城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年一月二九日             関根弘興牧師
               第一サムエル三〇章一節〜八節
 サムエル記連続説教10
   「偽りと葛藤」
 
 1 ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、2 そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。3 ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。4 ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。5 ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。6 ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。7 ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。8 ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、第一サムエル記の23章後半から25章までの内容についてお話しました。サウル王に反逆者の汚名を着せられ、お尋ね者となっていたダビデは、約六百人の部下とともに荒野での逃亡生活を続けていました。24章では、エン・ゲディという場所で起こった出来事が書かれていましたね。ダビデがエン・ゲディに潜伏していることを知ったサウル王は、総勢三千人の精鋭部隊を率いてやって来ました。サウルが用をたすために近くの洞穴に入ると、その奥にはダビデたちが隠れていました。サウルを討ち取る絶好のチャンスです。しかし、ダビデは「神様が王に任命された方をさばくのは自分ではない」と言って、こっそりサウルの上着のすそを切り取り、サウルが洞窟を出て行った後に自分も洞窟を出てサウルを呼び止め、切り取った上着のすそを見せて、「私は謀反など考えていません。あなたの命を取ろうなどとは思っていません。私を信用してください」と訴えたのです。すると、サウルは声を上げて泣き、「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた」と言って、兵を引き上げ、帰って行ったのです。しかし、サウルの心には、すぐにダビデへの激しい妬みや疑いが湧き起こってきました。そして、またダビデを殺そうと追いかけ回し始めたのです。ダビデは、各地を転々としながら逃亡生活を続けなければなりませんでした。
 あるとき、ダビデたちはカルメルという町の近くに滞在していました。カルメルで事業を行っていたナバルという裕福な人がいました。ナバルは多くの羊や山羊を所有していたのですが、ダビデたちがいたおかげで、盗賊や略奪隊の被害を受けずにすんでいました。ナバルが羊の毛の刈り取りの祝いをしているのを聞いたダビデは、部下たちを送ってこう言わせました。「私たちは、あなたの羊や羊飼いたちを守ってきました。ですから、このお祝いの日に私たちにも食べ物を分けてください。」ダビデは、六百人の部下を養わなければなりませんでした。自分たちが羊を守ってあげたのだから、ナバルはお返しに食糧を分けてくれるだろうと期待したのです。しかし、ナバルは、ダビデの部下たちを罵倒して追い返してしまったのです。ダビデは激怒して、ナバルの家の者を皆殺しにしようと剣を帯びた部下たちとナバルのもとに向かっていきました。しかし、ナバルにはアビガイルという賢い妻がいました。ナバルがダビデの部下たちを追い返したことを知ると、アビガイルは、急いでたくさんの食糧を用意し、ダビデのもとに向かいました。そして、ダビデに出会うとひれ伏して赦しを乞い、「ナバルのような愚か者に復讐して血を流せば、あなたの将来の経歴に汚点となります。ナバルは神様が裁いてくださいます」と説得したのです。ダビデは、アビガイルの判断を称賛し、自分が怒りにまかせて復讐するのを止めてくださった神様に感謝し、引き返していきました。そして、その十日後、主がナバルを打たれたのでナバルは死にました。残されたアビガイルをダビデは自分の妻に迎えたのです。
 今日は、その後の26章から30章でダビデに起こった出来事を見ていきましょう。
 
1 ハキラの丘で
 
 その後、ダビデたちは、死海の西側の地域の荒野を転々としていました。ダビデたちがジフの荒野のハキラの丘に隠れていると言う情報を得たサウル王は、再び三千人の精鋭部隊を率いてやって来て、ハキラの丘の道のかたわらに陣を敷きました。 それを知ったダビデは、夜になってから、仲間のアビシャイと一緒にサウルの陣営に忍び込みました。サウルも回りの兵士たちもぐっすり眠り込んでいました。サウルの枕元には、サウルの槍が突き刺してあります。アビシャイは、ダビデに言いました。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。」すると、ダビデは、前回の洞穴の時と同様にこう言いました。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。」そして、サウルの枕もとにあった槍と水差しとを取って、立ち去りました。サウルの陣営の人々は誰も気づきませんでした。「主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていましたからである」と書かれています。
 ダビデは、サウルの陣営から遠く離れた山の頂上に立ち、サウルの将軍アブネルに呼びかけていいました。「おまえはなぜ、自分の主君を見張っていなかったのだ。王の枕元にあった槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」そして、ダビデはサウル王にこう呼びかけました。「私は何も悪いことをしていません。主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」サウル王は、ダビデが今回も自分の命を奪わなかったことを知ると、「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。おまえに祝福があるように」と言って、帰って行ったのです。
 
2 ペリシテの地で
 
 しかし、ダビデは、サウルの言葉を信じることが出来ませんでした。すぐに心変わりをするだろうと思ったのです。27章1節にこう書かれています。「ダビデは心の中で言った。『私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。』」そこでダビデと部下たちは、自分たちの家族と共にペリシテの五つの自治都市の一つであるガテのアキシュ王のもとに向かいました。
 ダビデは以前、ペリシテ軍の強敵でした。ペリシテの代表戦士のゴリアテを倒した男として名をはせていました。しかし、今は、イスラエルの王サウルから命を狙われ逃亡生活をしていることは、アキシュも知っていたでしょう。ダビデがサウル王を見限って自分の部下になれば、大きな戦力になりますね。そこで、アキシュはダビデたちを受け入れることにしました。ダビデたちはペリシテの地に一年四ヶ月の間滞在することになります。
 
(1)偽りの生活
 
 さて、「サウルから逃れるために敵の地に逃れる」というダビデの判断が正しかったかどうか、聖書にははっきり書かれていないのでよくわかりません。神様が守ってくださるのだからイスラエル領内に留まっていてもよかったのではないかと思う人もいるでしょう。ただ、この時、ダビデはかなり切羽詰まっていたようですね。「このままではサウルに殺されてしまう。何とかしなければ」と思い詰めていたようです。気になるのは、ダビデが敵地に逃げるという決断をしたときに、「祭司エブヤタルを呼んで主のみこころを祈り求めた」とは書かれていないことです。もしかしたら、追い込まれた状態で自分だけの判断で決めてしまったのかもしれませんね。
 とにかく、敵地に逃げていった結果、ダビデは偽りの生活をしなければならなくなりました。
 まず、ダビデはガテの王アキシュにこう言いました。「王様が住んでおられるこのガテの町に一緒に住まわせていただくのは心苦しいので、地方の町の一つの場所を私に与えて住まわせてください。」ガテで王の近くに住むよりも、王から離れた場所に住んでいたほうが自由に行動できるというダビデの策略があったのでしょう。すると、アキシュはツィケラグという町をダビデに与えました。
 そのツィケラグで、ダビデは何をしたでしょうか。南方に住むゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲っては、住民を皆殺しにし、家畜や着物などを奪ってアキシュのところに持って行ったのです。アキシュが「きょうは、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはイスラエルの国のユダ地域の町の名前を答えました。それで、27章12節にはこう書かれています。「アキシュはダビデを信用して、こう思った。『ダビデは進んで自分の同胞イスラエル人に忌みきらわれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべになっていよう。』」ダビデは、敵国の王とはいえ、世話になっているアキシュに嘘をついていたわけです。それだけでなく、その嘘がアキシュにバレないように、襲った地域の住民を皆殺しにしてしまったのです。
 ダビデにすれば、南方に住むアマレク人たちは、イスラエルの町にたびたび略奪にやって来ていたので、成敗するのは当然のことだ考えたのかも知れません。アキシュに対しても、敵国の王なのだから騙してもかまわないと思ったのかもしれません。しかし、ここには、これまでダビデが見せていたような、「立ち止まって、主に祈り、何をすべきかを考える」という姿が出てきません。主に頼るよりも、自分の策略に頼っているかのような姿に見えますね。
 そんなダビデに、いろいろな問題が起こってきました。
 
(2)敵軍参加のジレンマ
 
 そのころ、ペリシテ人は、イスラエルとの戦うために軍隊を招集しました。アキシュはダビデを気に入っていたので、ダビデに「あなたと、あなたの部下は、私といっしょに出陣することになっているのを、よく承知していてもらいたい」と言いました。ダビデはペリシテ軍の一員として自分の同胞と戦わなければならなくなったわけです。彼は深いジレンマを抱えたはずです。しかし、はっきり断るわけにはいきません。「よろしゅうございます。このしもべが、どうするか、おわかりになるでしょう」と曖昧な答え方をしました。ダビデは策略家ですから、アキシュの味方になると見せかけて、いざという時にイスラエルに寝返ろうと考えていたのかもしれませんね。しかし、ダビデを信用しきっていたアキシュは、ダビデを自分の護衛に任命したのです。
 ダビデはアキシュと共に出陣しました。しかし、ダビデを見たペリシテ人の首長たちは、ダビデを疑い、言いました。「この男を帰らせてください。あなたが指定した場所に帰し、私たちといっしょに戦いに行かせないでください。戦いの最中に、私たちを裏切るといけませんから。あのダビデを連れて行くなどもってのほかです。」
 そこで、アキシュはダビデに言いました。「主は生きておられる。あなたは正しい人だ。私は、あなたに陣営で、私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかったのだから。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。だから今のところ、穏やかに帰ってくれ。」この言葉を読むと、アキシュがダビデを全面的に信頼していたことがわかりますね。しかし、ダビデは、ずっとこのアキシュに嘘を言い、アキシュを裏切ろうとしていたのです。
 ダビデは、同胞と戦わなくてはならないというジレンマから解放されて、ほっとしたことでしょう。主が守ってくださったと思ったかもしれません。しかし、もしかしたら、主は、ダビデを信用しているアキシュのために、このように計らってくださったのかもしれませんね。
 
(3)アマレク人の襲撃
 
 大きなジレンマから解放されたダビデたちは、ツィケラグに帰って行きました。しかし、なんと、町はアマレク人に襲われ、焼き払われ、女たちは、子どもも大人もみな、連れ去れてしまっていたのです。ダビデや部下たちの妻や子どもたちも連れ去られていました。
 30章4節にこう書かれています。「ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。」ダビデのこれまでの生涯でもっとも大きな痛み苦しみが襲ってきました。ダビデが以前彼らにしたことが、そのまま自分たちの身に起こったわけです。ただ、略奪者たちは、捕らえた者たちをみな生かしておいたと書かれています。エジプトなどに奴隷として売ろうと考えていたのでしょう。彼らを追うにしても、広大な荒野に入ってしまえば見つけ出すのは容易ではありません。まして、エジプトに奴隷として売られてしまえば、取り戻すことは不可能に近いのです。しかも、部下たちは、「私たちがペリシテ軍に参加してイスラエルと戦おうとしたから、主がこの災いを下されたのだ」と考えて、ダビデを石で打ち殺そうと言い出しました。
 この人生最大の困難な時に、ダビデはどうしたでしょうか。30章6節に「ダビデは彼の神、主によって奮い立った」と書かれています。口語訳聖書では「主によって自分を力づけた」と書かれています。ダビデは、優秀で力も知恵も人望もありました。策略家でもありました。それが、主に豊かに用いられれば大きな益になるのですが、ともすれば、自分の力を過信して、自分の策略で切り抜けようとする方向にも向かいやすいのです。ペリシテに来てからのダビデは、どちらかというと自分に頼っていたような感じがします。でも、今、大きな危機に直面して、もう一度、主に立ち帰り、主の助けを受ける必要を痛感したのかもしれませんね。
 ダビデが書いた詩篇42篇5節を思い出しますね。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」ダビデがどういう状況でこの歌を歌ったのかはわかりませんが、このツィケラグでの危機の時にもこのような思いを持ったことでしょう。
 そして、ダビデは、主に仕える祭司エブヤタルに大祭司が主に仕える時に身に付けるエポデを持って来させ、主に尋ね求めました。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」との答があったのです。
 ダビデは奮い立って六百人の部下とともに略奪隊の追撃に出発しました。途中のペソル川まで来たとき、疲れ切って川を渡ることのできない二百人をそこに残して、四百人で追撃を続けました。そして、遂に、アマレク人が宴会をしている場所を発見し、彼らを攻撃して、奪われたものをすべて取り戻したのです。また、アマレク人たちの羊や牛も自分たちのものにしました。
 
(4)主が賜った物の分け前
 
 さて、ダビデたちは、取り戻したすべてのものとアマレク人から奪い取ったものを持って、ペソル川のほとりに残っていた二百人の部下たちのところに戻ってきました。すると、アマレク人と戦った四百人の中にこんなふうに言う者がいたのです。「疲れて戦いに行けなかった者たちは、取り戻した物を受け取る資格はない。ただ、自分の妻と子どもたちだけ連れて行けばいいではないか。」しかし、30章23節ー25節にこう書かれています。「ダビデは言った。『兄弟たちよ。主が私たちに賜った物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。』その日以来、ダビデはこれをイスラエルのおきてとし、定めとした。」
 これは、教会にとっても大切な姿勢ですね。教会は成果主義であってはなりません。この人はこれだけ貢献したから特別待遇にしましょうというような場所ではありません。できる時に自分の出来ることをすればいいし、出来ないときは出来なくてもいいのです。主が時に応じて用いる人を選び、行う力を与えてくださるのです。すべては主が与えてくださったものです。ですから、「私がやった、私の成果だ」と誇るのではなく、また、「私は何も出来ないから受け取る資格がない」と自己卑下するのでもなく、皆がともに主の豊かな恵みを喜び、分け隔てなく分かち合っていくのが本来のキリストの教会の姿なのです。
 
(5)帰国への根回し
 
 さて、30章26節にこう書かれています。「ダビデはツィケラグに帰って、友人であるユダの長老たちに分捕り物のいくらかを送って言った。『これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの分捕り物の一部です。』」
 ダビデはユダ族の出身でしたから、ユダの長老たちはダビデに好意を抱き、逃亡生活の間、ずっと支援していたのでしょう。それに対する感謝の気持ちを表すためにダビデは贈り物を送ったのでしょうが、それとともに、これから自分が帰国する時に備えて、地盤を作るための根回しをする意味もあったのかもしれませんね。
 さて、今日は、ダビデがサウルの命を奪うことができるのに奪わなかった出来事を見ました。ここでも、復讐は神のなさることだという姿勢をことを貫きました。しかし、ペリシテの地に逃れてガテの王アキシュにかくまってもらった一年四ヶ月は、嘘を積み重ね、目に余る行為を行いました。
 私たちは、ダビデを通して、すばらしい信仰の姿を見ることができますが、その反面、ダビデの弱さや過ちの姿も見ることができるのです。ダビデは、偽りの代償に、敵に与えたのと同じ痛みを経験することになりました。
 箴言12章22節に「偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行う者は主に喜ばれる」と書かれています。
 私たちは、正直に誠実に歩む仲間でありたいですね。もちろん、間違った道に進んでしまうこともあります。しかし、ダビデのように、その都度、神様に立ち帰り、神様によって力づけていただきながら、「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」と告白しながら、歩んでいきましょう。