城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年1月14日           関根弘興牧師
                   マタイ4章1-11節
 イエスの生涯4
     「荒野での誘惑」

1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(新改訳聖書)



 前回は、イエス様が洗礼を受けられた出来事を見ました。
 イエス様が、洗礼を受けられたのは、悔い改める必要があったからではなく、御自分が私たちと同じ人となり、私たちと共にいることをお示しになるためでした。そして、人としての生き方の模範を身をもって示してくださったのです。
 イエス様が洗礼を受けられた時、不思議なことが起こりました。天が裂けて御霊が鳩のようにイエス様の上に下ってこられ、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と声が聞こえたのです。「天が裂ける」とは、「歴史の中に神様が深く介入してくださる」ことを示しています。そして、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という言葉は、詩篇2篇7節の引用ですが、これは、「即位の詩篇」と呼ばれ、救い主が到来したときに救い主に対して歌われる歌だと言われていました。ですから、これは、「このイエスこそ、まことの救い主であり、来たるべき王である」という承認の言葉だったのです。
 さて、洗礼の次にどんな出来事があったでしょうか。それが今日の箇所に書かれています。1節に「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」とありますね。今日は、その荒野での出来事を見ていきましょう。

1 荒野での断食の意味

 イエス様は、救い主としての公の活動を始める前に、荒野で四十日四十夜断食をなさいました。
 「荒野」と「四十」という言葉ですぐに思い浮かぶのは、まずは、モーセがシナイ山で神様から十戒を授かったとき、四十日四十夜、何も飲み食いせずに主と共にいた、とあることです。
 また、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から脱出した後に荒野で四十年間の旅を続けた出来事も思い浮かびます。
 イエス様が荒野で四十日四十夜断食されたというのは、苦難を象徴するとともに、この荒野において、これから始まるイエス様の働きについて大切なことが示されるということを教えようとしているのではないかと思います。
 今日の箇所で、イエス様が荒野に行かれたのは、悪魔の試みを受けるためであったと書かれていますね。「御霊に導かれて」と書かれていますから、それは、神様のご計画だったということです。
 イエス様は、私たちと同じ人として来てくださいました。そのことを示すために、私たちと同じように洗礼をお受けになりましたね。そして、また、この世に生きる私たちと同じような試練を受けるために荒野に行かれたのです。そして、試練を受けたときに、人としてその試練にどのように対処すべきかという模範を示してくださいました。
 ですから、私たちは、試練に遭うときに、イエス様の荒野での姿を思い起こして試練に立ち向かっていくために必要なことを学び、勇気を得ることができるのです。

2 試みる者

 さて、荒野のイエス様に「悪魔」が近づいてきました。この「悪魔」と訳されている言葉は、ギリシャ語の「ディアボロス」で「中傷する者、訴える者」という意味があります。ヘブル語では「サタン」です。3節では「試みる者」、つまり、誘惑する者だと書かれていますね。
 「悪魔」と聞くと、物語やオカルトの世界を思い浮かべる方もいるでしょう。虫歯菌やばいきんまんのように滑稽な姿や、角が生えて牙をむき出しにした恐ろしい姿を想像する方もいるでしょう。でも、「悪魔なんて想像にすぎない。実際にはいないんだ」と考える方も多いでしょうね。
 しかし、「聖書」は、悪魔の存在を教えています。
 悪魔は、霊的な存在で目に見えません。そして、悪魔の目的は、私たちを神様から引き離すことです。「神様なんて本当にいるんですか」「神様は嘘つきだから信じても無駄ですよ」「あなたは神様に愛される価値はありませんよ」などと言って、神様や私たちを中傷し、関係を破壊しようとするのです。
 しかも、悪魔は巧妙ですから、自分の存在がわからないように働きかけてくることが多いのです。否定的な考えを、まるで私たちが自分で考えたかのように思わせます。だから、私たちは注意して、悪魔の誘惑に備えなければなりません。
 といっても、恐れることはありません。イエス様がすでに悪魔に勝利してくださっています。しかも、神様は悪魔より遙かにまさって力のある方なのですから、神様を信頼していれば、私たちは必ず守られます。ですから、悪魔の攻撃を自分の力で防ごうとするのではなく、神様に目を向けて生きて行けば大丈夫なのです。
 悪魔が喜ぶことが二つあります。一つは、私たちが「悪魔なんていない」と思って無防備でいること、もう一つは、その反対に、悪魔を恐れて悪魔のことばかり考えることです。でも、私たちがいつも神様に目を向けて賛美と感謝をささげていたら、悪魔の付け入る隙はなくなるのです。
 第一ヨハネ5章18節に「キリストを信頼する人をキリストが守っていてくださるので、悪い者は触れることができない」と約束されています。ですから、安心してくださいね。

3 悪魔の誘惑とイエス様の対応

 では、イエス様は、どのような誘惑を受け、どのように対応されたのでしょうか。

①神ではなく自分の力に頼ろうとする誘惑

 第一の誘惑は、3節の「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」というものです。「イエスよ、おまえは神の愛するひとり子なのに、今、空腹で飢え死にしそうではいか。あなたは神の子なのだから、その力を自分のために自由に使えばいいではないか」というのです。これは、突き詰めれば「父なる神様から離れて、自分の好きなように生きていけばよいではないか」という誘惑です。「神様から独立して、自分の力で生きていけるよ」という誘惑だったわけです。
 しかし、イエス様は、4節でこうお答えになりました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
 これは、旧約聖書の申命記8章3節の言葉です。エジプトの奴隷状態から脱出したイスラエルの民が四十年間の荒野の旅を終えようとしていた時、モーセが語った確信の言葉でした。
 荒野には、食料がありません。ですから、民は「飢え死にしそうだ」とすぐに不満の声を上げました。しかし、神様が「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする」と言われると、毎朝、白い食べ物が地面をおおうようになったのです。民はそれをマナと呼び、荒野の旅の間ずっとそのマナによって養われました。モーセは、その出来事によって「神様の言葉によって養われる」ということを体験的に学びました。そして、こう語ったのです。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」(申命記8章3節)イエス様は、この言葉を引用されたのです。
 しばらく前のことですが、ある方に「関根さん、信仰持ってても、食っちゃいけないよ。神のことばでは腹はいっぱいにならない」と言われました。もちろん、人は、毎日の食べ物が必要です。ですから、「主の祈り」の中で「日ごとの糧を与えたまえ」と祈りますね。そして、食物を得るために働きます。
 しかし、私たちに働く力を与えるのも、食物を成長させるのも神様です。それに、ただの食物では、魂の空腹を満たすことは決してできません。「神様なんて関係ない。自分の力でパンを得ればいい」という人生には限界があるのです。
 神の言葉によって、私たちは新しく生まれ、成長し、物質的にも精神的にも必要なものが与えられ、本当の充足を得て生きていくことができます。しかも、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住などの生きて行くために必要なもの)はすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6章33節)と約束されています。神様を信頼し、神様の言葉に養われる生き方こそ、人としての本来の生き方なのです。

②聖書の言葉を自分勝手に利用しようとする誘惑

 次に、5節に、悪魔はイエス様を聖なる都エルサレムの神殿の頂に連れて行ったと書かれていますね。といっても実際に行ったわけではなく、悪魔は、おそらく幻のようなものをイエス様に見せたのでしょう。
 第一の誘惑の時に、イエス様が聖書の言葉を引用して反論なさったので、こんどは、悪魔も聖書の言葉を使って誘惑してきました。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
 悪魔が引用したのは、旧約聖書の詩篇91篇11節ー12節の「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする」という言葉です。悪魔は「あなたは神様に愛されているのだから守られるはずですよね。この聖書の言葉が正しいと証明するために、飛び降りてみたらどうですか」と誘惑したのです。
 しかし、これは、聖書の言葉を身勝手に乱用しているだけです。聖書の言葉なので、正しいかのように思ってしまいますが、実際には、その言葉の文脈や背景を無視して、自分の都合のいいように解釈して利用しているだけなのです。
 この言葉の本来の意味は、「神様を信頼して歩んでいるなら、もし危険な目にあったとしても守られる」ということであって、自分からあえて危険を冒せと言っているわけではありません。神様から導かれたわけでもないのに、自分から飛び降りようとするのは、ただ自分勝手なだけなのです。
 でも、この誘惑は魅力的です。「神殿から飛び降りて無事だったら、あなたが神の子であることを皆が認めるではありませんか」ということですから。もし、私がそんな誘惑を受けたら、「そうだな、もし飛び降りて、かすり傷ひとつ負わなかったら、一躍ヒーローになれる。『不死身の関根牧師』とか言われて、脚光を浴びるだろうな。そこで、たくさんのメディアの前に出て、イエス様を証しすれば、多くの人がイエス様のことを聞くことが出来るじゃないか。これはすばらしい方法だな」なんて考えると思いますね。
 でも、イエス様は、7節で、「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」とお答えになりました。
 これは、どういう意味でしょうか。「神が信用できるかどうか試してはならない」ということでしょうか。
 しかし、神様を試してみること自体は、悪いことではありません。マラキ書3章10節では、神様が「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」と言っておられますし、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」という言葉は、実際に試して見る必要がありますね。
 イエス様がここで引用されたのは、申命記6章16節の「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない」という言葉です。荒野を旅していたイスラエルの民は、水がないので、「私たちをエジプトから連れ出したのは、ここで渇きで死なせるためか」と文句を言い、モーセを石で打ち殺そうとしました。すると神様は、モーセに岩を杖で打つように命じ、モーセがその通りにすると、そこから水が流れ出たのです。モーセはその場所をマサ(試み)と名付けました。それは、「彼らが『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みたからである」と書かれています。つまり、神様が本当に共にいて助け導いてくださることを疑うこと、それが「主を試みる」ことだというのですね。神様の言葉を信頼してその通りにやってみることと、神様を疑って試そうとすることとは、まったく違うのです。
 今日の箇所の悪魔の誘惑にも、「神様に頼っていても何も変わらないから、自分で派手なパフォーマンスをして人を集めたほうがいいのではないか」という意味が込められていたのです。
 しかし、イエス様は、「神様が御自分でちゃんと救いの御計画を立てておられ、必要な時に必要なことをしてくださるのだから、私たちは、神様に示されたことに従っていけばいいのだ。神様の言葉を自分勝手に解釈して、自分の力を見せつけるために神様の力を利用しようとするなど、もってのほかだ」と言われたのです。
 私たちは、聖書を読むときに、バランス感覚を持つことが大切です。聖書の一部の箇所だけを見て、間違った使い方をしないように気をつけなければなりません。悪魔でも聖書の言葉を使うのです。聖書の中で自分に都合のいい箇所だけ利用して極端なことをするなら、それは、高慢でしかありません。
 また、イエス様は、神様から与えられた力を御自分のために利用することは決してありませんでした。神様のみこころに沿ったことだけをなさいました。十字架につけられた時、人々から「神の子なら、そこから降りてみよ」と挑発されても、イエス様は、その力をお使いにならなかったのです。イエス様の力は、いつも他者の最善と救いのために用いられていました。
 皆さん、聖書の言葉は、私たちを無茶なヒーローに仕立てる道具ではありません。「聖書にこう書いてあるから、何をしても大丈夫だ」というような主張しはじめたら要注意です。聖書の誤った用い方によって、差別や戦争や迫害が正当化されてしまった歴史もあります。私たちは、いつも聖書の言葉を通して神様の本当のみこころを知ろうとする謙虚な姿勢を持ち続けなければなりません。
 
③不正な手段を使おうとする誘惑

 第三の誘惑は、「もしひれ伏して私を拝むなら、世のすべての栄華をあなたに与えよう」というものです。「あなたは王になるためにきたのでしょう。私を拝めば、手っ取り早く全世界を支配する王になれますよ」というのです。
皆さん、これは、大きな誘惑ですね。日本では、誰を礼拝するかよりも、どんな御利益があるかというほうに関心が向けられることが多いですね。自分の願いを叶えてくれさえすれば、何でも拝みますよという風潮があります。
 私は、自問するんですね。もし、私がこの誘惑を受けたらどうするだろうと。「相手も私をだまそうとしているんだから、こちらもちょっとだけ礼拝するふりをして栄華を手に入れ、それを主のために用いればいい。これは名案だ!」なんて考えると思いますね。目的がいいのだから、多少の妥協をして不正な方法を使ってもかまわないだろう、という誘惑は、他にもいろいろとありますね。特に金銭や権力の誘惑は強烈です。しかし、キリスト教会の歴史の中で最も暗い「暗黒の時代」と言われたのは、キリスト教会がこの世の栄華と権力を手にした中世の時代でした。「目的の達成のためなら、手段を選ばない」というのは、悪魔から出た発想なのです。
 それに対してイエス様は、申命記6章13節を引用し、大変強い口調でこう言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」 

 さて、以上の三つの誘惑には共通点があります。神様が最善の時に最善のことを行ってくださるということを信じられない、ということです。だから、自分の力で何とかしようとしたり、自分の都合のいいように聖書を利用しようとしたり、目的達成のために不正な手段を使ってしまおうとしたりするのです。
 でも、イエス様は、大切なことを教えてくださっています。それは、神様のことばに養われること、神様のみこころに徹底的に従うこと、そして、神様だけを礼拝し仕えることです。つまり、全面的に神様を信頼することが大切なのです。イエス様も御自身の公生涯で、それを身をもって実践され、神様は、そのイエス様を通して救いのご計画を達成してくださいました。
 最初の人アダムは、悪魔の誘惑に負けて堕落してしまいました。私たちはアダムの子孫ですから、誘惑に負けやすい者です。しかし、第二のアダムとして来られたイエス様は、聖書の言葉によって、悪魔の誘惑に勝利されました。
そして、ヘブル2章18節に「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」とあります。イエス様は、私たちと同じ人として歩まれ、荒野の誘惑だけでなく他にも様々な試みを経験なさいました。だから、私たちの苦しみや辛さもすべてご存じの上で助けてくださるのです。
 このイエス様が共にいてくださるのですから、私たちも悪魔を撃退する聖書の言葉を心に蓄えながら、イエス様を模範として、イエス様の助けを受けつつ歩んでいきましょう。