど、多くのことを学んだはずです。サムエルはレビ族の家系なので、宮に関するこのような仕事もしたと言われます。
 しかし、彼の一番の使命は預言者としての働きでした。預言者は、神様の言葉を預かって人々に語ります。ですから、「しもべ聞きます、お語りください」という姿勢がなければ、預言者の働きをすることはできません。「主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった」とあるように、サムエルの語った主のことばは、すべてその通りになりました。それで、人々はサムエルをまことの預言者であると認め、イスラエルの一番北の町ダンから一番南の町ベエル・シェバまで全国的に知られるようになったのです。
 私たちも「しもべ聞きます、お語りください」と祈りつつ、聖書を通して、礼拝を通して、永遠の恵みと真実に満ちた主からの言葉をしっかりと聞き、心に刻みながら歩んでいきましょう。