城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年一〇月二三日            関根弘興牧師
               第一ヨハネ五章一四節~二一節
 ヨハネの手紙連続説教14 
    「確信に生きる」

14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。16 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。17 不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。18 神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。19 私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。(新改訳聖書)


今日は、ヨハネの手紙第一の最後の段落を読んでいきましょう。
 先週の箇所で、ヨハネは、「イエス様を信じる一人一人に永遠のいのちが与えられているということをよくわかってほしい」と記していました。「永遠のいのち」とは、神様のいのちであり、神さまが与えてくださる平安、希望、愛の中で生きるいのちです。
 そして、いのちが与えられているなら、そのいのちがもたらす新しい生き方が生まれてきます。ヨハネは、手紙の最後である今日の箇所で、永遠のいのちが与えられた私たちがどのように生きていくべきかということについて記しているのです。

1 確信を持って生きる

 ヨハネは、今日の箇所で、私たちがいくつかのことに確信を持って生きることを勧めています。
 ここで使われている「確信」という言葉は、直訳すれば「遠慮なく、公然と、はっきり自由に語ること」という意味です。つまり、ヨハネは、「私たちは、人の目や人の意見や主張や思想などをはばかることなく、大胆にはっきりと自由に宣言することのできるものを持っている」と言っているのです。
 では、私たちがはっきり宣言することのできる確信とは、どのようなものでしょうか。

①「神が願いを聞いてくださる」という確信

まず、14節に「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」と書かれています。
 ここには、二つのことが含まれています。一つは、私たちが願い求める相手は神様である、とはっきりわかっているということ、そして、もう一つは、私たちの願いがみこころにかなっているなら、神様はその願いを必ず実現してくださるということです。
 「今まで一度も祈ったことがない」という人は、おそらく一人もいないと思います。人は、何らかの形で祈るという経験をしています。しかし、「誰に祈るのか?」と問われたとき、困ってしまう人が多いのではないでしょうか。
 二〇一二年十月でしたが、埼玉の知人から連絡がありました。その知人が働いている介護のNPO法人を設立されたTさんが癌の末期で余命がわずかだと宣告されたそうです。そして、「葬儀を牧師さんに頼みたいんだけれど、誰か知り合いに牧師さんがいないかしら」と相談を受けたというのです。Tさんは、ミッション・スクールを卒業したけれど、教会には一度も行ったことがなかったそうです。私はすぐに病院に面会に行きました。そして、聖書から、いつまでも残るものは信仰、希望、愛であることをお話ししました。すると、Tさんは、素直に心を開いてイエス様を受け入れ、病室で洗礼を受けたのです。娘さんたちもその場にいて、一緒に讃美歌を歌い、お互いに「ありがとう」の言葉を交わし、大変うるわしい光景でした。そして、Tさんは、その一週間後に天に召されたのです。葬儀は、埼玉にある私の知り合いの教会を借りて行いました。
 Tさんがなぜ牧師を呼んでほしいと言ったのか、最初は理由がわかりませんでした。しかし、Tさんのブログを読ませていただいて理由がわかりました。九月二十二日付けの「エンディング・ノート」と題するブログに、こう記されていたのです。
 「・・・しかし一番の問題は『宗教』。最期の時、誰にお祈りをお願いするのか・・・誰に向かって祈るのか?私自身はどうもいろいろな価値観が入り混じって育ってきたし、近隣に信頼できるお坊さんもいない。一番影響を受けたのはむしろキリスト教かな・・・とにかくそれが決まらないと、本当の意味での『エンディング・ノート』は完結しない。」
 皆さん、誰に向かって祈るのか、これをはっきりと知ることがなければ、どうして祈りの確信を持つことができるでしょう。 でも、私たちは「誰に向かって祈るのか」をはっきりと知っています。それは、本当に感謝なことですね。私たちが祈り求める神様は、愛なる方です。私たちに永遠のいのちを与え、神の子としてくださった方です。そうであるなら、神様はどうして私たちの声を聞かずにいられましょう。
 イエス様は山上の説教の中でこう語っておられます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7章7ー11節)天のお父様は私たちの求めに対して良いものを与えてくださるに決まっているではありませんか、と言われたのです。
 パウロは、第二コリント9章14ー15節で、「絶大な神の恵みのゆえに、・・・ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」と記しています。パウロの生涯には、多くの試練がありました。生命の危険にさらされたことが何度もありました。でも、自分の人生を振り返ったとき、パウロは、「神様。あなたはいつも私を良きもので満たしてくださいました。そして、言葉で言い表すことのできないほど豊かな賜物のゆえに感謝します」と言ったのです。
 しかし、私たちは、「本当かな?祈っても答えられないことが多いぞ」「神様は最善を願っておられるというが、どうして、うまくいかないんだろう?」と思うことがありますね。
 ヨハネは、14節で「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」と書いていますね。神様は、「神のみこころにかなう願い」を聞いてくださるというのです。
 では、「神のみこころ」とは、何でしょうか。神様はいつも私たちの最善を願っておられます。私たちにとって最も良いことだけをしたいと神様は思っておられます。ですから、もし私たちの願うことが私たちにとって良くないことであるなら、神様はその願いを聞いてはくださいません。
 もし、私たちの願いが全部かなってしまったら、どうでしょう。大変なことになると思いませんか。「主よ、あの人が気に入りません。どうか追い出してください。」「主よ、明日は試験ですが勉強する気になれません。でも、百点を取らせてください。」「主よ、働きたくありませんから、この宝くじで一等が当たるようにしてください。」
 このような祈りは、いくら祈っても答えられませんね。もしこのような祈りがかなえられたら、私たちは、怠惰で横着で自分勝手な人間になってしまうでしょう。神様を便利な道具のように思ってしまうでしょうね。
 ですから、神様は、いつも私たちの願った通りの答えをくださるのではありません。みこころにかなわない願い、つまり、私たちの益にならない願いには「ノー」と言われます。
 また、祈りの答えを得るまで、「待ちなさい」と言われることもあります。しかし、どんなに時間がかかっても神様は「あなたの祈りを聞いたけれど忘れてしまった」などということはありません。私たちは自分が祈ったことを忘れてしまうことがよくありますね。でも、神様は、決してお忘れにならないのです。
 では、私たちは、神のみこころにかなう願いしか祈ってはいけないのでしょうか。そうでは、ありません。祈りは神様との対話です。私たちは、祈りを通して神様の思いを知ることができるのです。ですから、何でも祈りましょう。神様は私たちの祈りを聞いて、答えてくださいます。神様がすぐに願いをかなえてくださることもあれば、「待ちなさい」と言われることもあるでしょう。「それはわたしの心ではない」と言われることもあるでしょう。そういう経験を積み重ねて、神様のみこころを知っていくのです。
 私は30歳まで泳げませんでした。人は水に浮くという理屈はわかっていたのですが、スイミングスクールに通って実際に泳ぐ練習をしてやっと泳げるようになったのです。
 祈りも同じです。理屈じゃないんです。実際に祈ることを繰り返して身に付ける必要があります。ですから、まず祈ることです。最初は、見当違いの自分勝手な祈りかも知れません。でも、それでも構わないんです。祈り続ける中で、だんだんとわかってくるからです。

②「神に願った事は、すでにかなえられた」という確信

次に、15節に「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」と書かれていますね。ずうずうしいほどの確信ですね。これは、つまり、神様が私の願いを知り、聞いてくださっている事実があるなら、あとは神様にお任せすればいいから、これ以上の安心はない、ということですね。
ヘブル11章1節に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。信仰に生きるとは、なんと大胆な生涯でしょう。目の前の現実は何一つ変わっていなくても、主が全てを働かせて益としてくださることを信じて生きることが出来るのです。願ったことは、主が聞いてくださっているのだから、神様の最善がなされることを信頼して生きることが出来るのです。
 
③「私たちの祈りが他者にいのちを与える」という確信

 私たちはいろいろな願いを主に願うわけですが、一番の変化は、今まで自分のことしか祈っていなかったのに、次第に他者のために祈るように変わっていくことだと思います。
 ヨハネは16節で「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります」と記しています。私たちが他者のために祈るなら、神様は、祈っている私たちのために、他者にいのちをお与えになる、というのですね。他者のための祈りは、「とりなしの祈り」と言います。私たちのとりなしの祈りを神様は聞いてくださるのです。
 ところで、ヨハネは「死に至らない罪」と書いていますが、どういうことでしょうか。本来、罪は、どんな罪であっても例外なしに死をもたらします。パウロもローマ6章23節に「罪から来る報酬は死です」とはっきり記しています。では、ヨハネは、どういう意味で「死に至らない罪」と言っているかというと、「死に至る途中でその罪が赦される」ということですね。
 それは、私たち一人一人の経験でもあるわけです。私たちは、みな、罪の故に死に至る者でした。しかし、イエス様と出会い、自分罪を認め、それを告白し、イエス様を救い主として受け入れました。そして、聖書の約束にあるように、イエス様の十字架の血によってすべての罪からきよめられたのです。私たちは罪の中にいたけれど、死に至らなかったわけですね。
 つまり、ヨハネは、神様に背を向けている人が神様に向きを変え、自分の罪を素直に認めてイエス様を救い主と告白して歩んでいけるように願い求めなさい、と言っているのです。なぜなら、神様は、その私たちの祈りに答え、その人にいのちをお与えになるからです。
 私たちが永遠のいのちを与えられた背後にも、誰かのとりなしの祈りがあったのです。だから、今度は私たちが誰かのために取りなしの祈りをするのです。家族のために、知人のために、友人のために、積極的に祝福を祈っていきましょう。
 ところで、ヨハネは、16節の後半で「死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません」とも書いています。何だか冷たい表現のように感じますね。
 この箇所を読んで、「もしかしたら、私は死に至る罪、赦されない罪を犯してしまったのではないだろうか。私はもう駄目だ」とおびえてしまう方がいますが、安心してください。この箇所は、そのように思う人に対して語られたのではないからです。
 「死に至る罪」とは何でしょう。それはいつまでも自分の罪を否定し、イエス様を拒否し、高慢に歩んでいるということです。ヨハネの周りには偽りの教師たちがいました。彼らは「私には罪がない」「私は罪なんて犯したことがない」「罪などはレベルの低い話だ」「神であるイエスが人となって私の罪のために十字架で死んだって? 冗談じゃない、そんなことをあるはずがない」と言っていました。そのように明確にイエス様を否定し続けるならば、結局「死に至る」のだとヨハネは特に偽りの教師たちのことを思いながら言っているのです。
 ただし、私たちが自分の判断で「あの人は死に至る罪を犯しているから、祈っても無駄だ」と決めつけるべきではありません。もちろん「あの人がイエス様を拒否し続けたままでも、永遠のいのちが与えられますように」とは祈れませんが、「あの人が自分の本当の姿に気付いて、イエス様を信じ、いのちを得ることができるように」と祈っていくことはできますね。他者のために祈っていきましょう。

④「守られている」という確信

 そして、ヨハネは、18節でこう記しています。「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」
 この世界には、何とかして私たちを神様から引き離そうとする力が働いています。でも、イエス・キリストが守っていてくださるので、その悪い者は私たちに触れることはできない、というのです。
 『天路歴程』という小説があります。滅亡の市に住むクリスチャンという名前の男が神の都への巡礼の旅に出かけます。落胆の沼を通り、死の影の谷を過ぎ、虚栄の市では投獄されるなど様々な苦難に遭いますが、ついに天国の都に入ることができるという話で、クリスチャンの人生が寓話的に描かれているのです。
 その中に、こんな場面があります。主人公が進んで行くと、鋭い牙と爪を持つ二頭のライオンが、道の両側で、ものすごい形相で吠えているではありませんか。しかし、その道を通らなければ先に進むことができません。主人公はたいへん恐れて、引き返そうかと思います。その時、その道の先にいた男がこう言いました。「君の気力はそんなに小さいのですか。ライオンを恐れなさるな。それはつながれている。路の真ん中を歩けば、何の害も加えられない。」主人公は勇気をもって道の真ん中を進んで行きました。すると、どうでしょう。吠え猛るライオンは鎖につながれていて、道の真ん中を歩く彼にはその牙は届かないのです。ライオンは脅すことはできても、危害を加えることはできなかったのです。
 私たちを神様から引き離そうとする「悪い者」もそれと同じです。私たちを脅し、信仰の道を進ませないように邪魔してきます。しかし、悪い者は、鎖につながれているのです。私たちを脅すことはできても、触れることはできないのです。ですから、私たちは、恐れることなく、守られていることを確信して、進んでいきましょう。
 ヨハネの福音書10章28節でも、イエス様がこう約束してくださっています。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」

⑤「イエス・キリストのうちにいる」という確信

 そして、20節にすばらしい言葉が書かれています。「私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」ヨハネは、「私たちは、キリストのうちにいるのだ」と言っていますね。
 一方、パウロはガラテヤ2章20節で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と書いています。「キリストが私のうちにおられる」というのですね。
 私たちがキリストのうちにいて、キリストが私たちのうちにおられる、つまり、私たちは、まことの神であり永遠のいのちであり恵みとまことに満ちたキリストと一体となって生きているということなのですね。そのことを確信していきましょう。

2 偶像を警戒しなさい

 さて、ヨハネはこの手紙の一番最後の21節に、自分が大変気にしていることを書いています。それは、「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」ということです。
 ヨハネが晩年を過ごしたエペソの町は、有名なアルテミス神殿があり、偶像礼拝の中心でした。多くの人たちがその神殿によって利益を得ており、魔術も盛んに行われていました。こうした町で、まことの神様を信じていくのは大変だったことでしょう。
 そこで、ヨハネは「まわりには偶像がたくさんあり、誘惑も多いけれど、唯一のまことの神様のみを礼拝して生きていきなさい。そうしないと、あなたに与えられた救いすらも否定することになってしまうから、気をつけなさい」と警告したのです。
 そして、パウロは、コロサイ人への手紙の中でこう警告しています。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」いろいろな神々の像だけが偶像ではありません。私たちの内にある欲望やむさぼりも偶像だというのです。私たちを神様から引き離すものはみな、偶像なのですね。そういうものが、結果的に、私たちの人生を破壊することになるので避けなさい、と警告しているわけですね。

 私たちは、永遠のいのちに生かされ、守られています。そのことを確信し、いつも三位一体の神様を信頼しつつ大胆に歩んでいきましょう。