城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年一〇月一四日         関根弘興牧師
             マルコ一二章三八節〜四四節
 イエスの生涯35
    「レプタ二つ」

38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、39 また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。40 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(新改訳聖書)


 イエス様は、地上の生涯の生涯の最後の1週間をエルサレムで過ごされました。四つの福音書には、その一週間に起こった様々な出来事が詳しく記されていますが、今日の箇所もその一つです。

1 律法学者たちに気をつけなさい。

 イエス様は、まず「律法学者たちには気をつけなさい」と言われました。
 律法学者というのは、旧約聖書を教える専門家で、自分たちこそ神の教えに最も精通していると自負していた人々です。律法学者の中には、律法や戒めを徹底的に守って生活しようとするパリサイ派に属している人も多くいました。
 そういう律法学者の多くは、イエス様に対して憎しみを抱いていました。イエス様が彼らを厳しく批判なさっていたからです。
 今日の箇所でも、イエス様は、律法学者についてこう言っておられますね。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
 マタイの福音書23章でも、イエス様は、人々にこう教えておられます。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。」そして、律法学者たちに面と向かってこう言われました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」
律法学者たちは、モーセを通して与えられた神様の律法を誰よりもよく知っていて、人々に教える立場の人でした。そして、自分たちは誰よりもきちんと律法を守って生活していると自負していたのです。
 しかし、イエス様は、「彼らは言うことは言うが、実行しない」と批判なさいました。どういうことでしょうか。
 今日の箇所の少し前の28節ー31節を見ると、ある律法学者が「すべての律法の命令の中で、どれが一番大切ですか」と質問したとき、イエス様は、こうお答えになりました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』、この二つより大事な命令は、ほかにありません。」つまり、すべての律法の土台は、神様と人とを愛することであり、それを抜きにして律法を本当に守ることなどできないとイエス様は言われたのです。
 律法学者たちは、その律法の根本精神を理解していませんでした。言葉として知ってはいても、自分たちにそれを実行する力がないこと、自分たちが神様のみこころから遠く離れた生き方をしていることに気づいて反省することがありませんでした。それどころか、自分たちは律法をきちんと守っている、自分たちこそ神の国に一番近いのだと誇っていたのです。また、人々の賞賛や尊敬を受けたいという自己中心的な思いで、人々に見せるために細かい規則を表面的に守ることだけに熱心でした。しかも、人々にも細々とした戒めを押しつけ、それを守れない人々をさばき、軽蔑していたのです。
 そんな彼らにイエス様は、「あなたがたは白く塗った墓のようなもので、外側はきれいに見えても内側は汚れたものでいっぱいだ」と言われました。「あなたがたは、律法を知ってはいるが、律法の本来の精神に生きていない」と厳しく指摘なさったわけですね。そして、人々にも「彼らのような生き方をまねしてはいけない」と教えておられたのです。

2 貧しいやもめ

 今日の箇所には、その律法学者たちとは対照的な貧しいやもめが登場します。このやもめは、社会的に最も小さい弱い存在でしたが、イエス様は、この名もないひとりの女性の中に人としての大切な姿、礼拝の姿、祈りの姿を見ていたのです。詳しく見ていきましょう。

@神殿の献金箱

 41節に「イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた」とありますね。
 普通、ユダヤの教師が何かを教えるときは、教師は座って、そのまわりに人々が集まります。イエス様も座って教えておられたのかもしれません。まわりにはたくさんの人がいたことでしょう。なぜなら、ユダヤ最大の祭りである過越の祭りの時期で、世界中から二百万人以上がエルサレムにやって来たとも言われているからです。
 そこは、神殿の献金箱が見える場所でした。当時、神殿の外庭には十三の献金箱が置いてあったそうです。そのうちの六つは進んでささげる献金用、今で言うなら自由献金用の箱のようなものですね。残りの七つは、神殿税やその他の目的が定まった献金を入れる箱だったそうです。
 大勢の人が献金箱にお金を投げ入れていました。中には、注目を引くためにお金の袋をジャラジャラ鳴らしながら、俺はこんなにたくさん献金するんだぞ、と言わんばかりに献金する人もいたそうです。また、わざと銀貨を落として「これは献金するお金だ」とか言いながら拾って投げ込んだりする人もいたようです。自分の献金を見せびらかせて、自慢していたわけですね。

Aレプタ二つ

 そこに、貧しいやもめがやってきて、レプタ銅貨を二つ投げ入れました。
 レプタというのは、当時の貨幣の最小の単位で、一レプタは、当時の一日の賃金に相当する一デナリの百二十八分の一に相当する額です。一デナリを一万円とすると、一レプタは七十八円ですから、二レプタは、約百五十円ぐらいということになります。つまり、この女性は、たった百五十円を献げたということですね。他の人が大金を献げているのに、自分は、これしか献げることができない、という申し訳ない思いや恥ずかしさを、この女性は感じていたかもしれません。

3 イエス様の賞賛

 しかし、イエス様は、この貧しいやもめの姿を高く評価なさいました。「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」そして、彼女の信仰の姿は、福音書に書き残されるほどに大切な姿として紹介されているのです。では、イエス様が賞賛されたのは、彼女のどのような姿だったのでしょうか。

@ゆだねて生きる姿

 この女性は「生活費の全部を投げ入れた」と書かれていますね。これを読むと、「クリスチャンになったら、生活費を全部ささげなければならないのか」とか、「持っているものを何でもかんでも献げることが大切なのだ」と勘違いしてしまう人がおられるでしょう。しかし、イエス様は、ここで献金の額について教えておられるのではありません。この献金に表された心、信仰の姿を教えようとしておられるのです。
 イエス様は、「あり余る中から」献金した人たちと、「乏しい中から、あるだけを全部」投げ入れた女性を対比しておられますね。
 「あり余る」という言葉は、「あふれ出る」とも訳される言葉です。つまり、裕福な人は、自分の生活を十分送って、しかもあふれ出たものがあるとき、それを献金に持ってきたというわけですね。
 その反対に、貧しいやもめは「乏しい中から」献げました。この「乏しい」と訳される言葉は、「欠けているもの」「ないもの」を表す言葉です。つまり、この貧しいやもめは、自分にないもの、自分が持っていないものを献げたというわけです。面白い表現ですね。
 でも、自分にないものをどうして献げられるのでしょう。実は、同じような表現が第二コリント8章3節-4節に出てきます。「彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」とあります。これはマケドニア教会の献金についての箇所なのですが、ここに「力以上にささげ」とありますね。この「力以上にささげ」という言葉が、「自分にないものをささげた」ということと同じ表現なんです。
 また、この女性が「生活費の全部をささげた」とありますが、この「生活費」と訳されている言葉は、「生涯」「人生」「生活」という意味もあります。
 つまり、この女性は、明日どうなるかわからないような何もない生活の中にあって、自分の生涯、生活そのものを主に差し出したというのです。「神様、私には、何もありません。あなたにゆだね、あなたに依り頼む以外には生きていくことができないのです」という思いで生活費のすべてを献げたのでしょう。その彼女の姿をイエス様はご覧になったのです。
 これと似た話が、旧約聖書の第一列王記17章に記されています。預言者エリヤとツァレファテのやもめの話です。
 エリヤは、旧約聖書の代表的な預言者ですが、エリヤの時代に大きな飢饉が起こりました。エリヤは、まず、神様の命令に従って川のほとりに行き、しばらくの間、そこで生活しました。水は、川の水を飲むことができますね。でも、食べ物はありません。しかし、不思議なことに、朝と夕方、烏がパンと肉を運んできたのです。神様が養ってくださったわけですね。
 ところが、しばらくすると、川の水が枯れてしまいました。すると、神様は、「エリヤよ。ツァレファテに行って、そこに住め。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている」と言われたのです。エリヤがツァレファテに着くと、たきぎを拾い集めているひとりのやもめに出会いました。エリヤが「水と一口のパンを持って来てください」と言うと、やもめは答えました。「私の家には、一握りの粉と、ほんの少しの油が残っているだけです。私と息子は集めたたきぎでそれを調理し、それを食べてから、死のうとしているのです。」すると、エリヤは、言いました。「恐れてはいけません。まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。」
 最後に残った食べ物を自分に食べさせてくれと言うなんて、エリヤは何てずうずうしいんだと思ってしまいますね。しかし、エリヤは続けてこう言ったのです。「『飢饉が終わるまで、あなたのかめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない』と主が言っておられます。」
 それは、とても信じられないようなことでしたが、やもめは、エリヤの言うとおりにしました。持っていた食べ物全部をエリヤに与えたのです。つまり、生活を全部投げうって、神様の約束に人生をかけたわけですね。すると、不思議にも、その時から、粉も油も尽きることがなく、エリヤとやもめと息子は、ききんを生き延びることができたのです。
 これは、大変有名な出来事ですが、このツァレファテのやもめも、レプタ二枚を献げたやもめと同じように、「自分には何もないけれど、その何もない自分を神様にゆだねて歩もう」という信仰の姿を示しています。そして、それこそ神様が求めておられる姿なのです。

A固執しないで生きる姿

 ゆだねるとは、手を離すことです。それは、固執していることから解放されることでもあります。神様にすべてをゆだねるとき、私たちは、様々なことから解放されるのです。
 私たちは、ともすると、これも自分のもの、あれも自分のものと、すべてを自分が握りしめていないと気が済まないことがあります。自分の考えに固執し、こだわりすぎて、かえって不自由になってしまっていることがあるのですね。
猿を捕まえる面白い方法があるそうです。壺の中においしい食べ物を入れておくと、猿は、壺に手を入れて食べ物をつかみます。しかし、つかんだままだと、壺から手が引き抜けなくなってしまうのです。手を離すと、食べ物を得ることができません。食べ物をつかんだままだと、手が抜けません。さあ、どうしようかと思案しているうちに、猿は捕まってしまう、というわけです。私たちもあまりにも多くのものを握りしめていると、結局、不自由になってしまうのですね。
 イエス様御自身は、すべてを神様にゆだねて歩んでおられました。本当は、神と等しい方であるのにもかかわらず、その立場に固執しようとはなさいませんでした。自分の利益を求めず、自分の功績をひけらかすこともなく、人々に救いをもたらすために十字架上で御自分のいのちさえ差し出されたのです。イエス様は、与え尽くす人生を歩まれたのです。
 しかし、イエス様のまわりには、自分のプライドや立場や地位や肩書きに固執する人々、自分の利益に固執して打算で生きているような人々がたくさんいました。身近な弟子たちでさえ、プライドが強く、自分たちの中で誰が一番偉いのかなどと競い合っていました。そういう中で、イエス様は「自分の人生を自分で握りしめるのをやめて、神様にゆだね、ささげようとしている者は、どこにいるのだ」とまわりを見渡されていたのかもしれません。そして、この小さなひとりの女性に目を留められたのです。
 神殿は、「祈りの家」と唱えられるべき場所なのに、本来の姿が失われてしまっていました。表面的に祈り、献金をささげるだけで、心から神様を礼拝する姿が見られなかったのです。そんな中で、名も知れぬこのやもめの姿は、本来の礼拝や祈りの姿を教えてくれることになったのです。彼女の献げた献金は、神殿を管理する人々にとっては塵にすぎないような僅かなものです。しかし、彼女の姿は、お金に換えることのできない尊い信仰の姿だったのです。
実は、イエス様の地上の生涯の最後の一週間の中で、麗しい信仰の姿を示す女性が二人紹介されています。一人は、今日のレプタ二枚をささげたやもめの女性、そして、もう一人は、三百デナリもする高価なナルドの香油をイエス様に注いだ女性です。この両者のささげたものを日本円に換算すると、一方は百五十円で、もう一方は三百万円です。大分差がありますね。しかし、どちらも、神様に心から感謝し、すべてを神様にゆだねて生きる姿を教えているのです。
 イエス様を捕らえて殺してしまおうとする企みと憎しみ、妬みと争いが渦巻く中で、この二人の女性の姿は、信仰の麗しい香りを放っているかのようですね。

4 心を見られる主

さて、今日の箇所が教えるもう一つの大切なことは、神様は一人一人の心をしっかりと見ていてくださるということです。
 第一サムエル16章7節には、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書かれています。
 今日の箇所で、イエス様は、表面的に立派な信仰生活を送っている律法学者たちを批判し、わずかな献金しか献げられなかった女性を賞賛なさいましたね。それぞれの心を見られたからです。
 イエス様は、マタイ6章でこう言われましたね。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。・・・施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。・・・そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」神様は、私たちの心を見て、報いてくださるのです。 といっても、神様からの報いを期待して何かをするのは、本末転倒ですね。このやもめは、神様の報いを期待して献金をささげたわけではありませんでした。ただ献金をささげ、雑踏の中に姿を消していきました。無名の女性です。彼女は、財産も名声も名誉も何もない中で、それでも神様に自分の人生をささげ、これからの生活をゆだねていくことを決心し、帰って行ったのです。イエス様は、その姿こそ、何にもまして大切な姿だと教えておられるのです。
 また、神様の報いとは、私たちが期待しているものとは違うかもしれません。イエス様は、このやもめを賞賛なさいましたが、声をおかけになることはありませんでした。また、このやもめのために何か奇跡的なことをなさることもありませんでした。この女性に何か特別なことが起こったわけではありません。しかし、神様は、このやもめの姿を決して見過ごさず、御自分にゆだねられたこの女性の人生を御手の中で守り導いてくださるのです。
 私たちは、明日どんなことが起こるか分かりません。でも、「神様、あなたが私と共にいてくださいますから、私はあなたにすべてをゆだねて生きていきます」と告白して歩んでいきましょう。
 イエス様も、マタイ6章33節ー34節でこう言っておられます。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。」