城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一月六日           関根弘興牧師
                ヨハネ一四章一節〜六節
 イエスの生涯42
   「道、真理、いのち」

 1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(新改訳聖書)

前回まで最後の晩餐での出来事を見てきましたが、今回もその続きです。
 イエス様は、これから御自分が捕らえられ、十字架につけられることをご存じでしたから、この最後の晩餐の席で弟子たちに愛を余すところなく示され、また、いくつもの大切な教えをお語りになりました。
 しかし、その一方で、不穏なことも言われたのです。たとえば、「あなたがたの中に、わたしを裏切る者がいる」と言われました。また、ペテロには、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われました。また、「わたしが行く所に、あなたはついて来ることができません」とも言われたのです。それで、弟子たちは、心中穏やかではいられませんでした。今まですべてを捨ててイエス様に従ってきたのに、「裏切る者がいる」とか「もうついて来ることはできない」などと言われたのですから、心が騒ぐのは当然ですね。
 しかし、イエス様は、今日の箇所で、そんな弟子たちに「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と言われたのです。
 この「心を騒がす」というのは、「今日は、午後から雨になりそうで心配だ」とか「今日は、あの人の態度がいつもと違うぞ。どうしたのかな」というような、その時々の気持ちの揺れのことをいっているのではありません。
 実は、ヨハネの福音書には、イエス様御自身が「心を騒がせられた」出来事が三回記録されています。
 最初は、11章です。ベテニヤに住むラザロが死んで、人々が嘆き悲しんでいるのをご覧になった時、イエス様は「心の動揺を感じられた」と書かれています。
 二番目は、12章です。イエス様は、御自分が十字架にかかる時が迫っていることを知って、「今わたしの心は騒いでいる」と言われました。しかし、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」と言われ、十字架にかかる決意を新たにされました。
 そして、三番目は、13章です。「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」と予告なさったときに、「霊の激動を感じ」られたと書かれています。
 これらの箇所を見ると、イエス様が心を騒がせられたのは、どういう時だったでしょうか。人々を縛り、支配し、苦しめ、悲しませる死と罪の力に立ち向かおうとされる時でした。
 今日の箇所でイエス様が弟子たちに「心を騒がしてはなりません」と言われた「心を騒がす」という言葉も、罪と死、また、超自然的な悪の力に対して対決するときの緊張感を表しているのです。
 ですから、イエス様が弟子たちに「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と言われたのは、「あなたがたは罪や死の悪の力に対して心を騒がせる必要はない。なぜなら、わたしがこれからそれらのものと対決し、必ず勝利するからだ」という意味が込められているのです。
 そして、イエス様は続けて、「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。「父なる神が救いの計画を立ててくださり、わたしがその計画を実現するのだから、ただ神と私を信頼していればいいのだ」と言われたのです。
 そして、続けて、弟子たちに平安を与える二つの約束をしてくださいました。

1 住まいが備えられている

(1)「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」

まず、2節でイエス様は、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」と言われました。
 そう聞くと、「では、天国では、大部屋ではなく、一人一人が個室を与えられて住むことができるのかな」と想像する方がいるかもしれませんね。しかし、イエス様が言われたのは、そういう意味ではなくて、天国には、私たちが皆入れるだけの十分な場所があるということなのです。天国に入場制限があって「もう満員だからあなたは入れません。お断り」ということはないから、安心しなさいということです。

(2)「わたしは場所を備えに行くのです」

そして、イエス様は、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」と言われました。神様のもとに住まいはたくさんあるけれど、その住まいに実際住めるようになるためには準備が必要であり、その準備をイエス様がしてくださるというのです。
 このイエス様の言葉は、ユダヤの背景に生きる人々にとっては驚くべき言葉でした。当時のユダヤの社会には、「天の住まいは正しい人への報いである」という信仰がありました。この世で正しく生活している人のために天の住まいがすでに備えられていると考えられていたのです。それなのに、イエス様は、御自分が場所を備えたときに初めて住まいとして完成するのだと言われたのですね。
 では、イエス様が場所を備えに行くとは、どういうことなのでしょうか。
 ユダヤ人たちは、自分たちは神様に選ばれた民であり、神様の律法の戒めを守って生活しているのだから、正しい者と認められ、天の住まいを与えられるに決まっていると思っていました。逆に、神を知らない異邦人は、天に住むことができず、さすらいの旅をしなければならないと考えていたのです。
しかし、どうでしょうか。正直に自分自身を見つめたら、「私は、父の家に住むのにふさわしい正しい者です」と言える人など一人もいませんね。ユダヤ人も異邦人も関係なく、私たちは誰も天の住まいにふさわしくないのです。
 しかし、イエス様は、「あなたがたのために、わたしは場所を備えにいくのです」と言われました。私たちが父の家に住むことができるようにイエス様が備えをしてくださるというのです。それは、どういうことでしょうか。
 イエス様は、十字架、復活、昇天を通して、私たちの住まいを備えてくださいます。まず、イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかってくださることによって、私たちは、罪のない正しい者と認められました。そして、イエス様が復活なさったことによって、私たちは神様のいのちを与えられて永遠に生かされる者になりました。また、イエス様は天に昇り、神様のみ前で絶えず私たちのために祈り、とりなしてくださっているので、私たちはいつも神様との親しい関係の中で生きることができるようになりました。それによって、私たちは、天の住まいで神様と共に永遠に生きるにふさわしい者とされたのです。
 ですから、イエス様が「場所を備えてくださる」というのは、私たちを父の住まいに入るにふさわしい者としてくださるという意味が込められているのです。
 弟子たちは、天の住まいにふさわしい者とは言えない面がたくさんありました。自分が一番偉くなりたいと思っていたり、自分勝手な思い込みで行動することもありました。イエス様という方について勘違いしているところもありましたし、イエス様の言葉がよく理解できずにいることもしばしばありましたね。しかも、弟子たちは、この後、イエス様が捕らえられたときに、みんな逃げ去ってしまうのです。ところが、イエス様は、そんな弱さも欠点もある弟子たちをご存じの上で、「大丈夫。わたしが、あなたがたのために場所を備えにいくのだから、心配することはありません」と言われたのです。
 つまり、私たちが天の住まいに入ることができるのは、私たちのこの世での生き方にかかっているのではなく、イエス様が備えをしてくださるからだということなのです。
 ですから、この世の生き方によって天の住まいのランク付けがされるということもありません。この世で立派に生きた人は天の豪邸に住めて、そうでない人は長屋住まいなどということはないのです。
 イエス様がすべての人を愛し、すべての人のために住まいを備えてくださるからです。だから、弟子たちにも「大丈夫、心を騒がせる必要はありません。あなたがたも必ず天の住まいに入ることができるのだから」と言われたのです。

(3)「あなたがたをわたしのもとに迎えます。」

 それから、イエス様は、こう言われました。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と。これは、どういう意味でしょうか。 この言葉には、いくつかの意味が含まれています。

@この世の終わりの時に

 イエス様は、十字架にかかり、復活し、天に昇り、この世の終わりの時に再び来られると約束されています。このイエス様が再び来られることを「再臨」と言います。そして、その再臨の時には、イエス様は、栄光あふれる御自分のもとに信じる人々を引き上げ、迎え入れてくださるというのです。
 パウロは、第一テサロニケ4章16節ー17節にこう書いています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

A私たちが地上での生涯を終える時に

 世の終わりが来る前に、私たちはこの世の生涯を終えるかもしれません。私たちは、生涯が終えるその時に、天の住まいに迎え入れられます。
 第二コリント5章1節でパウロはこう書いています。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」人生の終末において、イエス様は私たちを永遠の天の住まいに迎えてくださるのです。ですから、キリスト教の葬儀は、天を仰ぎ、天の住まいに迎えられることを賛美する時となるのです。

B今の生活の中で

 さて、イエス様が私たちをみもとに迎えてくださるというのは、世界の終わりや個人の人生の終わりの時だけではありません。イエス様は、今の生活の中でも、私たちを迎えてくださいます。イエス様を求め、イエス様のもとに行く人は皆、イエス様が迎えてくださるのです。イエス様を信頼して生きるというのは、イエス様の愛と恵みの中に迎え入れられて、その中で生きていくことができるということです。
 ヨハネ15章で、イエス様は、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」と言っておられます。イエス様は、私たちをみもとに招き、迎え入れ、「わたしにとどまっていなさい。そうすれば、多くの実を結ぶことができます」と言ってくださるのです。

 ですから、この世の終わりにおいても、人生の終末においても、また、今生かされているこの時においても、イエス様は、私たちを迎えてくださいます。そして、それは「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」と言われるのです。つまり、「天の住まい」とは、永遠の天の住まいを表すだけでなく、今、イエス様が私たちと共にいてくださるこの場所をも表す言葉なのです。
 先日、自立についてかかれた本を読みましたが、その中に大変興味深いことが書かれていました。自立のための前提条件について説明している箇所で、「家庭にいるという状態は無条件だ」と書かれていたのです。つまり、「家庭は無条件でいられる場所だ」というのです。家庭では、自分が存在する理由を問われることはありません。自分について説明する必要もありません。ありのままの自分が何の理由もなくいられる場所です。一方、社会に出たらどうでしょう。決して無条件ではありませんね。競争があり、主張しなければならないこと、理由を説明しなければならないこともあり、厳しい評価にさらされることもありますね。その社会で自立して生きるためには、家は無条件でいられる場所でなければならない、と書かれていたのです。その通りだと思いますね。
 聖書の申命記33章27節に「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に」と書かれています。「神様が私たちの住む家になってくださる」というのです。つまり、神様のみもとにいる時、私たちは、無条件で受け入れられ、愛されているという安堵感を感じることができるのです。ですから、詩篇23篇6節に「わたしはいつまでも主の家に住まいましょう」と書かれているように、神の愛を知る人々は、いつまでも主の家に住みたいと願うのです。
 イエス様は、「父の家には住まいがたくさんあります。わたしはそこに場所を備え、あなたがたを迎えます」と約束されました。そして、「わたしのいるところに、あなたがたもおらせるためです」と言われました。イエス様が、備えてくださる家は、無条件の場所です。自分のありのままが受け入れられる場所です。私たちが人生を歩む上で、まずそういう場所を持つことが大切なのです。「私には無条件でいられる場所がある」という確信があるとき、勇気を持ってそれぞれの生活の場に出ていくことができるからです。

2 道が備えられている

 イエス様は、住まいを備えてくださるだけでなく、その住まいに行く道も備えてくださっていると約束しておられます。
 4節で、イエス様が「わたしの行く道はあなたがたも知っています」と言われると、弟子の一人のトマスがこんな質問をしました。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
 トマスがこう質問する気持ちは理解できると思いませんか。「『父の家には住まいがたくさんある』とか『場所を備えに行く』とか言われても、何のことなのか、よくわからない。いったいイエス様はどこに行ってしまうのだろう。これから何をするつもりなのだろう。私たちには、想像もつかない」、こんな思いだったのではないでしょうか。
 トマスの「どうして、その道が私たちにわかりましょう」という質問は、人間の本質を突いた質問だと思います。
 「道」というのは、人の生き方や作法などにも使われる表現ですね。トマスの質問は、「人間がどんなに努力して生き方を探り、修行を重ねたとしても、自分の力でどれほど追求したとしても、天へと続く道はいったいどこにあるのか、どんな生き方をすれば天の住まいというゴールに行けるのかわかりません」ということだと思うのです。
 それに対して、イエス様は、6節の大変有名な言葉をお語りになりました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
 イエス様は、はっきりと「わたしが道である」と言われました。つまり、私たちの生き方や努力や修行によって天の住まいにたどり着くことはできない、イエス様という道を通らなければ天の住まいに入ることはできない、イエス様こそ天の住まいへの道だと言われたのです。
 そして、道であるイエス様は、ご自分こそ真理であり、いのちであると宣言されました。もし、道が、まやかしや偽りであったらどうでしょう。その道を進んだら、迷路や袋小路や暗闇に迷い込んでしまうでしょう。しかし、イエス様という道は、真理といのちの道なのです。
もし、この城山教会に来たい方がいて、道を尋ねられたとします。「小田原駅の西口を出て左に行って、突き当たりを左に曲がって、青橋を通り過ぎて、突き当たったら右に曲がって、それから、すぐにまた右に曲がって・・・」と口で説明しても、聞いている人は何だかわからなくなってしまいますね。駅からわずか八百メートルですが説明するのは大変です。説明されてわかったつもりでも本当にこの道でいいのだろうかと心配になるでしょうね。
 でも、決して迷わない方法があります。それは、私が駅に迎えに行って、その方と一緒に教会まで来ることです。すると、その方は、途中の景色を楽しみ、お城を眺めながら教会まで来ることができます。どちらに曲がるかなどは決して心配しません。なぜなら、私が道となって教会まで一緒に来るわけですから。
 天国へ向かう人生の旅も同じです。私たちが道順を説明されて一所懸命歩いていっても、途中で迷ってしまったり、本当に到着できるだろうかといつも「心騒がせてしまう」でしょうね。
 でも、道であるイエス様が迎えてくださり、いつも共にいて、天の住まいまで導いてくださるのです。だから、私たちは、自分で道筋がわからなくても大丈夫、イエス様と一緒であるということだけで十分なのです。
 イエス様は、「わたしはあなたを捨てて孤児にはしません」、また、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束してくださっています。ですから、安心してイエス様にお任せして、共に歩んでいくことができるのです。