城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一八年一一月一八日         関根弘興牧師
             ヨハネ一三章三一節〜三八節
 イエスの生涯40
  「あなたがたは来ることができない」

31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(新改訳聖書)


イエス様の地上での生涯の終わりが迫ってきていました。イエス様は、これから十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活し、天に昇って行かれますから、これまでいつも一緒にいた弟子たちを後に残して行かなければなりません。そこで、イエス様は、ヨハネ13章の冒頭にあるように、弟子たちに対して「その愛を残るところなく示され」ました。
 今、最後の晩餐の席での出来事を見ていますが、前々回の箇所では、イエス様は弟子たちの足を洗われましたね。それは、イエス様がすべての罪を背負って十字架にかかってくださることによって私たちの罪の汚れが洗いきよめられることを象徴する行為でした。また、それは、イエス様がすべての人に仕えるために来てくださったことを示し、私たちも互いに仕え合うべきであることを教えるものでもありました。
 また、前回は、イエス様が御自分を裏切ろうとしているイスカリオテのユダに対しても最後の最後まで愛を示し続け、決して責めることなく、悔い改める機会を与え続けておられたということを学びましたね。しかし、ユダは、そのイエス様の愛に応えようとはしませんでした。かえって、自分の裏切りをイエス様に見抜かれてしまったことに気づいて、すぐに裏切りを実行しなければ手遅れになると考えたのでしょう。彼は、ユダヤの宗教指導者たちとイエス様を引き渡す相談をするために出て行ってしまったのです。
 今日の箇所はその続きです。ここでもイエス様は大切なことをお語りになっています。詳しく見ていきましょう。

1 イエス様の栄光

 イエス様は、ユダが出て行くと、「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました」と言われました。これは、どういう意味でしょうか。
 ここで語られている「栄光」とは、イエス様が十字架にかかられることを意味しています。十字架は、極悪人を死刑にするためのむごたらしい処刑道具です。はずかしめと呪いの極みであり、栄光とは真逆のものです。普通なら、最も恥ずべき屈辱的なものです。しかし、イエス様の十字架だけは違いました。なぜなら、イエス様の十字架は、すべての人に罪の赦しと永遠のいのちを与えるためのものだったからです。
 ヨハネ3章16節ー17節にこう書かれています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
 神様は、御自分の御子を遣わしてくださいました。神と同じ本質を持つイエス様が、私たちと同じ人となって来てくださいました。ですから、イエス様は、御自分を「人の子」と言われています。なぜイエス様は人となって来てくださったのでしょうか。
 聖書は、すべての人は罪人だと教えます。それは、神様との関係が破壊されて、神様の愛や真実や恵みがわからなくなってしまっている状態だということです。愛したくても愛せない、憎みたくないけど憎んでしまう、そういう状態にあるというのです。そういう私たちは、自分の力で神様の完全な基準に達することは決して出来ません。修行や努力で完全な人間になって救いを得ようとしても出来ないのです。
 しかし、神様は、そういう私たちの弱さをご存じなので、神様のほうで救いの方法を備えてくださいました。それは、人となったイエス様が私たちのすべての罪を背負って十字架にかかり、私たちの身代わりに罰を受けてくださるという方法です。イエス様が私たちの負債を肩代わりして、御自分のいのちをもって支払ってくださったわけですね。イエス様が十字架上ですべての罪の問題を解決してくださったので、私たちは、ただそのイエス様を信じるだけで罪のない者と認められ、永遠のいのちを与えられ、神様との麗しい関係の中で生きていくことができるのです。
 つまり、イエス様の十字架は、すべての人を罪の問題を解決し、救いを完成させるためのものです。十字架こそ、神様の救いの御計画の実現の時です。イエス様が来られた究極の目的であり、イエス様の地上での生涯のクライマックスなのですね。ですから、イエス様にとっても、イエス様を遣わしてくださった神様にとっても、十字架は最も栄光に満ちた時なのです。
 ユダが最後の晩餐の場所から出て行ったことによって、ユダが裏切ること、そして、イエス様が十字架につけられることが確定的になりました。そこで、イエス様は、「今こそ人の子は栄光を受けました」と言われたのです。
 
2 わたしが行く所に来ることができない

 それから、33節で、イエス様は、こう言われました。「わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」
 イエス様は、以前、イエス様を信じようとしないユダヤ人に対して「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と言われたことがありました。そして、今日の箇所では、弟子たちに対して同じ言葉を言われたわけですね。しかし、言葉は同じでも、ユダヤ人に対してと弟子たちに対してとでは意味が違いました。

(1)ユダヤ人たちに対して

 まず、ユダヤ人に対しては、どういう意味で言われたのでしょうか。ヨハネ7章と8章で、イエス様はこう言っておられます。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
 よく読むと、イエス様は「わたしは父なる神のもとに行くけれど、あなたがたはそこには来ることができない。あなたがたは、自分の罪の中で死にます」と言っておられるわけですね。つまり、イエス様の十字架による罪の赦しを受け取ることを拒否する人は、罪の状態に留まったままなのだから、神様のみもとに行くこともできないし、神様から永遠のいのちを受け取ることもできない、そのまま死を迎えるしかないのだ、ということなのです。
 しかし、ユダヤ人たちは、その意味が理解できず、「この人は、ユダヤ人に受け入れられないから、仕方なく外国のギリシヤ人のところに行こうとしているのか」とか、「自殺でもするつもりなのか」とトンチンカンなことを言っていただけでした。

(2)弟子たちに対して

 では、今日の箇所で、イエス様が弟子たちに言われたのはどういう意味だったのでしょうか。イエス様が「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と言われたので、ペテロが「主よ。どこにおいでになるのですか」と質問すると、「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」とお答えになっていますね。
 この言葉には、二つの意味があると考えられます。

@十字架と復活

 今、イエス様は、十字架への道をまっすぐに進んでいこうとなさっていました。すべての人の罪を背負い、すべての人に罪の赦しと救いをもたらすことができるのは、完全に聖いお方であるイエス様だけです。弟子たちにはできません。その意味で、弟子たちはイエス様について行くことはできないのです。
 しかし、イエス様は、十字架で死んで葬られた後、三日目に復活し、弟子たちに姿を現されました。この復活によって、イエス様がまことに神から遣わされた救い主であること、そして、十字架によって罪の赦しと救いが成し遂げられたことが証明されました。そして、弟子たちは、イエス様が捕らえられ十字架につけられたときに散り散りになってしまいましたが、復活のイエス様にお会いすることによって、あらためてイエス様を信じ従う者とされていきます。
 つまり、イエス様の言葉には、「あなたがたは、わたしの十字架について来ることはできないが、わたしが復活した後にはついて来ることができる」という意味があるわけです。

A昇天と召天
 
 復活したイエス様は、五百人以上の弟子たちに姿を現されましたが、四十日後、弟子たちが見ている中、天に昇っていかれました。それが「昇天」と呼ばれる出来事です。イエス様だけが天に昇って行かれ、弟子たちはついて行くことができませんでした。
 しかし、イエス様は、ヨハネ14章1節ー3節で弟子たちにこう約束なさっています。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
 イエス様は、天の御国に行って、私たちのために場所を備え、私たちを迎えてくださるというのです。私たちは、この世の死を迎えた後、天の御国に迎え入れられます。それを天に召されるという意味の「召天」と言います。ですから、教会の葬儀の時に牧師は、「永遠の神の御国に住まいを移し、イエス様と共に永遠を過ごすのだ」とか「天において再会の望みがある」と説教するわけですね。
 つまり、イエス様の言葉には、「わたしが天に昇るとき、あなたがたはついて来ることはできないが、あなたがたが地上の生涯を終えるときには、天に来ることができる」という意味もあると考えられるわけです。

3 新しい戒め

 そして、イエス様は、しばらくの間、離れなければならない弟子たちに対して、34節ー35節で大切なことを教えておられます。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
 新しい戒めと言うからには、古い戒めがあるということですね。ユダヤ人たちは、古い戒め、つまり、旧約聖書の時代に神様から与えられた律法を守ることが大切だと教えられて育ってきました。しかし、実際には、人々は、律法をただ表面的に守るだけで、律法の本来の精神をないがしろにしていたのです。そこで、イエス様は、律法の中で最も大切なのは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めだと教えられましたね。
 しかし、その戒めを自分の力で守れる人がいるでしょうか。一人もいません。それは、皆、罪の状態の中に束縛されているからです。だから、イエス様が十字架にかかってくださいました。そして、私たちに罪の赦しと新しいいのちを与えてくださったのです。イエス様を信じる時、私たちは、愛そのものである神様との親しい関係を回復し、本当の愛を知ることができるようになります。それによって、互いに愛することができる者に変えられていくのです。
 ですから、イエス様を信じて罪の束縛から解放された私たちにとって、イエス様の新しい戒めは実行不可能なものではありません。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように」互いに愛し合いなさいと言っておられますね。イエス様が私たちをどのように愛してくださっているか知れば知るほど、私たちは互いに愛し合う者に変えられていくのです。
 ヨハネ15章9節では、イエス様は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われました。また、ヨハネ15章5節でイエス様はこう言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」私たちがイエス様の愛の中にとどまって生きていくことこそイエス様の願いです。そして、私たちがイエス様の愛にとどまるなら、イエス様が愛の実を結ばせてくださるのです。
 また、イエス様は、35節で「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」と言っておられますね。
 イエス様の愛を知ったら、他の人にも伝えたいと願いますね。その働きを「本当の歩むべき道であるイエス様を伝える」という意味で「伝道」と言います。教会は、救い主イエス様のことを一人でも多くの人に知っていただくための伝道の働きを担っています。しかし、大切なのは、伝道の方法論や人の熱心ではありません。まず一人一人がイエス様の愛にとどまり、イエス様の愛の中で安息し、愛に生き始めるとき、おのずとイエス様の素晴らしさが表されていくというのです。

4 ペテロに対する予言

さて、今日の箇所の最後で、イエス様はペテロと呼ばれているシモンに向かって「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と予言なさいました。
 前回の箇所でイエス様が「この中に裏切り者がいます」と言われたので、弟子たちはみな動揺し、「まさか私のことではないだろう」と不安を感じていました。その矢先に、こんどはイエス様が「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と言われたので、ペテロは黙っていられなくなったのでしょう。37節で「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます」と言ったのです。ルカの福音書では、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言ったと書かれています。
 もちろんペテロは本気でこう言ったのです。イエス様を誰よりも愛しているという思いや、イエス様のためならいのちを捨ててもかまわないという覚悟に偽りはなかったでしょう。ペテロは、自分の決意をイエス様は喜んでくれるに違いないし、自分が一番弟子であることを認めてくださるだろうと思ったことでしょう。
 しかし、人間の気負いや熱意は、本当にあてにならないものですね。イエス様が予言されたとおり、ペテロはわずか数時間後には「イエスなど知らない」と三度も言ってしまうのです。
 今日の箇所でペテロにそのことを予言されたとき、イエス様は、こんな風に思っておられたのではないでしょうか。「ペテロよ、あなたは自分が強いと思っているけれど、もうすぐ自分の弱さを思い知ることになるだろう。あなたがいのちを捨てるのではない。わたしを三度も知らないと言ってしまう弱いあなたのために、わたしがいのちを捨てるのだ。」
 そして、ルカの福音書22章31節ー32節には、イエス様がさらにこう言われたことが記されています。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 人は自分の弱さや無力さを味わうと、なかなか立ち直ることが難しいものです。だから、イエス様は、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とペテロに励ましの言葉をお語りになったのです。
 ペテロは自分を過信し、自分の力でできると思っていましたが、自分の弱さを徹底的に思い知らされる体験をすることによって、ただイエス様に信頼して生きることの大切さを知るようになりました。また、自分を誇り他の弟子たちを見下していた高慢な思いが見事に打ち砕かれ、その結果、兄弟たちを思いやり、力づけることができる者へと変えられていったのです。
 神様は、私たちにも同じような失敗や挫折を味わわせることがあります。それは、私たちが自分の弱さを自覚し、イエス様の恵みによって生かされていることをより深く知って、成長していくためなのです。また、たとえ私たちが失敗しても、イエス様は、私たちの信仰がなくならないように祈ってくださっています。ですから、安心してください。
 イエス様は、救いのみわざを完成し、御自分の愛の中で憩わせてくださる方です。私たちは、イエス様を裏切ったユダのような心を持つこともあるし、ペテロのように気負いだけで信仰に生きようとすることもあるでしょう。しかし、イエス様はそんな私たちに、「わたしの愛にととどまり、互いに愛し合いなさい」とお語りになっているのです。
 パウロは、エペソ3章17節ー19節でこう祈っています。「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
 今週もキリストの愛の中にとどまり続けていきましょう。