城山キリスト教会 礼拝説教    
2017年10月1日            関根弘興牧師
                ヘブル11章32節ー40節
 ヘブル人への手紙連続説教31
    「信仰に生きた人々9」

32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。35 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。36 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、37 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、38 ──この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした──荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。(新改訳聖書)

毎回お話ししていますが、この11章は「信仰とは何か」ということを教え、また、信仰に生きた実例として旧約聖書の人物たちを紹介しています。11章1節にこの章のテーマが書かれているので、まず、ご一緒に声を出して読みましょう。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」
 さて、これまで、旧約聖書の創世記からヨシュア記に登場する人物たちを紹介してきました。
 前回は、モーセの生涯の後半に起こった出エジプトの出来事、そして、モーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエルの民が約束の地に入ってエリコの町を占領した時の出来事を見ましたね。
 イスラエルの民は、エジプトで苦役を課せられ苦しんでいましたが、神様がモーセを遣わし、様々な奇跡を行ってエジプトから脱出させてくださいました。彼らは、その後、四十年間荒野で生活した後、ヨシュアをリーダーとして約束の地に入り、そこに住むことができるようになったのです。
 しかし、それで終わりではありません。その後も、旧約聖書はまだまだ続きます。ですから、このまま旧約聖書の人物を一人一人紹介していったら、とてつもなく長い手紙になってしまいますね。32節に、「もしほかの人たちについても話すならば、時が足りないでしょう」と書いてあるとおり、とても全員について書くことはできません。そこで、この手紙の記者は、32節からは、残りの旧約聖書の登場人物をざっくりとまとめて紹介することにしたのですね。どのような人々がいたでしょうか。

1 約束の地に入ってから登場する人物たち

①士師たち

 まず、今日の箇所の最初に名が書かれているギデオン、バラク、サムソン、エフタの四人ですが、彼らは、ヨシュア記の次の書物である士師記に登場するリーダーたちです。「士師」とか「さばきつかさ」と呼ばれています。
 士師記を見ると、約束の地に入ったイスラエル人は、ヨシュアの死後、それぞれが自分勝手な生活をし始めました。神様がエジプトから奇跡的な方法で救い出してくださったのにもかかわらず、その神様に背を向けて偶像礼拝をしたり、不道徳な行いをしたりし始めたのです。そこで、神様は、周りの敵によって彼らを圧迫させました。すると、彼らは助けを求めて神様に叫び求め、神様は、その叫びを聞いて、彼らを救うために士師を登場させて敵から解放してくださるのです。しかし、問題がなくなると、民はまた神様に背を向けて自分勝手なことをし始めます。そこで、また敵が襲ってくるようになり、イスラエル人が神様に叫び求めると、別の士師が起こされて救われる、この繰り返しが士師記に記録されているのです。ですから、士師記を読むと、人は、どんなに神様のすばらしいみわざを見、神様に従おうと決心しても、すぐに自分勝手に神様から離れていく性質を持っているのだということがわかるのですね。でも、神様は、人が何度神様に背を向けても、苦しみの中で叫び求めると救ってくださるのです。神様が忍耐深く、恵みとあわれみに満ちた方だということがわかりますね。
 さて、士師記には、十二人の士師が登場しますが、中でもここに名が挙げられている四人は有名です。時代の流れに沿って並べると、バラク、ギデオン、エフタ、サムソンの順になります。
 まず、バラクは、士師記4章と5章に登場します。彼は優柔不断なところがありましたが、女預言者デボラから受けた神様の指示に従って、カナン人の王と戦いました。カナン人の陣営には九百台の鉄の戦車があり、どう見ても勝てる相手ではありませんでしたが、見事に勝利したのです。
 次のギデオンについては、士師記6章から8章に書かれています。当時、イスラエルの国は、たびたびミデヤン人に襲われ、苦しめられていましたが、神様がギデオンに現れ、「あなたがイスラエルをミデヤン人の手から救え」と言われました。しかし、ギデオンは、「私の氏族は小さくて弱いし、私もまだ若くて、とても無理です」と訴えました。すると、神様は「わたしがあなたとともにいる」と約束し、臆病なギデオンに、いくつかの奇跡的なしるしを見せて励ましてくださったので、ギデオンは、勇気を得て立ち上がりました。敵は約十三万五千人、ギデオンたちはわずか三百人でしたが、奇跡的に撃退することができたのです。
 エフタは、士師記の11章と12章に出てきます。彼は遊女の子で家族から追い出されて、ごろつきたちと暮らしていましたが、アモン人がイスラエルを襲って来た時に立ち上がり、大勝利を収めました。
 そして、士師の中でも最も有名なのはサムソンでしょう。士師記13章から16章に登場します。彼は生まれる前から神様に特別な使命のために選ばれていました。非常な怪力の持ち主で、素手でライオンを倒したり、たった一人で敵のペリシテ人千人を打ち殺したりしました。その力の秘密は長い髪の毛にありました。髪を切ってしまうと、力もなくなってしまうのです。ペリシテ人は、サムソンに手を焼き、デリラという女性を使って、サムソンを陥れようとしました。すると、サムソンは魅力的なデリラに気を許し、自分の力の秘密を教えてしまったのです。デリラがサムソンが寝ている間に髪の毛を切ってしまうと、サムソンは力を失い、ペリシテ人にあっけなく捕らえられ、目をえぐり取られて、牢に入れられてしまいました。しばらくして、ペリシテ人たちは、サムソンの哀れな姿を見世物にしようと異教の神ダゴンの神殿に連れ出してきました。そこには三千人のペリシテ人が集まっていました。その頃には、サムソンの髪はまた伸びてきていました。サムソンは、自分の死を覚悟して神様に祈りました。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、このひとときでも、私を強めてください。」そして、宮をささえている二本の柱をそれぞれの手に抱えて力を込めて引くと宮が崩れ、その場にいた人たちは皆、下敷きとなって死んでしまったのです。「サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった」と書かれています。
 このように、いろいろな士師たちが登場しましたが、彼らは、決して完全無欠な英雄ではありません。皆、弱さや欠点がありました。失敗もし、様々な問題も起こりました。しかし、神様から使命を与えられ、信仰によって敵に立ち向かい、イスラエルの民を救ったのです。

②サムエルとダビデ

士師記の次は、サムエル記です。サムエル記には、預言者サムエルとダビデ王の活躍が描かれています。
 サムエルは、幼い時から神様の宮で仕え、神様の預言者として活躍し、イスラエルの民を指導し、いろいろな紛争を調停する裁判官の役割も果たした人物です。また、預言者たちの育成にも力を注ぎました。人々から大変尊敬され頼りにされる存在だったわけですね。
 イスラエルの人々がペリシテ人に圧迫されて苦しんでいるとき、サムエルは、こう語りました。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」人々は、サムソンの言う通りに偶像を取り除き、悔い改めの祈りのために集まってきました。すると、そこにペリシテ人が攻めてきたのです。サムエルは必死に祈り、イスラエルの民は勇気をもって立ち向かいました。すると、神様が雷鳴を轟かせてペリシテ軍をかき乱してくださったので、イスラエル人はペリシテ人を打ち破ることができたのです。
 しかし、サムエルが年を取ってくると、人々は、サムエルのような強力なリーダーとなる王が欲しいと言い出しました。そこで、サムエルは神様の指示に従って、まず、サウルを王に選びましたが、サウルが心から神様に従わなかったので、次に、ダビデを王に任命したのです。
 ダビデは、羊飼いの少年でしたが、ペリシテ人の巨人ゴリヤテを倒したことをきっかけにサウル王に仕えるようになり、多くの敵を打ち破って人気者になりました。それを妬んだサウル王に命を狙われ、しばらくは荒野で放浪生活をしなければならないこともありました。しかし、後に王となってエルサレムを中心にイスラエルの国の基礎を固めたのです。ダビデは、欠点や失敗もありましたが、神様の前で自分の過ちを正直に認めて悔い改め、いつも神様に信頼していたので、神様は「ダビデの子孫が永遠の王座につく」と約束してくださいました。それは、ダビデの子孫から救い主が生まれるという約束です。ですから、後に「救い主」のことを「ダビデの子」とも言うようになったのです。

③預言者たち

さて、ダビデ王の息子のソロモン王のときにイスラエルは全盛期を迎えましたが、ソロモンが死ぬと国は北と南に分裂してしまいます。北イスラエル王国は、初めから神様に逆らう悪い王が続いたので、アッシリヤ帝国に滅ぼされてしまいます。また、南ユダ王国は、神様に従おうとする王もいましたが、次第に王も民も神様に背き、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。捕らわれてバビロンに連れて行かれた人々は、次のペルシャ帝国の時代に故郷に帰ることを赦され、エルサレムと神殿を再建することになります。その長い歴史の間に様々な預言者たちが登場して、王や民に神様の言葉を語り伝えていきました。
 そのような歴史や預言者たちの言葉が、列王記から旧約聖書最後のマラキ書までに書かれています。預言者たちは、神様に背く王や人々に対して、悔い改めて神様に立ち返るようにと呼びかけ、将来の希望を語り、神様を信頼し続けることの大切さを訴え続けたのですが、迫害を受けることも多くありました。あざけられ、むち打たれ、投獄された者もいます。伝承では、預言者イザヤは、のこぎりで引かれて殉教したと言われています。また、預言者エレミヤは、エジプトで石打にされて殉教したと言われていています。しかし、彼らは、どんな状況の中でも神様の言葉を語ることを止めませんでした。

④女たち

 それから、35節に「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました」とありますね。この女たちとは、列王記に登場するツァレファテの貧しいやもめとシュネムの裕福な婦人のことです。ツァレファテのやもめは、飢饉の時に預言者エリヤを養いましたが、子供が死んでしまいました。しかし、エリヤが祈ると子供は生き返ったのです。また、シュネムの裕福な婦人は、預言者エリシャがシュネムに来るときにいつも世話をしていたのですが、やっと授かった一人息子が突然死んでしまいました。しかし、エリシャが祈るとその子も生き返ったのです。二人とも無名の女性ですが、信仰によって子供をよみがえらせていただくことができたのです。

2 信仰の姿

 さて、これまで11章に記されている旧約聖書の様々な人物の姿を見て来ましたが、11章全体のまとめの言葉が39節ー40節に書かれています。「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」これは、とても大切な言葉です。 
 まず、「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした」とありますね。33節には「約束のものを得」と書いてあるのに、39節には「約束されたものは得ませんでした」というのは、どういうことでしょうか。
 たとえば、アブラハムは、約束の子供イサクの誕生を見ることができました。約束されたものを得たわけですね。しかし、その子孫が海辺の砂、空の星のように増えるという約束が実際に実現するのを見ることはありませんでした。
 また、旧約の人々は、神様がいつも共にいてくださることを示す神殿がありましたし、約束の地を占領して定住することもできましたが、それは、将来完成される本物、つまり、「さらにすぐれたもの」を予め示す模型にすぎなかったのです。11章に名が挙げられた人々は、そのさらにすぐれたものを、まだ見ていないけれど必ず得ることができる、という神様の約束を信頼して歩んでいったのです。
 では、「さらにすぐれたもの」とは、何でしょうか。40節に「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられた」と書かれていますね。神が私たちのために用意しておられた「さらにすぐれたもの」とは何でしょうか。それは、救い主イエス様です。神であるイエス様が人となって私たちのもとに来て下さり、十字架について私たちの罪の問題を解決してくださり、三日目に復活して永遠のいのちを与えてくださいました。そして、いつも私たちと共にいて守り導き、この肉体の命が尽きても、天の御国で永遠に神と共に生きることができるようにしてくださったのです。
 このイエス・キリストによる救いは、旧約聖書の中でも繰り返し預言されていましたし、神様は、救い主を示す型となる様々なものや出来事を示してくださっていました。ですから、旧約聖書の人々も、まことの救い主を見ることを切望していたのですが、見ることはできませんでした。
 実際にイエス様を見ることができたのは、新約時代の人々でした。ですから、イエス様は、ルカ10章23節ー24節でその人々に向かってこう言っておられます。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」  

  では、現代の私たちはどうでしょうか。イエス様は、約二千年前に来られましたから、私たちも実際のイエス様を目にすることはできませね。でも、感謝なことに、今ではイエス様がまことの救い主であることがはっきり示されています。そして、信じる人の内には聖霊が宿ってくださるので、私たちは、イエス様によって救われ、新しいいのちが与えられ、いつもイエス様と共に歩むことができるのです。第一ペテロ1章8節ー9節にこう書かれています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
 旧約時代の人々は、救い主のことを漠然としか知ることのできませんでした。しかし、イエス様は、時間の制限を受けることのない神なる方ですから、どの時代の人々も同じように救うことがおできになるのです。ですから、旧約時代の人々も、イエス様の来られた時代に生きた人々も、現代の私たちも、ともにイエス様の救いを受け取ることができ、ともに天の御国に入ることができるのです。
この手紙の読者たちは、ローマ帝国による迫害や様々な困難に直面して、このままイエス様を信じ続けていって本当に大丈夫だろうかと思っていました。その読者に対して、この手紙は、「旧約の人々は、イエス様をはっきり見ることはできなかったけれど、信仰によって歩んだではないか。ましてや、あなたがたには救い主イエスがはっきりと示されたのだから、旧約の信仰者たちを見習って、信仰をしっかり保っていこう」と呼びかけているのです。
 旧約の信仰者には、様々な迫害や困難によって苦しんだ人々も少なくありません。38節に「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした」と書かれていますね。つまり、神様を信じていても、いや、むしろ信じているがゆえに、苦しみを受けることもあるのです。
 しかし、ヨハネ16章33節で、イエス・キリストはこう言っておられます。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」イエス様は「世にあっては患難があります」とはっきり言われました。しかし、「わたしはすでに世に勝ったのだから、勇敢に平安を持って生きていきなさい」とも言ってくださっています。この世でどんな困難や試練があっても、神様がいつも共にいて悪い者から守り、すべてのことを益としてくださるという約束があるのですから、恐れることはないのです。
 信仰のバトンは、旧約の時代から延々と受け継がれてきています。私たちもその信仰のバトンを継承する者として、信仰の歩みを続けていきましょう。そして、旧約の人々と共にイエス・キリストの救いの完成を味わおうではありませんか。
 モーセもエリコを占領した人々もラハブも信仰によって歩みました。その結果、神様の素晴らしい救いのみわざを経験することができたのです。
 私たちも、今週、「ただ黙って、主の救いを待ち望む」ことの大切さを知ることができますように。