城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年一〇月二一日         関根弘興牧師
               マタイ二四章一節〜一四節
 イエスの生涯36
    「終末の希望に生きる1」

1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(新改訳聖書)


今日も、イエス様の地上の生涯の最後の一週間に起こった出来事を見ていきましょう。
 最後の一週間、イエス様は、夜はエルサレム郊外のベタニヤやオリーブ山で過ごされ、日中はエルサレムに通っておられました。特に、神殿には何度も行って、人々に教えたり、病人をいやしたり、イエス様を陥れようとしている宗教指導者たちと神学論争をしたりなさっていました。
 今日の箇所は、イエス様が神殿に行かれた帰り道での弟子たちとの対話が記されています。

1 エルサレムの神殿

 エルサレムに最初に神殿を建設したのは、有名なソロモン王です。豪華な神殿でしたが、紀元前六世紀にバビロニヤ帝国によって破壊されてしまいました。これは第一神殿と呼ばれます。その時、エルサレムの住民は捕虜としてバビロンに連れて行かれ、捕囚生活を強いられることになりました。しかし、七十年後、ペルシャ帝国の時代になると、エルサレムに帰る許可が下り、捕囚になっていた人々はエルサレムに帰還して、神殿を再建したのです。これは、第二神殿と呼ばれます。しかし、豊かな財源があるわけではありませんから、再建された神殿は、ソロモン王が造った壮麗な神殿にはとうてい及びませんでした。
 その後、何百年もの時が流れ、ユダヤを治めていたヘロデ大王がユダヤ人の歓心を買おうと紀元前二十年ころから大規模な神殿の増改築工事を始めました。ヘロデ王は、この工事ために莫大な財を投じました。大理石の柱を立て、神殿の正面を金箔で覆うなど大量の金を使いました。その豪華に改築された神殿を見て、ヨセフォスというユダヤ人の歴史家は、こう記しています。「神殿は日の出の時、実にまばゆいきらめきを反射し、まるで太陽を見つめるかのようだ。あまり見つめていると、目が痛くなってしまうほどだった。金箔が張られていない所は大理石が非常に白かったので、初めての人は遠くから見ると、まるで麗しい雪山のように見えた。」とにかく、この地方随一の建物となったわけです。
 イエス様が行かれたのは、この神殿です。弟子たちのほとんどはガリラヤ出身の田舎者ですから、この神殿を見るたびに「これは何と素晴らしい建物だ」と思ったことでしょう。今日の箇所では、弟子たちが宮の建物をさし示して、すべての物に目をみはっていたと書かれていますね。マルコの福音書13章1節には、弟子たちが「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう」と感嘆したと記されています。
 しかし、イエス様はそんな弟子たちに対して、「まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と言われたのです。この神殿が徹底的に破壊されてしまう時が来るというのですね。
 弟子たちは、驚きました。そして、もしこんな立派な神殿が破壊されるとしたら、それは世の終わりを迎えるときに違いないと思ったでしょう。
 ところで、イエス様は、以前から世の終わりが来ること、そして、御自分が十字架にかかって死んで三日目によみがった後に、神の栄光を帯びて再臨し、神の国をもたらし、最終的なさばきを行うということを教えておられました。
 そこで、イエス様がオリーブ山ですわっておられる時、おそらく夕日に赤く染まるエルサレムと神殿が眼前に広がっていたのではないかと思いますが、弟子たちがみもとに来て質問しました。「イエス様。さっき、言われたことですが、あの神殿が破壊されてしまうなんてことが、いつ起こるのでしょうか。あなたが来られる時や世の終わりの時が来る前に、何か前兆があるのでしょうか。」

2 世の終わりの前兆

 すると、イエス様は、世の終わりには、次のような前兆があるとお話になりました。
  ・偽キリストが出現する。
  ・戦争のことや戦争のうわさを聞く。
  ・飢饉や地震が起こる。
  ・教会に迫害が起こる。
  ・偽預言者の惑わしがある。
  ・多くの人の愛が冷たくなる。
  ・全世界に福音が宣べ伝えられる。
 しかし、これらの出来事は、いつの時代にもあったことだと思いませんか。
 たとえば、偽キリストは、少なくとも紀元五十年にはもう現れています。その後も次から次へと現れています。今でも「私こそキリストだ」と平気で名乗っている人は沢山います。
 また、当時は「ローマの平和」と呼ばれる時代でしたが、それは長く続かず、やがて世界は戦争のるつぼと化して行きました。今日の世界でも民族同士、国同士の敵対関係や戦争が各地にありますね。ある学者は「今までの歴史の中で戦争の無かった時間は、わずか半年ぐらいだろう」と言いました。「いや、わずか三十分だ」と言う学者もいます。とにかく、いつの時代も戦争や戦争のうわさは絶えなかったわけですね。
 飢饉や地震も、いつの時代もあちこちで起こっています。
 では、迫害はどうでしょう。イエス様御自身も当時の宗教指導者や支配者から迫害されましたが、教会も誕生した当初から様々な迫害を受けてきました。今ではローマ帝国の時代のようなすさまじい迫害はないかもしれませんが、信仰を持つことに対する妨害や困難や誤解はいつの時代にも存在しています。
 それから、偽預言者とは、聖書の真理をゆがめ、間違った教えを広めて人々を惑わす者たちのことです。そういう偽預言者も昔から現在に到るまで数多く現れています。
 また、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と書かれていますが、ローマの圧政の中では、親が子を、子が親を売り渡すというようなことがあったそうです。現代でも、「人の愛が冷たくなる」ことを象徴するようなニュースは毎日溢れているではありませんか。
 そして、「全世界に福音が宣べ伝えられて、すべての国民に証される」とありますが、イエス様の時代の「全世界」とは、大ローマ帝国の支配する地域を指していました。例えば、パウロは、ローマ1章8節で「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」と記しています。また、コロサイ1章23節では「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」と記しています。これは紀元六十年頃のことです。
 その後、福音は、文字通り全世界に宣べ伝えられていきました。現代は、インターネットなどの発達によって全世界に福音が届けられていますね。
 このように、イエス様が世の終わりの前兆として挙げておられることは、すでに起こっているのです。ですから、私たちは、今、世の終わりがいつ来てもおかしくない終末の時代に生きていると言えるのですね。
 また、私たちにとって「終末」はこの世界の終わりのことだけを意味するのではありません。私たちには、三つの終末があります。
  @世界の終末
  A自分のいのちの終末
  B自分以外の人々のいのちの終末
 どれが一番早く訪れるかはわかりませんが、いずれにせよ、私たちは必ず終末を迎えることになっているのです。

3 最後まで耐え忍ぶ者は救われる

 さて、今日の箇所を読んで、何だか恐ろしくなった方もおられるかもしれませんね。しかし、イエス様が世の終わりの前兆について教えてくださったのは、私たちを恐怖に陥れるためではなく、私たちが終末に備えて生きることができるためなのです。
 では、私たちは、どのように生きていったらいいのでしょうか。イエス様は、今日のマタイ24章から次の25章まで、様々なたとえ話を使って終末への備え方を教えておられるのですが、今日の箇所では、13節でこう言っておられますね。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
 このイエス様の言葉を聞いて、「自分の力で必死に我慢して耐えていかなくてはならない。もしそれができなければ、救われないのだ」と思ってしまう方もいるかもしれません。しかし、イエス様はそういう意味で言っておられるのではありません。 聖書は「主イエスを信じなさい、そうすれば救われます」と単純明快に約束しています。私たちは、ただイエス様を信じ受け入れるだけで、永遠の救いが無条件に保証されるのです。その保証は決して取り消されることはありません。イエス様が十字架にかかって私たちの罪の問題を解決し、復活することによって死を打ち破ってくださったからです。
 しかし、この地上の生活においては、先ほどの終末の前兆のような様々なことが起こります。クリスチャンになったからといって、問題が全くなくなるわけではありません。苦しみや辛い経験もあります。そんな時、「神様は本当に助けてくださるのだろうか」「神様を信じていることに意味があるのだろうか」と疑ったり動揺してしまうことがあるのですね。
 しかし、それでもなお主を信頼し続けることが、イエス様の言う「耐え忍ぶ」ということなのです。イエス様は、「何があってもわたしを信頼し続ければいい。必ず救われるのだから」と言っておられるのです。パウロもローマ9章33節で「主に信頼する者は、失望に終わることがない」と書いています。
 では、私たちは、どうすれば最後まで耐え忍び、主を信頼し続けることができるでしょうか。そのために最も大切なのは聖書の言葉です。聖書の言葉には力があって、私たちに神様の愛の深さを教え、正しい道を示し、決して失われることのない希望を与えてくれるからです。聖書によって私たちはどのように生きていくことができるでしょうか。

@惑わされずに生きていくことができる

 イエス様は、4節で「人に惑わされないようにしなさい」と言っておられますね。
 世の中には情報があふれています。中には、私たちを惑わす誤った情報もたくさんありますね。聖書の言葉は、それを見分ける基準となるのです。
 一九九二年頃だったと思いますが、「今年の十月二十八日に世の終わりが来る」と主張するグループがありました。私は、千葉にある教会が配布した「十月二十八日に世が終わる」というチラシを見て驚き、すぐにその教会に電話しました。「聖書には、世の終わりが来る日付はどこにも書かれていないし、それがいつなのかは神様の他には誰も知らない、とはっきり書かれている。それなのに、なぜあなたたちは、そんな根拠のない情報を言いふらしているのですか」と言ったのです。しかし、相手はまったく聞く耳を持ちません。「多くの人が直接聖霊にによって示されたから確かだ」というのです。そこで、私は「わかりました。それでは十月二十九日の朝にもう一度電話します」と言って電話を切りました。もちろん十月二十八日には世の終わりは来ませんでした。私は、聖書を知っているものとして、このような情報に惑わされることはありませんでしたが、当時は、その情報を信じて仕事を辞めてしまうなど、人生を混乱させられた人もたくさんいたようです。
 また、「イエス様を信じるだけでは十分ではない。一生懸命奉仕したり、伝道したり、献金しなければ救われない」と教える異端のグループもあります。しかし、聖書は、「あなたがたは神様の恵みにより、イエス・キリストを信じることによって救われるのであって、あなたがたの行いは救いとはまったく関係ない」と教えています。その聖書の教えをよく知っていれば、異端の教えに惑わされのを防ぐことができるのです。
 また、聖書の言葉は、私たちが間違った道に進みそうなときに忠告を与え、私たちの内の問題を明らかにして正してくれます。ですから、私たちは、聖書の言葉によって、安心して、落ち着いて歩んでいくことができるのです。

A希望を持って生きていくことができる

 私たちは、クリスチャンになったからといって、まったく問題がなくなるわけではありません。聖書は、「あなたがたには、この世において患難がある」と教えています。ですから、何が起こっても、「自分が不信仰だからではないか」と悩んだり心配しないでください。それどころか、聖書には、試練について素晴らしい約束がいくつも書かれていますから、その約束を信頼して、私たちはいつも希望を持って生きていくことができるのです。たとえば、次のような約束があります。
 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(第一コリント10章13節)
 「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」(ヤコブ1章2節ー4節)
 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)
 神様は、私たちが耐えられないような試練はお与えになりません。試練とともに、その試練に耐える力も脱出の道も備えてくださいます。だから、安心してください。また、神様は、苦しみや試練を与えることによって私たちを練り上げ、成長させくださいます。苦しみや悲しみを含めたすべてのことを働かせて益としてくださるのです。
 たとえば、初代教会は、激しい迫害を受けた結果、各地に散らされていきましたが、散らされた場所で福音が宣べ伝えられ、クリスチャンがどんどん増えていきました。キリスト教会は、迫害を受けた結果、かえって発展していったと言っても過言ではありません。
 私自身も神様の訓練を経験しました。一九八二年からこの教会の牧師をしていますが、自分の牧会生活を振り返るとき、いつも思い起こすことが三つあります。
 一つは、牧師になって三年目のことです。教会がなかなか自分の期待通りに成長しなかったのです。もう牧師を辞めようと思いました。何をやってもうまくいかないという自信喪失と挫折感のようなものに覆われていたのです。しかし、このうまくいかない三年間は、私にとって必要なものでした。自己過信を砕かれ、教会の働きの主人公は牧師ではなくて主イエス御自身であることを深く教えられたからです。意気消沈して祈り求める私に、主はエレミヤ書の言葉を通して「わたしはあなたを建て直す」と語りかけてくださいました。主が人を集め、主が人を救いに導き、主が教会を建て上げてくださるということを教えられたのです。
 次は、牧会十年目の時です。私は、自分の説教に疑問を持つようになりました。「私は本当に聖書を語っているだろうか」と考えると、とても苦しくなってきたのです。その時に、ヨハネ1章14節の「この方は恵みとまことに満ちておられた」という言葉が強く迫ってきました。そして、いつも恵みとまことに満ちたイエス様を語らせていただきたいという願いを持って、聖書の講解説教を始めたのです。それからは、どの箇所を開いてもイエス様の恵みとまことを語らせてくださいと祈りつつ説教させていただいています。
 そして、三つ目の出来事は、牧会二十年目に起こりました。長い間、教会が借りていた場所が急に使えなくなり、移転を余儀なくされたのです。突然退去を迫られた形だったので、人間的には怒りや不条理を感じたり途方に暮れることもありましたが、結果的には、この土地が与えられ、会堂を建てることができました。もし退去を言い渡されなかったら、決してこの会堂を建てることはできなかったでしょう。
 詩篇119篇71節には「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」とありますが、確かにそう言うことのできる人生を神様は一人一人に備えてくださっているのです。私たちの人生に起こる苦難は、決して無駄になることはなく、結果的に、キリストの恵みをより深く知る機会となっていくのです。ですから、皆さん、自分のクリスチャン・ライフに自信を持ってください。
 ローマ5章2節ー5節で、パウロはこう書いています。「キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」私たちには、決して失望に終わることのない希望があるのです。
 
イエス様は、終末に起こる出来事についてお語りになりましたが、それは、たとえどんな困難が起ころうとも、私たちが主に信頼して希望をもって生きることができるよう備えさせるためでした。
 ヨハネ16章33節で、イエス様は、こう言っておられます。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
 イエス様は、十字架と復活によって圧倒的な勝利者となってくださいました。ですから、私たちは、どんな時にも、このイエス様に信頼し、イエス様が共にいてくださることを喜びつつ、この終末の時代を歩んでいこうではありませんか。