城山キリスト教会 礼拝説教    
2018年3月11日          関根弘興牧師
                  ルカ5章27節~32節
 イエスの生涯12
    「罪人を招かれるイエス」

27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(新改訳聖書)


 先週は、ガリラヤ湖に面するカペナウムのある家で、イエス様が、4人の人によって運ばれてきた中風の人に「子よ、安心しなさい。あなたの罪は赦された」と語り、病を癒やしてくださった出来事を見ました。 今日の箇所の最初に「この後」とあるのは、この中風の人に起こった出来事の後、という意味です。

1 取税人レビ

 イエス様は、以前にガリラヤ湖で漁師をしていたペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを招いて弟子になさいましたが、今日の箇所では、取税人レビを招かれました。
 まず、このレビについて確認しておきましょう。

①レビの名前

 今日の箇所とほぼ同じ出来事がマタイの福音書9章とマルコの福音書2章にも記されているのですが、マタイの福音書では「レビ」ではなく「マタイ」という名前になっています。ですから、取税人レビは、マタイとも呼ばれ、マタイの福音書を記した人物だと一般的に考えられています。また、マルコの福音書では、「アルパヨの子レビ」と書かれていますから、アルパヨという人の息子だったわけですね。

②レビの職業

 レビは、ガリラヤ湖に面するカペナウムの地域で取税人の仕事をしていました。
 当時、ガリラヤ地方は、ローマ帝国の属州でした。そして、各地域には取税人がいて、ローマ政府のために人々から税金を取り立てていました。町と町を結ぶ街道には、その街道を利用して運搬される商品に課税するための収税所がありました。今日の箇所に登場するレビは、そういう通行量の激しい街道の収税所で通行税を取り立てていたのかもしれません。
 当時のユダヤ人の社会では、取税人は毛嫌いされていました。ユダヤ人たちには、自分たちは神の選びの民であるという自負がありました。本当の支配者は神様だけであり、自分たちのお金は、自分たちの国の再建のために、神様だけに捧げられるべきだと考えていたのです。ですから、ローマ政府のために税金を取り立てる取税人を、ローマの手先、国を売った裏切り者、ローマの犬と呼んで軽蔑していました。
 さらに、当時、税の取り立ては請負制で、ある一定の額をローマ政府に納めればいいことになっていました。そこで、取税人の中には、ローマ政府に納める額よりもはるかに多額の税を取り立てて、差額を着服して私腹を肥やす者も多くいたようです。また、ローマ帝国の権威を笠に着て、まるで暴力団まがいの強引な取り立てを行う者たちもいたのです。
 ですから、余計に取税人は嫌われていました。当時のユダヤ社会では、裁判の時に取税人は証言することが許されなかったそうです。それほど、信頼されていない、罪人の象徴のような存在として見られていたのです。
 でも、取税人は、多額の収入があり、また、仕事柄、ヘブル語にもアラム語にもギリシャ語にも通じる教養を持っていたと言われます。以前に弟子となったペテロたちは、漁師で、特に裕福なわけでもなく、立派な教育を受けたわけでもありませんでした。一方、取税人のレビは、お金もあるし、教養もありました。しかし、人々から嫌われ、軽蔑されていたわけです。

2 イエス様との出会い

 そんなレビの人生を一変させる大きな転機が訪れました。イエス様に出会い、「わたしについて来なさい」と招かれたのです。28節に「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」と書かれていますね。レビは、どうして、このような大きな決断をしたのでしょうか。
 私たちが生きているこの時代は、不確かな時代、不安定な時代と言われています。また、自分自身についても「自分は揺れ動く葦のように不安定だな」と思うこともあるでしょう。そんな私たちが本当に人生に確信を持って生きるためには、確信を持っている存在との人格的な関わりが必要なのです。
 例えば、子どもが宿題をしているとしましょう。子どもは答えを書いたけれども自信がありません。でも、親がそばにいて「その答えは合っているよ」と言ってやれば、子どもは自分の答案に自信を持つでしょう。答えが正しくても、自分一人で答案とにらめっこしているだけでは、なかなか確信は持てませんね。
 また、逆に、自分で大丈夫と思い込んでいても、実は間違っていることもありますね。私はそのことを大学受験で経験しました。自分の答案を確認して、これで大丈夫だろうと思ったのですが、残念ながら、大学側は違う意見だったようです。
 それでも、算数の問題なら、正しいか間違っているかの基準がはっきりしているのでまだいいですが、人生は、なかなかそうはいきません。何が正しいのか、どのように歩んでいったらいいのか、わからないことだらけです。ですから、確信を持って生きるためには、共に歩み、「これが本来の人としての道だよ。人としてあるべき姿はこのようなものだよ」と具体的に示してくれる存在との関わりが必要なのです。問題は、一体そのような存在がいるのか、ということですね。
 取税人のレビは、裕福で生活に不自由はなかったでしょう。しかし、「自分の人生はこのままでいいのだろうか」という思いを抱いていたのだと思います。もしかしたら、イエス様の噂を聞いて、イエス様の説教をこっそり聞きに行っていたのかもしれません。だから、イエス様から「わたしについて来なさい」と言われたとき、すぐに立ち上がって従うことができたのでしょう。彼は、このイエス様について行けば大丈夫だ、と思ったのでしょうね。聖書を読んでいくと、イエス様は確信を持って歩んでおられることがわかるからです。では、イエス様は、どのような確信を持っておられたのでしょうか。

①自分の存在についての確信

「あなたは誰ですか」と聞かれたら、皆さんは、何と答えますか。普通は、「はい。私は関根弘興です」という風に答えますね。でも、「それはあなたの名前でしょ。名前じゃなくて、あなたは誰ですか」と聞かれたらどうですか。「あのう、小田原の城山に住んでいるんです」「それはいいですが、あなたは一体誰ですか?」「だから、関根弘興ですよ」「それは親のつけてくれた名前でしょ。あなたは誰ですか」「ちょっと明るい性格です」「性格はどうでもいいです。あなたは一体誰ですか。どういう存在ですか。あなたの本質は何ですか。」こんなことを言われたら、わからなくなってしまいますね。
 私たちにとって大きな問題の一つは、自分自身がわからないということです。自分がどういう存在であるかわからないので、不安な思いを持つのです。自分はどういう存在なんだろうか、私は愛される価値があるんだろうか、私はここにいていいんだろうか、私はどう見られているんだろうか、そもそも、人とは一体どういう存在なんだろうか、それが、わからないのです。自分がわからなければ、どうして確信を持って人生を歩むことができるでしょうか。そして、自分に確信が持てなければ、自分を見失い、自分のしていることの愚かささえもわからなくなってしまうことがあるのです。
 しかし、イエス様は、御自分がどんな存在であるかということを明確に自覚して、宣言なさいました。イエス様は、「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6・48)と言われました。つまり、「わたしは人々を生かすことのできる存在だ」というのです。また、「わたしは世の光です」(ヨハネ8・12)と言われました。「わたしは人々の暗闇を照らす存在だ」と宣言されたのです。そして、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14・6)と言われました。「わたしこそ真理そのものであり、神に近づくための道なのだ」と言われたのです。イエス様は自分のあり方をはっきりと自覚しておられました。

②自分の使命についての確信

 また、私たちは、自分が何のために生きているのかわからないと思うことが多いのではないでしょうか。何をしていいのか迷うことが多く、自分のしたことを後悔することも多いですね。自分では良いことをしたと思っても、他人の評価されないと、すぐに自信をなくしてしまいます。私たちの人生は、まさに迷いながらの人生ですね。
 しかし、イエス様は、御自分の使命と目的をはっきりと自覚し、明確に宣言しておられます。
ヨハネの福音書10章10節「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。来たのは、人々にいのちを与えるためです」と言われました。また、ルカの福音書19章10節では「わたしは失われた人を捜して救うために来た」と言われました。また、マタイの福音書5章17節では「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われました。それは、「わたしこそ旧約聖書で約束されている救い主であり、救いの約束を成し遂げるために来たのだ」ということです。
 イエス様は、神様から離れて生きる意味や目的を見失い迷っている私たちを捜して救い出し、いのちを与え、養い導くために来てくださったというのです。イエス様は、その御自身の使命を確信しておられました。

③将来についての確信

 また、イエス様はこれから何が起こるのかを明確に把握しておられました。この世には初めがあって終わりがあることを知っておられ、世の終わりにはどういうことが起きるのかも確信しておられました。また、ご自分が捕らえられ、十字架につけられ、三日目によみがえること、そして、天に昇り、後に、再び戻って来ることも前もって知っておられました。それで、ヨハネ14章29節では、こう言っておられます。「そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」イエス様が将来起こることを知っておられたというのは、すごいことですね。
 人は何が不安かといえば、将来どうなるのかわからない、明日のことがわからないということです。しかし、イエス様は、マタイ6章33節-34節でこう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。」イエス様を救い主として信頼し従うなら、明日のための心配は無用だというのです。なぜなら、イエス様が明日のことをご存じで、必要を備えてくださるからです。

 さて、このように自分の存在について、また、自分の使命について、また、将来について確信を持っておられるイエス様が、収税所に座っているレビを見て、「わたしについて来なさい」と言われました。それは、「わたしと共に歩み、わたしの生き方そのものを見て学びなさい」ということです。これほど実際的な指導方法はありませんね。
 すると、レビは、すぐに何もかも捨ててイエス様に従っていきました。「何もかも捨てて従った」というのは、漁師をしていたペテロたちも同じですね。しかし、ペテロたちの場合は、商売道具であった舟と網は、その後、家族が使っていたようです。そして、それらは再び使うことが出来るものでした。つまり、ペテロたちがその気になれば、すぐに元の漁師生活に戻ることが出来たのです。実際に、イエス様が十字架につけられ、三日目に復活された後、ペテロたちは、ガリラヤ湖に戻って漁をしていますからね。
 しかし、レビの場合は、ちょっと事情が違います。レビが取税所の仕事を辞めると、すぐに別の人が取税所の椅子に座ることになったはずです。つまり、レビは、二度と古巣には戻れないのです。退路を断ち切ってイエス様に従っていく、という大きな決断だったわけです。それでも、レビは、イエス様に従う道を選びました。取税人として生きてきた自分の人生に虚しさを感じていたのでしょう。そして、ここから新しい生き方が始まったのです。 

3 うるわしい交わり

 さて、イエス様に従うようになったレビが、最初にしたことは何だったでしょうか。彼は、自分の家にイエス様を招き、大盤振る舞いをしたのです。
 この記事を読んで「あれっ?」と思いませんか。「レビは、何もかも捨ててイエス様に従ったはずなのに、どうして大宴会が開けるのだろう」と疑問に思う方もおられるのではないでしょうか。
 誤解しないでいただきたいのは、「何もかも捨てて」というのは、持っているものをすべてゴミのように捨ててしまう、という意味ではありません。自分が持っているものを、自分の所有物として好き勝手に用いるのではなく、神様から託されたものとして用いていくという意味なのです。私たちはそれぞれ、良い管理者としての生き方を求められています。「すべては自分のもの」と思って握りしめるのではなく、「すべては神様から託されたもの」という意識を持って、神様のために賢く管理し用いていくことが、「何もかも捨てる」ということの意味なのです。
 レビは、イエス様を招いて大宴会を開きました。さすがに、あのカナの婚礼の時とは違って、ぶどう酒はたくさんあったようですね。レビは、以前にも頻繁に宴会を開いていたと思いますが、今回の宴会は今までとは違います。なぜなら、その中心にイエス様がおられるからです。そして、そこには、仲間の取税人たちをはじめ大勢の人たちが招かれていました。レビは、彼らにもイエス様のことを知ってほしいと願っていたのでしょう。イエス様とともに、みんなで大いなる喜びの時を過ごしていたのです。

4 罪人を招くために

 しかし、当時の宗教家であるパリサイ人や律法学者たちは、その光景を外から見て、イエス様の弟子たちに文句を言い始めました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と。
 ここで言われている「罪人」とは、犯罪を犯した人という意味ではありません。宗教的な戒めを守ることが出来なかったり、職業上の理由で、神様に受け入れられない罪人だ、と見なされていた人たちのことです。パリサイ人や律法学者は、そういう人々と交際すると自分の身が汚れると考えていました。ましてや一緒に食事をするなど、とんでもないことでした。
 しかし、イエス様は、31節でこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
 ここでイエス様が言われている「罪人」とは、宗教家たちが考えているような「罪人」のことではありません。
 聖書で使われている「罪」という言葉には、本来、「的はずれ」という意味があります。ですから、「罪人」とは「ずれ人」という意味なのです。
 体でも、どこかがずれてしまったら支障がでますね。背骨がずれたら動けなくなるし、血液の値が正常値からずれたら病気になります。
 同じように、罪人とは、神様との関係がずれてしまい、その結果、本来のあるべき姿や歩むべき道からずれてしまっている人のことなのです。昔、植木等の「わかっちゃいるけど、やめられない」という歌がヒットしましたが、罪とは、「わかっちゃいるけど、愛せない。わかっちゃいるけど、平和を保てない。わかっちゃいるけど、心に反することをしてしまう」、そんなずれた状態を指しているわけですね。
 そして、聖書は、神様の目から見たら、人は皆、罪人だと教えています。どんなに宗教的な戒めを守ったとしても、どんなに修行をしたり善行を積んでも、自分の内側にあるずれを直すことの出来る人は一人もいないのです。ですから、律法学者もパリサイ人も取税人も皆同じように罪人です。皆、病人であり、医者が必要なのです。イエス様が来られたのは、すべての人を招いて、悔い改めさせ、つまり、神様の方に向かせ、神様とのまっすぐな関係を修復し、本来の生き方ができるようにするためでした。
 しかし、律法学者やパリサイ人たちは、自分たちは罪人ではないから、救い主は必要ないと思っていました。だから、イエス様のもとに来ようとするどころか、批判的な目で見ていたのです。
 その反対に、取税人や罪人呼ばわりされている人々は、自分が「ずれ人」であることを認め、イエス様が来てくださったことを素直に喜びました。
 皆さん、神様の御前で自分の弱さを認め、自分がずれ人であると認めることが出来る人はなんと幸いなことでしょう。イエス様は、そういう人を永遠の救いに招いてくださいます。

 レビは、イエス様に出会い、イエス様に従って新しい人生の出発をしました。社会的に軽蔑されていた自分たちをも分け隔てなく大切な存在として接してくださるイエス様を知って、どれほど大きな安心を得たことでしょう。
 最初にお話ししましたが、このレビは、福音書を書いたマタイと同一人物と考えられています。マタイは、福音書の一番最後に、イエス様のこのような言葉を記しています。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)
 マタイは、イエス様と共に歩む生涯は世の終わりまで続いていくことを確信していたのです。私たちも同じです。世の終わりまで、いつもイエス様と共に歩むことができるのです。
 また、さらに、第一テサロニケ4章17節では、私たちは、この世が終わった後も「いつまでも主とともにいることになる」と約束されています。
今週も、このすばらしい恵みを分かち合いながら歩んでいきましょう。