城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年二月二四日         関根弘興牧師
              マタイ二六章五七節〜六八節
イエスの生涯49 
   「審問」

57 イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。58 しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。59 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。60 偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、61 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」62 そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」63 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」65 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。66 どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、68 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」(新改訳聖書)


 イエス様がゲッセマネの園での壮絶な祈りを通して十字架への道を進むことを決意されたとき、十二弟子のひとりであるユダが大勢の群衆を手引きしてやってきました。イエス様一人を捕まえるために、ユダヤの宗教指導者たちや役人たちだけでなく、ローマの兵隊たちが何百人も動員されてきたのです。ユダは、どの人物がイエス様かを知らせるために、イエス様に口づけしました。愛と尊敬のしるしである口づけを裏切りに利用したわけですね。しかし、イエス様は、「友よ。何のために来たのですか」と言われました。最後の最後まで、ユダを友と呼び、ユダが犯そうとしていることの愚かさ、恐ろしさを何とか悟らせようとしておられたのです。
 しかし、その口づけが合図となってイエス様は捕らえられ、弟子たちは、みな、イエス様を見捨てて、散り散りに逃げていってしまいました。
 「死んでもついて行きます」と言っていた弟子たちが、どうしてあっさりと逃げていってしまったのでしょうか。
 弟子たちは、旧約聖書の内容を知っていましたから、こんな出来事を思い起こしていたかもしれません。
 一つは、第二列王記1章に書かれていますが、預言者エリヤが、自分を捕らえようとやってきた者たちから守られるという出来事です。
 時の王アハズヤが屋上から落ちて病気になってしまいました。王は、自分の病気が治るかどうか異教の神々に伺いを立てようとします。それを聞いた預言者エリヤは、「異教の神々に頼るとは何ということか。イスラエルに神がいないとでもいうのか」と嘆き、「アハズヤ王は病から癒されることなく死ぬ」と預言したのです。それを知った王は激怒し、エリヤを捕まえるために、五十人の兵士を送りました。しかし、天から火が下り、兵士は全員焼き滅ぼされてしまったのです。王は、また別の五十人を送りました。すると、彼らも天からの火に焼かれてしまいました。三度目に送られた五十人の隊長は、恐れて、エリヤの前にひれ伏し、「どうぞ私たちのいのちをお助けください」と懇願したのです。
 また、第二列王記6章には、エリヤの後継者である預言者エリシャが同じような経験をしたことが書かれています。
 当時、アラムの王はイスラエルに攻め込もうとしていました。しかし、イスラエルの預言者エリシャがいつもアラムが攻撃しようとしている場所を事前に察知してイスラエルの王に知らせるので、攻め込むことができません。そこでアラムの王は、まず、エリシャを捕まえる必要があると考え、エリシャの家を大軍で取り囲みました。しかし、エリシャは動じません。召使いに「恐れるな。こんなアラムの軍勢より、私たちを守っている軍勢のほうがはるかに多いのだから」と言って祈ると、天の軍勢が山のように満ちてエリシャを取り巻いているのが召使いにも見えたのです。神様がアラムの軍の全員の目を見えなくされたので、エリシャは彼らをイスラエル王のもとに連れて行きました。アラムの兵士たちは、また目が見えるようになりましたが、自分たちが敵国の捕虜状態になっていることに気付きました。イスラエルの王は、彼らを殺してしまおうかと思いましたが、エリシャの指示に従って、彼らを盛大にもてなした後、アラムに帰しました。すると、その後はアラムの軍勢は二度とイスラエルの地に侵入して来なかった、と書かれています。
 これらは、旧約聖書の中でも有名な出来事です。ですから、イエス様の弟子たちは、イエス様も逮捕されそうになったときにエリヤやエリシャのように神様の奇跡的な力で守られるだろうと期待していたかもしれませんね。
 しかし、どうでしょう。イエス様は、あまりにもあっさりと無抵抗のまま捕まえられてしまったのです。そこで、弟子たちは、気持ちが砕けて逃げ出してしまったのかもしれませんね。
 ただ、四つの福音書を見ると、ペテロともう一人の弟子だけは、こっそりと後をついていったようです。そのことについては、また、別の機会に詳しく見ていきたいと思いますが、今日は、逮捕されたイエス様に対して行われた審問の様子を中心に見ていくことにしましょう。
 イエス様が逮捕されたのは真夜中でしたが、すぐにイエス様に対する審問が始まりました。四つの福音書を総合してみると、イエス様は、真夜中から明け方にかけていろいろな所に引きずり回され、様々な審問をなんと六回も受けておられるのです。

@大祭司カヤパのしゅうとであるアンナスの審問

 本来、ユダヤ社会のきまりでは、大祭司は死ぬまで務めを果たすことになっていましたが、アンナスは、ローマ政府によって大祭司を退位させられていました。しかし、退位後も大きな影響力を持っていたようです。ユダヤ人にとってはアンナスが依然として本来の大祭司だと見なされていたのかもしれません。ヨハネの福音書でも「大祭司」と書かれています。そこで、逮捕されたイエス様もまずアンナスのもとに連れてこられました。

A大祭司カヤパと最高議会の予備審問

 ユダヤの社会においては、重要な決定や裁判はサンヘドリンという最高議会が行っていました。この議会は、律法学者、長老、祭司長たちなどの七十人で構成されていました。ただ、イエス様が逮捕されたのは真夜中だったので、正式な議会の招集は明け方まで待たねばなりません。そこで、まず、大祭司カヤパと議会の主な人々が集まって、予備審問が行われたのです。

B最高議会での審問
 明け方になると最高議会が招集され、審問が行われました。その結果、イエス様の有罪が宣告されることになります。このマタイの福音書では27章1節にそのことが書かれています。

C総督ピラトの審問

 この時代、ユダヤはローマ帝国の支配下にありましたから、ユダヤの最高議会は、イエス様を勝手に処罰することはできませんでした。そこで、その地方を治めていたローマの総督ピラトのところにイエス様を連れて行き、イエス様の罪状を訴えたのです。ピラトは、イエス様がガリラヤ出身であることを知ると、ガリラヤ地方の王であるヘロデ・アンテパスがちょうどエルサレムにいたので、王のもとにイエス様を送りました。

Dヘロデ王の審問

 ヘロデは以前からイエス様に興味があり、いろいろ質問しますが、イエス様が何もお答えにならないので、兵士たちと一緒にイエス様を嘲弄してピラトに送り返しました。

E総督ピラトの審問と裁判

 ピラトは、裁判の席に着き、イエス様に十字架刑を言い渡すことになります。

 さて、この六回の審問のうち、初めの三回はユダヤ人による宗教裁判でした。そして、後の三回は当時この地方を支配していた国家権力者によるものです。
 そして、今日の箇所に記されているのは、第二回目の大祭司カヤパと最高議会の議員たちによる予備審問の内容です。59節に「全議会」とありますが、「全議会の代表者」という意味だと理解すればいいと思います。詳しく見ていきましょう。

1 イエス様の沈黙

 祭司長や長老たち、宗教指導者たちは、何としてもイエスを死刑にしたいと思っていました。そこで、イエス様を死刑にする証言を求めるのですが、実際にはイエス様は何の罪も犯しておられませんから、偽証に頼るしかありません。偽りの証人を呼んできて、イエス様に対する不利な証言をさせたわけです。 彼らが最も大切にしているモーセの律法には「偽りの証言をしてはならない」(出エジプト記20・16)と厳しく戒められているのに、それを無視してまで何とかイエスを殺そうとしたのです。マルコ15章10節には、それは「ねたみ」によるものだったとあります。ねたみは、本当に恐ろしいことを引き起こすものですね。
 さて、偽証者がたくさん出てきましたが、なかなか決定的な証拠になるものがありません。律法には、二人以上の証言が一致する必要があると定められていたからです。
 しかし、最後にふたりの者が「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました」と証言し始めました。確かに、イエス様は、それと似たようなことは言われました。ヨハネ2章19節で「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」と言っておられます。しかし、イエス様が言われたのは、御自分が死んで三日目によみがえることだったのです。そのイエス様の真意を理解していない証言者たちは、自分勝手な解釈をいろいろ語り始めたようです。ですから、マルコ14章59節には「しかし、この点でも証言は一致しなかった」と書かれています。
 いろいろな偽証がなされている間、イエス様は黙っておられました。大祭司が、「イエスよ。何も答えないのか。こんなにお前にとって不利な証言が続いているのに」と問いかけても、一言もお答えにならないのです。私たちなら、「その証言は偽りだ。でっち上げだ。不当な裁判だ」と叫び続けるでしょうね。
 イエス様は、この沈黙を通して何を教えておられるのでしょうか。いろいろな偽りの証言が次から次へと繰り広げられましたが、それはみな、途中で自己崩壊してしまうようなものにすぎませんでした。偽りの証言が矢のように飛んできましたが、決してイエス様のもとには届くことはありませんでした。イエス様を偽りの証言で訴え、傷つけることは決してできないということなのですね。そして、このことは、かえってイエス様が正しい罪のない方であることを明らかにすることになったのです。

2 イエス様の自己証言

 イエス様は、ずっと沈黙しておられましたが、大祭司が「あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい」と質問すると、こうお答えになりました。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
 まず、イエス様は、「あなたは神の子キリストなのか」という質問に「そのとおりです」とお答えになりました。御自分が「神の子」、つまり神と同等の存在であり、「キリスト」つまり旧約聖書に預言されている救い主であるとはっきり宣言なさったのです。
 イエス様は、続けて、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」と言われました。これはどういう意味でしょうか。
 まず、「人の子」とは、神のもとから人となって来られた方、つまり、イエス様御自身のことです。
 そして、「力ある方の右の座に着く」とありますが、イエス様は、これから十字架につけられ、三日目に復活し、天に昇り、神の右の座に着かれます。右の座に着くとは、単に右側にある座席に座るという意味ではなく、神様とともに、神様の権威を持って支配し、さばきを行なうようになるということです。詩篇110篇1節では、神様がこう言っておられます。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」これは、神様が救い主なる方に言っておられる言葉です。つまり、イエス様が「わたしは、力ある方の右の座に着く」と言われた言葉も「わたしこそ旧約聖書に書かれている救い主だ」という宣言なのです。
 それから、「人の子が天の雲に乗って来る」とは、旧約聖書の預言者ダニエルが見た幻の内容です。ダニエル書7章13節ー14節にこう書かれています。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」ダニエルは、この世の終わりの時に柔和な人の子のような方が来られ、永遠の王座に着かれるという幻を見ました。そして、イエス様は、御自分こそダニエルが預言した「人の子」であり、永遠の王座に着いてすべてを治めるようになる者なのだ、と宣言なさったのです。
 想像してください。イエス様は、逮捕され、被告の席に立たされているわけですね。しかし、皆の前で、自分こそ神の子であり、旧約聖書に預言されている救い主なのだと宣言なさったのです。「今、あなたがたは、わたしを裁いているが、わたしこそが世の終わりにおいて一人一人を裁く者なのだ」というのですね。
 イエス様は、様々な偽証がなされているときは沈黙を保っておられましたが、御自分の使命や自分が救い主であるということに関しては、一歩も引くことなく、はっきりと宣言されたのです。
 このイエス様の宣言に対する応答は二つしかありえません。一つは、イエス様の言葉が事実であると信じ、「まことにあなたは神の御子キリストです」と告白すること、もう一つは、イエス様の言葉は偽りだと拒否することです。しかし、もしイエス様が本当に神の子キリストなら、イエス様を拒否することは最も大きな神様への冒涜となるわけですね。
 大祭司の反応は、どうだったでしょうか。激怒して自分の衣を引き裂き、「神への冒涜だ」と叫びました。人間にすぎないイエスが自分を神だと主張するなどとは、とんでもないことだと考えたのです。律法では、神様を冒涜する者は死刑と決まっていました。ですから、議会の議員たちも、「イエスは死刑に当たる」という宣告を下したのです。

3 イエス様の忍耐

 そして、激怒した大祭司やそこにいた人たちは、イエス様を嘲りはじめました。そして、イエス様の顔をつばきをかけ、布で顔をおおい、こぶしでなぐりつけたり平手打ちをして、「救い主なら、だれが打ったのか当ててみろ!」と罵声をあびせかけたのです。
イエス様は、ご自分が捕らえられる前にルカ18章31節-33節でこう言っておられました。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」と。このことは、旧約聖書に預言されていたことでもあったのです。
 イザヤ50章5節-6節には、救い主についての預言がこう書かれています。「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」
 人々は、イエス様をあざけり、つばをかけ、ののしりました。しかし、聖書の記述は、イエス様が何の抵抗もせずに、なされるままに身を置かれれば置かれるほど、救い主の預言がひとつひとつ成就していくことを教えているのです。今日の箇所でわかるようにイエス様に対するいい加減な審問であったにもかかわらず、この審問によってイエス様こそ、旧約聖書で預言された救い主であることが立証されることになっているのです。
 ペテロは、第一ペテロ2章22節ー24節で、こう書いています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」また、第二ペテロ3章15節では、こう言っています。「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。」
 イエス様は、イエス様はあざけられ、ののしられ、つばをかけられ、十字架への道を進んで行く間、ずっと忍耐しておられました。どんなに大きな忍耐だったことでしょう。この忍耐がなければ、私たちに救いはもたらされませんでした。イエス様の忍耐があったからこそ、一人一人にイエス様の永遠の救いが与えられるようになったのです。
今週、「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」という言葉を心に留めながら歩んでいきましょう。