城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年一〇月一六日           関根弘興牧師
              第一サムエル七章一節〜一三節
 サムエル記連続説教3
   「エベン・エゼル」
 
 1 キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。2 その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。3 そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」4 そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。5 それで、サムエルは言った。「イスラエル人をみな、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために主に祈りましょう。」6 彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。「私たちは主に対して罪を犯しました。」こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。7 イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに攻め上った。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。8 そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」9 サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。10 サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。11 イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。12 そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。13 こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、入って来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。(新改訳聖書第三版)
             
 前回は、第一サムエル記3章を読みました。主の宮で仕えていた少年サムエルが初めて主の声を聞いて、預言者としての使命を与えられたという内容でした。サムエルを通して語られた預言がすべてその通りになったので、イスラエル中の人がサムエルを預言者として認めるようになったのです。
 その後、大事件が起こりました。ペリシテ人が攻め入ってきて、大切な契約の箱が奪われてしまったのです。その経緯が4章から今日の7章までに記録されています。ですから、今日の7章の内容に入る前に、まず、4章からどのようなことが起こったのかをかいつまんで見ていきましょう。
 
1 契約の箱が奪われる
 
 ペリシテ人は、もともとはギリシャの島々出身の海洋民族です。サムエルの時代には、パレスチナ地方南西部の海沿いの平原を自分たちの領土として支配していました。その領土には、アシュドデ、エクロン、アシュケロン、ガテ、ガザという五大都市があり、それぞれの領主が治めていました。彼らは統率のとれた攻撃的な民で、兵士としてよく訓練され、装備も整っていました。イスラエルの農民たちにとっては手に余る相手です。
 そのペリシテ人が、サムエルの時代に、丘陵地帯と平原との境にあるアフェクに陣を敷いて、イスラエルに攻め入ろうとしました。そこで、イスラエルの民は、多くは農民だったと思いますが、招集されてエベン・エゼルに陣を敷きました。しかし、初戦は完全に打ち負かされてしまったのです。
 イスラエルの長老たちは集まって対策会議を開きました。「どうして主は、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう、ペリシテ人たちの神々のほうが力があるということだろうか。そんなことはない。そうだ、シロにある主の宮から契約の箱をわれわれの陣営の真ん中に運び込めば、契約の箱がわれわれを敵から救ってくれる違いない。よし、運んでこよう」ということになったのです。契約の箱は、神様の命令によって作られたもので、神様の臨在や守りや導きを象徴するものでした。彼らは、それさえ持ってくれば、神様が力を現してくださるだろうと考えたわけですね。そこで、シロに人を送り、陣営に契約の箱を運び入れました。祭司エリの二人の息子、ホフニとピネハスも一緒でした。契約の箱が陣営に着くと、人々は大歓声をあげました。「これで大丈夫。契約の箱があるのだから、神様が勝利を与えてくださるに違いない」と考えたのです。その大歓声は、ペリシテ人たちの陣営にも届くほどでした。
 一方、その大歓声を聞いたペリシテ人は、どうだったでしょうか。4章6節ー11節にこう書かれています。「ペリシテ人は、その歓声を聞いて、『ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう』と言った。そして、主の箱が陣営に着いたと知ったとき、ペリシテ人は、『神が陣営に来た』と言って、恐れた。そして言った。『ああ、困ったことだ。今まで、こんなことはなかった。 ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれよう。これらの神々は、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ。 さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。さもないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。』 こうしてペリシテ人は戦ったので、イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分たちの天幕に逃げた。そのとき、非常に激しい疫病が起こり、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。神の箱は奪われ、エリのふたりの息子、ホフニとピネハスは死んだ。」
 皮肉なことですね。ペリシテ人たちは、契約の箱が運ばれたことを知ると、かえって奮い立ったというのです。彼らは、「だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれよう」と言っていますね。神様を「神々」と複数形で呼んでいますが、これは、威厳の複数形と呼ばれる用法で意味としては単数形です。彼らはイスラエルの民がエジプトを脱出したとき、神様がエジプトに大きな災害をもたらしたことを知っていました。そのことは、多くの民族に知れ渡っていたのです。その神様の力に対抗して自分たちが勝つためには死ぬ気で戦うしかない、負けたらイスラエルの奴隷になってしまう、と考えて奮い立ったわけです。
 その結果、イスラエルは打ち負かされ、皆、散り散りに逃げ去ってしまいました。それと同時に、非常に激しい疫病が起こり、イスラエルの歩兵三万人が倒れたと書かれています。それだけでなく、契約の箱まで奪われるという惨憺たる結果になってしまいました。また、祭司エリの二人の息子は死んでしまいました。そして、祭司エリは、イスラエルの惨敗と、二人の息子の死、そして、契約の箱が奪われたことを聞くと、衝撃を受け、座っていた席からあおむけに落ち、首を折って死んでしまったのです。
 
2 間違った解決方法
 
 さて、私たちは、この出来事から何を学ぶべきでしょうか。 イスラエルの民は、敵に負けそうになったときに、間違った解決方法に頼ってしまったということです。
 先日、あるテレビ番組に、御守りの鑑定士というのが出ていました。東南アジアのある国では、露天で御守りをいっぱい売っているのですが、そこに鑑定士がいて、「この御守りは本当に仏の魂が宿っているから効果があります」とお墨付きを与えて売っているのです。鑑定付き御守りなら御利益があるだろうと思って買う人がたくさんいるわけですね。
 イスラエルの民もそれと同じようなことをしました。神様の臨在を象徴する契約の箱さえ持ってくれば、神様が勝利を与えてくださると考えたのです。しかし、彼らが本当により頼まなければならなかったのは、神様御自身でした。神様の前で自分の姿勢を正し、神様とのまっすぐな関係を取り戻し、神様に信頼することが大切だったのです。しかし、イスラエルの民は、自分の姿を反省することもなく、自分と神様との関係に思いを向けることもせず、ただ契約の箱を持って来れば問題が解決するという安易な考え方をしていたのです。契約の箱を、まるで何でも願い事を聞いてくれる魔法のランプのように、自分勝手に利用しようとしたのですね。
 私たちも、時々、似たようなことをしていないでしょうか。信仰の中心は神様と自分との関係であるということを忘れて、ただ形式的に教会に通い献金や奉仕をしていれば大丈夫だと勘違いしてしまっていることがないでしょうか。
 信仰というのは、神様との個人的な応答です。神様に問いかけ、神様の声を聞くということの連続です。「主よ、聞いてください」と自分の思いを知っていただき、「主よ、お語りください」と主のみことばを聞くことによって、問題は徐々に解決されていくのです。
 イスラエルの民にとっても、契約の箱を持ってくるだけでは問題の解決にはなりません。その箱の前で、必要を祈り求め、主の守りを確信し、心を静めること、それが彼らに必要なことだったのです。しかし、彼らは、契約の箱を御守りのように利用しただけでした。
 また、祭司エリの二人の息子は、前回お話ししましたように自分の欲望のままに神様を冒涜する生き方をしていました。二人は、契約の箱と共に陣営にやってきましたが、本来なら、契約の箱を運ぼうという提案が長老たちから出されたとき、それは愚かなことだといさめる立場だったはずです。しかし、彼らは、いさめるどころか、もしこれがうまくいけば自分たちが称賛されるだろうとでも思っていたのでしょう。意気揚々と陣営にやって来たのかもしれません。しかし、以前から、神様が告げておられたさばきがここで実現しました。彼らも自分の傲慢や欲望のために、自らに悲惨な結末を招いてしまったのです。
 
3 契約の箱が返される
 
 ペリシテ人たちは、イスラエルから奪った契約の箱をアシュドデに運び、彼らが礼拝するダゴンの宮のダゴンの像のかたわらに安置しました。すると、不思議なことが起こりました。翌朝、ダゴンの像が主の箱の前にうつぶせに倒れていたのです。彼らは像をもとに戻しましたが、その翌日の朝、今度は、ダゴンの像の胴体だけが主の箱の前にうつぶせに倒れていて、頭と両腕は切り離されて敷居のところにありました。それだけでなく、アシュドデ地域に腫物のできる伝染病が大流行し始めたのです。多くの死者も出たようです。アシュドデの人々は恐れ、「契約の箱がこの災いをもたらしたのだ」と考えて、契約の箱をガテという町に移しました。すると、今度はガテの町で同じような伝染病が広がり、大恐慌が起こりました。そこで、ガテの人々は、エクロンの町に契約の箱を送りました。しかし、エクロンの人々は、契約の箱が着くと「私たちのところに神の箱を送って、私たちを殺すのか」と激しく反発したのです。
 そこで、ペリシテ人の五人の領主たちが集まって、「イスラエルに神の箱を送り返そう」と決議しました。ただ、送り返す方法を思案している間、主の箱は七ヶ月もペリシテ人の野に置かれていました。
 彼らは、自分の国の祭司たちや占い師たちの助言に従って、五つの町のために五つの金のねずみを作り、契約の箱に添えて送り返すことにしました。ペリシテの町で発生した腫物のできる伝染病は、ねずみが原因だったのでしょう。古代においては、病気の原因となったものを作って献げることによって癒やしを祈ることがあったそうです。彼らは新しい車を仕立て、それに契約の箱を載せ、金のねずみの像を鞍袋に入れてかたわらに置き、二頭の雌牛に引かせて行くがままに任せました。すると、雌牛たちは、イスラエルの領地であるベテ・シェメシュへの道をまっすぐに進んでいったのです。ベテ・シェメシュの人々は、契約の箱が戻ってきたのを見て喜びました。車が大きな石のそばに止まったので、その石の上に契約の箱と金の像が入っている鞍袋を置き、車の木を割ってたきぎにして、全焼のいけにえをささげて主を礼拝したのです。
 しかし、そこまでは良かったのですが、好奇心を抑えきれず、契約の箱の中を見た人たちがいました。その結果、五万七十人が打たれたと書かれています。神様は愛なる方ですが、完全に聖なる方でもあります。罪があるままの人が聖なる神様に近づくことはできない、神様に近づくためには罪が完全に購われなければならないということが、ここでもはっきりと示されたのです。そこで、今日の箇所の最初に書かれているとおり、契約の箱は、しかるべき場所に移して適切に守られなければならないということで、キルヤテ・エアリムのアビナダブの家に運ばれ、その子エルアザルが主の箱を守ることになりました。そして、二十年が立ちました。
 
4 サムエルの説教
 
 サムエルは、この二十年間、預言者として語り続け、民を指導しながら、どんな思いで過ごしていたでしょうか。いくら語っても耳を傾けない民に怒りを覚えたこともあったでしょう。時には、失望し、絶望したこともあったかもしれません。
 しかし、神様は、この期間にイスラエルの人々の心を少しずつ整えていってくださいました。彼らはいろいろなことを学びました。契約の箱がありさえすればいいという信仰の姿が間違っていること、主を軽く見て自分のために利用しようとすることがどんなに愚かであるかということ、主は敵も味方も関係なく御自分が聖であることを示し、力を現されることなどを学んだことでしょう。また、自分たちに降りかかった様々な災いの原因が実は自分たちの信仰の姿の中にあったことをようやく理解し始めたのです。その結果、2節にあるように「イスラエルの全家は主を慕い求め」るようになったのです。そういう彼らに、サムエルは3節でこう語りました。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」
 
(1)心を尽くして主に帰れ
 
 「悔い改め」という言葉がありますね。ギリシャ語でメタノイアといいますが「向きを変える」という意味です。自分の思考や価値観を百八十度変えなさい、「神様に背を向けた状態」から「神様に向いた状態」に向きを変えなさいということです。
 イスラエルの民は、心から神様に向き合おうとせず、表面的な信仰生活を送っていました。そして、契約の箱がありさえすれば、守られると思っていました。しかし、サムエルは、「あなたがたの心は神様から離れていた。しかし、今、向きを変えて神様に立ち帰るなら、神様が救ってくださる」と語ったのです。私たちにとって大切なのは、神様の方を向き、神様のみもとにあることを覚えて生きることです。もし自分が違う方向を向いているのに気づいたら、神様の方に向きを変えればいいのです。神様は立ち帰る者を喜んで受け入れてくださる方なのですから。
 
(2)あなたがたの間から外国の神々を取り除け
 
 当時、人気の神々がありました。その一つは、バアル神です。農耕の神で男性神です。男の神がいるということは、女の神もいます。それがアシュタロテです。豊饒の女神、生み出す力の象徴です。アシュタロテには二人の息子がいて、その一人はポソスという名で性的欲望を表わし、もう一人はエロスという名で性的愛情を表わしていました。もちろん、人が考え出した神々ですが、この神々を礼拝する宮では、非常にいかがわしい性的な祭儀が行われていました。イスラエルでもその影響を受けて、こういう神々を拝んだり、淫らなことをしたりする人々が少なからずいたのです。祭司エリの息子たちも主の宮の入り口で神殿娼婦を仕えさせていたとありましたね。
 しかし、聖書は偶像を取り除かなければならないと厳しく教えています。それは、ただ作った像を取り除くという意味ではありません。私たちの心の中には、まことの神様以外のものがいつのまにか神様のようになってしまい、それに頼ろうとすることがあります。いろいろな神々や占いだけでなく、自分自身の力や特定の人や物、また、何かの思想や理論に頼って、それをまことの神様以上のものにしてしまうことがあるのです。つまり、神様以上のものを崇め礼拝するようなことがあるなら、それは偶像であり、取り除く必要があるというのです。
 なぜなら、人は皆、何かに支配されて生きている存在だからです。「私は何にも支配されない。私は自分の力だけで生きていく」と考える人は、そういう考え方に支配されています。「頼れるのはお金だけだ」と考える人はその考えに支配されています。自分を神とするなら、自分の限界を超えることができません。もし大きな岩を神と思うなら、あなたはその岩以上にはなれません。私たちは自分を支配しているもの以上にはなれないからです。人は何に支配されるかで生き方が決まってしまうのです。私たちを造り、私たちの最善を願う、愛と恵みに満ちた神様の支配の中で生きることこそ、人として最も自由で幸いな本来の生き方なのですね。
 
(3)心を主に向け、主にのみ仕えよ
 
 「主にのみ仕えよ」というのは、他のことはどうでもいい、人の言うことなど聞かなくてもいい、という意味ではありません。神として礼拝をささげる対象は、まことの神様だけにしなければならないということです。心から神様を礼拝していくこと、それが心を主に向け、主にのみ仕える基本姿勢です。そして、神様は、「神を愛し、自分と同じように隣人を愛しなさい」と言われました。その命令に従って生きていこうとすることが、主に仕えることになるのです。
 
5 エベン・エゼル
 
 サムエルの説教を聞いた人々は、ミツパに集まり、断食して悔い改めの祈りをしました。それを聞いたペリシテ人たちが攻めてきましたが、イスラエルの民は恐れながらも、主に目を向け、主の救いを期待しました。サムエルに主の救いを祈り求めるよう頼んだのです。サムエルは、全焼のいけにえをささげてイスラエルのために主に叫び祈りました。全焼のいけにえは、「神様、私はあなたにすべてをおささげし、お任せします」という信仰の表明です。すると、主がペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱してくださったので、イスラエル人はペリシテ人を打ち負かすことができたのです。
 サムエルは、この戦いの記念に一つの石を置き、それに、エベン・エゼルという名を付けました。「ここまで主が私たちを助けてくださった」という意味です。そこは、二十年前、ペリシテ人に敗北して契約の箱が奪われてしまった場所でした。しかし、今は、主の助けを受けてここまで勝利することができたと言われる場所になったのです。二十年間、サムエルもイスラエルの民も様々な苦しい経験を味わってきたことでしょう。しかし、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言うことができました。
 皆さんは、自分の人生を振り返って、今、記念の塚を建てるとしたら、何と名付けますか。「よくもまあ、ここまで懲らしめてくださいました」ですか。サムエルのように「ここまで主が私を助けてくださった=エベン・エゼル」と名付けることができたら感謝ですね。今週も、いっさいの思い煩いを主に委ね、「主よ、あなたとともに歩める人生を感謝します」と告白しながら進んでいくことにしましょう。