城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年三月二六日            関根弘興牧師
                 ヘブル五章一一節~一四節
 ヘブル人への手紙連続説教11
    「成長を妨げるもの」

11 この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(新改訳聖書)


 このヘブル人への手紙を通して学ぶことができるのは、イエス様が偉大な大祭司だということです。
 大祭司というのは、人の代表として神様の前に出て、人々の罪のあがないをし、また、人々のためにとりなしの祈りをし、神と人との間を仲介する役割を担っていました。ユダヤの社会では、レビ部族のアロンの子孫が神殿で大祭司の務めを受け継いでいましたが、大祭司が必要なのはユダヤ人だけではありませんね。私たち一人一人のためにも、神様の御前で罪を贖い、とりなしてくださる仲介者が必要なのです。その私たちのために仲介者となってくださったのがイエス様であり、このイエス様こそアロン系の大祭司よりもはるかにまさった偉大な大祭司なのだ、とこの手紙は教えているのです。
 先週お話ししましたが、大祭司になるための三つの条件がありましたね。第一は、人の代表となるわけですから、大祭司は人でなければならない、ということ。第二は、人々のとりなしをするのですから、人々を理解し、思いやることができなければならない、ということ。第三は、自分の希望や人の推薦によってではなく、神様に召された者でなければ大祭司になることはできない、ということでした。
 イエス様は、この三つの条件をすべて満たすお方です。イエス様は私たちと同じ人となって来てくださいました。そして、私たちと同じ立場で、同じような経験をしたので、私たちを理解し、思いやることがおできになります。私たちの弱さをおもんばかり涙と叫びとを持って私たちのために赦しと最善を祈られました。また、イエス様は、父なる神様によってとこしえの大祭司として召された方です。旧約聖書の律法によれば、大祭司はレビ族のアロンの子孫だけがなれることになっていました。イエス様はユダ部族のダビデの子孫ですから、律法の規定によれば大祭司となることはできません。しかし、前回の5章6節、10節にあるように、神様はイエス様を「とこしえに、メルキゼデクの位に等しい大祭司」とされたというのです。メルキゼデクは、律法が与えられるよりずっと昔のアブラハムの時代に登場した人物で、イスラエルの父祖であるアブラハムのために神様の祝福を祈った祭司です。ですから、ユダヤ人の間では、メルキゼデクは、アブラハムの子孫であるアロン系の大祭司よりもはるかにすぐれた、理想的な大祭司だと考えられていました。この人物については、7章に詳しく書かれているので、7章を読むときに詳しくご説明したいと思います。
 とにかく、「メルキゼデク」と聞いても私たちはピンときませんが、この手紙を読んでいるユダヤ人クリスチャンたちは、イエス様がメルキゼデクの位に等しい大祭司だと書かれているのを見て、大変な驚きと感動を覚えたのではないかと思います。 ただ、そうでない人たちもいたようです。迫害や様々な困難の中で過ごすうちに、いつの間にか、イエス様についての素晴らしいメッセージを聞いても理解できず、感動もせず、喜びも失われてしまった人たちがいたのです。
 そこで、この手紙の記者は、今まで語ってきた「イエス様は偉大な大祭司である」というテーマをいったん傍らに置いて、今日の箇所から6章にかけて一人一人のクリスチャン生活をもう一度見つめ直すように、ということを記していくのです。そして、7章からは、また、イエス様が偉大な大祭司であるというテーマに戻っていきます。
 今日の箇所では、クリスチャンたちに対して耳の痛いことがいくつか書かれていますが、私たちはどうでしょうか。自分の信仰生活を見つめ直してみましょう。

1 耳が鈍くなっている
 
 まず、11節に「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です」と記されていますね。「この方」というのは、イエス様のことです。「素晴らしいイエス様について話すべきことがたくさんあるのだけれど、あなた方は聞いても理解できない」というのですね。
 皆さんが教会に来始めた頃のことを思い出してください。その時の説教を覚えていますか。ほとんど覚えていないという方も多いのではないでしょうか。「何だか牧師が興奮して話していたけど、よくわからなかったな」と思った方もおられるでしょう。しかし、最初はそうであっても、一年経ち二年経ち、イエス様のことがだんだんわかってきます。そして、聖書から、様々なことに気づかされ教えられていくようになるのです。
 パウロは、エペソ3章17節ー19節で、こう祈っています。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
 クリスチャン生活とは、人知をはるかに越えたキリストの愛を知り続ける生涯なんです。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを味わい続ける生涯なんです。汲めども汲めども尽きることのない主の深い愛と恵みを味わい、その中で生かされていく生涯なのです。何と幸いなことでしょう。
 しかし、この手紙の読者の中には、そういうキリストについての話に対して「耳が鈍くなっている」人たちがいたのです。 「耳が鈍くなっている」とは、耳に病気や障害があって聞こえづらくなっているという意味ではありません。「聞こうとしない」「聞く意志がない」ということです。イエス様のことについて真剣に聞いて受けとめようとしない状態なのです。
 私たちは、どうでもいい話にだけ耳が敏感に反応することがありますね。人の噂話は聞き漏らさないように耳をそばだてるのに、本当に聞くべき事には耳をふさいでいることがあるのではないでしょうか。でも、皆さん、私たちは、恵みのみことばに耳をそばだてる者となっていきましょう。
 それから、「鈍くなっている」という言葉には、「ふさがっている」という意味もあります。ですから、別の訳では「あなたがたの心がふさがってしまっている」と訳されています。
マタイ13章4節ー8節では、イエス様がこのような種まきのたとえをお話になりました。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」そして、「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のこと」だと言われたのです。
 「悟る」というのは「合点する」という意味です。テレビで「ためしてガッテン」という番組がありますね。説明を聞いて「なるほど」と思った人がボタンを押すと「ガッテン、ガッテン」という声が聞こえますね。つまり、みことばを聞いて「悟る」とは、「なるほど」とガッテンすることなんです。その反対に、「耳が鈍っている」「心がふさがっている」というのは、みことばにガッテンしないということです。
 この手紙の読者であるユダヤ人クリスチャンたちは、迫害や困難の中で、イエス様の素晴らしさを聞いてもガッテンできなくなってしまっていたのかもしれません。
 私たちも、聖書のことばにガッテンできないで葛藤したり悩むことが時々ありますね。困難や問題が襲ってきた時、心配や思い煩いが心を覆っている時、この世の様々な誘惑に惑わされている時、みことばが信じられないことがあるかもしれません。
 しかし、そんな時には、耳をふさぐのではなく、あえて耳を澄ませ、心を開いて受け入れ、信頼し委ねて生きることが大切なのです。 パウロは、ローマ10章17節で「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と書いています。まず、耳をそばだてて聞きましょう。この手紙の2章3節に書かれていたように、イエス様が与えてくださる「こんなにすばらしい救い」をないがしろにしたら、人生最大の損失です。耳が鈍ってわからないままだったら、あまりにももったいないですね。

2 義の教えに通じていない

次に、5章12節ー13節にこう書かれています。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」
「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず」というのを読むと、ドキッとする方もおられるかもしれませんね。しかし、この手紙の記者はここで何を言おうとしているのでしょうか。
 実は、パウロも同じようなことをコリント教会に書き送っています。第一コリント3章1節ー2節にこう記しているのです。「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」ここで、パウロは、クリスチャンの中に「御霊に属する人」と「肉に属する人」がいると言っています。「肉に属する人」は、キリストにある幼子で、堅い食物を食べることができないというのですね。
 このパウロの言葉と、今日の13節の言葉を付き合わせると、キリストにあって成人しているか幼子のままかの違い、また、「御霊に属する人」か「肉に属する人」かの違いは、「義の教えに通じている」かどうかという点にあるということですね。義の教えに通じていない人は、「幼子」のままで、「肉に属する人」だというのです。
 コリント教会は、聖霊の賜物が豊かに与えられ、奇跡や不思議なみわざが現されていた教会でした。しかし、教会の中には、ねたみや争いや分裂があり、礼拝の秩序は乱れ、裁判沙汰まで起こる始末でした。問題山積の教会だったのです。聖霊の実である愛、喜び、平安などの品性が実っていくにはほど遠い状態で、キリストのからだとして成長する姿が見られなかったのです。そこで、パウロは「あなたがたは肉に属する人で、幼子だ」と書き送りました。
 それと同じ姿が、このヘブル人への手紙の読者であるクリスチャンたちの中にも見られたのかもしれません。
 私たちも、気をつける必要があります。問題の無い教会などどこにもありません。問題の無い人もいません。私たちは欠けのある存在です。ですから、イエス様の恵みに触れ続けながら自らを見つめ、正し、義の教えに通じていくことがクリスチャン生活の大切な一面なのです。
 では、聖書が教える「義の教え」とは、どのようなものでしょうか。

①義と認められるのは、信仰による

 「義」という言葉の一つ目の意味は、神様から無罪宣告を受け、罪のない者として認められているという意味です。
 私たちは、皆、罪がありますから、本来ならば有罪とされるはずです。しかし、イエス様が、私たちの罪を背負って十字架についてくださり、私たちの受けるべき罰を身代わりに受けてくださったので、イエス様を救い主として信じる者は皆、罪のない者、義なる者と認められるのです。
ガラテヤ2章16節には、こう書かれています。「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。」
 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス様を信じる信仰によるのだ、というのが聖書の教える大切な「義の教え」です。ところが、クリスチャンになってからも、信仰でなく律法の行いによって義と認められようとする人たちがいました。特に、長い間、律法を守るように教えられてきたユダヤ人クリスチャンの中には、「キリストを信じるだけでは不十分だ。律法の戒めも守らなければならない」と考えたり教えたりする人がいたのです。
 私たちは、どうでしょうか。イエス様を信じて救われたのはわかっているけれど、礼拝を欠席したり、聖書をきちんと読めなかったり、祈れなかったり、失敗したり、過ちを犯したり、人を愛せなかったりすると、「このままでは神様から裁かれる」と思ってしまうことはないでしょうか。あるいは、神様に認められるために聖書の教えを守っていかなければならないと頑張っても挫折して自分を責めることの繰り返し、ということはないでしょうか。そういう信仰生活は、ユダヤ人の律法主義と同じで、「キリストを信じるだけでは十分ではない。神様の命令を守れなければ罪ある者として裁かれる」という間違った思い込みによるのです。それこそ、義の教えがわかっていない幼子の生き方、自分の力で義と認められようとする肉に属する人の生き方です。
 しかし、聖書は、「人は自分の力で律法を守ることによって義と認められることは決してできない」と教えています。律法を完全に守れる人などいません。だからこそ、救い主イエス様が必要なのです。イエス・キリストの十字架によってすべての罪は赦され、私たちはただそれを信じることによって完全に義と認められるのです。ですから、私たちは、弱くても欠けがあっても罪を犯してしまっても、すでにすべての罪は赦されているのですから、ただありのままの自分を神様にお委ねして、常に罪の赦しと新しいいのちを受けつつ喜び感謝して生きていけばいいのです。礼拝も聖書を読むのも祈るのも、罪赦され義と認められたことへの感謝と喜びを表すためのものなのです。

②神様との正しい関係が回復された

 それから、「義」という言葉には「正しい関係」という意味もあります。罪によって破壊され、ずれていた神様と私との関係がまっすぐな状態に回復したということなのです。
 それは、私が完全な人間になったからではありません。イエス様の十字架によって、私と神様との間を隔てていた罪の壁が取り除かれました。ですから、もはや神様に隠し事をしたり、見栄を張ったり、上辺を装ったりする必要はまったくありません。ありのままで自由に神様のみまえに出て、神様を「お父さん」と親しく呼ぶことができるようになったのです。
 神様との親しい関係の中で生きていくときに、人は成長し、品性が変えられていきます。聖霊の実が実っていきます。神様の愛と恵みを味わうと、ねたみや争いの虚しさがわかってきます。また、神様のみこころを知り、聖書の約束の確かさに感動しながら歩んでいく者とされていくのです。

 私たちは、「ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」ということと「神様とのまっすぐな親しい関係の中で生きていくことができる」という義の教えを十分に理解し、納得することがなければ、クリスチャンとして成長していくことはできません。
 私たちがどんな状態であろうと、キリストの十字架によって神様から義と認められ、受け入れられていること、そして、神の子どもとなった私たちを神様がいつも豊かに愛し、赦し、成長させ、祝福してくださっていることを覚えて感謝と賛美をささげていきましょう。

3 良い物と悪い物とを見分ける感覚が訓練されていない
 
次に5章14節にこう書かれています。「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」
良い物と悪い物とを見分ける感覚が訓練されている人は、おとなだけれど、そうでない人は幼子だというのですね。
 赤ちゃんは、何でも口に入れてしまいますね。でも、次第に口に入れてよい物とそうでない物の区別がわかってきます。信仰生活も同じで、経験と訓練によって見分ける感覚が身につくというのですね。

①経験によって

 イエス様を信じたとき、私たちは神の子どもとして新しく生まれました。そして、赤ちゃんと同じように少しずつ成長していきます。成長には時間がかかります。「クリスチャンになったのに、全然変わっていない」と心配する必要はありません。いろいろな経験を通して、少しずつ成長していくのですから。失敗や挫折の経験も大切です。ローマ8章28節にあるように、「神様はすべてのことを働かせて益としてくださる」のですから、すべてのことが成長の糧になるのです。そして、良い物と悪い物を見分けることができるようになっていくのです。
 ただ、いつも本物に触れていることが大切です。銀行の窓口にいる銀行員は、いつも本物のお札に触れているので、偽札が混ざっているとすぐわかるそうです。私たちもいつも聖書の言葉に触れ続けていくことによって良い物と悪い物を見分けることができるようになるのです。

②訓練によって

 第一テモテ4章8節に「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」とあります。健康維持や体力促進のためには、スポーツやウォーキングをして肉体を鍛錬しますね。それも有益だけれど、「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」というのですが、この「敬虔」と訳されているのは「神様を心から信頼し敬う」という意味の言葉です。クリスチャン生活には、晴れの時も嵐の時も暴風雨のような時もあります。しかし、どんな時も「神様、私はあなたを信頼し、敬います」という信仰を告白する訓練をしていくのです。

 私たちは、幼子のままで留まるのでなく、成熟を目指していきましょう。周りがどのような状況であっても、耳を鈍らせ心をふさいでしまうことがないように、聖書のことばに耳を開き、信仰によって赦され救われていることを確信し、神様とのまっすぐな親しい関係の中にあることを喜びましょう。また、愛なる神様が経験と訓練によって私たちを成長させてくださり、良い物と悪い物を見分けることができるようにしてくださることを信頼しつつ、今週も、聖霊の助けをいただきながら歩んでいきましょう。