城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年二月一九日            関根弘興牧師
                   ヘブル三章一節〜六節
 ヘブル人への手紙連続説教6
    「神の家」

1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。2 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。3 家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。4 家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。5 モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。(新改訳聖書)


今日の箇所の最初に「そういうわけですから」とありますね。これは、先週お話した内容を指しています。
 先週は、2章の後半から、イエス様と私たちとはどのような関係にあるのかということを学びました。イエス様は私たちを兄弟と呼んでくださいます。長子として、父なる神様の祝福を分け与え、また、私たちに関する責任を持ってくださるのです。また、イエス様は、私たちを「子よ」とも呼んで、守り育んでくださる方です。そして、御自身が十字架にかかることによって私たちの罪を赦し、死の恐怖から解放し、神様の御前でいつも私たちのためにとりなしてくださっているのです。イエス様は、私たちと同じ人として来てくださったので、私たちのことを理解し、思いやり、助けることがおできになるのです。
 さて、そのような内容を受けて、「そういうわけですから」と今日の箇所が続いているわけです。

1 天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち

 まず、1節に「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と書かれていますね。クリスチャンは私たちも含めて、「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼ばれるのです。
 「天の召しにあずかっている」というのは、この肉体が死んだ後も、神様のみもとに召されて、そこで永遠のいのちを持って生きることができるということです。ですから、私たちは、永遠の天を目指して人生を生きる旅人です。行き先のわからない放浪とは違います。この地上では迷うこともあり、嵐に襲われることもありますが、天という行き先に向かって旅をしているのです。
 また、「聖なる兄弟たち」とありますが、「聖」とは「神様の専用品」という意味です。神様は、私たちをご自分のものとして愛し、きよめ、用いてくださるのです。

2 イエスのことを考えなさい

 そういう私たち一人一人に向かって、この手紙の記者は、「イエスのことを考えなさい」と勧めています。
 この「考える」という言葉は、「よく見る」「気づく」「感知する」とも訳される言葉です。つまり、イエス様のことにただ漠然と目を向けるというのではなく、イエス様がどのような方をじっくりと見つめて、気づきながら生きていきなさい、というのです。
 では、イエス様は、どのような方でしょうか。

@使徒

まず、イエス様は、「私たちの告白する信仰の使徒」だと書かれていますね。
 「使徒」とは、「遣わされた者」という意味です。例えば、議会から使徒として派遣された人は、議会の決めた事柄を命じたり執行する権限が与えられていました。また、もし、国から派遣された使徒であるなら、国の権威を代表して、国から託された力を行使することができるわけです。
 聖書の中で「使徒」と言えば、普通はイエス様の十二弟子とパウロを指します。彼らは、イエス様の復活の目撃証言者で、復活されたイエス様に遣わされて各地を回ってイエス様の福音を宣べ伝え、神様のみわざを代行する権威を与えられていました。
 しかし、今日の箇所では、イエス様御自身が「使徒」と呼ばれていますね。聖書の中でイエス様を「使徒」と呼んでいるのは、このヘブル人への手紙だけです。
 イエス様が使徒であるというのはどういう意味かというと、イエス様は、父なる神様から遣わされた方であり、神様の力と権威を身に帯びて、神様のみわざを実際に行う方であるということなのです。
 イエス様が神様から遣わされた方であることは、イエス様御自身もヨハネの福音書の中で何度も語っておられます。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5章24節)
「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。」(ヨハネ12章44節)
「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」(ヨハネ12章45節)
 神様に遣わされた使徒であるイエス様をよく見つめていくと、神様がどのような方であるかがわかります。そして、イエス様を信じることは、父なる神様を信じることに繋がっています。イエス様の内に神様の愛、恵み、いのち、祝福があふれています。ですから、もし教会がこのイエス様を語らなくなったなら、もはやいのちを失ってしまうのです。

A大祭司

 それから、イエス様は、「大祭司」なるお方でもあります。 前回もお話ししましたが、大祭司とは、ユダヤの社会で大変重要な役割を持っていました。民の代表として神様の御前に近づき、民の罪の贖いの犠牲を捧げること、そして、神様に対して人々のとりなしをすることです。つまり、神様と人との関係を回復させ、橋渡しをするような役割です。
 このヘブル人への手紙には、イエス様こそまことの大祭司であり、イエス様だけが大祭司としての役割を全うすることができる方なのだと書かれています。イエス様だけが、神様と私たちの間を阻んでいた罪の問題を完全に解決し、神様と私たちの関係を回復し、橋渡しをしてくださる方なのだというのです。
 ですから、イエス様は、他の聖書箇所では「仲介者」とも呼ばれています。
 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2章5節)

イエス様は、使徒であり、大祭司である方です。それは、つまり、私たちに対しては、使徒として神様を代表するお方であり、神様に対しては、大祭司として私たちの代表となってくださる方だということです。それは、イエス様がまことの神であるとともに、まことの人となってくださったということによって可能になったのです。
 天の召しにあずかる旅人として生きる私たちの人生には困難や問題もたくさん起こります。しかし、この手紙の記者は、「使徒であり、大祭司であるイエス様のことを考えなさい。イエス様を見れば、神様の愛と恵みがわかり、イエス様がいつも私たちのために神様にとりなしをし、守っていてくださるのだから大丈夫なのだ」と言っているのです。

3 イエス様とモーセ

 しかし、ユダヤ社会の中で生きている人たちは、「イエス様は神様から遣わされた使徒であり、神様と人との仲介者である」という話を聞くと、「それでは、イエス様はモーセと同じようなものではないか。どこが違うのだ」と考えてしまうのです。
 モーセは、旧約聖書に登場しますが、ユダヤの社会で最も尊敬されている人物の一人です。
 今から約三千五百年も前の人ですが、神様の命令に従って様々なことを成し遂げました。
 まず、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民をエジプトから脱出させました。その時、神様はモーセを通して様々な奇跡を行われました。海の水が分かれて道ができたという奇跡は有名ですね。
 また、モーセは、エジプト脱出後、イスラエルの民を率いて四十年間荒野を旅しました。その旅の間、神様は天からパンを降らせ、岩から水を出して養ってくださいました。
 また、旅の途中、シナイ山でモーセは神様から律法を授かりイスラエルの民に教えました。神様の指示に従って、会見の天幕と呼ばれる移動式の神殿も造りました。その会見の天幕で神様に仕え、民の罪の贖いのために犠牲をささげる大祭司を任命したのも、モーセです。また、民が神様に逆らって罪を犯した時には、モーセが必死にとりなしの祈りをしました。
 そして、幾多の困難を乗り越えて、約束の地に入る前に、後継者のヨシュアにすべてを託し、天に召されていったのです。
 民数記12章6節-8節で、神様は、モーセについてこう語っておられます。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。」
 モーセは旧約聖書に出てくるどんな人物とも別格の存在でした。神様の姿を仰ぎ見、神様と直接語り会ったのです。つまり、モーセはイスラエルの民にとって、神様から遣わされ、神様に権威を与えられて神様の命令や律法を人々に伝え、神様のみわざを代行する使徒の役割を果たしました。また、神様に対しては、民の代表として、民の願い事を神様に伝え、民が神様に逆らって罪を犯した時は、必死にとりなしの祈りをしたのです。モーセ自身は大祭司ではありませんでしたが、大祭司を任命して祭司職の基礎を築き、自らも神様と人との仲介者の役割を果たしたのです。
 ですから、この手紙の宛先であるユダヤ人クリスチャンたちの中には、「イエス様が神様から遣わされた使徒であり、神と人との仲介をする大祭司だ」と書かれているのを読むと、「それなら、私たちがずっと尊敬してきたモーセも同じではないか」と思う人もいたことでしょう。
 そこで、この手紙の記者は、「そうではない。イエス様はモーセよりもはるかに優る方なのだ」ということを2節から説明しているのです。

(1)モーセの役割

@神の家のしもべ

 まず、モーセについては、どのように説明されているでしょうか。2節には「モーセが神の家全体のために忠実であった」、5節には「しもべとして神の家全体のために忠実でした」とありますね。これは、先ほどご紹介した民数記12章で、神様が「彼はわたしの全家を通じて忠実な者である」と言われた言葉を引用したものです。
 モーセは、神様のことばに忠実に従って、しもべとして神の家全体のために仕えました。この神の家というのは、会見の天幕(後の神殿)の意味もありますが、広い意味では、イスラエルの民のことです。モーセはイスラエルの民が神様に従って生きていくことができるように、神様の律法を伝え、約束の地に導き、民のために心を配り祈るしもべとして歩みました。神の家の筆頭管理人のような存在だったというわけですね。

A後に語られる事をあかしする

 そして、5節後半に「それは、後に語られる事をあかしするためでした」とありますね。
 「後に語られる事をあかしする」ことがモーセの役割でした。それは、何を意味しているのでしょうか。
 モーセは、神様のことばを人々に伝えました。人々のために神様の前でとりなしの祈りをしました。イスラエルの民の真ん中に神様がともにいてくださることを象徴する幕屋をたてました。人々の罪を贖うための儀式を教え、大祭司を任命しました。また、神様から与えられた律法を人々に伝えて、神様に従うことが大切だと教えました。
 しかし、それはみな、完全なものではなかったので、人々を完全に救うことは、できませんでした。
 しかし、後に、完全な救い主イエス様が来られたのです。イエス様は、神である方、神様のことばそのものである方、神様の律法を完全に成就なさる方であり、人々の罪を完全に贖うことができる方です。
 つまり、モーセが行ったことは、すべて、その完全な救い主イエス様が来られることをあらかじめ証言するものだったというのです。ですから、モーセがどれほど偉大な存在であっとしても、神の御子キリストのほうが、モーセよりもはるかに優る方なのだというのです。

(2)イエス様の役割

 では、イエス様については、どのように説明されているでしょうか。
 2節に「モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです」とありますね。イエス様もモーセと同じように、父なる神様に忠実に従われました。
 しかし、イエス様の役割は、モーセとは違っています。
 
@神の家を建てる方

 3節-4節には「家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です」とありますね。
 モーセは神の家につかえるしもべでしたが、イエス様は、その家を造られた神なる方です。思い出してください。この手紙の1章2節には「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました」と書き出されています。イエス様は、神の家を建てる者であり、万物の相続者としての権利を持っておられる方なのです。

A神の家を治める方

そして、6節に「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」とあります。キリストは神の御子、神の家の相続者として、神の家を治める方なのです。
 そのキリストが治める「神の家」について、続けてこう書かれていますね。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」私たちが、神の家なのですね。
 イエス様を信じる私たちのうちに聖霊が宿ってくださいます。
ですから、私たち一人一人が神の家と言うことができますね。また、エペソ2章19節には「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」と書かれています。神の家族とされている私たちの集まり、つまり、教会が神の家なのですね。第一テモテ3章15節にも「神の家とは生ける神の教会のことであり」と書かれています。私たちは、イエス様を信じる信仰によって神の家とされたのですね。
そして、6節の後半に、「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」と書かれていますね。これは、私たち一人一人が家を築く一つ一つの石のような存在となるということなのです。それは、お城の石垣のようですね。それぞれが違った形だけれど、組み合わされると地震が起きてもびくともしない堅固なものになっていくのです。
 私たち一人一人が集められて神の家が建てられ、イエス様がその家を忠実に治めてくださいます。「忠実」とは「信頼に足る」ということです。「決して裏切らない」「偽りがない」ということです。イエス様は、恵みとまことに満ちておられるお方です。痛んだ葦を折ることがなく、くすぶる灯芯を消すことのないお方です。イエス様は、恐れや強制によって治める方ではありません。律法や戒めで縛りつけたり、罰を与えて治めることもなさいません。恵みとまことによって治めてくださるのです。
 ところで、家というのは、本来、そこにいることが良いとか悪いとか決して問われない場所であるはずです。ありのままでくつろぐことの出来る場所、本当の自分でいられる場所のはずです。ですから、家にいるときが一番ほっと出来るのです。
 私たちは、神の家の中で本当の安心と安息とくつろぎを味わうことができるのです。もしできないなら、何かが違っているのです。
 詩篇23篇6節には「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と書かれています。この「いつまでも、主の家に住まいましょう」ということが、今、恐れや困難の中にいるこの手紙の読者に問われているのです。主の家に住み続けるなら、いつまでも神様のいつくしみと恵みとが追ってくるからです。
 また、申命記33章27節には「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に」と書かれています。神様が住む家となってくださり、神様の永遠の腕が私たちの下にある、つまり、神様が永遠に私たちを支え続けてくださるというのです。
 人が人を支え続けることはできません。短い間なら支えられることはできますが、支え続けることはできませんね。しかし、私たちの神様は、永遠に支え続けてくださるのです。神様に支えられ続けていくのがクリスチャン・ライフです。確信がなくなったり、挫折して希望が失せてしまうようなことがあるかもしれません。でも、私たちが落ち込んでも、その下に神様の腕があるのです。ですから、安心しようではありませんか。

 最後に、6節の後半の言葉をもう一度読んでください。
「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」
 「確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けよう」と勧めていますね。現実には、苦労があるし、困難は次から次へとやってくるかもしれません。だから、イエス様についてよく考えるのです。そして、イエス様の恵みにまことに気づかされながら、終わりの時まで「いつまでも主の家に住まいましょう」と告白しながら、天を目指す旅人として歩んでいきましょう。