城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年一月一三日          関根弘興牧師
           ヨハネ一四章一二節〜一八節
イエスの生涯43
   「もうひとりの助け主」

 12まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。 13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。14あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。15もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。


 イエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちに、「この中にわたしを裏切る者がいる」と言われました。また「あなたがたは、これ以上わたしについてくることはできない」とも言われました。それまですべてを捨ててイエス様に従ってきた弟子たちは、なんだかイエス様に見捨てられてしまったかのような思いを持ったのではないでしょうか。心が騒ぐのは当然ですね。
 しかし、イエス様は、14章から、弟子たちに大切な教えを語り始められました。まず、14章1節から、こう言われました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」イエス様は、私たち一人一人のために永遠の住まいを備え、私たちをご自身のもとに迎える、と約束してくださったのです。
 「あなたがたをわたしのもとに迎えます」というイエス様の言葉には、いくつかの意味があります。第一に、私たちがこの地上での生涯を終える時にイエス様が天のみ国に迎えてくださるという意味です。第二に、この世の終わりの時にイエス様が栄光のうちに来られ、信じる人々を天に引き上げてくださるという意味です。そして、第三は、今のこの生活の中で、イエス様が私たちをご自分のもとに迎え、共に歩んでくださるという意味です。つまり、私たちがイエス様を信頼して生きていくならば、今のこの時にも、人生の終わりの時にも、この世界が終わる時にも、イエス様は私たちをご自身の愛と恵みの中に迎え入れ、ともにいてくださるのです。だから、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」とイエス様は言われたのです。

さて、今日の箇所でも、イエス様は、素晴らしい約束をしてくださっています。
 12節でイエス様はこう約束しておられますね。「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
 イエス様を信じるなら、イエス様の行うわざを行うどころか、それよりもさらに大きなわざを行うようになるというのですね。 ただし、誤解しないでくださいね。これは、「イエス様よりももっと偉大で不思議な奇跡的なわざを行う」という意味ではありません。人に過ぎない私たちが、神なるイエス様より偉大なわざをすることなど不可能ですから。
 では、イエス様は、どのような意味でこう言われたのでしょうか。
 まず、「イエス様のわざ」とは何でしょうか。それは、13章の最初にも書かれていたように、「ご自分の愛を残すところなくお示しになる」ことでした。イエス様のわざはすべて、愛によって行われる恵みのわざです。イエス様は、病める人を癒し、孤独に悩む人の友となり、失望している人を慰め、いつも人々に愛を注ぐことに徹しておられました。そのイエス様を信じ、イエス様に従って生きていく人々は、イエス様に似る者とされ、イエス様と同じように愛のわざを行う者とされていくというのです。
 では、「さらに大きなわざを行う」とは、どういう意味でしょうか。
 イエス様が、人としてこの世におられたとき、イエス様のわざは、パレスチナのせまい範囲に限られていました。しかし、イエス様を信じる弟子たちがイエス様と同じ愛のわざを行っていくことによって、福音が各地に伝えられていき、イエス様を信じる人々が世界中に起こされていくのです。
 弟子たちは、イエス様に「あなたがたは、これ以上、わたしについてくることはできない」と言われて、心が騒いでいました。「イエス様が去っていってしまったら、自分たちに何ができるだろうか。もう解散するしかない」と感じていたかもしれません。そんな弟子たちに、イエス様は、「わたしが去っていくからこそ、あなたがたによって福音はさらに広範囲に伝えられていくのだ」と約束をしてくださったのです。
 しかし、そんなことが本当に可能なのでしょうか。弱さと恐れの中にいた弟子たちが、どうして「さらに大きなわざ」を行うことができるのでしょうか。
 イエス様は、弟子たちが「さらに大きなわざ」を行うことができるように、三つのことを保証してくださいました。それは、今日集まっている私たち一人一人に与えられている保証でもあるのです。

1 イエス様の名によって求めることができる

 まず、イエス様は、13節ー14節でこう保証してくださっています。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」
 教会学校に通っていた子供が、イエス様に祈れば何でも聞いてもらえると教わって喜んで家に帰りました。しかし、次の週、教会に来て「イエス様に祈っても聞いてくれない」と文句を言いました。「だって、お小遣いが増えますようにとお祈りしたのに、聞かれなかった」というのです。私たちも同じようなことを思った経験があるのではないでしょうか。しかし、それは、このイエス様の言葉を誤解しているからです。では、イエス様は、どのような意味でこう言われたのでしょうか。

@「わたしの名によって」とは

 まず、「イエス様の名によって」とは、どういう意味でしょうか。何でもいいから祈りの最後に「イエス様の名によってお祈りします」と言えばいいということではありません。
ユダヤの世界では、「名」は、その人の人格や本質を示すものでした。「イエス様の名によって」祈るとは、「イエス様の名義を借りて」祈るという意味です。皆さんは、誰かに「あなたの名義を貸してください」と頼んだり頼まれたりすることがありませんか。その場合、普通は、名義を借りる方の迷惑にならないように注意するでしょうね。
 イエス様の名によって祈るとは、イエス様の名義を借りて祈ることです。イエス様の名にまさる名はありません。天においても地においても一切の権威が与えられている名です。王の王、主の主のなる方の名なのですから、これ以上確かな名義はありませんね。私たちは、このイエス様の名によって祈ることが出来るのですから、なんと心強いことでしょう。しかし、名とは、その人の人格や本質を表すのですから、もし、私たちがイエス様の名義に反するような自分勝手な祈りをしたらどうでしょう。それでは、「イエス様の名によって祈る」ことにはなりませんね。ですから、イエス様の名によって祈るとは、イエス様の心や御性質にそって祈っていくということなんです。
 第一ヨハネ5章14節ー15節には、こう書いてあります。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」つまり、「神のみこころにかなう願いをする」というのが、イエス様の名によって祈ることの意味なのです。

A祈りの答え

 さて、次に、祈りは本当に聞かれるのかということについてですが、どんな祈りが聞かれ、どんな祈りが聞かれないか、ということは、実際に祈ることによって学んでいくことができます。祈ることは理屈ではありません。まず、何でも祈ってみるのです。祈りは、私たちの品性を豊かにしていくために神様が備えてくださる人生の大切なツールです。私たちが神様に祈るとき、神様は次のうちのいずれかの答えをくださいます。
 一つは「ノー」という答えです。神様は私たちのためにならないことは拒否なさいます。答えられないのではなく、「ノー」と答えておられるのです。二つ目は「待て」という答えです。神様は、しばしば私たちの品性を練り上げるために忍耐を学ばせてくださいます。待つには、忍耐が必要です。しかし、その忍耐を通して、私たちは多くを学ぶことができるのです。三つ目は「それをすぐになそう」という答えです。祈ってすぐに結果を見ることもあります。その時は主に感謝しましょう。
 しかし、注意していただきたいのは、祈りの結果で自分の信仰を判断してはならないということです。祈っても病気が直らなかったり問題の解決が見えないときがありますね。その時、自分の信仰が弱いとか祈りが足りないとか言って自分を責めないようにしましょう。主は、私たちのどんなにつたない祈りでも聞いて理解する力をもっておられます。また、私たちが必要ものは何かを私たちよりもよく知っておられます。ですから祈り続けていく中で主の最善を待つことが大切なのです。その過程を通して、主は私たちを導き育んでくださるのですから。

B誰に向かって祈るのか

 では、私たちは誰に向かって祈るのでしょうか。
 14節には、こう書かれています。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」つまり、イエス様に祈ればいいということですね。また、15章16節にはこう書かれています。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」父なる神様に求めるなさいということですね。
 聖書は、イエス様に向かって祈ることも、父なる神様に向かって祈ることも、まったく矛盾がないかのように記しています。なぜなら、私たちの神様は、父、御子、聖霊の三位一体の神様だからです。だから、祈り求める相手は「天のお父様」でも「イエス様」でもいいのです。大切なのは「イエス様の名によって」祈ることです。

2 聖霊が与えられる

 さて、弟子たちがイエス様のわざを行い、さらに大きなわざを行うためにイエス様が保証してくださった二つ目のことは、16節に書かれています。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
 イエス様は、父が「もうひとりの助け主」をあなたがたにお与えになると保証してくださいました。
 この「助け主」とは、ギリシヤ語で「パラクレートス」と言います。これは、「かたわらに」という言葉と「呼ぶ」という言葉が合成されて出来た言葉です。つまり、「助け主」には、「私たちのかたわらにいて呼びかけてくださる方」という意味があるのです。ですから、「慰め主」「弁護士」「ヘルパー」「友」とも訳されるのですね。
 イエス様は、「もうひとりの助け主」と言われましたが、ということは、まずイエス様ご自身が助け主であられるということです。イエス様は、常に弟子たちと共におられ、慰め、励まし、弁護し、助けてくださる方でした。そのイエス様が去って行かれた後に、イエス様と同じ働きをするもう一人の助け主が来てくださるというのです。しかも、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」と書かれていますね。つまり、聖霊は、イエス様を信じる一人一人の内に住んで、いつもともにいてくださるというのです。
 そして、17節にあるように、この方は「真理の御霊」です。イエス様は「わたしが真理です」と言われました。ですから、真理の御霊とは、真理なるイエス様を私たちに示してくださるお方だということですね。
 イエス様は、この後、十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえり、四十日間にわたって弟子たちに現れた後、弟子たちの見ている前で天に昇って行かれます。では、イエス様は天において何をなさっているのでしょうか。第一ヨハネ2章1節にこう記されています。「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」つまり、今、イエス様は、天において、まことの弁護士として私たちのためにとりなしてくださっているのです。
 そして、イエス様が昇天された十日後に、父なる神様がもうひとりの助け主である聖霊を送ってくださいました。使徒の働き2章に書かれているように、弟子たち一人一人に聖霊が下るという素晴らしい出来事が起こったのです。弟子たちは、聖霊に満たされ、聖霊に導かれ励まされて全世界に福音を宣べ伝えていくようになりました。そして、多くの人々がイエス様を救い主として信じ、各地に教会が生まれていったのです。
 この聖霊について、26節にはこう書かれています。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
 信仰生活は、決して自分の頑張りや努力だけで保っていけるものではありません。助け主なる聖霊が、いつも私たちと共にいて、教え導き、必要なみことばを思い起こさせ、私たちの信仰生活を支えてくださるのです。
 しかし、それを極端に解釈してしまう人がいます。「聖霊がすべてのことを教えてくれるなら、もう聖書を読むことは必要ない。説教の準備も必要ない。その時、聖霊が教えてくれることを語ろう!」と考える人がいるんですね。
 皆さん、誤解しないでください。聖霊は、聖書を通して私たちを教え導いてくださるのです。聖霊が聖書に書かれていない新しい教えを教えることは決してありません。私たちが聖書を読むとき、また、礼拝で聖書からの説教を聞く時、聖書の言葉が私たちの心に届き、目を開いてくれます。それは、背後に、聖霊なる神様の導きと助けがあるからなのです。
 また、聖霊はイエス様が話したすべてのことを思い起こさせてくださると書かれていますが、これは、どういうことでしょうか。「イエス様のことばを忘れてしまっても、聖霊が思い出せてくださる」ということでしょうか。もちろん、それもあるでしょう。でも、ここで「思い起こさせる」とは、もっと日常的なことです。私たちは、イエス様の約束のことばを忘れてはいないのだけれど、そのことばが実際の生活の中でピンと来ないということがありませんか。しかし、聖霊は、私たちの生活の中で、イエス様のことばを実感させ、本当にその通りだとうなずくことができるように働いてくださるのです。
私たちには、神様の御前でたえず私たちのためにとりなしをしてくださっているイエス様がおられます。また、私たちの内には、いつもともにいて支え導いてくださる聖霊がおられるのです。つまり、天においても地においても私たちを弁護し、助け、支え、慰め、教え、導いてくださる「助け主」がいてくださるのです。ですから、何も恐れることはありませんね。

3 イエス様は戻って来られる

 それから、三つ目の保証として、イエス様は、18節でこう言われました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」
 このイエス様が「戻って来る」と言われたのには、いくつかの意味が含まれています。
 一つは、イエス様が十字架について死んで葬られた後、三日目によみがえられたことです。復活したイエス様が弟子たちのもとに来られたとき、弟子たちは喜びに満たされました。イエス様は復活によって、御自分がまことの神の子、救い主であること、また、信じる人々に永遠のいのちを与えることができる方であることを示されたのです。
 もう一つの意味は、イエス様が復活後、天に昇られましたが、世の終わりに再び来られるということです。それを再臨といいます。私たちは、イエス様が再び来て、最終的に公正な裁きを行ってくださるという希望を持って生活することができるのです。
 そして、もう一つの意味は、私たちがイエス様を信じるとき、イエス様と同じ本質を持ち、イエス様を示してくださる聖霊が私たちの内に来てともにいてくださるようになるということです。聖霊が私たちと共にいてくださるということは、イエス様が共にいてくださることと同じであり、また、父なる神様が共にいてくださることでもあるのです。
 考えてみてください。もし、イエス様が目に見える姿でパレスチナ地方の一部にずっと留まっておられたら、私たちがイエス様に面会するチャンスは、ほとんどないでしょうね。世界のクリスチャン人口は二十億と言われますが、一人が一秒だけイエス様に面会できるとすると、すべての人が面会するのに、二十四時間休みなく続けても六十三年かかります。六十三年待ってようやく面会できたのにたった一秒で終わり。これでは「わたしはいつもあなたがたとともにいます」というイエス様の約束は決して実現しませんね。
 しかし、イエス様が天に昇り、一人一人に聖霊を送ってくださったので、私たちは、どこにいても「イエス様が私と共におられる」と確信することができ、イエス様の名によって大胆に祈り、イエス様と親しく歩むことができるのです。だからこそ、福音が全世界に伝えられていくことが可能になったのです。これは、父、子、聖霊の三位一体の神様だからこそ可能なのです。
 この三位一体を否定する異端のグループの人々は、神が共にいてくださるということの確信を持つことが出来ません。キリストが一人一人のうちに住んでくださるということが理解も経験もできないのです。だから、自分の頑張りと努力以外に救いの道を見いだすことができません。そして、目に見える権威や教祖に依存せずにはいられなくなるのです。
 しかし、私たちの内には三位一体の神様が住んでくださり、いつもともにいて助け導いてくださるので、平安を持ってあゆんでいくことができるのです。
 ですから、イエス様は27節でこう言っておられます。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」