城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年一一月六日             関根弘興牧師
                  第三ヨハネ一節~一五節
 ヨハネの手紙連続説教16(最終回)
     「幸いを祈る」

1 長老から、愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています。2 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。3 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。4 私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。5 愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行っているいろいろなことは、真実な行いです。6 彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。7 彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。8 ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。9 私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。10 それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。11 愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。12 デメテリオはみなの人からも、また真理そのものからも証言されています。私たちも証言します。私たちの証言が真実であることは、あなたも知っているところです。13 あなたに書き送りたいことがたくさんありましたが、筆と墨でしたくはありません。14 間もなくあなたに会いたいと思います。そして顔を合わせて話し合いましょう。15 平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たちひとりひとりによろしく言ってください。(新改訳聖書)

今日は、ヨハネの手紙連続説教の最終回です。聖書には、ヨハネの書いた三つの手紙が載っていますが、今日は第三の手紙を学びましょう。
 三つの手紙は、イエス様の十二弟子の一人であるヨハネが晩年に記したものです。ヨハネは、今日の第三の手紙でも、第二の手紙と同じく、自分を「長老」と称していますね。前回お話ししましたように、この「長老」と訳されている言葉は、「年長の人、おじいさん」という意味があります。晩年のヨハネは、エペソ教会の長老だったようですが、当時、「教会のおじいちゃん」と言ったら、みんながヨハネのことが思い浮かべる、そんな存在だったのでしょう。
 この第三の手紙は、ヨハネがガイオという個人に宛てて書いたものです。
 ここには、ガイオとデオテレペスとデメテリオという三人の名前が出てきますね。まず、この三人の人物について見ていきましょう。

1 三人の人物

①ガイオ

 「ガイオ」という名前は、当時はありふれた名で、新約聖書にもガイオという人が何人か出て来ます。
 たとえば、使徒の働き19章には、パウロがエペソで伝道していたときに暴動が起こり、パウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオが捕らえられてしまったという出来事が書かれています。また、ローマ人への手紙16章でパウロは自分の身近にいる人々の名を挙げていますが、その中に「私と全教会との家主であるガイオ」という人物が出てきます。このガイオはパウロがコリントで洗礼を授けた人物だと思われます。そして、このヨハネの手紙にもガイオが出てきますね。これらがみな同じガイオなのかどうかわかりませんが、どのガイオも主にある仲間であったことは間違いありません。
 では、この手紙に出てくるガイオはどのような人物だったのでしょうか。
 この手紙を読むと、ガイオは、旅をしているクリスチャンの兄弟たちを手厚くもてなし、次の旅に送り出すという働きをしていたようです。
 当時、福音を伝えるために、多くの巡回伝道者たちや教師たちがいました。パウロもそうでしたが、彼らが各地を巡り歩いて福音を伝え、教会を建て上げ、キリストについて教えていったのです。ガイオは、そういう人々を迎え、もてなし、送り出すという地味な黒子に徹した働きをしていました。実際に各地を巡回して福音を伝える人たちも必要でしたが、その人々を背後で支援するガイオのような働きもなくてはならないものだったのです。福音が伝えられていくためには、伝える人とその人を支え送り出す人の両輪が必要だということです。宣教の第一線に立つ働きもあれば、その働きを背後から支える働きもあるわけですね。
 ヨハネは、この手紙で、陰で支えるガイオの働きを賞賛していますね。その働きが当時の福音宣教のためにどれほど大きな支えとなっていたかがわかります。
 これは、今も同じです。私は、放送伝道に関わっていることもあり、日曜日に外部の働きのために出かけてしまうことがあります。いろいろな場所に行って説教をさせていただくのですが、そこで出会う牧師さんたちにたびたび尋ねられる質問があります。「先生、こんなに教会を留守にして、信徒の方から苦情や文句がでませんか。」私はこう答えるんです。「はい、大丈夫です。私がこうして外に出かけることは、私個人の働きではなく、教会全体の働きだということを皆さんが理解して送り出してくださっているから大丈夫なんです」と。 
 私が放送伝道の働きを続けることができるのは、教会がガイオ的な働きをしているからこそなんですね。表に立つ人と裏で支える人、この両輪があってこそ、福音が伝えられていくのです。ですから、ガイオの働き、つまり、教会の一人一人の働きが賞賛に値するのです。
 ヨハネは6節で「あなたが神にふさわしい仕方で彼らを次の働きのために送り出してくれるならそれはりっぱなことです」と書いていますが、この「りっぱな」とは、直訳すると「美しい」という言葉です。ヨハネは、ガイオの働きを「美しい」と讃えているのですね。

②デオテレペス

しかし、この「美しさ」を壊す人もいました。それは、9節にでてくるデオテレペスです。
 デオテレペスは、教会の中で「かしらになりたがっている」と、ヨハネは書いていますね。
 「かしらになりたがっている」というのは、「自分が第一人者であることを好む者」という意味です。自分がその場の中心にいないと落ち着かないのです。自分がいつも表舞台に出ないと気が済まないのです。そして、自分の思いのままに人々を操作できる力を欲しいと願い、自分の力を誇示します。そして、人々からもてはやされいるかぎりはご満悦なのですが、自分に反対する者は皆、敵と見なして攻撃するのです。
 10節には、「彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです」とありますね。デオテレペスが自分が教会の第一人者であるために取った行動は、排除の論理によるものです。気にくわない者は追い出す、というわけですね。
 実は、こういう傾向は、私たち皆の内にあります。誰にも自己中心性があります。自分が中心でありたい、自分が支配したい、自分の思う通りにしたいと願う心を持っているのです。そして、反対の立場の人がいると、怒りを感じたり、「いなくなればいいのに」と思ってしまうことがありますね。ですから、皆が自己中心的にふるまったら、必ず衝突が起こります。そして、最終的に破壊をもたらすのです。
 福音書を読むと、弟子たちも最初は似たような者だったことがわかります。彼らの一番の関心事は、「いったい誰がこの中で一番偉いのか」ということでした。皆、かしらになりたがっていたのですね。
 そこで、イエス様は、マタイ20章25節ー28節で、彼らにこう言っておられます。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
 イエス様ご自身が仕えるために来てくださいました。私たちのためにいのちをお捨てになるほど徹底的に仕えてくださったのです。そのイエス様に従う私たちも、仕える心を持って、イエス様と同じような姿に変えられていくことが大切なのです。
 パウロは、エペソ1章22節でこう書いています。「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」教会のかしらは、キリストです。もし誰かが教会のかしらになろうとしたら、それは、キリストを教会のかしらと認めず、キリストを教会から追い出そうとすることになるのです。
 また、パウロはローマ12章4節ー5節で「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」と言っています。教会のかしらは、キリストで、私たちはそれぞれの器官なのです。一人一人役割が違うし、目立つ器官も目立たない器官もあるけれど、どれもからだにとって大切で欠けてはならないものであり、しかも、互いに助け合い補い合っていかないと、からだは病気になったり死んでしまったりするのです。ですから、互いに比較したり優劣をつける必要はありません。一つの器官が威張り散らして支配する必要もありません。もし、器官の一つが自己主張し、他の器官を思い通りに支配しようとしたり、他の器官を攻撃したり、排除しようとしたら、体の調和は失われ、機能不全になってしまうのです。
 ですから、教会の中で「だれが偉いのか」という議論が始まったり、派閥をつくったり、かしらになろうとする人がいたら、要注意です。教会は誰かが偉くなる場所ではありません。人が人によって支配したり支配されたりする場所ではありません。私たちは神の国を第一に求めているのです。つまり、愛と真実なる神様の支配が一人一人の生涯にも教会全体にもあることを願いつつ歩んでいく仲間なのです。キリストをかしらとし、互いに仕えつつ、神様の支配の中で成長していきましょう。
 ガイオ的な心で生きるのか、デオテレペス的な心で生きるのか、教会も個人もいつも点検しなければならないことですね。

③デメテリオ

 三番目に、12節でデメテリオの名が挙げられています。
 この人がどのような人物なのか詳細はわかりませんが、この手紙をガイオのもとに届けるためにヨハネが遣わした人ではないかと言われています。また、巡回伝道者の一人でもあったのではないかと言われています。
 ヨハネは、デメテリオに手紙を届けさせるにあたって、デメテリオのことを知らないガイオに対して、デメテリオが信頼できる確かな人であることを説明しているのだと考えられます。 手紙を書く人がいる、それを届ける人がいる、伝道の働きを影で支える人もいれば、その支援によって最前線に出て行く人もいる、どれか一つが欠けても駄目ですね。

2 ヨハネの挨拶

 さて、この手紙の最初と最後にヨハネの挨拶の言葉が書かれていますね。その内容を見ていきましょう。

①幸いを祈る

まず、2節に 「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」と書かれています。
 この「幸い」と訳されている言葉は、「順調な旅をする」という意味から来た言葉です。この言葉は、当時、手紙の書き出しに用いられた決まり文句だったともいわれますが、私たちの人生はよく旅に喩えられますね。旅の途中には、いろいろな困難もあるわけですが、その都度、その都度、それぞれの人生の旅が順調であるように、と私たちも互いに祈り合っていきましょう。

②顔を合わせて

 それから、ヨハネは、13節ー14節で、第二の手紙とほぼ同じことを書いています。「あなたに書き送りたいことがたくさんありましたが、筆と墨でしたくはありません。間もなくあなたに会いたいと思います。そして顔を合わせて話し合いましょう。」手紙よりも実際に顔を合わせて話したいと願っているのですね。
 教会には、いろいろと複雑な問題があり、人間関係のトラブルもあります。手紙ではかえって誤解を招きかねないので、直接会って話し合って解決を図りたいとヨハネは思っていたのでしょう。顔を合わせて話し合うことの大切さをヨハネは知っていたのです。

③名を呼んで

 そして、この手紙の最後の15節に「そちらの友人たちひとりひとりによろしくと言ってください」とありますね。
 これは、直訳すると、「友人たちに名前をあげて(呼んで)よろしく伝えてください」となります。文語訳聖書では「名をさして安否を問え」と訳されています。つまり、ヨハネは、最後の挨拶の中で、わざわざ「名前を呼んで」と記しているのです。
 ヨハネは、「名前を呼ぶ」というとき、イエス様の姿を思い浮かべていたのではないかと思います。ヨハネは、いつもイエス様のそばにいて、イエス様の言動を見聞きしていました。その中で、「名前を呼ぶ」ことの大切さを学んだのではないでしょうか。
 ヨハネ福音書10章には、イエス様がまことの羊飼いで、ご自分の羊の名を呼んで連れ出す方なのだ、と記されています。イエス様は、私たち一人一人の名前を呼んで招いてくださるのですね。
 その有名な例がルカ19章に載っています。
 イエス様がエリコの町に入られたとき、大勢の人たちがイエス様を一目見ようと集まってきました。その中に取税人のかしらザアカイがいました。ザアカイは、「清い」という意味の名前ですが、名前と正反対に、不正の富で私腹を肥やし、町一番の嫌われ者でした。人々は、「ザアカイ」という名前を皮肉交じりに口にしていたことでしょう。
 そんなザアカイがイエス様を木の上から眺めていたとき、イエス様が突然立ち止まり、ザアカイを見上げて、「ザアカイ、降りてきなさい」と言われたのです。ザアカイは、一体どうして自分の名前をイエス様が知っているのだろうと不思議に思ったに違いありません。でも、イエス様が「ザアカイ」と呼ばれた時、それは、決して皮肉まじりな軽蔑を込めた言い方ではありませんでした。しかも、イエス様は「今日、わたしはあなたの家に泊まることにしている」と言われたのです。
 ザアカイは、長い説教を聞いたわけでありません。けれど、親しく名を呼ばれたことが、彼の頑な心を溶かしていったのです。このことがきっかけとなって、ザアカイの人生は一変しました。名前の通りの人生へと変えられていったのです。
 旧約聖書のイザヤ書43章1節-4節では、神様がこう言っておられます。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」また、イザヤ書49章15節ー16節では、こう言っておられます。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
 聖書の神様は、私たちの名を親しく呼んでくださる神様です。神様が名を呼んで招いてくださったからこそ、私たちはここにいるのです。また、神様は、私たちの名をご自分の手のひらに刻み、決してお忘れになることはありません。
 ヨハネも、この手紙の最後に「名前を呼んでよろしくと伝えてください」と書きましたが、それは「あなたのことを決して忘れていませんよ」という思いが込められているのでしょう。 といっても、教会のすべての人の名前を覚えましょう、という説教をしているのではありません。私たちは、なかなか名前が覚えられなかったり、忘れてしまったりすることがありますね。でも、お互いがイエス様に親しく名前を呼ばれている者同士なのだということを覚えましょう。それは、つまり、神様が私たち一人一人を大切な存在として見てくださっているということです。そのことを覚えて、互いに安否を問う仲間とされていきましょう。

最後に、この連続説教の締めくくりとして、2節の祈りを皆で心を合わせて祈りたいと思います。ヨハネはガイオのためにこの祈りを捧げました。今日、皆さんは誰のためにこの祈りをささげますか。心の中で、思い浮かぶ人のために祈りましょう。
 「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」アーメン