城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年三月三日          関根弘興牧師
              マタイ二六章六九節〜七五節
イエスの生涯50 
   「ペテロの否認」

69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。74 すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。(新改訳聖書)


 イエス様がゲッセマネの園で逮捕されると、すぐに大祭司カヤパを中心にユダヤ最高議会の議員たちが集まり、イエス様に対する予備審問が行われました。しかし、その中身は、いい加減なものでした。偽りの証言をする者たちを集めて、何とかイエス様を死刑に定めようとしたのです。しかし、どの証言も一致せず、決定的な証拠にはなりませんでした。そればかりか、かえってイエス様が罪のない方であることを明らかにする結果となってしまったのです。
 イエス様は、偽りの証言が続いているときは、ただ沈黙を守っておられました。しかし、大祭司が「あなたは神の子キリストなのか」と質問すると、「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」とお答えになりました。皆の前で、「わたしこそ神の子であり、旧約聖書に預言されている救い主なのだ。今、あなたがたは、わたしを裁いているが、わたしこそが世の終わりにおいて一人一人を裁く者なのだ」とはっきりと宣言なさったのです。
 それを聞いた大祭司は激怒して、「イエスは神を冒涜している」と叫びました。そして、その場にいた人々は「イエスは、神を冒涜した罪で死刑に値する」という結論を出したのです。また、彼らは、イエス様を嘲り、つばをかけ、こぶしでなぐりつけ、平手打ちをし、嘲笑しました。その間、イエス様は、何の抵抗もせずに忍耐しておられたのです。
 しかし、救い主が何の抵抗もせずに人々から嘲られ、打たれることは、旧約聖書の時代から預言されていたことでした。つまり、このいい加減な審問さえもが、イエス様こそ旧約聖書で預言された救い主であることをより鮮明に証しするものとなったのです。

1 ペテロの否認

 さて、この審問の様子を遠くから眺めていたのがペテロでした。ペテロはイエス様が逮捕されたあと、こっそりと後を追って成り行きを見届けようとしました。ヨハネの福音書には、もうひとりの弟子が大祭司の知り合いだったので、すでに中庭に入っていたと書かれています。ペテロは門の外にいましたが、その弟子が、門番の女に話をしてペテロを中に入れたというのです。
 すると、召使い女がペテロを見て「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね」と尋ねました。しかし、ペテロは、すぐにみなの前で「何を言っているのか、私にはわからない」と答えました。次に、ほかの召使いの女が「この人はナザレ人イエスといっしょでした」と言いました。すると、ペテロは、それも打ち消し、誓って「そんな人は知らない」と言いました。しばらくして、そのあたりにいた人々が近寄って来て「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言うと、ペテロは「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めたのです。
 結局、ペテロは、イエス様を三回も否認してしまいました。しかも、だんだん強い口調になっていったのです。
@「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。
A「そんな人は知らない」と誓って言った。
B「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。
「のろいをかけて誓う」というのは、大変強い意味のある言葉です。「わたしがイエスを知らないというのは真実だ。もしそれがウソであれば、わが身が呪われてもかまわない」と言い切ってしまう言葉です。これは、イエス様との絶縁宣言のようなものです。もう後戻りができないような非常に強い言葉です。
 でも、ペテロはどうしてこれほどムキになってイエス様を否定したのでしょうか。自分も逮捕され、罰せられるのではないかと恐れていたのでしょうか。しかし、このとき弟子たちに対する告発や逮捕の命令などはどこにも出ていませんでした。最高議会の面々は、弟子たちを捕らえるつもりなど全くなかったのです。イエスさえ抹殺すれば、弟子たちなど自然に消え去ってしまうと思っていたのでしょう。イエス様が逮捕されたとき、その場には大勢の兵士がいましたから、彼らにその気があれば弟子たちも逮捕することができたはずです。しかし、彼らは弟子たちには目もくれませんでした。また、この後、イエス様が十字架つけられたとき、その場にはヨハネやイエス様の母マリヤたちがいましたが、誰も捕らえられることはありませんでした。
 ですから、召使いの女が「あなたもイエスと一緒にいましたね」と言ったぐらいで、騒動が起こるわけではありません。だいたいヨハネがこの召使いの女に頼んでペテロを中に入れてやったわけですから、「あなたもイエスと一緒にいましたね」というのは何気ないひと言であったかもしれません。また、「ガリラヤなまりがあるから、イエスの仲間だろう」と言われましたが、丁度、過越祭りの時ですから、ガリラヤ地方からやってきた人々がエルサレムに大勢いたはずです。ですから、ペテロにこう言った人々は、何の根拠もなく、ただ当てずっぽうで言ったとも言えるのです。そんな一つ一つ問いなど、無視することも出来たはずです。
 しかし、ペテロは、そこにいる人たちのことなど何も恐れる必要が無かったのに、召使いの女の些細なひと言が引き金となり、どんどん過剰反応していきました。それは、おそらく、ペテロの心の奥底に、イエス様への失望や落胆の思いが生じていたからではないでしょうか。ペテロも、イスカリオテのユダと同じく、イエス様の華々しい栄光の姿を思い描いていました。イエス様が敵と戦って大勝利を収めたあかつきには、イエス様とともに命をかけて戦った自分も名誉と権力の座を得ることができると期待していたのかもしれません。ところが、イエス様はあっさり逮捕され、敵対する人々のなすがままになっておられます。その姿を見て、ペテロの内面を支えていた何かが崩れ、恐怖に圧倒されてしまったのではないでしょうか。結局、ペテロはイエス様を全否定してしまったのです。

2 ペテロの気づき

 そんなペテロが自分に立ち返るきっかけとなったのは、「鶏の鳴き声」でした。
 75節には、イエス様がペテロに「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」と言われたと書かれていますね。
 マルコの福音書14章では、もう少し詳しく、イエス様がこう言われたと記されています。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」そして、「ペテロは、鶏が二度目に泣いたときに、イエス様の言葉を思い出して泣き出した」と書かれているのです。ということは、鶏が最初に鳴いたときは、ペテロはまだイエス様の言葉に気づいていなかったということですね。では、なぜ鶏が二度目に鳴いたときにペテロはイエス様の言葉を思い起こすことになったのでしょうか。
 実は、ペテロがイエス様の言葉を思い起こすきっかけとなった出来事が鶏の鳴き声の他にもあったということが、ルカの福音書22章60節ー62節に記されているのです。「しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」
 鶏は、いつも夜が明けるときに鳴きますから、それ自体は、特別なことではありません。時を知らせるベルのようなもので、当たり前のように聞き流してしまうものです。しかし、鶏が鳴いたとき、イエス様が振り向いてペテロを見つめられたのです。それでペテロは、イエス様の言葉を思い出しました。つまり、ペテロを我に返らせたのは、「主のまなざし」だったのです。
 イエス様は、以前ペテロのためにこう祈られました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22章31ー32節)
 イエス様は、三度も、それも呪いをかけてまで否定してしまったペテロを見つめられましたが、それは、叱責の目でも、失望落胆の目でも、悲しみの目でもありません。ペテロの弱さを見抜き、その弱さを知っているがゆえの愛と慈しみに満ちた祈りのまなざしだったことでしょう。

3 ペテロの号泣

 ペテロは、イエス様のまなざしを見て、イエス様の言葉を思い起こしました。そして、自分の弱さをすべて御存知の上で、いつくしみ、祈り続けてくださるイエス様の愛の深さに心打たれたことでしょう。
 しかし、そのイエス様を自分は呪いをかけてまで否定してしまったのです。自分では後戻りできない状態です。彼は激しく後悔します。もはやそこにいられなくなってしまいました。その場所を離れ、外に出て号泣する以外にありませんでした。
 このわずか数時間前、ペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と大見得を切っていました。自分のことは自分が一番よく知っているつもりでした。しかし、実は、自分がこんなにあてにならない弱く変わりやすいものであることがわかっていなかったのです。しかし、イエス様は、すべて御存知でした。
 私たちも同じです。自分のことは自分が一番よく知っているというのは大きな間違いです。聖書は、イエス様のほうが私たちのことをよく知っておられる、イエス様の知っておられる自分こそが真の自分なのだと、教えているのです。
 ですから、詩篇139篇23ー24節には、このような祈りが書かれています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」私たちは、自分自身について知らないことがたくさんあります。ですから、イエス様に「私を探り、私の真の姿を明らかにし、進むべき道を示し導いてください」と祈っていくことが大切なのです。
 パウロは、第一コリント13章12節でこう記しています。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」また、ガラテヤ4章9節ではこう書いています。「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」
 私たちは、神に完全に知られているのです。神が私たちのことを知ってくださっているということこそ、私たちにとって大きな幸いなのです。
 ある神学者がこう言いました。「罪とは何か。それは神を知らないこと、従って、自分自身をも知らないことです」と。ペテロは、自分自身の真の姿を知らなかったことに気づき、泣き崩れてしまいました。しかし、ここからペテロの新しい歩みが始まることになるのです。

4 ペテロの失敗から学ぶべきこと

@失敗しても価値は変わらない

 私たちは、「失敗を重ねる度に自分の価値が減少する」と思ってしまいます。また、「失敗したら、愛される資格がなくなる」と無意識に思い込んでしまっています。
 ですから、失敗する度に、自分を責めたり、人から責められて、自信をなくしていきます。あるいは、失敗を他の人のせいにしたり、失敗した人をすぐに責めたくなってしまいます。失敗は良くないことだ、あってはならないことだと思い込んでいるのです。そして、ただ自分や人を責めるだけで、失敗から学ぼうとしないことが多いのですね。
 しかし、聖書の見方は違います。神様は、私たちが弱く、失敗しやすいものであることをよく御存じです。御存知の上で、私たちのありのままを愛してくださり、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言ってくださるのです。
 神様が求めておられるのは、私たちが何でも自分の力で完璧に行うことではありません。決して失敗しないようになることでもありません。むしろ、私たちが失敗を通して、自分のありのままの姿を知り、神様の恵みと導きが必要であることに気づき、神様の愛の中にとどまりながら神様と共に歩むことを願っておられるのです。そして、そのために、イエス様がいつも私たちのためにとりなし、祈ってくださっているのです。
 イエス様は、ペテロの裏切りを見て、態度を変えられたでしょうか。「イエス様のペテロに対する態度は冷たくなった」と聖書に書いてありますか。いいえ。イエス様は、なおもペテロに愛を示し続けておられました。イエス様は、私たちが失敗した時、責めるのではなく、赦し、いやし、学ばせ、新たな出発ができるように備えてくださるお方なのです。
 イエス様は、ペテロが三度もイエス様を否認することを初めから知っておられたので、あらかじめ、「ペテロよ。立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい、励ます者になりなさい」と言ってくださっていました。ペテロは、新しい歩みを始めるにあたって、そのイエス様の言葉を思い出し、大きな励ましを受けたことでしょう。しかも、イエス様は、言葉で語るだけではありませんでした。十字架にかかり、三日目に復活したイエス様は、ペテロがその言葉の通りに生きていくことができるように、支え、助け、力を与えてくださるのです。
 イエス様は、私たち一人一人にも同じようにしてくださいます。「私が失敗しても、私の価値は変わることはない。神様は、私を愛し続けてくださる」ということをいつも覚えていましょう。
 
A失敗によって実を結ぶ

 私たちは、失敗や挫折を通して様々な良い実を結ぶことができます。
 一つは、「謙遜」の実です。「謙遜」とはどういうことでしょうか。それは、自分を必要以上に低く見積もって自己卑下することではありません。「謙遜」とは、自分以上でも自分以下でもない、ありのままの自分を認めることです。それは、つまり、神様の見方で自分を見ることです。神様に造られ、神様の恵みの中に生かされている自分の姿を自覚しながら歩むことなのです。
 箴言18章12節に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」とあります。
 ここでは「高慢」と「謙遜」が対比されていますね。「高慢」とは、自分のありのままの姿が見えず、自分が何でもできると錯覚し、まわりのものがすべて自分中心に回っているかのように勘違いしてしまうことです。つまり、高慢は、自分が神のようになって、本当の神様を必要ないと思ってしまうことにつながります。愛といのちの源である神様との関係が破壊されてしまうのですね。ですから、高慢は破滅へと向かうのです。
 考えてみてください。もし、何をやってもすべてうまくいって、失敗も挫折もまったく経験しなかったら、その時、自分の姿がどうなっているか想像できますか。ちょっと怖いですね。
 でも、失敗や挫折は、自分の高慢を気づかせてくれます。
 ペテロも高慢な思いを持っていました。「人が何と言うようが、私は大丈夫。何があろうとイエス様に従っていける」と自負していました。「私はずっとイエス様の身近にいて、いろいろな奇跡を体験してきたから、他の人とはレベルが違う」と思い上がっていたかもしれません。しかし、ペテロは、言い訳ができないほど完全にイエス様を否定してしまうという大失敗を通して、それまでの高慢な思いが徹底的に打ち砕かれ、謙遜を学んだのです。自分の弱さを自覚し、その弱い自分を愛してくださる神様の愛の大きさを知り、その弱い自分を用いて素晴らしいみわざを現すことのできる神様の力をほめたたえることができるようになっていったのです。
 そこから、感謝と賛美の実が生まれてきます。謙遜のバロメーターは、感謝と賛美がどれだけ生活の中に実を結んでいるかということです。
 ペテロは、後に、手紙の中でこう記しています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」(第一ペテロ1章8ー9節)。ペテロは失敗を通して、謙遜を学び、イエス・キリストへの愛と信頼によって豊かな喜びを味わうことができるようになったのです。
 皆さん、失敗や挫折を経験したからといって、「私は、信仰が弱いから駄目だ」とか「信仰を持ち続けても無駄だ」などと思わないでください。ペテロでさえ失敗しました。でも、失敗によって豊かな実を結ぶことができたのですから。

Bキリストのまなざしが一人一人に注がれている

 イエス様は、一人一人に愛のまなざしを注いでおられます。福音書には、イエス様の愛のまなざしによって、救われた人々が数多く登場しています。生まれつきの盲人は目を開かれ、嫌われ者の取税人ザアカイは生き方が大きく変わりました。今日の箇所でもそうですが、イエス様は、御自分の身が危険にさらされているときでさえ、愛のまなざしを注ぎ続けられたのです。
 そのイエス様は、今日も私たち一人一人に愛のまなざしを向けておられます。失敗し、挫折感の中にある人がいますか。罪責感や恐れの中にある人がいますか。イエス様は、「大丈夫。わたしがあなたの罪を十字架で背負い、贖った。わたしと共に歩もう」と呼びかけてくださっているのです。
 私たちの人生には、後悔し泣き崩れるしかないときもあります。しかし、明けない夜はありません。イエス様の十字架の先には、復活の朝が訪れるのです。