城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年一〇月二三日           関根弘興牧師
              第一サムエル八章一節〜二二節
 サムエル記連続説教4
   「我らの上に王を」
 
 1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。2 長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバで、さばきつかさであった。3 この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。9 今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」10 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。11 そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」21 サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。22 主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい」と言った。(新改訳聖書第三版)
             
 まず、前回の内容を振り返ってみましょう。
 好戦的なペリシテ人がイスラエルに攻め込んできて、イスラエルは窮地に陥りました。そこで、イスラエルの長老たちは、主の宮にある「契約の箱」を陣営に持ってくることにしました。神様の臨在の象徴である契約の箱さえ持ってくれば、きっと神様が勝利を与えてくださるに違いないと考えたのです。箱が到着すると、イスラエル陣営に大歓声が起こりました。しかし、その大歓声を聞いたペリシテ人たちが逆に奮い立って必死で戦ったので、イスラエルは大敗北を喫し、契約の箱はペリシテ人に奪われてしまったのです。その上、疫病が発生して多くのイスラエル人が倒れ、箱に付き添って陣営に来ていた祭司エリの息子たちも死に、主の宮を守っていた祭司エリもショックで死んでしまうという悲惨な結果になりました。イスラエルの民は、自分の心の状態を反省することもなく、神様に真剣に向き合うこともなく、ただ契約の箱を自分勝手に利用しようとしたために、このような結果を招いてしまったのです。
 一方、ぺリシテ人に奪われた契約の箱は、どうなったでしょうか。契約の箱が置かれたペリシテ人の町に疫病が大流行して多くの死者が出ました。契約の箱を別の町に移すと、そこでも同じ災いがおこりました。そこで、ペリシテ人は恐れて、契約の箱をイスラエルに送り返したのです。契約の箱は、キルヤテ・エアリムのアビナタブの家に安置されることになりました。
 それから二十年後、サムエルは民に単純明快な説教をしました。「主に立ち帰りなさい」「主以外の神々を取り除きなさい」「主にのみ仕えなさい」と説教したのです。「主に背を向ける生き方から主を見上げる生き方に方向転換しなさい。まことの神様だけに人生の支配をお任せし、礼拝しながら生きていきなさい」ということです。民は、その言葉を素直に聞き、悔い改め、礼拝をささげました。そこに、ペリシテ人が再び攻めてきたのですが、今度は民が神様御自身に救いを祈り求めたので、神様が雷鳴を送ってペリシテ人を混乱させ、イスラエルを勝利させてくださったのです。サムエルは、この時、一つの石を置いて、エベン・エゼル(ここまで主が私たちを助けてくださった)と名付けました。以前の敗北の地が、今では「ここまで主が私たちを助けてくださった」と告白できる場所となったというわけですね。
 
1 王を求める民
 
 サムエルは、立派な預言者であり指導者でした。しかし、サムエルが年老いてくると、長老たちはサムエルがいなくなった後のことを心配し始めました。
 サムエルには二人の息子がいました。長男の名はヨエル。これは「ヤーウエは神」であるという意味です。つまり天地万物を造られた主は神である、という名前です。次男の名はアビヤ。これは、「私の父はヤーウエ」という意味です。どちらも素晴らしい名前です。サムエルは、息子たちが「神様は主であり、わたしの父です」と告白しながら生きて欲しいと願って名付けたのでしょう。ところが、息子たちは、その名前とは裏腹な行動をしていました。利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていたというのです。立派なお父さんの息子がどうしてこんなふうになってしまったのだろうと思ってしまいますね。
 長老たちは、この状況を見てサムエルに言いました。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」この訴えは、当然のように思われますね。当時のイスラエルは、各部族の長老たちが集まっていろいろな物事に対処してきました。しかし、各部族が統一のとれた行動を取ることはほとんどありませんでした。時々、神様に選ばれた士師や預言者が現れましたが、国全体を強力に指導し、治めるほどの力があったわけではありません。ですから、国としてのイスラエルはとても弱く、周りの国に簡単に占領されてしまってもおかしくなかったのです。占領されないのが不思議なほどでした。ですから、彼らが自分たちの歴史から学べる唯一のことは、「こんなに弱いバラバラな私たちがここまで来られたのは、神様が支えてくださっているからだ。神様を信頼し生きていけば、守られる」ということでした。これは、前回の箇所でも教えられていたことでしたね。イスラエル民が誇るべきことは、「私たちは弱いけれど、この弱さを覆い支えてくださる主がいてくださるから、私たちはここまで来られた」ということなわけです。
 これは、私たちの信仰生活にも当てはめることができます。第二コリント12章9節にこう書かれています。「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」つまり、「私たちは弱いけれど、その弱さを覆い支えてくださる主がいてくださるから大丈夫だ」という信頼を土台にして生きること、それが信仰なのです。
 そのことを頭に入れて今日の箇所を考えてみてください。長老たちは、サムエルに「周りの国と同じように王様が欲しい」と要求しました。王様を求めることは自体は悪いことではありません。当時の状況を考えるなら、その要求も理解できますね。しかし、サムエルはその要求の裏にあるものに気づきました。もちろん、神様も彼らの発想の根底にあるものを見抜いておられました。7節でサムエルにこう言っておられますね。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」王様を立てるのが悪いのではありません。神様を退ける行為として王様を要求したことが間違いなのです。
 本来なら、イスラエルの王は神様御自身です。天地を造られた神様に信頼し従っているのが一番安心安全ですね。ところが、まわりを見ると、すきあらばイスラエルに攻め入ろうとしている国々があります。その国々は王のもとに統制された軍隊を持っていて、とても強そうです。また、これまでは預言者サムエルの強力な指導のもとでイスラエルの国の安全が保たれてきましたが、サムエルがいなくなったらどうなるのだろうという不安も生じてきました。でも、本当は、サムエルがいなくなっても、神様が何らかの方法で必ずイスラエルを守ってくださると信頼し続けていけばいいはずですね。しかし、長老たちは、神様に信頼しているだけでは不十分ではないかと考え始めてしまいました。神様の支配のもとで生きるよりも、他の国と同じように目に見える王に支配されることを願ったのです。王様が与えられれば、自分たちのために命をかけて戦い守ってくれるはずだと、まるで夢を見ているかのような理想だけを膨らませていったのです。
 前回は「契約の箱」を持ってくれさえすれば勝利が得られると考えて大敗北を喫しましたね。その結果、彼らは悔い改めて新しい出発をしたのですが、今度は、「これは駄目だ。やっぱり王様を立てなければいけない。そして、立派な王様を立てればすべてがうまくいくはずだ」と考えたわけです。彼らの発想は、残念ながら、前回とほとんど変わっていないのですね。目に見えない神様よりも、目に見えるものに頼りたくなってしまうのです。そういう傾向は私たちにもありますね。
 サムエルは王を求める人々に警告しました。「もし王を持つと、あなたがたは王の奴隷になる。そして、王に苦しめられたときにあなたがたが神様に助けを求めても、神様は応えてくださらない」と。しかし、人々はその言葉に聞く耳をもたず、「私たちには王が必要だ」と言い張ったのです。
 
2 王の任命
 
 神様は、人を強制的に支配する方ではありません。人が心から喜んで自発的に神様を選び取って従うことを願っておられます。そのためには、人が自分で経験し気づくようにさせることが大切ですね。ですから、神様は、王を求める民の願いを叶えることになさいました。
 
 そこで、神様は、サムエルに命じて初代の王を任命させました。それがサウルという人物です。サウルが王に選ばれ、即位するまでの経緯が9章ー11章に書かれています。
 サウルは、ベニヤミン部族のキシュという人の息子です。9章2節にこう書かれています。「キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」あるとき、父の雌ろばがいなくなったので、サウルはしもべと一緒に捜しに出かけました。あちこち捜し回っても見つからないので帰ろうとしたとき、しもべが言いました。「この町にはサムエルがいます。この人に聞けばどこを捜せばいいか教えてくれるでしょう。」そこで、二人は、サムエルのもとに向かいました。
 一方のサムエルですが、その前日、神様は、サムエルにこう告げておられました。「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。」そして、サウルがサムエルのもとにやってきたとき、神様はサムエルに「ここに私が話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ」と言われたのです。
 サウルは、ただ雌ろばのことを聞きたいと思ってサムエルに会いに行っただけです。ところが、その初対面のサムエルから驚くような言葉を聞いたのです。「三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」(9章20節)なんだか回りくどい言い方ですが、「あなたがイスラエルが望んでいる王様となるべき人です」と言ったのです。サウルは、驚いて言いました。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」
 しかし、サムエルは、サウルを宴会に招き、上座に着かせ、上等の肉を振る舞い、一泊させました。そして、次の日の早朝、ふたりきりのところで、サムエルは、サウロの頭に油を注ぎ、「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油を注がれたではありませんか」と宣言しました。聖書では、祭司、預言者、王を任命するときに特別に調合した油が注がれました。それは、神様によって任命されたということを示しています。そして、サムエルは、これからサウロが王に選ばれたことを示すいくつかのしるしとなる出来事が起こると預言しました。また、王になってからすべきことの指示も与えました。
 サウルが家に帰る途中、サムエルが預言した出来事がすべてその通りに起こりました。また、サウルの上に主の霊が下って、サウルの心が新しく変えられたのです。サウルに王に選ばれたという自覚が生まれていったのですね。
 ただ、これでサウルがすぐに王位に就いたわけではありません。次にサムエルが行ったのは、イスラエルの人々を集めて、正式に王を選ぶ儀式を行うことでした。イスラエルの人々にも、サウルが本当に神様に選ばれた王であることを示さなければなりません。そこで、サムエルは、各部族にくじをひかせました。するとべ二ヤミン部族が選ばれました。次にベニヤミン部族の士族ごとにくじをひくとマテリの士族が選ばれ、そして、その中からキシュの子サウルが選ばれたのです。
 サムエルは、サウルを民の真ん中に立たせて言いました。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」民はみな「王さま。ばんざい」と喜び叫びました。また、サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めました
 さて、儀式が終わって民が解散すると、サウルは、ギブアの自分の家へ帰っていきました。皆の前で王に選ばれはしましたが、まだ、正式に王位に就いたわけではありません。しかし、「神に心を動かされた勇者は、彼について行った」と書かれています。最初のけらいが集まったわけですね。しかし、サウルを王と認めない人々もいました。こんな弱小部族の男がイスラエルを救えるはずがない、というのです。サウルが本当に王にふさわしいと皆に認められるためには、実績で証明する必要があったわけですね。
 しばらくすると、そのチャンスがやってきました。アモン人がイスラエルの町ヤベシュ・ギルアデを包囲し、厳しい条件を出して降伏を迫ってきたのです。それを聞いたサウルは、奮い立って国中に檄を飛ばし、兵を集めました。そして、アモン人を徹底的に撃破したのです。その結果、イスラエルの民は、サウルを王として認めるようになりました。そこで、サムエルは、皆をギルガルに集め、王権を創設する宣言をしました。サウルは、ここで正式に王位に就いたのです。
 
3 覚えておくべきこと
 
 さて、今日の記事から、私たちは大切なことを三つ覚えておきましょう。
 
(1)神様を退けることがあってはならない
 
 哀歌3章22節にこう書かれています。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」イスラエルの民は、いままでずっと神様の恵みによって守られ、導かれてきました。弱い自分たちが神様によって支えられていることを忘れないことが、彼らにとって最も大切なことでした。しかし、彼らは、なんどもそれを忘れて、目に見えるものに頼ろうとする失敗を繰り返してきました。神様の恵みはいつも十分です。しかし、それを神様の代わりに別の何か頼るものが必要だと思ってしまうことは、神様を退けることになるわけですね。今日の箇所はそのことを教えています。私たちの弱さを覆ってくださる主がいてくださることを信頼し、神様の恵みは決して不足することはない、ということを、私たちもいつも繰り返し思い起こしていきましょう。
 
(2)神様の不思議な導きがある
 
 サウルがサムエルの所にやってきたのは、たまたま父親のろばがいなくなったからでした。ろばを捜しているときにちょうどサムエルのいる町の近くを通ったので、しもべの思いつきでサムエルを訪ねることになったのです。一方、サムエルは、ちょうどその時、誰を王に選ぶべきか祈り求めていました。人間的に見たら、ただ偶然が重なり合っただけのように見えるでしょう。しかし、その背後には神様の不思議な導きがあったわけですね。皆さんも同じような経験をしたことがあるのではないでしょうか。「あの時、たまたま寄っただけなのに」「ちょうど車窓から看板が見えて」「用事で出かけていった先で思いもかけず」などということがよくありますね。偶然に見える出来事の中に神様の導きと備えがあるのです。主のなさることは時にかなって美しいのです。
 
(3)神様に従うことの大切さ
 
 サウルは自分勝手に王になったわけではありません。神様に従う預言者サムエルを通して選ばれたのです。神様に選ばれた王は、民を導くために何が大切なのかを神様に求め、従う心を持つことが大切です。神様が定めた王制は、王だけでなく、いつも王に神様の言葉を伝える預言者がいて成り立つ制度でした。つまり、預言者が王の絶対的な権力にブレーキをかける役割を担っていてこそ、健全に機能するのです。王が神様を無視して独裁的になり権力を乱用するのは、王制の本来の姿ではありません。本来の姿を失うと、人々に不自由や苦しみをもたらすことになるのです。聖書は昔からそのことを教えているのですね。
 これは、国だけでなく、教会にとっても大切なことです。どんな立派な牧師であろうが、指導者であろうが、まず、神様が何を願い、求めているのかを聖書からさぐり、それに聴き、従うことが大切なのです。
 
 今、私たちに目に見える王は必要ありません。イエス・キリストがおられるからです。イエス様こそ、私たちに神様の祝福と恵みをもたらしてくださる最高の王なる方です。私たちは、その王なるキリストのご支配を受け、愛され、守られている幸いを告白しながら歩んで行きましょう。