城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年一一月六日            関根弘興牧師
       第一サムエル一〇章八節、一三章八節〜一四節
 サムエル記連続説教5
   「サウルの失敗 1」
 
 10:8「あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私がなすべきことを教えます。」
 
 13:8 サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。9 そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。10 ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。11 サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。12 今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」13 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。14 今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、イスラエルに初代の王が誕生した経緯を見ましたね。イスラエルの民は、いままで頼りにしてきた預言者サムエルが年老いてくると、将来に不安を感じるようになりました。それで、自分たちも回りの国々と同じように王が欲しいと願ったのです。
 当時のイスラエルは、各部族の長老たちが集まっていろいろな物事に対処していましたが、各部族が統一のとれた行動を取ることはほとんどありませんでした。時々、神様に選ばれた士師や預言者が現れましたが、国全体を統一して治めるほどの力があったわけではありません。ですから、国としてのイスラエルはとても弱く、周りの国に簡単に占領されてしまってもおかしくなかったのです。占領されないのが不思議なほどでした。ですから、前回学んだように、彼らが自分たちの歴史から学べる唯一のことは、「こんなに弱いバラバラな私たちがここまで来られたのは、神様が支えてくださったからだ」ということでした。しかし、彼らは、まことの王である神様を信頼するよりも、目に見える人間の王に頼りたいと願ったのです。その根底には、神様の約束や力を十分に信頼できないという不信感がありました。王を求めること自体は悪いことではありませんが、彼らの心には神様を退ける思いがあったのです。彼らは、「王様がいさえすれば安心だ」と思ったのですが、その反面、人間の王に支配されることによって起こる困難や苦しみについて考えようとしませんでした。人は、体験しなければわからないことが多いですね。そこで、神様は、民の願いを聞き入れて、サウルを王として選んでくださったのです。
 12章で、預言者サムエルは、イスラエルの民にこう語りました。Tサムエル12章-25節「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」
 つまり、サムエルは、「主はあなたがを見捨てることはない。だから、王様が与えられても、主を心から礼拝し、従っていきなさい。そして、主の偉大なみわざを忘れないようにしなさい」と厳しく戒めたのです。
 
1 ペリシテ人との戦い
 
 13章1節に「サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった」と書かれています。サウルは、三千人の部下を選び、二千人を自分の配下に、千人を息子のヨナタンの配下に置きました。
 何度も言いますが、当時のイスラエルは弱小国です。13章19節-20節には「イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。それでイスラエルはみな、鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた」と書かれています。イスラエルの国には武器を作る鍛冶屋がいなかったというのです。また、13章22節には「戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた」とあります。武器があるのは、サウルとヨナタンだけだったというのですから、なんとも頼りないではありませんか。そして、圧倒的な兵力と豊富な武器を持つペリシテ人に圧迫されている状態が続いていたのです。
 そんな時でした。サウルの息子ヨナタンが、イスラエルに駐屯していたペリシテ人の守備隊長を打ち殺してしまいました。このニュースはペリシテの地にまたたくまに広がり、「あの弱小国のイスラエルの兵士が、俺たちの隊長を打ち殺した。なんと生意気な、身の程を知らぬ奴らだ」ということになりました。そして、イスラエルに報復しようと、大軍がイスラエルに対してミクマスに陣を敷いたのです。13章5節に「戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった」とあります。
 一方のイスラエル軍はどうでしょうか。サウルは、国中に檄を飛ばして民をギルガルに集めました。しかし、みな震えながらサウルに従っていました。他の人々は、危険を逃れるために、洞穴や、奥まったところ、岩間、地下室、水ための中に隠れていました。「もう駄目だ。ヨナタンめ、とんでもないことをしてくれたな。これで俺たちも終わりだ」というような状況に置かれていたのです。どう考えても、ペリシテの大軍に太刀打ちできるとは思えません。絶体絶命の状況だったのです。
 
2 サウルの失敗
 
 これは、サウルにとって王としての真価が問われる正念場ですね。順調な時は、リーダーの真価はあまり問題になりません。逆境の時こそ、リーダーの真価が問われるのです。サウル王にとってこれは大きな試練の時でした。
 ギルガルに陣営を構えたサウルは、サムエルの到着を待っていました。出陣する前に、サムエルにいけにえをささげて主の助けを祈り求めてもらう必要があったからです。ペリシテの大軍に打ち勝つためには、神様の助けが絶対に必要でした。以前、ペリシテ人と戦ったときには、サムエルがいけにえをささげて主に祈り求めると、神様が雷鳴をとどろかせてペリシテ人を混乱させ、勝利を与えてくださいました。今回も、サムエルがいけにえをささげて主に祈り求めてくれさえすれば、同じように敵に打ち勝つことができるだろうと、サウルも、また、その場で震えおののいている民も期待していたはずです。
 ところで、以前、預言者サムエルは10章8節で、サウルに次のような神様の命令を伝えていました。「あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私がなすべきことを教えます。」つまり、「ギルガルでサムエルがいけにえをささげるためにやってくるまで七日間待たなければならない」というわけです。
 そこで、サウルは七日間待ちました。ペリシテ軍がいつ攻めてくるかもわからない状況です。味方はみな、震えおののいています。武器も兵力も足りず、このままでは滅ぼされてしまうかもしれないという不安が絶えず襲ってきます。そんな中で、七日間も待つのはどれほど辛いことでしょうか。
 それでも、我慢して待ち続けましたが、七日目になってもサムエルは現れません。招集されて集まってきた人々は、「サムエルが来れば大丈夫だ」とサウルに説得されて、なんとかその場にとどまっていたのでしょうが、約束の日になってもサムエルが現れないので、その場を離れ去っていこうとしました。サウルは焦りました。何とか民を引き止めなければなりません。そこで、思い切って、自分でいけにえをささげることにしたのです。
 ところが、いけにえをささげ終わったときに、サムエルがやってきました。サムエルが「あなたは、なんということをしたのか」と叱責すると、サウルはこう答えました。「ペリシテ人がいつ攻撃してくるかわからないし、民が離れ去っていこうとしていたので、早くいけにえをささげる必要がありました。それなのに、あなたがなかなか来ないので、私がささげたのです。」これは、ただ言い訳をしている感じですね。自分が神様の命令に逆らったことを心から悔いているようには見えません。サウルは、神様の約束を信じて最後の最後までサムエルを待つべきでした。そして、サムエルを通してなすべきことを教えられるべきだったのです。
 この危機的状況の中で取った行動と態度によって、つまり、神様の約束を信じ切れずに自分勝手に行動し、しかも、心から反省することもなかったことから、サウルには真のリーダーとしての資質がないことが明らかになってしまいました。
 私はこれまで何度も結婚式の司式をしましたが、初めて司式した結婚式は忘れることができません。箱根のホテルに依頼された結婚式でした。「小田原から箱根なら、一時間あれば大丈夫ですね」とホテルの人に言われ、私もそのつもりで、少し余裕をもって出発したのですが、当日は紅葉の季節の祝日で酷い渋滞でした。車がまったく動かないのです。ホテルへ連絡しようにも、当時は携帯やスマホがありません。そこで渋滞の列に車を残して近くの民家で電話を借りてホテルに連絡しました。それから、車を道路脇に置いて、聖書とガウンを抱えて走ったのです。箱根駅伝みたいですね。汗びっしょりになって、一時間ほど遅刻してしまいました。そうしたら、「ホテルの人が気をきかして司式をやってくれたのでもう結婚式は終わりました」とは言われませんでした。みんな心配そうな顔をして待っていてくれました。ちなみに、結婚式の参列者の中にも渋滞で遅刻したり参列できなかった人がたくさんいました。今日の箇所と私の遅刻とはまったく関係ありませんが、ホテルの人が心配しながらも待ってくれていたというのが大切ですね。
 
3 サウルの失敗から学ぶこと
 
(1)待つことの大切さ
 
 聖書は、待つことの大切さを繰り返し教えています。待つことは、主を信頼することにつながっているからです。待つことが困難な中で、それでも主を信頼して待つことができるかどうかが問われるのですね。
 私たちは、待つことが苦手です。自分が考えたタイムスケジュールどおりに物事が進まないと、焦ったり不安になったりすることが多いですね。しかし、神様が私たちのために用意してくださっているタイムスケジュールがあるのです。それは、最善の時に最善のことをしてくださるというタイムスケジュールですから、そのスケジュールにお任せするのが一番いいのですね。神様の時の中で生かされているという信頼が大切なのです。私たちが自分の思うとおりにことを進めようと勝手に焦っても、あまり良い結果は得られません。それどころか、かえって良くない結果になることも多いのです。
 私の大好きな聖書の言葉の中に、ハバクク2章3節があります。「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」という言葉です。聖書をわかりやすい言葉で訳したリビングバイブルでは「遅いように思えても、失望するな。必ず計画どおりになるのだ。忍耐して待て。ただの一日も、遅れることはない」と訳されています。「私たちが遅いと思っても、神様の目から見たら遅くない」というわけですね。そして、「それを待て。それは必ず来る」と約束されています。「必ず来ることを信頼して待て」というのです。
 また、ハバクク2章4節には「正しい人は、その信仰によって生きる」と書かれています。この「信仰」と訳されているのは、「真実」とも訳される言葉です。それは、私たちの側では、神様に対して真実であること、誠実に正直に神様を信頼して生きることです。人は、単に生物学的に生きるだけでは本当の人生を送ることはできません。信頼が必要なのです。では、なぜ私たちは神様に信頼できるのでしょうか。それは、神様が私たちに圧倒的な真実をもって接してくださり、神様のほうで私たちを信頼し、期待して、約束を与えてくださるからなのです。ですから、ハバククの言葉は「正しい人は、神様の真実によって生きる」という意味でもあるのですね。神様の真実があるからこそ、私たちは生きていくことができるのです。
 待つというのは、何もしないということではありません。神様への期待や信頼や希望を持って待つのです。神様のみわざを期待するとともに、今、自分が何をすべきかを祈り求めながら待つのです。また、「解決を神様の時に任せます。思い煩いや心配を神様にゆだねます」と告白しながら待つのです。そして、神様が人生のすべてを治めて導いてくださることを信頼し、感謝しながら待つのです。
 詩篇には「主を待ち望め」という言葉がたくさん出てきます。困難な中にいる自分自身や人々への励ましの言葉です。
 預言者イザヤも待ち望む事の大切さを繰り返し語っています。イザヤ40章31節「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ30章18節「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」
 焦り、不安、思い煩いは人生を消耗させていきます。しかし、主を待ち望むとき、新しい力を得ることができると約束されています。
 サウルは、大変困難な状況にありました。強大な敵が襲ってこようとしている、そして味方は恐れおののいている、何とかしなければならない。不安や焦りに圧倒されそうになっていたことでしょう。しかし、そんな時にこそ、主の約束を信じて待つことが大切なのですね。
 
(2)自分に与えられた役割と使命を自覚することの大切さ
 
 人にはそれぞれ神様から与えれた使命と役割があります。その使命と役割に忠実に生きることができたら幸いですね。
 サウルは、人々を勇気づけ、共にサムエルが来るのを待つ役割がありました。いけにえをささげることは、サウルの本来の役割ではありません。しかし、焦りと不安から、サムエルが行うべきことを自分が代わりに行ってしまいました。彼の内には、「サムエルがなかなか来ないので、自分がいけにえをささげて何が悪いのか」という高慢な心が芽生えてきたようです。
 しかし、もしサムエルが来なかったとしたら、サウルは、ただ神様に助けを叫び求めればよかったのです。神様は心から神様を呼び求めるものに答えてくださる方だからです。それなのに、サウルは、とにかく民の心をつなぎ止めるためには、いけにえをささげなければならないと考えました。前々回は、イスラエルの長老たちが戦場に契約の箱を持って来さえすれば大丈夫だと考えて失敗しました。また、前回は、イスラエルの民が王様さえいれば大丈夫だと安易な考え方をしましたね。今回のサウルも同じでした。神様に信頼するのでなく、とにかくいけにえをささげさえすれば何とかなるだろうという自分勝手な発想で、本来の役割と逸脱したことを行ってしまったのです。
 
4 サムエルの宣告
 
 サムエルは、サウルを叱責しました。それは単に、形式的な手順の違いを責めたのではありません。サウルの心にある高慢な思いや神様に対する不従順な姿勢に問題があったからです。そして、サムエルは、こう宣言しました。「あなたの王国は立たない。主は、ご自分の心にかなう別の人をイスラエルの君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」
 これは、大変厳しい宣告ですね。サムエルの代わりに全焼のいけにえをささげてしまったという一つの失敗だけで、どうしてこんな厳しい宣告を受けるのかと思ってしまいますね。確かに、これだけ見れば、たった一つの小さな失敗かもしれません。しかし、サウロは、自分の心の中に生じたずれを反省してただそうとはしませんでした。
 平行線は、どこまで行っても平行線です。しかし、最初に少しでも角度がずれていたら、二つの線はどんどん離れていきます。最初のうちはなかなか気づかないのですが、進んで行くうちにだんだん遠くに離れていってしまうのですね。最初のズレの角度が大きいか小さいかは問題ではないのです。
 今回のほんの一度の過ちでしかない些細とも思える出来事の中に、今後、王国が立ちゆかなくなるほどの根っこがあると、サムエルは厳しく指摘したのです。
 聖書を読み進めていくと、実は、この後の戦いは奇跡的に勝利します。サムエルは「あなたの王国は立たない」と宣告しましたが、その言葉とは裏腹に、サウルは少しずつ力を増していきます。目に見える世界においては順調に成果を上げていきました。でも、その反面、神様ヘの不信の根は少しずつ彼の心の中で大きくなっていったのです。彼は、いつのまにか高慢になっていきました。言い訳の多い人生になっていきました。その一方では、不安感や猜疑心にさいなまれるようになっていきました。そして、結局、サムエルの宣言した通り、サウルの王国は、崩れていくことになるのです。
 
 さて、私たちはどうでしょうか。神様は、私たち一人一人の心をご覧になる方です。焦りや不安が襲ってくることもしばしばあるでしょう。でも、そんなときに、イザヤ30章15節の「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」という言葉を思い起こしながら、神様に信頼し、祈り求め、待ち望むことができたら幸いですね。「主よ。私はあなたを待ち望みます。私は、あなたの時の中に生きているのですから」という告白をもって進んでいきましょう。そうすれば、イザヤ書に約束されているとおり、新しく力を得ることができるでしょう。
 いつも神様に聞く姿勢をもちながら、それぞれに与えられた役割と使命を果たしつつ歩んでいきたいですね。