城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一一年一〇月三〇日           関根弘興牧師
ローマ人への手紙一〇章一節〜一三節
ローマ人への手紙連続説教24
  「間違った熱心」
 
  1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。5 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。          (新改訳聖書)


 今日も、続けてローマ人への手紙からお互いの人生を考えていきましょう。
前回は、神様は「陶器師」で、私たちはその手にある「土くれ」だということを学びました。でもこの土くれはちょっと生意気で、「なんでこんな風に作ったんだ!」「もっとこういうのが良かった!」とすぐに文句を言うんですね。しかし、本来なら、捨てられ、壊されても文句を言えないようなものなのに、神様は、そんな私たちをあわれみの器としてくださったのだとパウロは書いています。そして、陶器師は何によって誉れを受けるのでしょうか?もちろん、作品によってです。私たち一人一人が神様の愛、恵み、真実、慈愛を受け取るあわれみの器として生きていくなら、それが神様の誉れとなっていくのだというのです。なんとうれしいことでしょう。
 そのあわれみの器として。私たちはどんな努力をしたでしょう。どんな修行をしたでしょう。どんな立派な行いをしたでしょう。何もしていませんね。ですから、行いによって救いを得ようとしていた人たちにすれば、イエス・キリストの福音は「つまずき」となるのです。ですから、先週お話ししたように「ユダヤ人にとって、イエス・キリストは『つまずきの石』となった」のです。彼らは、自分がいつも宗教的に熱心で、一所懸命に神様に仕えている、という自負がありました。そして、その熱心さによって、自分が正しいことを証明し、神様に認められようとしていたのです。彼らの熱心さは大変なものでした。決して中途半端な熱心ではありませんでした。彼らは、宗教的な細かい規則を一生懸命守ることによって神様に近づくことができる、神様と正しいかかわりを持つことができると考えていたのです。
 例えば、ユダヤの世界では、土曜日が安息日です。安息日というと、何となくゆったりできる感じがしますね。もちろん、安息日には一切の労働が禁止されました。完全な休みの日です。うれしいですね。しかし、この安息日の過ごし方については、たくさんの規則があったのです。
 例えば、安息日に歩くことができる距離が決められていました。決められた距離以上歩くと、安息日を破ったということになるわけです。また、安息日に持って歩ける荷物の重さの制限がありました。どれくらいの荷物を持って歩けたと思いますか?干しいちじく二つより重い荷物を持ってはいけなかったというのです。日本流で言えば干し柿二つ分ですね。それ以上の荷物を持って歩けなかったのです。これでは、安息日には聖書を持って歩くこともできませんね。
 また、お医者さんは、安息日には医療行為をしてはいけませんでした。ただし、人が死にそうな場合と、産気づいて今にも産まれそうな場合は、例外として取り扱われました。それ以外は、翌日まで待ちなさい、ということなわけですね。
 大変なのは料理です。料理をする時に、火を使ってはいけないのです。ですから、安息日には前日作った冷たい料理を食べるのです。現在でも厳格なユダヤ教徒は、これを守っているそうです。もっとも、今は文明が進んでいますから、火を使わなくても料理をすることができます。電子レンジか何かで料理をすれば安息日にも暖かいものが食べられるというわけです。しかし、電気のスイッチを入れるのも労働ですね。だから、前日にタイマーをセットして、自動的にスイッチが入るようにするという工夫も必要なわけですね。それがいやなら、ユダヤ人以外の異邦人に料理をさせるのです。自分たちが火を使うのはいけないけれど、異邦人が火を使うのはかまわないという理屈です。
 パウロが活躍した時代のユダヤ人たちは、そういう細かい決まりを一生懸命守ることが大切だと考えていました。そして、その熱心さの故に自分たちは神様に近づくことができるのだ、また、それが神様に喜ばれることだ、と考えていたのです。
 日本では、よく、「宗教もいいけれど、あまり凝ってはいけない」と言われます。それは、宗教的な熱心の方向が間違っていて、その熱心さが結果的に人の生活を不自由にしてしまってる姿をよく見聞きするからなんです。
 例えば、「ものみの塔」(エホバの証人)というのがありますね。彼らは決して輸血をしません。輸血を拒否するのです。彼らは、「聖書が輸血を禁じている」と解釈して教えています。しかし、もちろん、聖書には、どこにも輸血を禁じている箇所はありません。でも、彼らは、命と引き換えにしても、その教えを固守します。そういう意味では、大変な熱心です。命がけの熱心です。しかし間違った熱心は、結果的にその人の人生を非常に不自由にするのです。
 いろいろな宗教を見渡しますと、そういう変な熱心に走っている人が非常に多いのですね。そして、その生活を見ると本当に不自由な生活をしています。
 さて、パウロは、自分たちの同胞であるユダヤたちの宗教的な熱心を、いたいほどよく理解していました。なぜなら、パウロ自身が、イエス様と出会う以前は、宗教的に大変熱心な人だったからです。その熱心さは、だれにも負けないほどのものでした。彼は、ユダヤ教の名門の出身でした。当時のユダヤ教の最高の学びをした人です。細かい規則を一生懸命守ろうと努力した人でした。そして、彼の熱心さは、クリスチャンたちをこの世から抹殺したいと願うほどのものでした。
 しかし、それほどの熱心さ持っていた彼が、今、この手紙を通してこう言っているのです。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」(10・2) パウロは、「私が以前持っていた熱心、また、他の同胞たちが持っている熱心は、本当の知識に基づくものではなかった。間違った熱心だった」と記しているのです。
 こういう言葉は、だれが語るかによって響きが違いますね。もし、私がこんな風に言うと、「関根さん。大体、あなたは初めから熱心でなかったから、そんなことを言うんですよ。それは、怠けの口実でしょう」と言われるに違いありません。しかし、これを言ったのは、だれにも負けない熱心さを持っていたパウロなのです。ですから、大変説得力があるのです。
 それでは、彼は、自分の熱心が間違った熱心であったことを、どこで知ったのでしょうか。イエス・キリストと出会ったことによって知ったのです。
 パウロは、4節で「イエス・キリストが律法を終わらせた」と語り、「イエス様を信じる信仰によって、人は義とされ、救いが与えられるのだ」と書いています。これは8章までの大きなテーマでしたね。
 皆さん、どうでしょう。恐ろしい伝染病を治す薬をだれかが研究していたとしましょう。そして、ついに待ちに待ったその治療薬が完成したとしましょう。それも完全な治療薬です。そんな時、あなたがその伝染病にかかってしまうのです。あなたならどうしますか? 私なら、その治療薬をもらって飲みますね。まさか伝染病に感染してから、「よーし、自分の力で治療薬を作ろう」と考えて、新薬の開発の研究を始める人などいないでしょう。完全な治療薬があるなら、それを受け入れればいいわけです。
 私たちは、いくら熱心に律法や宗教的な細かい規則を守ろうとしても、それで救われることはありません。私たちには律法を完全に守ることはできないからです。
 でも、イエス様は私たちに代わって律法の要求をすべて満たしてくださいました。イエス様こそが完成者なんです。ですから、私たちはそのイエス様が完成された救いを感謝して受け取るべきなのです。それ以外に私たちの選ぶべきものはないのです。
 ところが、私たちは、完成されたものを単純に受けるよりも、自分の力で別のものを作ろう、という発想を持つのです。そして、その熱心さが霊的な高慢を生むこともあるのです。
 6節〜7節を見てください。ここに記されている言葉は、旧約聖書の申命記30・12ー13の引用ですが、こんな風に言い出す人もいたわけです。「あの人の熱心は並大抵ではないから、きっと天に上って神様とじか談判できるに違いない。もしかすると、あの人なら地下にもぐって、死人をよみがえらせることだってできるかも知れない。」つまり、自分たちの努力と熱心さで天に行ったり、地の底に下ったりできるかのような錯覚をする人が出てきたのです。これは思い上がりです。全くの高慢以外のなにものでもありません。
 パウロは、人が自分の努力や熱心で永遠の救いを得ることができると考えるとしたら、それは見当違いだと教えています。そして、その熱心さは、かえってその人を高慢にしてしまうだけだと語っているのです。パウロは、そういう人々に対して、「あなたがたの熱心は見当違いだ」と言い、何とかして正しい方向に向けさせようとしているのです。
 では、どのようにしたら、正しい方向に向かうことができるのでしょうか。これは、どのようにしたらクリスチャンになることが出来るのか、ということでもあるわけですが、クリスチャンの方々もこの真理をもう一度確認しておきましょう。

1 救いを得るために

@口でイエスを主と告白する

 第一は「あなたの口でイエスを主と告白すること」です。
 「イエスを主と告白する」、これは言葉は単純ですけれど、ちょっと勇気のいる告白ですね。イエス・キリストを主と告白するということは、「私たちは、イエス様のしもべです」ということですね。イエス様を救い主として受け入れ、信じるということは、イエス様を人生の主として、人生を導く羊飼いとして、ナビゲーターとして信じ受け入れると言うことです。
 しかし、ある人々にとっては、主は自分自身です。いつも、自分が主人公でないと気がすまないのです。自分を中心にして世界が動かないと気分が悪いのです。イエス様を受け入れるとは、イエス様に人生の王座を明け渡すことですから、難しく感じる人もいるかもしれません。でも、これは、私たちが平安な生涯を送る基礎となるのです。
 みなさん、もし、「私を中心に世界は動いている」と考えたらどうなりますか。「私」がこけたら、世界もこけてしまうのですか。そんなことはありません。自分を中心にすべてが動いていると考えるのは、思い込みに過ぎません。自分が、自分が、自分が・・・という生活は、最終的に自分だけが取り残される生活になります。
 それに対して、私たちが「イエスは主である」という告白するなら、何がもたらされるのでしょう。イエス様は、調和をもたらす主です。ですから、この方を心に迎えることは、人生の調和に繋がるのです。イエス様は、「わたしはあなたがたに平安を与えます」と約束されました。私たちがそのイエス様を受け入れる時、赦され愛されていることから生まれる平安が心に与えられるのです。私たちが「イエスは主である」と告白していくとき、私たちは、人として本来あるべき姿を取り戻し、神様を礼拝し、感謝と賛美を持って歩むようになるのです。

A復活されたイエス様を信じる

 二番目に必要なのは、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じる」ことです(9節)。
 イエス様は、何の罪もなかったのに十字架につけられ、死なれました。しかし、それで終わったのではありません。三日目によみがえられたのです。そして、今もイエス様は生きて働いておられる方なのです。
 もし、「イエス様は死んだ。それで終わり」ということであったら、もうすぐやってくるクリスマスなんて、やらないほうがいいですね。大体、死んだ人の誕生日を祝うなんてことはしないですね。私が死んだら、私の誕生日のお祝いなんてしないですよね。でも、イエス様の誕生日は今でもお祝いするんです。なぜでしょうか。イエス様が今も生きておられるからです。
 私たちは「イエスは主である」と告白するとともに、「イエス様は死者の中からよみがえられて、今も生きて働いておられる方だ」と信じるのです。どんなに「イエスは主である」と告白しても、「イエス様は残念ながら墓の中で眠っておられるのです。ですから、今は何の力にも救いにもなりません」と思っているなら、どうしてこうして礼拝する必要があるでしょう。しかし、イエス様は今も生きて働いておられるのです。
 ヘブル人への手紙13章8節には、「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも、同じです」とあります。イエス様は、今も生きておられ、昨日も今日もいつまでも私たちを救うことができるお方だ、というのです。

10節をご覧ください。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と書かれていますね。ここには、人間的な熱心や行いや修行によって救いが得られる、とは一言も書かれていませんね。人は、神様の前に心を込めて信仰の告白をし、今も生きておられるイエス様に信頼して生きることが求められているのです。そして、そのように生きる人々に対する二つの約束が次に示されています。

2 信じる者への約束

@彼に信頼する者は、失望させられることがない

 これは、9・33でも引用されていた言葉ですね。これは旧約聖書のイザヤ書28章16節の引用です。イエス・キリストに信頼する者は、イエス・キリストに信頼する者は、失望させられることがないのです。口語訳聖書では、失望に終わることがないと訳されています。ですから、失望と思われることが襲ってくることもあるでしょう。しかし、失望に終わらない人生が約束されているのです。

A主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる

 この言葉は、ヨエル書二章三二節の引用です。
 民族、国境、言語を越えて、どの国の人であっても、イエスの御名を呼び求める者は救われるというのです。イエス・キリストを呼び求める者には、差別も区別もありません。
 普通、契約書には、いろいろな但し書きが付いていますね。「但し、以下のような人には適用されません」というように書いてあるわけです。しかし、聖書は、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と約束しているのです。例外はありません。例外なしに救われるというのです。但し書きはありません。呼び求める者は、すべて救われるのです。「主よ。あなたを信頼します」と呼び求める人々の中に、キリストの救いは到達するのだというのです。
 そして、これには定員はありません。人数制限がないんです。先着何名様だけというのではありません。チケット制でもありません。神様は一人一人に、とことん恵み深くあられるのです。

 皆さん。どうぞ、今週も肩の荷を下ろしてください。いろいろな思い煩いをイエス様にゆだねて、イエス様が傍らにいてくださることを信頼して憩いましょう。
 また、正しい判断力と鋭い洞察力が与えられて、職場の中で、学校の中で、家庭の中で、いろいろな人間関係の中で、一人一人が主のしもべとして生かされていくことを今週も求めていきましょう。
 信頼する者を失望させることのないイエス・キリストが、私たちと共に今日も明日もいてくださいます。その事実を覚え、間違った熱心ではなく、イエス・キリストを信頼する熱心を持って生かされていく一週間としていきましょう。