城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年三月一七日         関根弘興牧師
                ヨハネ一九章一節〜一六節
イエスの生涯52 
   「見よ、この人を」

 1 そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。(新改訳聖書)


 今までイエス様の生涯を学んできましたが、いよいよイエス様が十字架につけられる時が近づいてきました。
 前回の内容を少し振り返ってみますと、イエスは、捕らえられ、大祭司やユダヤ議会による審問をお受けになりました。そして、ユダヤ議会は「イエスは神を冒涜しているから死刑にあたる」という結論を出しました。
 当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありましたから、死刑執行の権利はありませんでした。しかし、例外があって、自分たちの宗教に関する問題の場合は死刑が認められていたのです。たとえば、神殿内の異邦人立入禁止の場所に入り込んだ異邦人、神を冒涜する者、偽預言者、偶像礼拝をそそのかす者、姦通した者などは、宗教上の罪を犯した者として、ユダヤ当局自らが「石打ちの刑」で死刑にすることができました。ですから、イエス様も、神を冒涜した罪で自分たちで石打ちにすることができたはずです。
 ところが、彼らはイエス様をローマ総督ピラトのもとに連れて行って訴えました。つまり、「イエスは、宗教的な罪ではなく、ローマ政府が死刑にすべき罪を犯したのだ」と言い張ったのです。そして、ローマ帝国が行っている最もむごたらしい処刑方法である十字架刑を願いました。彼らが十字架刑を願った理由は聖書には書かれていないのですが、自分たちが死刑を執行すると、イエス様を預言者だと思っている民衆の怒りを買うことを恐れたのかもしれませんし、聖書に「木につけられた者は神にのろわれている」という言葉があるので、イエス様を十字架刑にすることによって、イエス様が神にのろわれた者だということをはっきり示したいと思ったからかもしれません。
 しかし、私たちの代わりにイエス様が十字架にかかって神にのろわれた者になってくださることは、神様の御計画であり、イエス様御自身が自覚しておられる使命でした。ユダヤ人たちは、自分勝手な思いでイエス様を十字架につけて抹殺したいと願ったわけですが、それが、かえって、神様のご計画を成就させていくことになったのだと、聖書は教えているわけです。  さて、今日は、ローマ総督ピラトがイエス様に対して最終的にどんな判決を下したかが記されている箇所です。

1 裁判の時間

 まず、時間の問題について整理しておきましょう。
 14節には、ピラトが裁判の席についたのは「第六時ごろであった」と記されていますね。ヨハネの福音書には、時間についての記述がたくさんありますが、この「第六時」というのは、日の出から六時間後という意味で、普通は昼の十二時頃を指します。
 そう聞くと、福音書をよく読んでおられる方は疑問に思われるかもしれませんね。マルコの福音書には、イエス様が十字架につけられたのは「午前九時」であったと書かれているからです。この「午前九時」と訳されている言葉は、原文では「第三時」となっています。裁判が第六時ごろで、十字架刑が第三時では、順序が逆になってしまいますね。どういうことでしょうか。
 学者の中には、ヨハネの福音書は他の福音書とは異なる時刻の方式を使っていると考える人もいます。では、他の福音書と同じ方式を使っているとすると、どうでしょうか。
 実は、当時の時間の感覚は、今の私たちの一分一秒の狂いもない正確さを求めるようなものではありません。今は、時計がありますから正確に時を知ることが出来ますが、当時は、太陽の位置を見ながら大まかな時間を知るわけです。ですから、「第六時ごろ」という表現は、「昼の十二時頃」という意味で使われることもあれば、「午前九時から昼の十二時までの三時間ぐらいの範囲」という大まかな意味でも使われることもありました。ですから、ヨハネが裁判の判決が「午前九時から昼の十二時ぐらいまでの間」と書き、マルコが十字架に付けられたのが「午前九時」だと書いていても、当時としては大きな違いはなかったのかもしれません。
 その他に、マルコはイエス様がむち打たれた時がすでに十字架刑の始まりだと見ているのではないかとも考えられます。なぜなら、十字架刑を執行する時には、十字架につける前にむち打ちを行う慣例があったからです。そうすると、午前九時頃に刑の執行が開始され、まずむち打ちが行われ、その後、イエス様が十字架を背負って処刑場に連れて行かれたとも考えられるわけです。

2 ピラトの葛藤

さて、総督ピラトは、イエス様を取り調べましたが、ローマ法に照らし合わせてもイエス様を死刑にする罪を見つけることが出来ませんでした。ですから、彼は、前回の18章38節と今回の19章4節と6節で、「この人には罪が認められない」と三回も言っています。ここで彼が言っている「罪」という言葉は、「犯罪」という意味ではなく、「理由、原因、責任」という意味の言葉です。つまり、ピラトは、「死刑に当たるような理由や原因や責任はイエスの中に見あたらない」と宣告したのです。
 また、マタイの福音書27章18節-19節には、こう書かれています。「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。『あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。』」しかも、イエス様は、前回の箇所で、「わたしはこの世のものではない国の王です。わたしは真理のあかしをするためにこの世に来たのです」と毅然と言っておられましたね。それで、ピラトは、イエス様に普通の人とは違う何かを感じたのでしょう。有罪判決を下すことをためらい、何とかして釈放できないかと頭をしぼりました。

@恩赦

 まず、ピラトが思いついたのは、恩赦という方法です。先週お話ししましたように、過越の祭りには囚人を一人赦免する習慣があったので、ピラトは「バラバとイエスとどちらを釈放してほしいのか」と集まっていた群衆に問いかけました。バラバは有名な凶悪犯ですから、人々はバラバよりはイエスの釈放を願うだろうと、ピラトは予想していたのでしょう。ところが、マタイ27章20節には「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた」と書かれています。その結果、群衆は「バラバを釈放しろ」と叫び始めたのです。ピラトの思惑とは逆の結果になってしまいました。

A見せしめ

 そこで、ピラトが次に取った方法は、今日の箇所の1節に書かれているように、イエス様を痛めつけ、その惨めな姿を群衆に見せつけることでした。救い主と言っている男の威厳をズタズタにしてしまえば、ユダヤ人たちも満足して無理な要求を引っ込めるのではないかと考えたのです。そこで、兵士たちに命じてイエス様をむちで打たせました。
 当時ローマの法律で定められた「むち打ちの刑」は、容赦のない残忍なのものでした。官邸の中庭に二メートルほどの像が立っているのですが、罪人の手を引っ張ってその像をしっかり抱かせます。すると、罪人の背中はぴんと張るわけです。その背中を二人の兵士が力まかせにむちで打ちます。むちの先には、鉛や青銅や先のとがった骨が結びつけられていました。そのむちで力まかせに打つのですから、肉がえぐり取られた背中は、まるでザクロが割れたような状態になっていくのです。下級ローマ兵の楽しみは、囚人を痛めつけることだったと言われます。彼らは血に飢えていました。イエス様は、残忍な彼らに容赦なくむち打たれたのです。そして、彼らは、「お前は王様だろう」と言って、いばらで編んだ冠をイエス様の頭にかぶせました。そのいばらはのとげは、爪楊枝ぐらいもある長いものです。そのとげがイエス様の頭に刺さり、血が流れ出てきました。そして、彼らは、イエス様に紫色の着物を着せ、「ユダヤ人の王様、ばんざい!」とあざけったのです。
 このようにむち打たれ、血だらけになり、いばらの冠をかぶせられ、紫色の着物を着せられた惨めで滑稽なイエス様の姿を見れば、ユダヤ人たちも気が収まるだろうとピラトは考えました。そこで、群衆の前にイエス様を連れ出し、「さあ、この人です」と言ったのです。
 しかし、彼らは、イエス様の無残な姿を見ても、静まるどころか、「十字架につけろ。十字架につけろ」と激しく叫び始めたのです。

3 判決

 ピラトは、仕方なく、再びイエス様を連れて官邸の中に入りました。彼は、ユダヤ人たちが「この人は自分を神の子だと言っている」と訴えるのを聞いて、ますます恐れを感じていました。そこで、イエス様に「あなたはどこの人ですか」と問うと、イエス様は何もお答えになりませんでした。ピラトがイエス様の言葉を真剣に聞こうとしていないことを見抜いておられたのでしょう。また、ピラトが「私には、あなたを釈放するか十字架につけるか決定する権威があるのを知らないのか」と恫喝すると、イエス様は、「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません」と一蹴されました。
 その間にも、外にいるユダヤ人たちの叫びはますます激しくなっていきました。そして、彼らは、ピラトのいちばん痛いところを突き始めました。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです」と叫び始めたのです。つまり、「イエスは、自分を王だと言ってローマ皇帝カイザルにそむいている。そのイエスを釈放するなら、あなたもカイザルにそむくことになるぞ」と叫んでいるわけです。それを聞いたピラトは、イエス様と自分の保身を天秤にかけたことでしょう。そして、自分をこの世のものでない国の王だとか救い主だとかいっている男のために、人生を棒に振るようなことは出来ないと考えました。結論はすぐに出たのです。
 ピラトは、イエス様を再び外に引き出して、敷石(ガバタ)と呼ばれる場所で裁判の席に着きました。これは、これまで行われてきた裁判が結審して、裁判官であるピラトがいよいよ判決を言い渡すために席に着いたということでしょう。
 しかし、ピラトは、この場に及んでも十字架刑を言い渡すことを渋っていたようです。
 マタイの福音書には、この時、ピラトは群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、こう言ったと書かれています。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」と。「私は、この人を十字架につける責任を負わないが、あなたたちが自分たちで勝手に死刑にすればよい」というわけです。すると、ユダヤ人たちは、なんと、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」とまで言って、十字架刑を要求し続けたのです。
 また、今日の箇所の15節では、ピラトが「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか」と聞くと、祭司長たちは「カイザルのほかには、私たちに王はありません」と答えていますね。彼らは、イエス様を抹殺したいという激情に駆られて、「神様だけが私たちの王です」という大切な信仰告白さえ捨ててしまったのです。
 そこで、ついに、ピラトは、彼らの圧力に屈し、「イエスを十字架刑に処す」という判決を言い渡してしまったのです。

4 「見よ、この人を」

 さて、今日の箇所は、真理であるイエス様に真剣に向き合おうとしなかったピラトの発した言葉が、奇しくも預言的な意味を持っていたことを教えています。
 ピラトはイエス様をむち打ちにし、群衆の前に引き出して、「さあ、この人です」と言いましたね。これは、ラテン語では「エッケ・ホモ(見よ、この人を)」と訳されています。
 美術が好きな方は、「エッケ・ホモ」という言葉を聞いたことがあると思います。キリスト教絵画の中で、いばらの冠をかぶせられて裁判を受けているイエス様の痛々しい姿を描いた作品を「エッケ・ホモ」と呼ぶのです。
 それから、ピラトは、「この人には何の罪も見いだせない。罪に定める理由がない」と何度も言っています。また、14節では、「さあ、あなたがたの王です」とも言っていますね。
 ピラトは、どの言葉も特別に何も考えずに言ったのでしょう。「見よ、この人を」と言ったときも、憐れな惨めな奴だとしか考えていなかったことでしょう。
 しかし、これらの言葉は、図らずも、聖書が教える大切な「真理」を表していたのです。つまり、「イエス様は、まったく罪を見いだすことが出来ない方であり、あなたがたの王だ。このイエスを見なさい」ということです。
 聖書は、「十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る者は、誰でも救われる」と教えています。つまり、「見よ、この人を」という言葉は、聖書の教えの神髄なのです。
 讃美歌一二一番は、由木康牧師が作ったもので、「エッケ・ホモ(この人を見よ)」という題がつけられています。

まぶねの中に産声上げ たくみの家に人となりて
貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ

食するひまも うち忘れて、虐げられし人をたずね
友なきものの友となりて 心くだきし この人を見よ

すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで
十字架の上にあげられつつ、敵を赦しし この人を見よ

この人を見よ この人にぞ こよなき愛は現れたる
この人を見よ この人こそ 人となりたる活ける神なれ

 イエス様を見るとき、何を知ることが出来るでしょうか。
 ヨハネ1章14節には、こう書かれています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 また、第一ヨハネ1章1節ー2節には、こう書かれています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、ーーーこのいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」
 イエス様は、目に見えない神様がどのような方かを示すために、私たちが見ることのできる姿で来てくださいました。イエス様を見るとき、私たちは、神様の栄光を見、恵みとまことに満ちた姿を見、永遠のいのちを豊かに与えてくださる方を知ることができるのです。
 残念ながら、ユダヤ当局者たちは、「見よ、この人を」と言われても、「この男は見るに値しない男で、葬り去られるべき男だ」としか思いませんでした。
 しかし、私たちは、私たちの罪をすべて背負ってむち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、十字架につけられたイエス様の真実の姿を見続けていきましょう。このイエス様を通して、あふれる恵みといのちが注がれているからです。
 ピラトは、「この人には何の罪を見いだせない」と三度も宣告しています。先ほども言いましたが、ここで使われている罪と訳された言葉は「理由、原因、責任」という言葉です。イエス様が十字架につけられる理由も原因も責任も見いだせないとピラトは言ったのですね。
 その同じ言葉が、ヘブル5章8節ー9節ではこう使われています。「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり・・・。」この「救いの源」の「源」と訳されて部分に同じ言葉が使われているのです。つまり、「イエス・キリストは、十字架につけられることによって、御自分に従うすべての人の永遠の救いの原因、理由、責任となっている」ということなのです。
 パウロは、第二コリント5章21節で、こう書いています。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
 イエス様こそ救いを与える源であり、救いを与える責任者となってくださった方です。私たちは、ただこのイエス様を見上げることによって生きることができるのです。