城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年七月二二日         関根弘興牧師
                 ルカ九章二八節〜三六節
 イエスの生涯25
  「イエス様の姿が変わった」

28 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。33 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。(新改訳聖書)


前回は、イエス様一行がピリポ・カイザリヤ地方に行かれた時の出来事を読みました。イエス様が弟子たちに「あなたがたはわたしを誰だといいますか」と質問なさると、ペテロが弟子たちを代表して「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えました。すると、イエス様は、その岩の上に教会を建てると約束してくださったのです。「あなたは生ける神の御子キリストです」という告白こそ、揺るぎない教会の土台であり、一人一人の人生の土台となるものなのですね。
 さて、そのすぐ後にどんなことがあったでしょうか。マタイ16章21節ー23節にこう書かれています。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」
 ペテロは、イエス様について素晴らしい信仰の告白をしたのですが、イエス様がこれから苦しめられ、殺されるなどということは、信じることができませんでした。「生ける神の御子キリストが殺されてしまうなどありえない」と考えたわけです。「三日目によみがえる」という部分は耳に入らなかったか、理解できなかったようですね。そこで、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことが起こるはずがありません」とイエス様をいさめ始めたのですが、イエス様は「わたしがしなければならないことを妨げようとするのはサタンの働きに加担しているのと同じだ。神の御計画を人の狭い考えで判断してはならない」とペテロを厳しく叱責なさったのです。イエス様は、最初から神様の御計画と御自分の使命をはっきりと自覚しておられました。だから、「わたしは、多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる必要があるのだ」と言われたのです。
 そして、このやりとりがあってから八日ほどして、今日の出来事が起こりました。イエス様は、ペテロとヨハネとヤコブの三人を連れて山に登られました。他の福音書には、「高い山に登られた」と書かれています。この高い山がどの山なのかははっきりわかりませんが、ピリポ・カイザリヤの北東二十キロにあるヘルモン山か、または、ナザレに近い標高五百八十八メートルのタボル山のどちらかではないかと言われています。もしヘルモン山だとすると、標高二千八百五十メートルで頂上が一年中雪に覆われている山ですから、健脚でないとなかなか登れなかったかもしれませんね。
 ところで、イエス様は、ペテロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて行かれましたが、イエス様は、他にもこの三人だけを連れて行かれることがありました。たとえば、会堂管理者ヤイロの娘が死んでしまったとき、イエス様は、ヤイロ夫妻とこの三人だけを連れて娘の部屋に入り、娘をよみがえらせるという奇跡を行われました。また、十字架にかかる直前のゲッセマネの園での祈りの時も、イエス様は、他の弟子たちを残して、この三人を連れて園の奥に行って祈られました。なぜこの三人を選ばれたのか、理由が書いていないのでわからないのですが、この三人が他の弟子たちより優れているとか、神学的な理解があったとか、熱心だったというわけではなさそうです。ただ、彼らは弟子たち中でも古参のメンバーでした。旧約聖書の律法には、何かを立証するためには、二人か三人の証人が必要だという規定があります。そこで、イエス様は、適切な時期が来たらイエス様についてはっきりと証言できる目撃証言者にするために、この古参の三人を連れて行かれたのでしょう。
 さて、山に着くと、イエス様は祈り始められました。すると、弟子たちは、疲れてしまっていたのでしょうね、眠気を催して、うとうとし始めました。その時、彼らの眠気を吹き飛ばしてしまう出来事が目の前で起こったのです。

1 イエス様の変貌

 彼らがまず驚いたのは、イエス様が白く光り輝く栄光の姿に変わっておられたことです。マルコの福音書には「世のさらし屋ではとてもできないほどの白さであった」と書かれています。それまで彼らはイエス様が生ける神の御子であると告白してはいましたが、この時初めて、この世を超越した栄光の輝きを帯びておられるイエス様を目の当たりにしたのです。
 イエス様について、聖書が私たちに教えている大切なことは、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2章6節-7節)ということです。本来、イエス様は光り輝く神なるお方であるにもかかわらず、それを捨てて人として来てくださったのです。イエス様は家畜小屋に生まれ、大工の子として育ちましたね。イザヤ書53章2節には、「この方には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもなかった」と書かれています。しかし、イエス様の本来の姿は、栄光に満ち光り輝いているのです。弟子たちは、ここで、その神の御子としての輝かしい御姿を見たわけですね。
 
2 モーセとエリヤ

 さて、弟子たちがさらに驚いたのは、モーセとエリヤが現れたことです。
 モーセは、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、荒野を旅しているときに、シナイ山で神様から十戒を授かりました。そして、モーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を編纂し、神様から授かった律法を人々に教えました。ですから、旧約聖書の律法を象徴する人物です。
 また、エリヤは、紀元前九世紀に目覚ましい活躍をした偉大な預言者で、旧約聖書の預言者たちの代表と見なされている人物です。
 ユダヤ人は、旧約聖書を「モーセと預言者たち」、または、「律法と預言者たち」と呼んでいました。ですから、モーセとエリヤは、それぞれ律法を預言者を象徴していますから、二人合わせて旧約聖書全体を表す人物だったわけです。ですから、モーセとエリヤがイエス様と話し合っているのは、旧約聖書とイエス様が話し合っているということであり、旧約聖書の内容がイエス様と大切な関わりがあるということを示す象徴的な光景だったわけです。

3 イエス様の「ご最期」

 では、モーセとエリヤは、イエス様と何を話し合っていたのでしょうか。31節に、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していた」と書かれていますね。
 イエス様は、この一週間ほど前に、ピリポ・カイザリヤで「ご自分が苦しめられ、殺され、三日目によみがえる」というご自分のご最期について弟子たちにお話になりました。その時、弟子たちは、まだそれを十分に理解することが出来ませんでした。
 しかし、今は、モーセとエリヤとイエス様が、イエス様のご最期について話し合っているのです。この光景は、救い主が苦しめられ、殺され、三日目によみがえるということが、旧約聖書でも教えられているということを示しています。
 では、旧約聖書は、どのように教えているのでしょうか。
 今日の箇所で「ご最期」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「エクソドス」と言います。これは、「何々から外へ」という意味の「エクス」という言葉と、「道」という意味の「ホドス」という言葉を合成して作られた語で、もともとは「脱出する」「抜け出す」という意味です。そこから「地上の人生から抜け出す」という意味で人の死や最期を表す言葉としても使われていました。ですから、今日の箇所では「ご最期」と訳されているのですね。
 一方、旧約聖書では、この「エクソドス」という言葉は、出エジプト記のギリシャ語の書名として使われています。出エジプト記は、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から脱出して神様の約束の国に向かうという内容だからです。このエジプトを脱出する出来事をエクソドスと言うのですね。
 ところで、旧約聖書に書かれている出来事や事柄の中には、将来来られる救い主がどのような方か、また、どんなことをなさるのかということを象徴的に表しているものがたくさんあります。出エジプトの出来事もその一つです。神様は、イスラエルの民をエジプトから脱出させるために、エジプトに様々な災いを下されました。その中で最も大きな災いは、一晩のうちにエジプト中の初子(最初に生まれた男の子)が死んでしまうというものでした。しかし、神様は、イスラエルの民に「子羊をほふって、その血を家の門柱と鴨居に塗りなさい。そうすれば、その家には災いが起こらない」と約束なさったのです。その言葉に従ったイスラエル人の家は無事でしたが、エジプト中の初子が死んでしまったため、エジプト王はついにイスラエル人がエジプトから出て行くことを認め、イスラエル人は奴隷状態から解放されたのです。エクソドスが実現したわけですね。
 この出来事は、子羊の血によって滅びから免れ、奴隷状態から脱出できたというものでした。そして、それは、将来、すべての人が救い主の血によって罪と死の力から脱出できるようになるということを象徴する出来事だったのです。
 ですから、今日の箇所でモーセとエリヤとイエス様が話し合っていた「ご最期(エクソドス)」とは、イエス様が苦しみを受けて殺されることによって、すべての人が罪と死の束縛から解放されること、また、イエス様が三日目によみがえられることによって、すべての人に永遠のいのちが与えられるということだったのです。イエス様がエルサレムで遂げようとしておられるご最期は、私たちの永遠の救いにつながるものであり、そのご最期の中に、救い主イエス様の栄光が現されるのです。
 教会では、イエス様が来られてからの出来事が書かれている新約聖書だけでなく、旧約聖書も大切にしていますね。なぜかというと、旧約聖書も象徴的な出来事や預言を通して救い主イエス様についてあらかじめ教えている書物であり、旧約聖書の予告したとおりにイエス様が来てくださったからです。使徒26章22節ー23節で、パウロはこう語っています。「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」
 
4 彼の言うことを聞きなさい

 さて、光り輝くイエス様が旧約聖書の最も偉大な人物モーセとエリヤとともにおられる光景を目の当たりにした弟子たちは、動転して、何を言ったらいいのかわからなくなってしまいました。そういう時には黙っていればいいのですが、そんな時に限って何か言うのがペテロです。ペテロは、こう言い始めました。
「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」幕屋とは、移動式のテントのようなものです。エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を旅しているときに、神様の臨在を示すために幕屋が造られましたね。 モーセとエリヤがイエス様と別れようとしたとき、ペテロは、とっさにこう思ったのではないでしょうか。「こんな素晴らしい経験は二度とないかも知れない。ここを特別の場所にして、モーセもエリヤもここに留まっていてほしい。イエス様も栄光の姿のままでいていただきたい。そして、私はこの場所からもう離れたくない」と。あるいは「ここを特別指定区域にして保存すれば、ここに来たら、いつでも同じ経験をすることができる」と考えたのかもしれません。
 ペテロは、八日前に「イエス様、あなたは生ける神の御子キリストです」と告白したばかりでしたね。それなのに、ここでは、「イエス様のために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ、幕屋を造ります」と言っていますね。イエス様を人間にすぎないモーセやエリヤと同じように見ているのです。
 ところが、ペテロが話している間に、ペテロの言葉を遮るかのように雲がわき起こって、イエス様もモーセもエリヤも雲に包まれて見えなくなってしまいました。そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」という父なる神の声がしたのです。
 これは、弟子たちにとっても、私たちにとっても、非常に大切なことを教えています。神様は、こんなにすごい経験している弟子たちに、「ここに幕屋を造りなさい」「ここを特別保存区域に指定しなさい」などとは、ひと言も言われませんでした。ただ、「イエスの言うことを聞きなさい」と言われたのです。つまり、私たちにとって最も大切なのは、天にも昇るような経験でもなければ、不思議な体験でもない、ただ、生ける神の御子キリストであるイエス様の言葉を聞き、その言葉に信頼して生きていくことなのです。

5 そこに見えたのはイエスだけ

 そして、36節に「この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった」と書かれていますね。これは、とても象徴的な言葉です。私たちには、もはや特別な経験も神秘的な場所も必要ありません。イエス様がそこにいてくださる、それで十分だからです。
 第二コリント12章9節には、主がパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である」と言われたことが書かれています。この言葉は、リビングバイブルの訳では「わたしはあなたと共にいる。 それで十分ではないか」となっています。イエス様が私たちと共にいる、それで十分なのです。なぜなら、イエス様のうちに神様の栄光、愛、力、恵み、まことが満ち満ちているからです。イエス様は、御自分のほうから私たちのもとに来てくださいました。山の上だけでなく、日常生活の中でも、私たちがどこにいても、いつもイエス様が共にいてくださるのです。それで十分ではありませんか。
 私たちにも、山にも昇るような経験があるかもしれません。しかし、九十九パーセントは日常の場で過ごします。疑問のわくこともあるし、弱さを覚えて落ち込むこともあるし、問題も起こります。しかし、今日、ぜひ、「そこに見えたのはイエスだけであった」という言葉を心に刻んでください。イエス様がそこにいてくださるのですから。
 今日の出来事は、マタイの福音書17章にもありますが、マタイは、こう記録しています。「すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、『起きなさい。こわがることはない』と言われた。」
 イエス様は、よく理解できないで恐れている弟子たちを批判したり叱責するのではなく、手を触れ、励まし、安心させてくださったのです。そのイエス様がいつも共にいてくださるのですから、安心して歩んでいきましょう。
 
6 沈黙すべき時

 さて、今日の箇所の最後に、「彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった」と書かれていますね。
 こんなに素晴らしい光景を目撃したら、普通はすぐにみんなに知らせたくなるのではないでしょうか。しかし、弟子たちは沈黙を守りました。おそらく、イエス様が「今日、見たことを言い広めてはならない」とお命じになったのでしょう。なぜなら、この段階でこの出来事が人々に知られると、大きな混乱や不要な誤解を招く恐れがあったからです。また、目撃した三人の弟子たちも、この出来事の意味をまだ十分に理解していませんでしたから、正しく人々に伝えることができない状態だったでしょう。
 後に、イエス様が実際に十字架上で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられ、また、聖霊が弟子たちに注がれてから、弟子たちは、やっとイエス様を本当に理解し、人々にイエス様のことを大胆に宣べ伝えることができるようになるのです。
 ですから、今は、沈黙すべき時だったのです。伝道者の書3章7節に「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」と書かれています。私たちも、ただ闇雲に語るのではなく、ふさわしい時に語り、沈黙すべき時は沈黙することができるように、神様の導きを求めていきましょう。神様は、語るにふさわしい時を備えてくださるからです。

 さて、今日の出来事は、「生ける神の御子キリスト」であるイエス様がどのような方であり、どのような目的をもって来られたのかということをはっきりと示しています。神様の栄光に満ち満ちたイエス様が、私たちと同じ人となって来てくださり、私たちのために十字架で死んで罪の赦しをもたらしてくださり、三日目によみがえって死を打ち破るいのちを与え、いつも共に歩んでくださるのです。
ヘブル人への手紙12章2節には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と書かれています。イエス様を見るとき、私たちは神様の愛や恵みを知ることができます。イエス様の言葉を聞いて従うとき、尽きることのない恵みとまことの泉が湧き上がってきます。私たちが弱く恐れているときには、そっと手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と語りかけてくださいます。
 そのイエス様の言葉に耳を傾け、イエス様を見つめながら、歩んでいく者とされていきましょう。