城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年二月一〇日         関根弘興牧師
              マタイ二六章三〇節〜四六節
イエスの生涯47 
   「ゲッセマネの祈り」

 30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。
36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」(新改訳聖書)


 イエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちに様々な教えや約束をお語りになった後、弟子たちのために、また、後にイエス様を信じるようになる一人一人のために、ヨハネ17章に記されている長い祈りをなさいました。その祈りの内容は、前々回と前回の二回にわたって学びましたね。
 イエス様は、弟子たちが一つとなるようにと祈られました。それは、皆が同じようになるという意味ではありません。性格も特徴もそれぞれ違う弟子たちが、同じ信仰告白を土台とし、愛と調和に満ちた三位一体なる神様の御性質にあずかる者として、愛と調和の中で生きていくことができようにとイエス様は祈られたのです。そして、弟子たちがイエス様につながり、愛によって一つとされ、神様に愛されていることを感謝しながら喜んで生きていくとき、世の人々は、その弟子たちの姿を見て、神様の愛を知り、イエス様が神様によって遣わされたまことの救い主であることを知るようになっていくのだとイエス様は言われました。自分自身が神様に愛されていることを味わい、その愛に生きていくこと、それが伝道の出発点なのですね。
 さて、イエス様は、祈り終えると、弟子たちと賛美の歌を歌ってから、オリーブ山に出かけて行かれました。今日の箇所には、そのオリーブ山での出来事が書かれています。
 オリーブ山は、エルサレムのすぐ東側にある山で、イエス様たちはたびたびこの山に登っていたようです。オリーブ山からはエルサレムの町と神殿を眺めることができました。しかし、今回は、夜に行ったわけですから、あたりは真っ暗だったことでしょう。
 ところで、この少し前の最後の晩餐の席で、イエス様は、弟子たちに「この中にわたしを裏切る者がいます」とか「あなたがたは、今は、わたしのいく所について来ることはできない」と言われましたね。それを聞いた弟子たちは動揺してしまいました。でも、イエス様は、「しばらくしたら、わたしがあなたがたを迎えにくる。そして、いつもあなたがたとともにいるようになるから大丈夫」と言って励ましてくださいましたね。
 ところが、今日の箇所で、オリーブ山に行く途中、イエス様は、また、衝撃的なことを言われました。「あながたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『羊飼いが打たれ、羊の群れが散り散りになる』という旧約聖書の預言が今夜実現するのです」と言われたのです。弟子たちは、非常に動揺したことでしょう。
 イエス様は、続けて「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」と言われました。「わたしは十字架につけられるが、よみがえる。そして、先にガリラヤに行ってあなたがたを待っているよ」と言われたわけですね。
 ところが、弟子たちは、イエス様の言葉の後半部分は理解できず、「あなたがたはみな、つまずきます」という言葉だけに敏感に反応したのです。
 弟子たちは、三年以上もの間、イエス様と行動をともにしてきました。「我々は、特別にイエス様に選ばれた十二人だ。これまでイエス様に忠実に従ってきた。これからも、ずっと従い続けていくぞ」という自負がありました。ですから、イエス様の言葉は、弟子たちとって心外だったことでしょう。ペテロがすぐに反論しました。「たとえ他の弟子たちが全員つまずいたとしても、私は絶対につまずきません。」ところが、イエス様は、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われるではありませんか。ペテロはむきになって、「とんでもない! そんなことは決してありません。イエス様となら、一緒に死ぬことも厭いません」と言い張ったのです。すると、他の弟子たちも口々にそう言い始めました。
 しかし、イエス様の言われたとおりのことが起こりました。イエス様が逮捕されると、弟子たちは皆、散り散りに逃げ去ってしまいましたし、ペテロも「イエスなど知らない」と三度も否定してしまうことになります。人間の気負いや勢いは、当てになりませんね。
 さて、イエス様一行は、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネという所にやって来ました。「ゲツセマネ」とは「油しぼり」という意味です。オリーブ山には、その名の通り、オリーブの木がたくさんありました。オリーブの実から油をしぼり取る場所がゲッセマネというわけですね。そこに、やって来ると、イエス様は、ペテロとゼベダイの子ふたり、つまり、ヤコブとヨハネを連れて、園の奥に入って行かれました。そして、彼らに「目をさましていっしょに祈っていなさい」と命じ、少し離れた所で祈り始められたのです。
 このペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、十二弟子の中でも、ある意味で特別待遇をされていた人たちです。イエス様が会堂管理者ヤイロの娘をよみがえらせたとき、その場にいたのは、この三人だけでした(マルコ5・37)。また、ヘルモン山でイエス様が栄光の御姿に変わられたときも、この三人だけがその場にいました(マルコ9・2)。そして、ゲツセマネの園においても、イエス様はこの三人を身近に置いて祈られたのです。
 この三人はこれまで、イエス様のすばらしい奇跡のみわざや栄光の姿を目撃してきました。権威を持って人々に語り、嵐を静め、悪霊を追い出し、病を癒やす、素晴らしいイエス様の姿を見続けてきたのです。ですから、彼らは「イエス様と一緒なら、どんなことが起こっても怖くない」と思っていたでしょう。
 しかし、弟子たちが見たのは、これまでとはまったく違うイエス様の姿でした。37節に「イエスは悲しみもだえ始められた」とありますね。マルコの福音書14章では「イエスは深く恐れもだえ始められた」と書かれています。また、イエス様御自身が、38節で「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言っておられますね。イエス様は、非常な悲しみと恐れを感じておられたのです。ですから、祈るとき、イスラエルでは普通は立って「おお、神様」と祈るのですが、イエス様は、ひれ伏して、悲痛な声で「アバ、父よ」と祈られました。そして、ルカの福音書22章44節には「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と書かれています。
 さて、今日は、このゲッセマネの出来事から、三つのことを、御一緒に考えたいと思います。

1 イエス様の苦しみ

 イエス様は、血のしずくのような汗を流すほどに苦しみもだえて祈られました。なぜでしょうか。
 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られましたが、「この杯」とは、神様のさばきを受け、十字架について罰せられることです。御自分がすべての人の身代わりとなって罪に定められ、神にのろわれたものとなるという苦しみの杯でした。罪のない神の御子であるイエス様が神にのろわれた者となるということほど、大きな矛盾、大きな悲劇はありませんか。イエス様にとって、十字架につくことは、決してたやすいことではありませんでした。「できれば、わたしから過ぎ去らせてください」と必死で祈るほどの大きな苦しみだったのです。
 サタンは、きっとこうささやいたことでしょう。「イエスよ。お前が神の子なら、なぜそんな恐ろしい目にあわなければならないのか。なぜすぐに心変わりしてしまうような人間のために、自分がのろわれなければならないのだ。おまえが十字架についても、人は見向きもしないだろう。十字架につくなんて、ただの犬死にだぞ。お前は神の子なのだから、もっと別の方法があるはずだ。人の罪を背負うなんて馬鹿なことを考えるのはよせ。」
 一方、ルカの福音書22章43節には、不思議な言葉が出てきます。「御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた」と書いてあるのです。「イエスよ、頑張れ。イエスよ、頑張れ」と力づけたというのです。人々を救おうとする神のみこころが成るのか、成らないのか。神が勝つのか、サタンが勝つのか。その大きな分岐点となったのが、このゲッセマネの祈りだったのです。
 もし、ここでイエス様が「こんなに苦しんで、何の得があろうか。そうだ。やっぱり十字架にかかるのはよそう」と言って放棄するなら、救いの道はまったく失われてしまいます。ですから、ゲツセマネの祈りは、人として来られたイエス・キリストの最大の霊的な戦いだったのです。
 
2 人の無力さ

 イエス様が苦しみもだえて祈っておられるとき、弟子たちは、どうしていたでしょうか。眠っていたと書かれていますね。イエス様に「目をさまして、祈っていなさい」と言われたのに、三度も繰り返し眠り込んでしまったのです。
 夜更けで疲れていたからかもしれません。あるいは、人は、極度の恐れと緊張が続くと、それを和らげるために眠ってしまうことがあるそうですから、弟子たちもそれで眠ってしまったのかもしれません。でも、ともかく、祈ろうとしても眠ってしまうことの繰り返しが弟子たちの姿でした。
 そんな弟子たちに、イエス様は「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」と言われました。確かに、心に燃えるような思いがあっても、実際に体が動かない、ということはありますね。弟子たちは、イエス様が苦しみもだえて祈られる姿を見て、自分たちもイエス様のために祈らなくてはと心が燃えたはずです。しかし、眠りこけてしまったのです。
 この弟子たちの姿は、いったい何を教えているのでしょう。それは、人は、どんなに燃える思いがあっても、イエス様の救いのみわざの手助けになるようなことは何もできない、ということです。何もできないどころか、祈ろうとしても眠ってしまうような者だというのです。イエス様の飲もうとする杯は、イエス様以外には受け取ることのできない杯であり、人はそれに何も付け加えることができないのです。
 そんな無力な私たちを救うために、イエス様はお一人で壮絶な祈りの戦いをされたのです。

3 苦しみから確信へ

 イエス様は、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。「神よ。十字架以外に人が救われる道はないのでしょうか。願わくは、この杯をわたしから取りのけてください」と叫ばれたのです。
 このイエス様の姿を見て、「イエスの十字架は失敗だった」と言う人がいます。「イエスだって十字架にはかかりたくないと思っていたんじゃないか。それなのに、十字架につけられてしまったのだから、失敗したのだ」と言うのです。しかし、そんなことを言うのは、聖書も神のみこころもまったく知らないからなのです。
 イエス様は、「この杯を過ぎ去らせてください」と祈られましたが、同時に「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」とも祈られましたね。イエス様は、自分の願いよりも神様のみこころを優先する方が最善の結果をもたらすのだということを御存知でした。
 ですから、イエス様が教えてくださった「主の祈り」の中でも、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という言葉がありますね。イエス様は、弟子たちにも神様のみこころを最も優先することの大切さを教えておられ、それを御自身も実践なさっていたのです。
 では、神様のみこころとは何でしょうか。イザヤ53章10節にこう書かれています。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」イエス様が十字架で御自分のいのちをささげることによって、救われて永遠のいのちを持って生きる人々が起こされていく、それが神様のみこころなのだ、というのです。
 そして、ヘブル人への手紙5章7節には、こう記されています。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」
 これは、イエス様が十字架こそ神様のみこころであると受け入れたということです。イエス様は、ゲッセマネの祈りを通して、御自分が十字架にかかることが神様のみこころであることを確信し、苦い杯を飲むことを決意されたのです。そして、その後は、大胆に十字架への道を進んで行かれることになります。
人は、何かの課題や困難に直面すると、恐れたり、ひるんだり、葛藤しながら苦しみます。しかし、結論が出て、心の準備が整い、覚悟が出来ると、その後は、その課題や困難に力強く立ち向かっていくことできるようになります。
 イエス様も、このゲッセマネの祈りの後、驚くほど自信に満ちた態度を示されるようになりました。恐れもだえたあのイエス様の姿は、もはやそこにはありません。少しの疑いもありません。少しの迷いもありません。少しの不安もありません。ただ、ご自分の前に置かれた十字架へと向かって行かれたのです。
 ゲツセマネの祈り、それは、イエス様の弱さの祈りではありません。すべての罪を背負い、十字架上で激しい苦しみと恐ろしいのろいを味わうことこそ御自分に与えられた務めであることを確信するための壮絶な祈りだったのです。
 クリスチャンの作家、三浦綾子さんがお書きになった「私を変えた愛」という小冊子があります。その中に、小説「塩狩峠」の一説が引用されています。この小説の主人公が雪の降る札幌の街角で聞いた牧師の説教です。「みなさん、本当の愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとはなんでありますか。命ではありませんか。このイエス・キリストは大事なその命を我々に下さったのであります。彼は決して罪を犯さなかった。我々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くないよ言う者でありますのに、何一つ悪いことをしなかったイエス・キリストは、いや善いことばかりをしたイエスは、この世のすべての罪を背負って十字架にかかられたのであります。彼は自分に罪はないといって、逃げることはできた筈であります。しかし、彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。ここにハッキリと、神の子の姿と罪人の姿があるのであります。しかも皆さん、十字架につけられた時、イエスは自分を十字架につけた者のために、かく祈りたもうたのであります。『父よ、彼らを許したたまえ。そのなす所をしらざればなり。』」
 三浦さんは、このイエス・キリストの十字架によって示された圧倒的な愛に心動かされました。そしてこう綴っています。「虚無的な日々を送っていた。だがそんな生き方をもし続けていたら、一体わたしの一生はどんな一生になったことだろう。こんないい加減な、その日暮らしの生活に何の実りがあったろう。かえがえのない命をいたずらに滅ぼしてしまったにちがいない。この私の自身の心の汚さ、醜さのために、罪のために、イエスは十字架にかけられたと知った時、私の生活は変わったのだ。」
 
 さて、このゲッセマネの祈りの直後に、イエス様は捕らえられます。そして、裁判にかけられ、十字架刑を宣告されることになります。次回からは、十字架へと向かって行かれるイエス様の姿を学んでいくのですが、この十字架の出来事こそ、あなたを、私を、変える愛がそこにあることを覚えつつ、読み進めていきましょう。