城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年8月27日            関根弘興牧師
                 ヘブル11章8節ー16節
 ヘブル人への手紙連続説教26
    「信仰に生きた人々4」

8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(新改訳聖書)

11章1節に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と書かれています。これが11章のテーマです。そして、11章2節には、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」と書かれています。昔の人々とは、旧約聖書に登場する人物たちのことです。彼らは、信仰に生き、まだ実際に見てはいないものを確信し、将来に希望をもって生きていった人たちでした。そして、4節から、信仰に生きた人物を順番に紹介しているわけですが、これまで、アベル、エノク、ノアについて見てきましたね。今日は、アブラハムとその妻サラの姿から学んでいきましょう。
 
1 アブラハムの決断

 先週は、大洪水でノアの夫婦とその三人の息子と妻たちだけが箱舟に乗って助かったという出来事を学びましたね。そのノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテから多くの子孫が生まれ出ていったのですが、その中でセムの子孫として登場するのがアブラハムです。そして、このアブラハムの子孫がイスラエル民族となったのです。ですから、アブラハムは、イスラエルの人々にとって、民族の父祖、また、信仰の父として最も親しみのある存在でした。
 アブラハムの生涯は、創世記12章から詳細に記されています。 アブラハムは、最初はメソポタミヤ地方に住んでいましたが、神様はアブラハムにこう言われました。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1節ー3節) アブラハムはこの神様の言葉に従う決心をしました。それは、アブラハムが七十五歳の時でした。
 今日の聖書箇所の8節にこう書いてありますね。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」最初は、はっきりとした行き先がわからないまま出発したというのです。今の時代なら、生まれ故郷や父の家を出ていく、ということは、それほど難しいことではありませんね。しかし、アブラハムの時代は、そうではありませんでした。アブラハムは、この時、少なくとも三つの大きな決断をしなければならなかったのです。

①生まれ故郷を離れるという決断

今、私たちは、日本に住んでいれば、その住んでいる国の権利や保護を受けることができます。また、旅に出ても、何かあれば、大使館の保護を受けることもできるわけです。しかし、アブラハムの時代はそうではありませんでした。生まれ故郷を離れることは、その場所で持っていた権利を放棄して放浪生活に入ることを意味していたのです。

②親族から離れるという決断 

当時は警察などありませんから、親戚同士が協力して互いの財産を守りました。ですから、親族を離れるということは、自分を保護してくれる人々から離れるということになるのです。

③父の家から離れるという決断

この当時、アブラハムの生まれた町には、たくさんの偶像があふれていたようです。アブラハムの父テラの家には、月の神をはじめ、たくさんの神々の像が置かれていた、という伝説があります。父の家を離れるという決断は、そうした様々な偶像から離れるということをも意味していたのです。

 このように、アブラハムの決断は、今まで持っていた権利を捨て、守ってくれる人々から離れ、天地万物の創造者なる神様にのみ頼って生きていく、という決断であったわけです。神様が「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われたのは、「あなたは、本気でわたしだけに信頼して生きていくか」ということを問うチャレンジだったわけですね。

2 カナンの地

 アブラハムは、神様に導かれてカナンの地に入りました。神様は、アブラハムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられました。そこで、アブラハムは、そこに祭壇を築いて神様を礼拝し、その土地で暮らすようになったのです。
 神様に従ってきたのだから、ここで幸せに暮らせるに違いない、と普通は期待しますよね。ところが、アブラハムの信仰を試すかのように、いろいろな問題が起こりました。
 まず、アブラハムがカナンに入ってしばらくすると、その地に激しいききんが襲いました。そこで、アブラハムは、食料があるエジプトにしばらく滞在することを決めて、エジプトに下っていきました。しかし、エジプトに近づくと心配になってきました。「妻のサラは美人だから、エジプト人はサラを奪うために私を殺すのではないか」と思ったのです。そこで、アブラハムはサラに言いました。「エジプト人には、あなたは私の妹だと言ってくれ。そうすれば、私にもよくしてくれるだろう。」実際に、サラはアブラハムの腹違いの妹でしたから、まったくの嘘ではありません。しかし、アブラハムはエジプト人を恐れて、人々を騙すという手段を取ってしまったのです。アブラハムの予想したとおり、非常に美しかったサラは、エジプト王の宮廷に召し入れられ、喜んだ王は、彼女のためにアブラハムによくしてくれ、たくさんの物を与えました。アブラハムは財産家になったのです。しかし、神様は、サラを守るために、エジプト王とその家をひどい災害で痛めつけた、と書かれています。それがどんな災害だったかわかりませんが、それによってサラがアブラハムの妻であることを知ったエジプト王は、サラをアブラハムに返し、多くの所有物とともにエジプトから送り出しました。アブラハムは自己保身のために不正な手段を使いましたが、神様がそれをやめさせ、アブラハムとサラを守ってくださったのです。
 カナンの地に戻ったアブラハムに、別の問題が起こりました。 アブラハムには、生まれ故郷からずっと行動を共にしてきた甥のロトがいましたが、アブラハムのしもべたちとロトのしもべたちが喧嘩を始めたのです。二人の家畜や財産が多すぎて、一緒に生活するには、その場所が狭すぎたからです。そこで、アブラハムはロトに好きな場所を選ばせて、別々に暮らすことになりました。ロトはソドムのあるヨルダンの低地を選んで、そこに移っていきました。
 「これで一段落。落ち着いて生活ができるぞ」とアブラハムは思ったに違いありません。しかし、一難去ってまた一難です。北方の国々の王たちが連合してソドムの地方を攻めてきて、ソドムに住んでいたロトとその家族と財産を奪い取っていってしまったのです。その知らせがアブラハムのところに届きました。アブラハムは悩みました。相手は大軍勢です。それに引き替えアブラハムの手勢は知れたもので、なすすべもないという状況です。しかし、アブラハムは、自分のしもべたち約三百人を召集して敵の大軍勢に奇襲攻撃をかけ、見事に、ロトたち家族とその財産を取り返したのです。
 アブラハムの生涯は、決して順風満帆ではありませんでした。神様から助けや守りを受けたこともたくさんありましたが、苦しんだり悩んだり迷ったりすることもいろいろとありました。
 また、神様は「この地をあなたの所有として与える」と約束してくださいましたが、アブラハム自身は、その約束が実現するのを見ることができませんでした。アブラハムの生涯で得た土地といえば、自分の家族の墓地とするために買い取ったマクペラという洞穴のある畑地だけだったのです。そして、神様の約束では自分たちのものになるはずの地で、他国人のように天幕生活を続けました。そして、神様の約束は、アブラハムの息子イサク、そして、その息子のヤコブに引き継がれていきますが、そのイサクとヤコブも神様の約束の実現を見ることはできず、天幕生活を続けたのです。
 しかし、アブラハムは、生まれ故郷を出てカナンの地にやってきた信仰の決断を後悔しませんでしたし、元の故郷に戻ろうとも考えませんでした。10節にこう書かれていますね。「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」アブラハムは、まだ見てはいないけれど、神様が用意してくださっている決して揺るぐことのない神の都を待ち望みつつ生活していたのです。

3 不可能を信じる

神様は、アブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民とする」と約束してくださいました。また、「あなたの子孫は、空の星、海の砂のように数え切れないほど多くなる」とも約束してくださいました。
 しかし、アブラハムとサラには、なかなか子供が生まれませんでした。神様の導きに従って出発したのが七十五歳のときでしたが、その後二十五年間、子供が生まれなかったのです。その間、アブラハムはいろいろと気をもんだようです。あるときには、自分に仕えている優秀な奴隷を養子にしようかと考えたこともありました。また、当時は、妻が不妊の場合は、妻の女奴隷に代わりに子供を産ませるという習慣がありましたから、その習慣に従って、サラの女奴隷ハガルに息子を産ませたこともありました。しかし、神様は、別のことを計画しておられたのです。
 アブラハムが九十九歳になった時、神様はアブラハムに現れ、こう仰せられました。「わたしは全能の神である。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす。来年の今ごろサラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。そのイサクと、わたしの契約を立てる。」
 それを聞いたアブラハムの反応は、どうだったでしょうか。創世記17章17節にこう書かれています。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」アブラハムは、心の中で笑いながら、「それは無理だろう」と思ったのです。
 一方、奥さんのサラの反応は、どうだったでしょう。創世記18章11節には、サラが年を取って、もう子供を産めない状態だったことが説明されています。そして、12節にこう書かれています。「それでサラは心の中で笑ってこう言った。『老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。』」正直な言葉ですね。二人とも、いくら神様が約束されても、そんなことは信じられない、笑ってしまう、という反応だったのです。
 私たちも「そんなことは信じられない」と思わず笑ってしまう、ということがありせんか。それは、私たちの正直な反応なんです。しかし、信仰に生きることは、「そんなことは不可能ですよ。笑っちゃいます」で終わらないのです。なぜなら、私たちの信じている神様は、無から有を生み出すことのできる全能の力を持っておられ、また、約束したことを必ず実現してくださる誠実な方だからです。その神様が約束してくださるなら、大丈夫かもしれないぞ、と少しずつ気付かされていき、そして、「神様がいてくださるのだから、大丈夫。そうだ委ねて生きていこう」という信仰の告白が与えられていくのです。
今日の聖書箇所の11節ー12節には、こう書かれていますね。「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」
 「彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた」とありますね。これは、信仰に生きる者たちが、いつも心にとめていくべき大切な言葉です。私たちは「約束してくださった方が真実な方」であるから、信じて生きていけるのです。

4 信仰による生き方

 さきほどお話ししたように、神様は、創世記12章2節でアブラハムにこう言われましたね。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」
 この「あなたの名は祝福となる」と訳されている箇所は、口語訳では「あなたは祝福の基となるであろう」、新共同訳では「祝福の源となるように」と訳されています。アブラハムは、祝福の基、祝福の源となったのですね。どのようにして、そうなることができたのでしょうか。それは、「信仰によって」なのです。
 神様はアブラハムにこう約束してくださいましたね。「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」しかし、アブラハムがその生涯のうちに得ることのできた土地は墓地だけで、サラから生まれた子孫はイサク一人だけでした。それでもアブラハムは、神様が約束してくださったことを信じました。
 創世記15章6節に、こう書かれています。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」これは、聖書の教えを要約する大切な言葉です。「信仰によって義とされる」、つまり、「信仰によって神様との正しい関係を回復することができる」ということです。神様が私たちに求めておられるのは、神様を信頼して生きること、それだけなのです。
 では、アブラハムは、神様の約束を信頼しつつ、どのような生活を送ったのでしょうか。

①他国人、旅人、寄留者として

今日の箇所では、アブラハムたちの生き方を表すのに、「他国人」「旅人」「寄留者」という三つの表現が使われていますね。これらは「よそ者」を指す言葉です。彼らは、地上での生活は一時的な仮のもので、本来属する場所は別にあるという生き方をしていて、まわりの人たちからは、自分たちと同化しない異質な者だと思われているような生き方をアブラハムたちはしていたのです。

②天の故郷にあこがれて

 ピリピ3章20節には「私たちの国籍は天にあります」と書かれています。信仰に生きる人たちが本来属する場所、最終目的地は天の故郷です。アブラハムたちは、天の故郷を実際の目で見たわけではありませんが、天の故郷にあこがれ、待ち望みつつ生きていったのです。

 何度もお話ししていますが、この手紙は、当時困難の中にあったユダヤ人クリスチャン向けに書かれたものです。彼らは、自分たちの生まれたユダヤ社会から追い出され、ユダヤ社会からもローマの社会からも「よそ者」扱いされていました。彼らの中には、以前いた場所に戻ろうかと考える人たちもいたでしょう。本当の安住の地はどこにあるのだろうかと思わされていた人もいたでしょう。そんな彼らがこの手紙を読んだとき、故郷を離れ、寄留者として生活するアブラハムの姿は、自分たちと重なって見えたことでしょう。また、絶対不可能と思われた息子イサクの誕生は、神様が約束を必ず実現してくださるという励ましを与えたことでしょう。まだ見ることはできないけれど天の故郷を望みつつ生きることの大切さも改めて思わされたのではないでしょうか。

5 神は彼らの神と呼ばれることを恥となさらない

 そして、16節に「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした」と書かれています。
 旧約聖書の中で、神様は、たびたび御自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と称されています。それは、彼らが完全で立派な人だったからでしょうか。いいえ、彼らも私たちと同じような弱さも欠点もある人間でした。今日は、詳しくお話しする時間がありませんが、創世記には、彼らの欠点や失敗がいろいろと記されています。しかし、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさらない」というのです。それどころか、「彼らの神と呼ばれることが、わたしの喜びだ」と言っておられるようですね。
 このことは、私たち一人一人に対しても同じように語られているのです。神様は、「わたしはあなたの神と呼ばれることを恥としない。いや、むしろ、わたしの喜びだ」と言われる方なのです。
 先日、天皇陛下の執刀医という方が紹介されていました。人を評価する基準の一つは、その人が誰のために働いているかですね。天皇陛下の執刀医と呼ばれたら、それだけで優れた医者だと評価されるわけです。
 でも、どうでしょうか。「関根弘興の神」と呼ばれても、神様の評価は高くなりそうもありませんね。「あの関根弘興の神なんて呼ばれたくないな」と思われてもしかたないぐらいです。しかし、神様は、「関根弘興の神」と呼ばれるのを恥とするどころか、喜んでくださるというのです。神様は、皆さん一人一人に「わたしは、あなたの神と呼ばれることを喜ぶ」と言っていくださるのです。ですから、私たちも神様に向かって大胆に「わたしの神」と呼びかけていきましょう。
 私たちは皆、地上では旅人です。でも、放浪者ではありません。天に国籍があり、天を目指して旅しているのです。晴れの日もあれば、雨の日もあります。道に迷うこともあれば、なかなか前に進めない時もあるかもしれません。しかし、そんな時にも、約束を与えられた神様が真実な方であり、必ず約束を実現してくださることを覚えながら、与えられた人生を歩んでいきましょう。