城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年一一月一一日         関根弘興牧師
             ヨハネ一三章一八節〜三〇節
 イエスの生涯39
    「主よ。だれですか」

18 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。19 わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」22 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。23 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。24 そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」25 その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」26 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。27 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」28 席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。29 ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。30 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。(新改訳聖書)


 イエス様が十字架にかかられる時が迫ってきていました。イエス様は、そのことを知っておられたので、13章の冒頭にあるように、後に残していく弟子たちに対して「その愛を残るところなく示され」ました。最後の最後まで愛を示し続けられたのです。
 前回は、イエス様が弟子たちとともに過越の食事をされたとき、弟子たちの足を洗われた出来事について学びましたね。
 今日の箇所は、その続きで、やはり過越の食事の最中に起こった出来事が書かれています。イエス様が御自分を裏切ろうとしているイスカリオテのユダに対してどのように接しておられるかを見ながら、イエス様の愛について、さらに学んでいきましょう。

1 イエス様の預言

 さて、イエス様は、十二弟子をお選びになった後、その中のひとりが御自分を裏切ることを何度か預言なさっていました。
 たとえば、ヨハネ6章70節で、イエス様は、「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です」と言っておられます。
 また、前回の13章10節ー11節では、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません」と言われましたね。
 そして、今日の13章18節では、「聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです」と語られたのです。ここでイエス様が引用したのは、詩篇41篇9節の「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた」という言葉です。
 その詩篇41篇は、第二サムエル記15章の出来事が背景になって書かれたと言われています。イスラエルのダビデ王は、イスラエルの統一を果たし繁栄の基礎を築きましたが、その後、息子アブシャロムの謀反によってクーデターが起こり、ダビデ王はエルサレムを追われることになりました。その時、ダビデ王が信頼していたアヒトフェルという議官が、ダビデ王を裏切って息子のアブシャロムのほうについてしまったのです。信頼していた議官から裏切られたその時のダビデ王の心情が「私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた」という詩篇の一節として記されているのです。そして、その詩篇の言葉が、実は、後の時代のユダの裏切りを預言している言葉でもあったというのです。
 さて、このようにイエス様は、以前からユダが裏切ることを知っておられ、何度も預言されていました。でも、そうすると、こんな疑問を持つ人もいるでしょう。「イエス様がユダの裏切りをずっと前から知っていた、しかも、旧約聖書のダビデ王の時代から預言されていたというなら、ユダの裏切りは、神様の計画だったということでしょう。それなら、ユダの責任ではないでしょう。ユダを裏切りに使うなんて、ひどい神様ではないですか。」また、こう考える人もいるでしょう。「ユダの裏切りがなかったら、イエス様は十字架につくことはなかった。イエス様が十字架につかなければ、すべての人の罪を贖うという目的が達成されなかった。だから、ユダの裏切りは必要だったとうことではないですか。それなのに、ユダが一方的に責められるのは、おかしくないですか。」しかし、決してそうではありません。
神様は、私たち一人一人に自由意志を与えてくださっています。それぞれが自分の意思で選択し行動することができるのです。ユダは、自分の意思でイエス様を裏切ることを選びました。もし、ユダが裏切らなかったら、イエス様は、別の経緯で十字架につくことになったことでしょう。ですから、ユダの裏切りは、ユダ自身の選択の結果でありユダの責任でした。ただ、神様は、ユダが裏切ることを初めから予知しておられたのです。 イエス様は、なぜ詩篇41篇を引用されたのでしょう。それは、ユダが、ダビデを裏切ったアヒトフェルのような姿であったからです。
 アヒトフェルという人は、人気が急落したダビデにつくよりも、ハンサムで人気があり将来性抜群の若いアブシャロムに鞍替えするほうが得策と考えて、ダビデの信頼を裏切りました。
 では、ユダはどうでしょう。ユダは、最初、イエス様に喜んでついて行ったはずです。でも、仲間から預かった財布から少しずつ着服するようになりました。自分の欲望をコントロールすることができなかったのでしょう。それに、イエス様のこれからのことを考えたとき、どうも雲行きが怪しくなってきたと思いはじめました。イエス様は、最初は華々しい姿に見えたのに、今では、ユダヤ当局から「お尋ね者」として狙われるようになっていました。また、王か政治的リーダーになってローマ政府を打倒してくれるかと思っていたのに、その気配はまったくありません。それどころか、「一粒の麦は死ななければ、一粒のままです」とか「互いに仕え合いなさい」とか言っているだけです。しかも、「わたしは、これから捕らえられ、苦しみを受け、十字架につけられる」とまで言い始めたのです。それで、ユダの心は、だんだんイエス様から離れていったのでしょう。これ以上イエス様について行っても勝ち目がない、何の得にもならない、と思ったのでしょう。
 神様は、ユダが裏切ることを望んではおられたわけではありません。ユダがイエス様に従い続けることができたら、そのことを大いに喜ばれたはずです。しかし、結局、ユダは、自分の意志で選択し、決断して、イエス様を裏切ってしまったのです。

2 ユダに示された愛

 イエス様は、そのユダの裏切りを初めからご存じでした。しかし、そのユダに対しても、愛を示し続けられたのです。
 前回の箇所では、イエス様は、他の弟子たちだけでなく、自分を裏切ろうとしているユダの足もお洗いになりましたね。ユダは、どう感じたでしょうね。素直にイエス様の行為を受け入れることが出来なかったかもしれませんね。
 イエス様は、弟子たちの足を洗われた後、「この中にわたしを裏切る者がいる」と言われました。弟子たちは、当惑し、だれのことかと顔を見合わせました。すると、ペテロがイエス様の右側に座っていた「イエス様が愛しておられた者」にイエス様にこっそり質問するよう合図を送ったと書かれていますね。
 「イエス様が愛しておられた者」というのは、このヨハネの福音書を記したヨハネのことだと思われます。ヨハネは、他の箇所でも名前を出さずに「イエスが愛された弟子」という言い方をしています。それは、他の弟子よりも自分の方が愛されていたという意味ではなく、イエス様が自分を愛してくださったという体験から出た表現でしょう。イエス様は、えこひいきなく、すべての人に同じように愛してださる方だからです。
 さて、この弟子が、イエス様に「いったいそれはだれですか」と尋ねると、イエス様は、「それはわたしがパン切れを浸して与える者です」と言われ、パン切れを浸してユダにお与えになりました。
 ダ・ビンチが描いた有名な「最後の晩餐」という絵がありますが、イエス様の時代は、あのような食卓ではありませんでした。低い食卓の周りに左肘をついて足を投げ出して寝そべり、右手でつまんで食べたのです。
 この時、ユダは、イエス様のすぐ左側にいたのではないかと思われます。主人の左側は大事な客が座る席だったので、イエス様がユダをその席に座らせたのは、イエス様がユダを尊重しておられたからではないか、と考える人もいます。
 では、パン切れを浸して渡すという行為には、どういう意味があるのでしょうか。もし、今日の昼食の時に、私がパン切れをコーヒーに浸して「どうぞ」と差し出したら、相手の方は「何をするんですか」と不快に思うでしょうね。しかし、当時、過越の食事では、まず主人が旧約聖書の出エジプトの出来事を語り聞かせたあと、大事なお客様にパンの一片を浸して与えるということをしたそうです。また、それは、古代オリエントの世界では、お客に対する最高級の敬意を示すマナーでもあったそうです。イエス様は、御自分を裏切ろうとしているユダをわざわざ身近に置いて、敬意を示されたのですね。
 この時、もしかしたら、イエス様の答えを聞いていたヨハネだけは、ユダが裏切ろうとしていることを悟ったかもしれませんね。しかし、他の弟子たちは、まったく気づいていなかったようです。もし気づいていたら、大騒ぎになっていたでしょう。ペテロは剣を持っていましたから、ユダに切りつけたかもしれませんね。イエス様は「裏切り者はこのユダだ」と名指しして責めることをなさらなかったのです。
でも、聖書をよく読んでいる人はこう反論するかもしれませんね。「先生、マタイの福音書には、はっきりとユダだとわかるように記していますよ」と。確かに、マタイの福音書では、このようなやりとりが書かれています。イエス様が「あなたがたの中に裏切る者がいる」と言われると、弟子たちが口々に「主よ。まさか私のことではないでしょう」と言い、ユダも「先生。まさか私のことではないでしょう」と尋ねたんですね。すると、イエス様はユダに「いや、そうだ」と言われたのです。ここだけを読んだら、確かに誰が聞いてもユダだと言うことがわかりますね。しかし、実は、この「いや、そうだ」と訳されている言葉は「あなた自身が言った」という意味です。「胸に手を当ててよく考えてみよ」というような意味合いなんですね。つまり、ユダに対して、自分を見つめ直し、方向を変える機会を与えようとしている言葉でもあったのです。
 イエス様は、ユダに対しても、他の弟子たちに対してと同様に愛をもって接しておられました。ユダを名指しで非難したり、裁いたりすることはなさいませんでした。そして、ユダだけにわかる方法で、ユダが自分自身と向き合い、立ち返るチャンスを何度も何度もお与えになっていたのです。だから、他の弟子たちは、ユダが裏切ることをまったく気づかず、ユダが出て行ったときも、何か用事があるのだろうぐらいにしか思わなかったのです。
旧約聖書のエゼキエル書33章11節で、神様はこう言っておられます。「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。・・・なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」また、第二ペテロ3章9節には、「主は、・・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」と書かれています。
 神様は、すべての人が滅びることなく救われて永遠のいのちを持って生きることを願っておられます。ユダも例外ではありません。イエス様は、ユダが裏切ることを知っておられましたが、ユダが思いとどまって救われることを願い、最後の最後まで愛を示し続けられたのです。

3 すでに夜であった

 しかし、ユダは、イエス様の愛のまなざしを避けるかのように、イエス様を裏切り、正反対の方向へと進んでいきました。ユダは、イエス様のすぐ近くにいましたが、イエス様の愛の呼びかけに答えようとしませんでした。逆に、悪魔に心を支配させてしまったのです。
 ヨハネの福音書13章の2節には「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」と記されています。ユダは、イエス様と一緒に行動していましたが、いつしか自分が描いていた救い主の姿とイエス様の姿が違うのではないかと不信の思いを持つようになっていたのではないかと思われます。
 この世には、私たちを神様から引き離し、神様に対する疑いや不信を植え付けようとする霊的な存在があると、聖書は教えています。サタンとか悪魔と呼ばれる存在です。悪魔は、まず、ユダの心にイエス様への不信感を植え付けていきました。
 そして、27節に「サタンが彼に入った」と書かれていますね。これは、ユダが、ついにイエス様への裏切りを実行に移したということなんです。
 ユダの裏切りの背後には、サタンの働きがありました。しかし、だからといって、悪いのはサタンで、ユダが悪いのではない、ということではありません。それは間違った考え方です。 先ほどお話ししましたように、神様は私たち一人一人に自由意志を与えてくださいました。なぜなら、愛は、強制されるものではなく、自由な意志によるからです。自由意志を持つ私たちは、神様の愛の中に留まることを選ぶか、それとも、サタンの誘惑に従うことを選ぶかを自分で決断する責任があるのです。
 ユダの場合も、サタンがユダを操り人形のように操作したわけではありません。ユダ自身が、サタンがもたらしたイエス様を裏切る思いに従おうと、自分の意思で決断したのです。
 では、ユダがイエス様を「裏切った」というのは、何に対しての裏切りだったのでしょう。それは、イエス様の最後の最後まで余すところなく注がれる愛に対しての裏切りなんです。愛の呼びかけを無視し、何度も向きを変える機会があったのに、自分をごまかし、自分の心のおもむくままに進み、イエス様の愛の呼びかけを頑なに拒んでしまったのです。
 そんなユダに対して、イエス様は「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と言われました。ユダが自分の意志で選んだことを実行するように言われたのです。
 そして、30節には、ユダが外に出て行ったとき、「すでに夜であった」と書かれています。これは、大変象徴的な表現です。この食事は夕食ですから、すでに夜だということは、当たり前ですね。しかし、ヨハネはわざわざ「夜」という言葉を書き記しているのです。つまり、ヨハネは、ユダのようにイエス様の愛を拒み続けるなら、夜に象徴される闇の中に出て行ってしまうことなるのだと記しているのです。
 思い出してください。ヨハネの福音書1章には、イエス様が「すべての人を照らすまことの光」として来てくださったことが書かれています。イエス様御自身も、ヨハネ8章12節でこう言っておられます。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
 その一方で、ヨハネ3章19節ー20節にはこう書かれています。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」ユダも、光よりもやみを愛し、光なるイエス様から離れていってしまったのですね。

しかし、それは、ユダだけでしょうか。私たちも、自分自身のことをふり返ると、ユダと同じような存在ではないかと思いませんか。イエス様が愛してくださっていることを知りながら理解しようとしなかったり、試練や困難が起こると「イエス様を信じていても何もならない」と投げやりになったり、物事が思い通りに行かないとイエス様の愛を疑ってしまうことがありますね。私たちの心は、弱く変わりやすいものですね。ですから、イエス様の愛を裏切ったユダを誰が責めることができるでしょうか。
 他の弟子たちも同じです。この後、イエス様が逮捕されると、弟子たちは皆、逃げ去ってしまいました。「私は決して裏切りません」と断言していたペテロでさえ、イエス様を「知らない」と三度も否定してしまったのです。
 弟子たちの誰もが、そして私たちの誰もがユダのような心を持ってしまうことがあるのです。
 しかし、今日、是非知っていただきたいことがあります。イエス様は、そんなユダを決して責めたりなさいませんでした。ユダの汚い足を洗い、ユダだけにわかるように、何度も何度も方向を変えて新しく出発する機会を与えようと愛を示し続けておられました。ユダが裏切りを実行した後でも、もしユダが心から悔い改めてイエス様のもとに戻ってきたら、イエス様は、赦してくださったでしょう。
 イエス様は、私たちにも同じようにしてくださいます。私たちがどのような状態であっても、絶えず愛をもってみもとに招き、共に歩もうと呼びかけてくださっているのです。
 そのイエス様の愛に応える私たちに、イエス様は「あなたはわたしが選んだ者だ」と言ってくださいます。そして、20節にあるように、こう約束してくださっているのです。「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
 つまり、イエス様は、イエス様の愛の中に生きる私たちを遣わして、他の人々にイエス様の愛、父なる神様の愛を伝える者として用いてくださるというのですね。
 今週も、イエス様の愛にとどまりながら、与えられた信仰生活を送らせていただきましょう。