城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年二月二六日            関根弘興牧師
                  ヘブル三章七節〜一九節
 ヘブル人への手紙連続説教7
    「きょうを大切に」

7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。9 あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。13 「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。18 また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。19 それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。(新改訳聖書)


先週は、3章の前半から「私たちは天を目指す旅人であり、イエス様を見つめながら歩んでいこう」というお話をしました。
 イエス様は、「使徒」であり「大祭司」なる方です。
 「使徒」というのは、父なる神様から権威と力を与えられて私たちのもとに遣わされ、私たちに神様のみこころを示し、また、私たちのために神様のみわざを実際に行ってくださる方という意味です。ヨハネ12章45節でイエス様は「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」と言われましたが、イエス様を見つめていると神様がどのような方であるかがわかるのです。そして、イエス様を信じ受け入れるなら、神様との親しい関わりの中で生きていくことができるのです。
 また、「大祭司」というのは、私たち人間の代表として、父なる神様の前に出て、私たちの罪を贖い、私たちのためにいつもとりなしてくださる方だということです。
 つまり、イエス様は、私たちに対しては「使徒」として神様を代表するお方であり、神様に対しては「大祭司」として私たちの代表となってくださる方です。それは、イエス様がまことの神であるとともに、まことの人となってくださったからこそ可能になったのです。
 イエス様は、神様と私たちの関係の回復するためのみわざを完璧に成し遂げてくださいました。ですから、この手紙の記者は、イエス様に対する確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けよう」と勧めているのです。
 ただし、それは、自分自身の頑張りや熱心さによるのではありません。聖書は「神の永遠の腕が下にある」と約束しています。私たちが転んでも、落ち込んでも、その下に神の永遠の腕がある、永遠の支えがあるのです。だから、安心して確信と希望の誇りを持って人生を歩んでいくことができるわけです。
 そして、今日の箇所では、私たちが「確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続ける」ことの大切さを、旧約聖書の出来事を通して教えています。詳しく見ていきましょう。

1 荒野での試みの日に

 7節から11節に、こう書かれていますね。「きょう、もし御声を聞くならば、 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」これは、詩篇95篇の後半からの引用です。
ここに書かれている荒野での出来事は、イスラエルの歴史の中で最も記憶に残る重大なもので、旧約聖書の出エジプト記から申命記までの四つの書に記録されています。
 イスラエル民族はエジプトで奴隷として苦しい生活を送っていましたが、神様は、モーセという指導者を遣わし、様々な奇跡を起こして、エジプトから脱出させてくださいました。そして、荒野を旅していく間、夜は火の柱、昼は雲の柱によって導き、マナという食べ物を毎日天から降らせ、岩から水を出して養ってくださいました。また、幸せに生活するために必要な律法を与え、神様が共にいてくださることを表す幕屋を造らせて、そこで神様に祈り、罪の贖いができるようにしてくださいました。神様は、数々の大きな奇跡を行ってご自分の力を示してくださり、また、何もない荒野で必要なものをすべて備えてくださったのです。神様は、荒野の旅を通して、神様がどれほど信頼に足るお方かを教えると共に、イスラエルの民がどれほど神様を信頼して歩むことができるかを試されたのです。
 ところが、イスラエルの民は、奴隷生活から救われ、神様の素晴らしい奇跡を実際に見、神様から様々な恵みを受けていたのにもかかわらず、感謝するどころか、不平ばかり言っていました。自分たちの欲望を満たすために勝手なことをし、少しでも不自由や困難があると、モーセを批判し、神様までも批判したのです。「こんな荒野で生活するくらいなら、エジプトにいたほうがましだった」「神様は、私たちを荒野で死なせるためにエジプトから連れ出したのではないか」「毎日毎日、同じマナばかりであきあきした。エジプトの食べ物のほうが良かった」などど文句を言ったのです。また、「神様の律法に従います」と誓ったのに、身勝手な欲望のまま逆らうことばかりしていました。彼らがあまりにも頑なで、素直に従おうとしないので、神様は彼らを「うなじのこわい民」と呼ばれました。ろばがくびきを付けるのを嫌がってうなじを硬直させる様子にたとえたわけですね。
 エジプトを脱出して二年目に彼らは神様の約束の地のすぐ近くに来ました。モーセは、神様の命令に従って、約束の地を調べる十二人の偵察隊を送りました。偵察隊は帰って来て、こう報告しました。「あの地は肥沃な素晴らしい土地だ。しかし、強そうな背の高い民がたくさん住んでいる」と。
 十二人の偵察隊のうち二人は「上って行って、あの地を占領しよう。神様が導いてくださるのだから、必ずできる」と言いましたが、他の十人は「あんな強うそうな民に勝てるわけがない。私たちは、約束の地に入ることはできない。リーダーを選び直してエジプトに帰ろう」と言ったのです。すると、イスラエルの民は十人の意見に引きずられて「私たちは約束の地に入ることはできない」と嘆き悲しみました。神様のすばらしいみわざを経験してきたのにも関わらす、神様を信頼して進もうとはしなかったのです。
 その結果、その後約三十八年間、彼らは荒野を放浪することになりました。そして、「約束の地に入れない」と言っていた人々は皆、荒野で死んでいったのです。合計四十年間の荒野の生活の後、約束の地に入れたのは、神様に従う心を持ち続けた少数の人と新しい世代の人々だけでした。つまり、イスラエルの民は、心をかたくなにしたために、神様の御怒りを引き起こし、約束の地に入ることができなかったわけですね。
 この不名誉な出来事は、決して忘れることがないように旧約聖書の様々な箇所に記録されて、神殿でもユダヤ人の会堂でも朗読されました。今日の箇所に引用されている詩篇95篇もその一つです。
 そして、ヘブル人の手紙の記者は、私たちクリスチャンに対しても「あの荒野での出来事を忘れてはいけない。あの時のイスラエルの民のように心をかたくなにしてはならない」と語りかけています。
 なぜなら、イスラエル民族の荒野の放浪の旅は、私たちクリスチャンのこの世の旅をあらかじめ予告している型だからです。
 イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救い出されたのは、私たちが罪の奴隷状態から救い出されたことを示す型です。また、荒野の旅は、私たちのこの世での生活を示しています。この世の生活には、荒野の旅と同じように様々な困難があります。飢え渇いたり道に迷ったりすることもあります。しかし、神様が私たちと共にいて守り、必要な糧を与えて養い、約束の地へ
と導いてくださるのです。申命記29章5節には「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」とあります。神様のほうでは、あなたのために、必要な備えを用意してくださっているのです。ですから、私たちは、昔の荒野でのイスラエルの民の失敗から、この世を生きる上で参考になる多くのことを学ぺるのです。
 では、今日の箇所では、この手紙の記者は、私たちにどのようなことを教えているでしょうか。

2 この世の旅の中で
@「きょう」を大切に

まず、7節に「きょう、もし御声を聞くならば」とありますね。また、13節には「『きょう』と言われている間に」とあります。「きょう」が大切だというわけです。
 こんな詩があります。

   「そのうち」
 そのうちお金がたまったら
 そのうち家でも建てたら
 そのうち子どもから手が離れたら
 そのうち仕事が落ち着いたら
 そのうち時間のゆとりができたら
 そのうち そのうち そのうちと
 できない理由を繰り返しているうちに
 結局は何もやらなかった
 むなしい人生の幕が降りて
 頭の上に寂しい墓標が立つ
 そのうち そのうち 日が暮れる
 今来たこの道 帰れない 

 聖書も同じようなことを教えています。ヨハネ9章4節でイエス様はこう言われました。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」今、イエス様を信じることによって誰でも救われる、という恵みが示されています。でも、「そのうち、そのうち」と言って先延ばしにしているうちに手遅れになってしまうのですよ、と教えているのですね。パウロは、第二コリント6章2節で「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」と書いています。恵みの時、救いの日である「きょう」が大切なのですね。

A御声に聞き従う

 次に、「もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」とありますね。そして、11節には、神様が「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない」という言葉があります。今日の箇所に引用されているのは詩篇95篇の後半だけですが、後半だけ読むと、「あなたの信仰がちゃんとしていないと安息に入れないぞ」と脅迫されているような感じがするかもしれませんね。
 でも、この詩篇95篇の前半を読むとそうではないことがわかります。詩篇95篇1節ー7節前半には、こう書かれています。「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。」このように、詩篇95篇の前半は神様への賛美に溢れているのです。この手紙の宛先であるユダヤ人クリスチャンたちも、そのことはよく知っていました。
 つまり、詩篇95篇は、前半は「神様が私たちを救ってくださった。神様は天地万物を造り支配しておられる方で、羊飼いとして私たち羊を養い、守り、導いてくださっている。だから、感謝と賛美の歌をもって御前に進み行き、主に向かって喜び叫ぼう」という内容で、後半は「私たちは神様の牧場にいる羊なのだから、良い羊飼いである神様の御声を聞き分けて従って行くことが最も安心で幸せな生き方なのだ。羊飼いの声を無視して自分勝手にさまよっていったら、決して安息を得ることはできないのだ」ということを教えているわけですね。
 では、きょう、私たちはどのようにして御声を聞くことができるでしょうか。神様は、聖書を通して語りかけてくださいます。聖書の言葉に耳を澄ませ、その言葉に聞き従って生きるのが幸いな生き方なのです。なぜなら神様は、愛と真実を持って、私たちに最善のことを語ってくださるからです。また、神様は、私たちを生かし、育み、慰め、癒やし、希望を与え、豊かな祝福で満たすために語りかけてくださるからです。ですから、「主よ、きょう、お語りください。私は聞いております」という姿勢を持って生きていきましょう。
 ただし、大切なのは、聞いたときにどのような応答をするかです。荒野のイスラエルの民は、神様の御声を聞いたのに、心をかたくなにして受け入れませんでした。かえって神様に逆らうことを行いました。神様のことばを信頼せずに、恐れ、心配し、不平や愚痴ばかりでした。せっかく神様が素晴らしいみわざを行ってくださったのに感謝も賛美も忘れ、かえって神様を試すために自分勝手な要求をしたり、思う通りにならないと批判したりしたのです。その結果、彼らは本当の安息に至ることができませんでした。
 私たちは、どうでしょうか。もちろん、神様を疑ったり、不平不満を持ったり、自分勝手なことを期待することもあるでしょう。しかし、大切なのは、神様がしてくださった救いのみわざや日ごとの恵みに感謝と賛美を忘れないこと、また、神様のことばに耳を傾け、心を開いて素直に聞き、わかったことに信頼をもって進んでいくことなのです。

B互いに励まし合う

 7節ー8節では「神様の言葉を聞いたら心をかたくなにしてはならない」と勧められていますが、13節には「日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」と勧められていますね。つまり、神様の言葉だけでなく、信仰の仲間の間で語られる励ましや指摘の言葉にも耳を傾ける必要があるということです。
 私たちは一人では本当に弱いものです。でも、神の家族として、キリストのからだとして互いに補い合い、支え合うことができます。一人一人皆違うので、それぞれのやり方で誰かを励ますことができるのです。その時に、相手の最善を願って語ることが大切です。罪に惑わされないようにするために語られる言葉は、時には、厳しく感じられることもあるかもしれません。しかし、かたくなになるのではなく、耳を傾けていきましょう。

C最初の確信を終わりまでしっかり保つ

 次に、14節に「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです」と書かれています。
 この手紙の宛先であるユダヤ人クリスチャンたちは、このままイエス様を信じ続けていっても本当に大丈夫だろうか」という不安の中にいました。ですから、この手紙には、「最初の確信を終わりまでしっかり保とう」とか「確信と希望の誇りを終わりまでしっかり持ち続けよう」という励ましの言葉が頻繁に出てきます。そして、そうすれば「キリストにあずかる者となる」と書かれていますね。「キリストにあずかる者」とは「キリストの仲間」とか「キリストに繋がる者」という意味です。
 こういう箇所を読むと、不安になる人がいます。「もし最初の確信を終わりまでしっかり保てなければ、キリストにあずかる者になれないのだろうか」「私は確信を最後までしっかり保てないかも知れない」と心配になるのです。でも、もしそういう心配があるのなら、大丈夫です。無病息災という言葉がありますが、今は一病息災の方が長生きなのだそうです。病気があるほうが気を付けて生活するからです。
 クリスチャン生活も同じです。「私は何が起こっても大丈夫」と強がっているよりも弱さを覚えているほうがいいのです。
 ペテロはイエス様に「たとい全部の者がつまずいても、私は決してつまずきません」と威勢良く宣言しましたが、イエス様が逮捕されたとたん「イエスなど知らない」と三度も否定してしまいましたね。でも、イエス様は、そんなペテロに「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。
信仰に生きるとは、自分の頑張りや力によって生きるのではなく、自分の弱さを認め、聖書の言葉に信頼し、神様に委ねて生きることなのです。自分の力や自分の信仰ではなく、神様の力と約束の言葉に対する確信をしっかりと保っていきましょう。

D不信仰にならないように

それから、12節に「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」、19節に「それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」とありますが、ここに「不信仰」という言葉が出てきますね。「不信仰」のために「生ける神様から離れ」「安息に入れなかった」というのです。
 「不信仰」とは何でしょう。18節に「従おうとしなかった人たち」とありますね。つまり「不信仰」とは「自分の意志で神様に従おうとしない」という態度なのです。神様の声を聞くことが出来るのに、意志的に拒否する姿です。神様が「あなたのために安息を用意しているから来なさい」と招いておられるのに、「いいえ、結構です。あなたに従うつもりはありません」という応答が不信仰なんです。
 ときどき「私は不信仰なので」とおっしゃる方がいますね。たぶん謙遜で言っておられるのでしょうが、その言葉は使わない方がいいですね。「私は神様に従う意志がありません」と告白しているようなものですから。
 でも、「神様に従おう」と思っても、なかなか従えないという葛藤を感じることはありますね。聖書の言葉を信じ切れなくて心配や恐れや思い煩いに襲われることもあるでしょう。しかし、それは「不信仰」とは言わないのです。むしろ、それは、正常なクリスチャン生活を送っている証拠なのです。
 先ほどお話ししましたように、私たちは弱い器です。恐れたり迷ったりします。でも、「主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」です。葛藤しながらも、日ごとに「主に人生を委ねます」と告白し、確認していくのです。試みや誘惑の多いこの世の中で、神様の御声を聞いて信頼して進む道を意志的に選び取っていくことが大切なのです。そのために互いに励まし合いつつ、共に礼拝し、神様に賛美と感謝をささげながら、かたくなな心をほぐしていきましょう。