城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年一〇月二八日         関根弘興牧師
              マルコ一三章二八節〜三三節
 イエスの生涯37
    「終末の希望に生きる2」

28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。(新改訳聖書)


  今日も、イエス様の地上の生涯の最後の一週間に起こった出来事を見ていきましょう。
 先週、私たちは終末の時代に生きていること、そして、終末の時代においてどのように生きていったらいいかということについて学びましたね。
 私たちは「世界の終末」「自分のいのちの終末」「自分以外の人々のいのちの終末」という三つの終末の中に生きています。そんな私たちに、イエス様は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と約束されました。この言葉を聞くと、「自分の力で必死に我慢して耐えていかなければ、途中で脱落して救いから漏れてしまうのか」と誤解する方がおられるかもしれません。しかし、イエス様はそういう意味で言っておられるのではありません。主イエス様を信じ受け入れたときに与えられた救いは、決して無効になることはありませんから、安心してください。しかし、終末の時代に生きる私たちには、様々な苦しみや試練が襲ってきます。そんな時、「神様は本当に助けてくださるのだろうか」「神様を信じていることに意味があるのだろうか」と疑ってしまったり、動揺してしまうことがあるかもしれませんね。イエス様が「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われたのは、「どんな状況になってもわたしを信頼し続けなさい。神様の約束は必ず実現するのだから、失望したり迷ったりせずに希望を持ち続けなさい」という意味なのです。
 さて、今日はその続きです。今日の箇所でも、イエス様が終末の時代に生きる心構えを教えてくださっています。

1 終末の時がいつ来るか、だれも知らない

 先週の箇所では、イエス様が世の終わりに現れる様々な前兆について語っておられましたね。そういう話を聞くと、私たちは、終末がいつ来るのか、はっきり知りたくなってしまいますね。
 ところが、イエス様は、32節ではっきりこう言っておられます。「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」神の御子であるイエス様でさえ、明確な日付を知らないというのですね。
 この「子も知らない」という言葉は、イエス様が無知である、ということではありません。ここで記されている「知る」という言葉は、「知識」という意味の他に、「関心」「興味」という意味もあります。つまり、イエス様が「子も知らない」と言われたのには、「わたしは、この世の終わりがいつなのかについて知ろうと思わないし、興味もないし、教える気もない」という意味が含まれているのです。
 使徒の働き1章で、弟子たちが復活されたイエス様にこう質問しました。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」これは、「世の終わりに神の国を完成してくださるのは、いつですか」という意味の質問です。すると、イエス様は、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」と答えられたのです。弟子達は「その日、その時」を知りたかったのですが、イエス様は「それは、あなたがたは知らなくてもいい。父なる神様にお任せしておけばいいのだ」と言われたのです。
 ですから、イエス様が私たちに教えようと思われないことを、私たちが勝手に詮索するのは、終末にふさわしい生き方ではありません。「キリストが何月何日に再臨した」とか「終末は何年何月何日に来る」などと言う者が現れたら、この人たちはイエス様の心をまったく無視しているのだと判断して、即座に拒否したらいいのです。

2 終末に備える

 イエス様は、終末の日がいつかを知る必要はないと言われました。しかし、その一方で、終末が近いことを知って、いつ来てもいいように備えておく必要がある、と教えておられます。
 今日の箇所では「いちじくの木から、たとえを学びなさい」と言っておられますね。
 「枝が柔らかになって、葉が出てくると、夏の近いことがわかります」とありますが、この「夏」というのは、「刈り入れの時期」という意味で使われています。いちじくは、葉が出始めると実の刈り入れの時期が近いことがわかるのだそうです。それと同じように、世の終わりの前兆が起こっているのを見たら、終末が近いのだと悟りなさい、とイエス様は言っておられるのです。
 ところで、前回お話しましたように、イエス様が教えてくださった終末の前兆といえる出来事(偽キリストや偽預言者の出現、戦争、地震や飢饉、迫害など)は、初代教会から今に到るまでどの時代にも世界中で起こっています。ですから、初代教会の時代から、クリスチャンたちは終末が近いと考えていました。特に、紀元七十年にエルサレムの神殿がローマ軍に破壊されてからは、終末が間近に迫っていると考えていたのです。ですから、それ以来ずっと、私たちは終末がいつ来てもおかしくない時代に生きているということなのですね。
その私たちに、イエス様は、終末の時代に生きる者の心構えを教えてくださいました。前回の箇所では「最後まで耐え忍びなさい」、つまり、「神様を信頼し、希望を持ち続けなさい」と言われましたが、今日の33節では、「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい」と教えておられます。
 聖書には、「目をさましている人」と「眠っている人」の違いが教えられています。
 黙示録3章3節で、イエス様は、「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る」と言っておられます。目をさましていない人にとっては、世の終わりは盗人のように突然やってくるのだというのですね。
 そして、第一テサロニケ5章2節ー4節には、こう書かれています。「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」
 暗やみの中で眠っている人には、突如として滅びが襲いかかるけれど、光の中で目をさまして注意している人は、不意打ちされることはないというのですね。
 マタイ24章37節-39節では、イエス様は、目を覚ましていることの意味を教えるために、ノアの箱船の出来事を引用しておられます。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」
 ノアは、大洪水が来るという神様の言葉を信じて箱舟を造り始めました。そして、箱舟を造っている間ずっと人々に「大洪水が来るから、備えなさい」と警告し続けていたことでしょう。しかし、人々は、ノアの警告を無視しました。また、神様は大洪水が起こる直前にノアにこう予告しておられました。「あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去る。」ノアは、もちろん人々にそのことを伝えたでしょう。しかし、彼らは聞こうとしませんでした。ノアが巨大な箱舟を完成させるまでには長い時間がかかったでしょうから、人々は警告を聞く機会が十分あったはずです。それなのに、警告を無視し続けたために、彼らの上に大洪水が突如として襲ってきたのです。
 しかし、ノアにとっては、大洪水は突然襲ってきたものではありませんでした。大洪水が起こるという神様の言葉を信じて十分な備えをしていたからです。
 つまり、「目を覚ましている」とは、二十四時間いつも緊張して寝ないでいなさいということではなく、神様の言葉を信頼し、その言葉に従って生活していくことです。それとは、逆に「眠っている」とは、神様の言葉を無視し、従おうとしない姿を表しているのですね。
 もし私たちが目を覚ましているなら、つまり、神様の言葉を聞き、信頼し歩んでいるなら、終末が盗人のように不意に襲ってくることはありません。ですから、いつも緊張して「いつ終末が来るのだろう」と心配しながら生きる必要もありませんし、日常生活に手が付かなくなるほどそわそわする必要もないのです。
 私たちは、ただ、神様が最善の時に最善のことを行ってくださること、また、神様がどんな時にも私たちを守り救ってくださることを信頼して、淡々と与えられた日常生活を送っていけばいいのです。パウロも第一テサロニケ4章11節で、「落ち着いた生活をすることを志しなさい」と勧めています。
 ある牧師が「明日、世の終わりが来るとしたら、あなたはどうしますか」と質問された時、こう答えたそうです。「私は、いつものようにあなたの町へ行って、いつものように礼拝を守り、そして、いつものように祈って床につきます」と。
 あなたなら何と答えますか。終末の時代に生きているからこそ、いろいろな情報に惑わされることなく、いつもと変わらない与えられた日々を、主に信頼し、誠実に、落ち着いた生活を過ごしていきましょう。

3 イエス様のことば

 さて、終末の時代に生きる私たちに、イエス様は、33節の素晴らしい約束を与えてくださいました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」
 イエス様は、まず、「この天地は滅び去る」と断言なさいました。いつ、どんな方法で滅ぼされるのかは、私たちにはわかりません。しかし、科学的に考えたとしても、太陽は約五十億年後には寿命を迎えると言われていますから、それまでには天地は必ず滅びてしまいます。あるいは、明日、神様が別の方法で天地を滅ぼされるかもしれません。とにかく、この天地は必ず滅び去るのです。
 しかし、イエス様は「わたしのことばは決して滅びることがない」と宣言されました。
 旧約聖書のイザヤ40章8節で、預言者イザヤは、こう言いました。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」これは、ユダヤ人なら誰でも知っている言葉です。イザヤは「神のことばは永遠に立つ」と言いました。そして、イエス様は「わたしのことばは決して滅びることがない」と言われました。つまり、イエス様は、「わたしのことばは、神のことばだ」と言われたわけですね。だからこそ、イエス様のことばは、決して滅びることのない永遠のことばであり、真理そのものだということなのです。
 そして、イエス様御自身も決して滅びることのないお方です。 ヨハネ1章1節ー3節に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。ここで、ヨハネはイエス様を「ことば」なるお方として紹介しています。
 ヨハネの福音書の当時の中心的な読者は、ユダヤ人とギリシヤ人でした。その両者に対して、ヨハネは、イエス様を「ことば」なる方として紹介することによって、大切なことを伝えようとしていたのです。
 まず、ユダヤ人には何を伝えようとしていたのでしょうか。
 十戒の中に「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあります。ユダヤ人たちは、それを文字通りに解釈して、神様の御名を直接口にすることを避けようとしました。そこで、旧約聖書で「神」(ヤーウェ)と書かれているところは、そのまま発音するのではなく、「主」(アドナイ)という言葉に置き換えて読んでいたのです。また、「神」と言う代わりに「御名」とか「神のことば」という言い方に換えたりもしていました。ですから、当時のユダヤ人たちにとって、「神のことば」とは「神様御自身」という意味でもあったわけです。ですから、ヨハネは、ユダヤ人たちに対して、こう言っているわけですね。「イエス様こそ、天地を創造し、真理の源である『神のことば』、つまり『神御自身』なのです。神御自身が人となってあなたがたの間に来てくださったのです。だから、神様を見たいなら、イエス様を見なさい。神様のことばを聞きたいなら、イエス様のことばを聞きなさい。」
 では、ギリシヤ人に対してはどうでしょうか。
 新約聖書は、当時の共通語であったギリシャ語で書かれていますが、ここで「ことば」と訳されているのは、ギリシャ語の「ロゴス」という言葉です。
 ギリシャ人たちは、「万物は流転している」と考えていました。その流転は、でたらめに起こっているのではなく、常に秩序があり、パターンがあるというのです。そして、その秩序を与え、この宇宙全体を動かし支配しているのが「ロゴス」、つまり「神のことば」「神の理性」であると考えていました。また、人に理性や真理の知識や善悪の判断力や識別力を与えるのも「ロゴス」であると考えたわけです。
 そういうギリシャ的な考えをもつ人たちに対して、ヨハネはこう言っているのです。「世界を造り、世界の秩序を保っている『ことば=ロゴス』があります。それは、あなたがたが神様を知るために必要な理性や思考や認識力を与えるものです。あなたがたは何世紀もの間、この『ロゴス』を探り求めてきましたね。イエス・キリストこそ、地上に降りてこられたその『ロゴス』なのです。」
 ですから、ヨハネは、すべての人に対して、このイエス・キリストこそ天地を創造し、秩序を与え、支配し、真理と理性の源である神そのもののお方なのだと宣言しているわけですね。
 そして、そういうイエス様だからこそ、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」とはっきり宣言することがおできになったのです。
 ここで、イエス様は、当時の状況とご自分のことばを比較して語っておられるようです。この時、イエス様は弟子たちと一緒にオリーブ山からすばらしい輝きを放つ神殿を眺めておられました。当時は「ローマの平和」と言われる時代で、ローマ帝国が強大な力を持って広大な地域を支配していました。誰が見ても、ローマ帝国が滅びたり、神殿が崩壊してしまうなどとは考えられなかったことでしょう。
 一方、イエス様はどうでしょうか。イエス様は、辺鄙なガリラヤ地方のナザレという町で育ちました。弟子たちも特に有能で立派な人物というわけではなく、ごく普通の人たちでした。イエス様には、政治的、経済的な力や地位があったわけではありません。自分の足で弟子たちと共にパレスチナ地方を旅して回り、当時、罪人呼ばわりされていた人や社会的に差別されている人たちの友となり、共に食事をし、病む人を癒やしていったのです。「疲れた人は、私のもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます」と語り、「明日のことは心配しないで、神の国とその義とを追い求めなさい」と教えられました。そして、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とお語りなったのです。当時の宗教家たちは、そんなイエス様をあざ笑い、「しばらくすれば、イエスもイエスの言葉もすぐに忘れ去られてしまうだろう」と考えていたことでしょう。
 ところが、どうでしょう。ローマ帝国や神殿はすぐに滅びてしまいましたが、それから二千年以上たった今でも、イエス・キリストの言葉は、滅びるどころか、社会を変革し、人々に力と勇気と希望を与え、新しい人生を創造し続けているのです。
 イエス様のことばには、力があります。決して滅びることのない永遠のことばです。また、ヘブル書13章8節に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」とあるように、イエス様御自身も決して変わることはありません。
 そのイエス様のことばに信頼していれば、私たちは、決して揺り動かされることなく、安心して生きていくことができるのですね。
 イエス様によって語られた一つ一つの約束の言葉は決して滅びることはありません。無効になることはないのです。そのイエス様が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と約束してくださっているのですから、終末に生きる私たちにとってこれ以上の平安はありませんね。これで十分ではありませんか。