城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年三月一〇日         関根弘興牧師
               ヨハネ一八章二八節〜四〇節
イエスの生涯51 
   「真理とは何か」

28 さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。29 そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」30 彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」31 そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」32 これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」34 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。(新改訳聖書)

 イエス様は、最後の晩餐の後、オリーブ山のゲッセマネの園に行って、十字架を前にした苦悩の祈りをなさいました。そして、父なる神のみこころに従って十字架にかかる覚悟をして立ち上がられたとき、ユダヤ当局から遣わされた兵士たちや役人たちに捕らえられました。
 四つの福音書の記事を総合すると、イエス様は、その後、十字架につけられるまでに、六回の審問をお受けになったことがわかります。最初に、当時の陰の実力者であった元大祭司アンナスの審問があり、次に、大祭司カヤパと議会の代表たちによる予備審問がありました。先週お話ししましたように、この予備審問の最中に、ペテロはイエス様を三度も否認してしまいました。しかも、三度目の否認の時には「イエスなど知らない」とのろいをかけて誓ったのです。これは、後戻りのできないイエス様への絶縁宣言のようなものでした。しかし、その時、イエス様が愛といつくしみのまなざしでペテロを見つめられました。そのまなざしを見たとき、ペテロはイエス様の言葉を思い出し、自分がとんでもないことをしてしまったことを激しく後悔し、外に出て号泣したのです。
 ところで、今日の箇所の直前の27節に、ペテロが三度目にイエス様を否んだときに「すぐ鶏が鳴いた」とありますね。マルコの福音書によると、その鳴き声は二番鶏のものでした。世の中にはいろいろな研究をする人がいるもので、「エルサレム近郊の鶏は何時頃鳴くのか」ということを十二年間も調べた人がいたそうです。それによると、一番鶏は夜中の一時半過ぎ、二番鶏はその一時間後に鳴くのだそうです。つまり、ペテロがイエス様を三度目に否んだのは、夜中の二時過から三時頃ということになりますね。
 さて、予備審問では「イエスは神を冒涜しているから死刑だ」という結論がまとめられました。そして、夜が明けるとすぐにユダヤ議会が招集され、予備審問の結論が承認されました。そして、イエス様は、当時その地方を支配していたローマ帝国に任命された総督ピラトのもとに送られたのです。28節に「時は明け方であった」と書かれていますね。この「明け方」と訳される言葉は、ローマ時間で午前三時から六時までを指します。イエス様は、早朝からピラトの審問を受けることになったのですね。
 ところで、ルカの福音書には、ピラトが審問の途中でイエス様をいったんガリラヤの国主であるヘロデ王のもとに送ったことが書かれています。イエス様がガリラヤ出身だと知ったピラトは、その時ちょうどエルサレムに来ていたヘロデ王にイエス様の審問をしてもらおうと思ったのです。しかし、イエス様はヘロデ王の質問にいっさいお答えにならなかったので、ヘロデはイエス様をピラトに送り返しました。今日読んだヨハネの福音書では、そのヘロデの記事は省略されています。
 では、今日の箇所を詳しく見ていきましょう。

1 神様の心を忘れてしまった人たち

 ローマ総督ピラトは、普段は海に面したカイザリヤという場所に住んでいましたが、過越の祭りの時には世界中から人々が集まってくるので、任務上、エルサレムに駐在していました。彼は、公然と賄賂をとるような男で、乱暴な性質だったと言われています。
 そんな彼のもとに、早朝、ユダヤ人のそうそうたるメンバーがイエス様を引き立てて、訴えにやって来ました。
 しかし、28節に、彼らは「汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった」と書かれていますね。彼らは、異邦人の家に入ると身が汚れると考えていました。身が汚れると、一年の中でも特に大切な行事である過越の食事に参加できません。ちょうど過越の祭りが始まる時だったので、彼らは、異邦人であるピラトの官邸に入ろうとせず、ピラトを官邸の外に呼び出したわけです。
 実は、旧約聖書の律法には、「異邦人の家に入ると汚れる」とは書かれていません。しかし、ユダヤ人たちは、旧約聖書の律法を拡大解釈して、勝手に細かい規則をたくさん作り、それを守らなければならないと決めていたのです。
 しかし、考えてみてください。彼らは、イエス様を訴えるために偽の証人を立てたり、何としてもイエス様を殺そうとしているわけです。それは、聖書の「偽証してはならない」「殺してはならない」という大切な戒めに明らかに違反することですね。彼らは、最も大切な神様の戒めを堂々と破りながら、その一方で、人間が作ったにすぎない伝統や言い伝えを一生懸命守ろうとしていました。神様の心を知ろうとせず、ただ表面的な戒律を守ることばかりに熱心だったです。
 そんな彼らを、イエス様は、「偽善の律法学者、パリサイ人たち」と批判なさっていました。
 また、旧約聖書のミカ書6章8節で、表面的な戒めを守ることばかりに気を取られて神様のみこころを無視した生活を送っている人々に対して、神様は、こう言っておられます。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」しかし、彼らは、この有名な聖書の言葉の意味をまったく理解していなかったのです。

2 なぜピラトのもとに行ったのか

 ところで、彼らがイエス様を憎んでいたのは、イエス様がご自分を神の子、救い主であると言い、ユダヤ教の伝統的な教えに背き、神を冒涜していると思ったからです。あくまでも宗教的な問題ですね。
 当時ユダヤは、ローマ帝国の属国でしたから、ユダヤ人たちは自分たちで死刑を行う権限をもっていませんでした。しかし、例外がありました。宗教的なことに関しては、自分たちで裁判を行い、石打ちで死刑執行する権利が与えられていたのです。
 たとえば、神殿の中には、異邦人が入ってはいけない場所がありました。もしそこに異邦人が入り込んだら、死刑にすることが認められていたのです。その他、神を冒涜する者、偽預言者、偶像礼拝をそそのかす者、姦通した者などは、ユダヤ当局自らが石打ちの刑で処刑することが出来ました。
 『使徒の働き』の中で、ステパノが石で打ち殺されましたね。ステパノが「イエス様は神の子、救い主です」と大胆に宣べ伝えていたので、それが神様への冒涜、人心攪乱の罪にあたると見なされ、ユダヤ当局の許可のもと死刑にされたのです。
 イエス様御自身も、8章59節にあるように、「神を冒涜する者」として石打ちにされそうになったことがありましたね。
 ですから、イエス様がピラトのもとに連れてこられたとき、ピラトは彼らに、「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい」と言ったわけです。つまり、「あなたがたの宗教的な問題なのだから、あなたがたが勝手に裁判し、処刑すればいいではないか。私の手を煩わせるな」というわけです。
 ところが、彼らは、イエス様を石打ちにせず、わざわざピラトのもとに連れて行きました。そして、ピラトに「あなたがたが自分たちの律法に従ってさばきなさい」と言われると、「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません」と答えたのです。つまり、「これは、宗教的な問題なのではありません。このイエスは、ローマ政府が死刑にすべき罪を犯したです」と言い張ったのです。
 彼らがなぜイエス様を石打にすることで満足せず、ローマ政府の行う十字架刑で死刑にしてもらうことを望んだのでしょうか。聖書には理由が書かれていないので、はっきりわかりませんが、彼らは、ただ石で打ち殺すだけでは気が済まない、もっとむごたらしい十字架刑がいいと思ったのかもしれません。旧約聖書に「木につるされた者は、神にのろわれた者である」と書かれているので、イエスを十字架につければ、神にのろわれた者ということになって、イエスに従う者など誰もいなくなるだろうと考えたのかもしれません。あるいは、イエス様は民衆から人気がありましたから、「もし自分たちが死刑を執行すると民衆の怒りを買うかもしれない。だから、死刑はローマ政府に任せたい」と思っていたのかも知れません。ともかく、彼らは、イエス様を石打ちにするのではなく、十字架につけることを望んだのです。
 彼らは身勝手な動機からそう望みました。しかし、それが神様の御計画を実現するものになっていったのです。32節に「これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった」と書かれていますね。イエス様は、ご自分が十字架について死ぬことになるということを、以前からたびたび予告しておられたのです。
 たとえば、ヨハネの福音書3章13節ー15節では、ニコデモに対してこう言われました。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
 この「モーセが荒野で蛇を上げた」という出来事は、旧約聖書の民数記21章に記されています。モーセに率いられてエジプトを脱出し、荒野を旅していたイスラエルの民は、神様に逆らったために、毒蛇にかまれ、次々と死んでいきました。モーセが神様に祈ると、神様は、「青銅で蛇を作り、旗ざおの上につけて掲げなさい。そして、『その蛇を仰ぎ見る者は生きる』と民に告げなさい」と言われたのです。蛇の毒に苦しんでいた人々のうち、モーセの言葉どおりに青銅の蛇を仰ぎ見た者は、毒が消えて、いのちが救われました。それは、どう考えても理屈では理解できないことですね。しかし、神の言葉を信じて、青銅の蛇を仰ぎ見た者は、実際に生きたのです。これは、旧約の大変有名な話です。
 イエス様は、それと同じように「人の子もまた上げられなければなりません」と言われました。それは、イエス様がすべての人の罪を背負って十字架につけられなければならないことを意味していました。旗ざおにつけられた蛇を仰ぎ見た者が生きたように、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る者は、誰でも救われ、永遠のいのちを持つことができるようになるのです。
 また、マタイ20章18節ー19節では、イエス様は弟子たちにこう予告なさいました。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
 ユダヤ当局は、自分勝手な理由でイエス様をピラトに引き渡したのですが、その背後に神様のご計画が進められていたわけですね。

3 ピラトの問い

 さて、ピラトは、ユダヤ人たちから無理矢理イエス様を押しつけられたわけですが、自分が裁判を行うとなると、ローマ法に照らし合わせて判断をする必要に迫られました。そこで、33節からイエス様に尋問を始めたわけです。

@ユダヤ人の王か

 まず、ピラトはイエス様に「あなたは、ユダヤ人の王か」と問いました。もし、イエス様がご自分をユダヤ人の王だと主張するなら、ローマ皇帝に対する反逆罪で即刻死刑ということになります。
 ところが、イエス様は、「わたしは王であるけれども、わたしの国はこの世のものではありません」と言われたのです。ピラトは、困ってしまいました。「この世の王だ」と言えば、即刻死刑判決が出せるのですが、「わたしの国はこの世のものではない」と言われたら、ローマ法は適用できないわけですね。
 では、イエス様が「わたしの国はこの世のものではありません」と言われたのは、どういう意味でしょうか。それは、イエス様が成し遂げられる救いやイエス様の支配は、この世の武力や経済力や知恵によってもたらされるものではないということなのです。
 イエス様は、37節でこう言われました。「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」つまり、イエス様の国とは、イエス様が真理をあかしし、その真理に人々が聞き従うことによって進展していくものなのだ、と言われたのです。

A真理とは何か

 ピラトは、イエス様の言葉に戸惑いを覚えたことでしょう。彼の頭には、国を進展させるためには、絶大な軍事力と経済力と指導力が必要だということしかなかったでしょう。しかし、今、目の前にいるイエスという人物が、「自分は王であり、真理によって自分の国を進展させる」と言っているのです。そこで、「真理とは何ですか」という問いが生まれたわけです。
 それでは、イエス様がここで言われる「真理」とは何でしょう。
 ヨハネ1章14節で、ヨハネは、イエス様について「この方は恵みとまことに満ちておられた」と説明していますが、この「まこと」と訳された言葉は、今日の箇所の「真理」と同じ言葉です。また、イエス様御自身も「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と言われましたね。
 ですから、「真理」とはイエス様御自身であり、イエス様が生涯を通して証しされる一つ一つのことが真理そのものなのです。イエス様こそ真理に満ちあふれた方なのですね。
 ヨハネ8章32節には、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とあります。イエス様を知ることによって、私たちは罪と死の束縛から解放されて自由になることができるのです。
 また、パウロは、エペソ1章13節に「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました」と記しています。イエス様は、真理のことばを語ってくださいます。それは、私たちにとって救いの福音です。神のひとり子なる方が人となって来てくださり、私たちの罪を背負って私たちの代わりに十字架について神にのろわれた者となってくださいました。それによって、私たちは罪を赦され、聖霊が与えられ、永遠のいのちに生かされながら神様とともに歩むことが出来るようになったのです。そして、イエス様は、イエス様を信じる人々の王として永遠の王座についてくださるのです。
 イエス様は、その生涯を通して、そして、十字架への道を通して、真理とは何か、ということをはっきりと明らかしてくださいました。パウロは、第一コリント1章18節でこう言っています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」また、ガラテヤ6章14節では、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言っています。十字架につけられることは、のろいの象徴です。しかし、そこに神様の愛と赦し、あふれるばかりの救いの真実が示されているのです。
 しかし、残念ながらピラトは、イエス様の真理の中身を聞こうとしませんでした。「真理とは何か」の問いに対するイエス様の答えを待たずに外に出て行ってしまったのです。このまま真理についての話を聞き続けたら、それに対してどういう態度をとるか決断を迫られるのではないかと無意識に恐れていたのかもしれません。しかし、もし彼がイエス様の前にとどまり、まじめに真理の意味を理解しようとしたなら、目の前にいる方こそ、真理なる方であることを知ることが出来たことでしょう。

4 バラバを赦せ

 さて、ピラトは、ユダヤ人たちのところに出て行って、「私は、あの人には罪を認めません」と言いました。ローマ法で有罪にすることはできないということですね。そして、ピラトは、過越の祭りにイエスを釈放するのがいいのではないかと提案しました。しかし、人々は「バラバを釈放しろ」と声を上げたのです。このバラバという男は、都で暴動を起こした有名な強盗で、近いうちに死刑になるはずでした。しかし、ピラトは、人々の声に押されて、バラバを釈放し、イエス様を十字架刑に処すことを決定します。バラバは、突然呼び出され、何がなんだかわからないうちに、手かせ足かせをはずされ、まったく自由の身になったのです。
 この出来事は、イエス様が身代わりになってくださることによって、赦しがもたらされるということを象徴的に表すものとなりました。考えてみれば、私たちはみなバラバのような者だったかも知れませんね。しかし、今、イエス様の身代わりの十字架によって赦され、自由にされているのです。
 イエス様は、37節で「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と言われました。今日、私たち一人一人が、真理に属する者、イエス様に属する者とされていることをあらためて感謝しようではありませんか。そして、赦され、様々な束縛から自由にされ、生かされていることを喜び感謝しながら歩んでいきましょう。