城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年一一月四日          関根弘興牧師
               ヨハネ一三章一節〜一七節
 イエスの生涯38
    「弟子たちの足を洗う」

 1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」(新改訳聖書)

イエス様の地上での生涯の最後の一週間もいよいよ終わりに近づいてきました。今日の箇所には、イエス様が十字架につけられる前日、弟子たちと共に最後の晩餐の時をもたれた時の出来事が記されています。
 最後の晩餐と言っても、フルコースの豪華な食事をしたわけではありません。ちょうど過越祭りの時で、ユダヤ人は皆、「過越の食事」と呼ばれる特別な食事をしたのです。
 過越の祭りは、昔エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエル人の先祖たちが、神様のみわざによって奇跡的にエジプトを脱出できたことを記念する祭りです。彼らは急いでエジプトを脱出しなければならなかったので、パンを発酵させる時間がありませんでした。そこで、パン種を入れずに焼いた丸形の薄いパンを食べたのです。その出来事を思い起こすために、毎年、過越の祭りでは、七日間、種なしパンを食べることになっていました。イエス様も、今日の箇所で、弟子たちと共に種なしパンの食事をなさっていたわけですね。
 これから十字架に向かおうとしておられるイエス様にとって、この食事は弟子たちと親しく語り合う最後の時間でした。ヨハネの福音書には、その時イエス様が弟子たちにお語りになった大切な教えが13章から17章にかけて詳しく記録されています。今日の箇所はその最初の部分です。

1 最後まで愛を示されるイエス

 まず、1節に「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」とありますね。この「その愛を残るところなく示された」という言葉は、別の訳では「彼らを最後まで愛された」とか、「最後まで愛し通された」と訳されています。
 イエス様は、これから、捕らえられ、十字架で苦しみを受け、死んで葬られ、三日目によみがえられることになりますが、その間もずっと、最後の最後まで愛を示し続けられました。ヨハネは、そのイエス様の姿を身近で目撃して、この13章から詳しく記しているのです。
しかし、このときの弟子たちの姿はどうだったでしょうか。イスカリオテのユダは、イエス様をわずかなお金で売り渡そうと企んでいました。他の弟子たちはどうでしょうか。ルカ22章24節を見ると、彼らは、この最後の晩餐の時に「この中で誰が一番偉いか」と論議していたというのです。私なら、「なぜこんな者たちといつまでも一緒にいなければいけないのか。愛の示し甲斐がない」と思ってしまうかもしれません。しかし、イエス様は、そんな弟子たちに最後まで惜しみない愛を示されたのです。
 私たちも弟子たちとあまり変わりませんね。イエス様の心を無視して自分勝手なことばかりしてしまいます。でも、イエス様は、そんな私たちをも最後の最後まで愛してくださるのです。

2 洗足の意味

 その愛の表れとして、今日の箇所では、イエス様は、夕食の席から立ち上がって弟子たちの足を洗い始められました。
 普通、足を洗うのは、家に入る時です。そして、足を洗うのは奴隷の仕事でした。サンダルばきで外を歩いたために汚れた足を奴隷に洗わせるのです。ここに集まった弟子たちも、奴隷に洗ってもらったかどうかはわかりませんが、家に入るときに足を洗ったはずです。それなのに、イエス様は、食事の最中にわざわざ立ち上がり、上着を脱ぎ、腰をかがめて弟子たちの足を洗い始められたのです。
 これを読んで、こんなことを言った人がいます。「きっと、弟子の中にものすごく足の臭い奴がいてさ、イエス様もさすがに食事をする気にならなかったんだよ。だから、仕方なく足を洗い始めたのさ。でも、一人だけ洗うと、その人を傷つけるから、みんなの足を洗ったんじゃないか。」なかなか豊かな想像力ですね。しかし、そうではありません。イエス様は、ここで弟子たちの足を洗うことを通して、大切なことを象徴的に教えようとしておられたのです。
 では、何を教えようとしておられたのでしょうか。それは、イエス様が言われた三つの言葉の中に表されています。

(1)「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

 まず、ペテロが「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか」「決して私の足をお洗いにならないでください」と言うと、イエス様は、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とお答えになりましたね。これは、どういう意味でしょうか。
 ヨハネの福音書では、ある出来事や行為が何かを比喩的に暗示していることがよくあります。今日の箇所で、イエス様は、「上着を脱ぎ、弟子たちの足を洗い、上着を着た」と書かれていますね。
 この「脱ぐ」「着る」という言葉は、イエス様が御自分の死と復活をお話になるときに使われていました。ヨハネ10章17節で「わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」と言っておられますが、この「捨てる」という言葉は「脱ぐ」と同じ言葉であり、「得る」は「着る」とも訳される言葉です。つまり、「わたしが再びいのちを着るために自分のいのちを脱ぐ」と言っておられるわけですね。
 また聖書では、「着物を脱ぐ」という表現が「死」を意味し、「着物を着る」ということが「よみがえる」という意味で使われることがあります。たとえば、第二コリントの5章2節で、パウロはこう書いています。「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」
 つまり、イエス様が食事中にわざわざ上着を脱いで弟子たちの足を洗われたのは、実は、イエス様が十字架でいのちを捨てることによって私たちに罪のゆるしときよめがもたらされること、そして、イエス様がよみがえられることによって、私たちに永遠のいのちがもたらされることを象徴的に示す行為だったのです。
 しかし、ペテロは、その意味がわからず、「決して私の足をお洗いにならないでください」と強く拒否しました。ペテロは、「むしろ私の方がイエス様の足を洗って差し上げたい」と思ったのでしょう。
 しかし、イエス様に足を洗っていただくことを拒否することは、イエス様の十字架の血によって罪をきよめていただくことを拒否することになります。イエス様は私たちの罪をすべて引き受けて十字架にかかってくださいます。それによって、私たちは罪が赦され、きよい者となることができます。そして、きよい者となった私たちの内に復活したイエス様が住んでくださり、いつもイエス様との親しい関わりの中で生きていくことができるのです。ですから、イエス様の十字架によって罪をきよめていただくことなしに、イエス様との親しい関わりをもつことはできません。だから、イエス様は、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われたのです。
 私たちとイエス様の親しい関わりは、汚い足に象徴される私たちの罪をイエス様によって洗っていただくことから始まります。イエス様が「最後まで愛を示された」というのは、時間的なことだけを意味しているのではありません。お互いの人間関係の中で、普通は、相手の汚い部分には関わりたくないものですね。また、自分の汚い部分は隠したいものです。しかし、イエス様は、私たちのありのままの、それも最も汚い部分に御自分の方から手を差し伸べて、きよめてくださるのです。それほどの愛をイエス様は示してくださっているのですね。

(2)「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」

 さて、イエス様が「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われると、ペテロは、今度は慌てて「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言いました。ペテロらしいですね。ペテロは、イエス様が足を洗ってくださるということが、全身をきよくしてくださるみわざの象徴であることを悟っていなかったのです。
 すると、イエス様は「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」と言われました。このイエス様の言葉は、どのように理解すればいいのでしょうか。

@イエス様の罪の赦しは完全である

 実は、初期の写本の多くは、「足以外は」という言葉が書かれていません。そうすると、イエス様は、「水浴した者は、洗う必要がありません。全身きよいのです」と言われたことになりますね。そして、イエス様の洗足の行為は、全身をきよくすることの象徴だったわけですから、ここでイエス様は、「わたしによって足を洗われた者はすでに体全体を水浴した者であり、そういう者は、もはや二度と洗う必要がない。全身がきよくされているのだ」という意味で言っておられると理解することができます。
 第一ヨハネ1章7節には、こう書かれています。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」つまり、イエス様が十字架で流す血潮によって私たちのすべての罪を洗いきよめてくださるというのは、一回限りの完全なものであり、イエス様は、ただ一度十字架にかかることによって、私たちのすべての罪の問題を解決することがおできになったのだということです。私たちがイエス様を信じ受け入れたときに与えられた罪の赦しときよめは完全なものであり、ひとたびきよめられた私たちは、もうどこも洗ってもらう必要が無く、完全な救いを与えられているということなのです。

A信じる人々をきよめ続けてくださる

 その一方で、「足以外は」という言葉が入っている写本もたくさんあります。なぜでしょうか。
 それは、教会の中に起こってきた誤解を防ぐためだったのではないかと思われます。初代教会の時代から、教会の中に一つの問題が起こってきました。「イエス様によって完全に罪が赦されて救われたのだから、クリスチャンは罪を全く犯さなくなる」と誤解する人々が出てきたのです。また、「たとえクリスチャンが罪を犯しても、すでに全身がきよくされているのだから、罪の赦しは必要ない」というような間違った解釈が生まれてくる危険性もありました。そこで、そうした誤解や行きすぎた解釈を防ぐために、「足以外は」という言葉が加えられたのではないかと考えられます。
 実際の生活を考えてみてください。クリスチャンになって一度も罪を犯したことがない人がいますか。イエス様が与える救いは完全です。でも、だからといって、「クリスチャンはもう決して罪を犯さない」とか、「クリスチャンは完全に赦されているのだから、いくら罪を犯してもかまわない」などと主張し始めたら、とんでもないことになりますね。
 私たちは、イエス様の十字架の贖いのゆえに、すべての罪が赦され、神様の前で義なる者、きよい者と認められました。それは、変わることのない約束であり真理の言葉です。
 しかし、聖書は同時に、私たちはまだ完全なものに変えられつつある途中の状態なのだと教えます。私たちには、キリストと同じ姿に変えられていくという約束が与えられ、それが必ず実現するという保証も与えられていますが、まだ完成しているわけではないので、欠けも弱さもあります。失敗したり、罪を犯してしまったり、汚れてしまうこともあるのです。しかし、イエス様がただ一度十字架にかかってくださったことによって、私たちの過去の罪も現在の罪も将来の罪もすべて赦されていますから、そのことを感謝し、赦しを受け取り続けていくことが大切なのです。
 私たちは、この世にあって、天の御国を目指す旅人です。旅をしているときには足が汚れます。その汚れは、洗う必要があるのですね。では、どのように洗うのでしょうか。
 第一ヨハネ1章9節にこう書かれています。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」私たちは、キリストによる完全な罪のきよめと赦しの中に生かされています。だからこそ、もし過ちを犯しても、神様から見捨てられてしまうのではないかと恐れる必要はありません。ただ神様の御前で罪を言い表しさえすれば、神様は必ずその罪を赦し、きよめてくださるのです。なぜなら、イエス様がすでに十字架についてくださったからです。私たちの足が汚れたら、イエス様はいつも洗いきよめてくださいます。そのイエス様の赦しの恵みの中に生かされていることを覚えて、この世の旅を歩んでいきましょう。

(3)「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」
 
 そして、イエス様は、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」と教えられました。
 このイエス様の教えを文字通りに受け取って、四世紀以降、「洗足木曜日」と呼ばれる習慣ができました。イエス様が十字架にかかられたのが金曜日なので、最後の晩餐は木曜日だと考えられています。そこで、受難週の木曜日に教会の主教や国王が下級の僧侶や貧者の足を洗うという儀式をするのです。
 しかし、イエス様は、そのような儀式を行えと言われたわけではありません。文字通りに「足」を洗いなさいと言われたわけでもありません。では、イエス様が言われた「互いに足を洗い合う」とは、どういう意味なのでしょうか。

@しもべの心をもって仕え合う

 足を洗う仕事は、奴隷の仕事の中でも最も卑しい仕事と見なされていました。それを、主であり師であるイエス様がなさったのですから、私たちも高慢やプライドを捨てて謙虚にしもべとして仕え合う必要があるということです。
 弟子たちの関心は「誰が一番この中で偉いのか」ということでしたが、イエス様は、自分が偉くなろうとするのではなく、しもべの心を持って互いに仕えなさいと教えられたのです。

A互いの弱さを補い合う

 イエス様は、私たちの最も汚れた部分に触れて、きよめてくださる方です。私たちは、時々、相手の弱さを見て失望するかもしれません。つまずくかもしれません。でも、主は、相手の弱さを補う愛を私たちに求めておられるのです。それは、一方通行でなく、お互いに補い合う愛です。
 と言っても、ただやみくもに何かをしてあげればいいというのではありません。愛とは、相手の最善とは何かを考えて行動することです。相手の最善を考えるからこそ、時には戒めることもあるでしょうし、突き放さなければならないこともあるでしょう。また、犠牲を払うこともあるでしょう。

 イエス様は「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」と言われました。イエス様は、自分は何もせずに命令だけするような方ではありません。いつも御自分が身をもって模範を示し、「わたしがしたとおりにしなさい」と言われるのです。
 イエス様は、仕える者として足を洗ってくださいました。自ら進んで私たちのために十字架の苦しみを受け、最後の最後まで愛を示してくださいました。そのイエス様の姿を模範とするのです。
 といっても、義務感や自分の評価を高めようとする野心からイエス様を見習うのではありません。また、自分の努力や頑張りでイエス様のように行おうとしても挫折するでしょう。
 ヨハネは、第一ヨハネ4章11節と19節でこう書いています。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」大切なのは順番です。まず神様がどれほど愛してくださったかを味わってください。その赦しの恵みがどれほど完全なものなのかを知ってください。その愛を知れば知るほど、私たちは互いに愛し合うことのできる者へと変えられていくのです。
 17節には、イエス様のすばらしい約束が書かれていますね。「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです」と。イエス様の愛を味わい、その愛の姿を模範として生きていくなら、神様の豊かな祝福を味わうことができるでしょう。
 今週もイエス様の姿を仰ぎつつ歩んでいきましょう。