城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年三月三一日         関根弘興牧師
                 ルカ二三章三三節〜四三節
イエスの生涯54 
   「十字架上の七つのことば」

33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(新改訳聖書)


 前回は、イエス様が十字架刑を言い渡され、むち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、ゴルゴタという処刑場まで引いて行かれ、そして、とうとう十字架につけられたところまでを見ましたね。
 十字架刑は、両手両足を釘で打ち付けられ、死ぬまで苦しみもだえなければならない残酷な刑です。しかし、不思議なことに、四つの福音書のどれも、イエス様が十字架につけられたときの様子は、ごく短く淡々と記しているだけです。イエス様が十字架上で激しい痛みに苦しんでおられる様子をこれでもかと言わんばかりに記述するようなことはしていないのです。
 それは、福音書がイエス様こそ旧約聖書で預言された正真正銘の救い主であることを示すという目的のために書かれているからです。ですから、イエス様の十字架上の苦しみをこと細かに記すのではなく、イエス様が十字架につけられるときに起こった様々な出来事の中から、旧約聖書の預言と一致するものを選んで書き記しているのです。
 私たちは、十字架の記事を読むときに、ただイエス様が苦しまれたことに心痛めて終わるのではなく、イエス様こそまことの救い主であるということを認め、受け入れていくことが大切なのです。
 前回のマルコの福音書では、イエス様を十字架につけた兵士たちや十字架を眺めている人々の無自覚な行動の中に、旧約聖書の救い主に関する預言が成就していることが示されていました。今回のルカの福音書にも同様のことが記されていますので、復習しておきましょう。

@兵士たちが酸いぶどう酒を差し出した

まず、36節に「兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出した」とありますね。これは、詩篇69篇21節の「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」という預言が成就したことを示しています。この詩篇69篇は、神様に信頼する詩人が、身内の者に裏切られた苦痛を歌った詩で、後に、救い主の苦難を預言したものとして読まれていました。旧約聖書を知っている人なら誰でも知っている預言で、それがイエス様の十字架において成就したのです。

A兵士たちがくじを引いて、イエスの着物を分けた。

 それから、34節に「彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた」とありますね。詩篇22篇18節に「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」とありますが、その通りのことがイエス様の十字架において起こったのです。

B人々の罵倒

 それから、当時の指導者たち、兵士たち、そしてイエス様の隣の十字架につけられた犯罪人の一人が「あなたはキリストではないか。自分を救ってみろ」と罵声を浴びせかけましたが、実は、こうした嘲りの声も、旧約聖書の預言の成就だったと聖書は教えています。詩篇22篇7節-8節の「私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。『主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。』」という言葉の通りのことが起こったのです。

 このように、聖書は、救い主がどのような苦難を味わわなければならないかということがあらかじめ預言されていたこと、そして、その預言がすべてイエス様において成就したことを私たちに示しています。なぜ救い主が苦しめられ、あざけられなければならないのでしょうか。それは、私たちの身代わりになって罪の問題を解決し、救いをもたらすためでした。もし、イエス様が自分自身を救うために十字架から降りてしまったら、私たちに救いはありません。イエス様は、十字架の苦しみから自分自身を救う力を持っておられましたが、そうはされませんでした。私たちを救おうとする愛のゆえに、イエス様は十字架にとどまることを選ばれたのです。
 そして、イエス様は、十字架上で七つのことばを発せられました。今日と次回の二回にわたって、その七つのことばを一つ一つ見ていくことにしましょう。

1 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

イエス様が十字架上でお語りになった最初の言葉は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というとりなしの祈りの言葉でした。
 ローマ兵たちは、イエス様をむち打ち、あざけり、十字架につけ、イエス様の着物をくじ引きで分け合いました。ユダヤの指導者や宗教家たちは、憎しみとねたみに燃えてイエス様を十字架刑に引き渡し、してやったりと思っていたでしょう。また、群衆は、最初はイエス様を大歓迎して「ホザナ」と叫んでいたのに、風向きが変わると「イエスを十字架につけろ」と叫んだり、あざけったりしたのです。イエス様は、そんな彼らのために「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。のろいではなく、赦しを願われたのです。
 ところで、日本語で「ゆるす」という漢字は二つありますね。「許可する」の「許」と、「恩赦」の「赦」です。
 「許す」というのは、「許可する」と同じですね。条件さえそろえば許されるわけです。いろいろな手続きをするとき、書類がきちんとそろっていれば、許されますね。
 一方、「恩赦」の「赦」は、赦してはいけないものを特別に赦すという時に使われます。
 罪は、本来、赦されることがないものです。たとえば、おまわりさんが、「泥棒しても赦しましょう。人を殺しても赦しましょう」と言ったら、どうなりますか。無法地帯になり、混乱するだけですね。
 神様は、正義の神様ですから、どんな小さな罪も赦すことはなさいません。しかし、神様は私たちを愛しておられるので、御子イエス様を送ってくださいました。そして、罪のないイエス様が私たちの身代わりとなって十字架にかかり、罪の罰をすべて受けてくださったことによって、私たちの罪が赦される道が開かれたのです。
 イエス様は、「あなたの罪は赦されました」と大胆に宣言することがおできになりますが、その背後には、「わたしがあなたの罪の罰を引き受けるからだ」という意味が込められているのです。そして、イエス様の「父よ。彼らをお赦しください」と祈りは、「わたしのこの十字架に免じて彼らをお赦しください」という祈りなのです。
私は、このイエス様の祈りのことばを読むたびに、ある牧師のことを思い出します。それは、国立駿河療養所の中にある神山教会の工藤清牧師です。工藤牧師は、以前、この教会に来てくださったことがありますが、若くして両親を亡くし、それに加えて十代の後半からハンセン病を病み、自暴自棄になって何度も自殺未遂を重ねました。しかし、死にきれずにいたときに、聖書に出会ったそうです。彼は「愛なんて、絵空事だ」と考えていたそうです。自分がハンセン病を患った後、友達も親戚も手紙の一通もくれなかった、愛などあるはずがないと考えていたのです。しかし、聖書を開いてキリストの十字架の記事を初めて読んだとき、こう思ったそうです。「キリストは何も悪いことをしていないのに十字架につけられた。それなのに、ローマ兵たちに、『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』と語った。この人こそ、まことの愛の持ち主だ。救い主でなければ、こんな愛は持ち得ない」と。そして、聖書を読み進めていくうちに、イエス様のその言葉が、十字架のまわりにいた人たちだけに語られたのではなく、自分自身にも語られているのだと知ったのです。「こんな罪深い者のためにキリストが身代わりに十字架についてくださった。そして、自分の罪を赦し、この肉体が朽ちても変わることのない永遠のいのちを与えてくださる」、それを知って、工藤牧師の人生は百八十度変えられていったのです。
 皆さん、十字架は、イエス様の赦しの祈りから始まります。そして、イエス様は、私たちに対しても、「わたしは、あなたの罪を背負ったのだ。だから、あなたは赦されている」と語っておられるのです。

2 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 さて、イエス様の十字架の両側には、二人の犯罪人が十字架につけられていました。その一人が、イエス様に向かって、「おまえはキリストではないか。自分と俺たちを救え」とわめきちらしていました。しかし、もう一人は、この極限の状況の中で、彼をたしなめて、こう言いました。「おまえは、神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは自分のしたことの報いを受けているのだからあたり前だ。だかこの方は悪いことは何もしなかったのだ。」そして、イエス様に向かって「イエス様、あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と告白しました。すると、イエス様は「まことにあなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と約束されたのです。
 この犯罪人は、それまで、神を畏れることなどなかったでしょう。犯罪の限りを尽くし、その罪の報いとして、極刑である十字架刑に処せられました。「これで俺も終わりだ。ああ、なんと虚しい惨めな人生だったことか」と考えたかもしれません。 しかし、そんな絶望と極度の苦痛の中で、彼は間近にイエス様の姿を見ました。イエス様は、不当な処罰を受けているのに、自分の不運を嘆いたり愚痴や不平を口にすることはありませんでした。罵声を浴びせられても人々を呪うことをしませんでした。それどころか、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈っておられるではありませんか。
 彼は、今まで出会ったことのない方がすぐ傍らにおられることを知りました。「この方は、普通の人ではない」と感じたのです。そして、希望がわいてきました。この方こそ神の国の王になる方だと信じたのです。そこで、「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と願い求めました。
 皆さん、不思議だと思いませんか。どうしてこの犯罪人は、イエス様が「御国の位に着くお方だ」とわかったのでしょう。十字架はのろいの場所です。それなのに、彼は、イエス様が御国の位に着くお方、つまり、王の王なるお方であることを告白したのです。彼は、それまで宗教的な生活をしてきたわけではありません。礼拝をささげ、熱心に奉仕することもなかったでしょう。それどころか、十字架という極刑を受けるような犯罪を犯してしまい、自分で犯したことの償いの機会もなかったことでしょう。しかし、彼がただイエス様を見たとき、このイエス様こそ、永遠の救いを与えてくださるお方だと知ったのです。
 イエス様の両側で十字架についた二人の犯罪人の姿は対象的です。一人は、自分の罪を認めず、人を呪い、イエス様に向かって「自分を救って、俺も救え」と叫び散らしていました。どんな刑罰を受けても自分の内側の罪を認めようとしない姿です。しかし、もう一人は、「自分は本当に罪人だ。十字架につけられて当然だ」と自分の罪を悔いていました。自分で自分を救うことはできない、だからイエス様にすべての希望を託して、「あなたは御国の位につく方です。私を救ってください」と告白し、イエス様の救いの約束の言葉を聞くことができたのです。この犯罪人こそ、イエス様の十字架の恵みを最初に味わった人物だと言えるでしょう。
 「もっと立派にならなければクリスチャンになれない」と考えてしまう方がいます。「もっと一生懸命何かをしなければクリスチャンになれない」「聖書をもっと知らないとクリスチャンになれない」「もっと礼拝に出て熱心になれならければクリスチャンなれない」、そんなふうに考える人もいます。
 しかし、十字架につけられた犯罪人は、何もすることができませんでした。ただ自分の罪を認めて、イエス様を信じ、イエス様に救いを求めました。それこそ、私たちの信仰のあるべき姿なのです。
 イエス様を心から求める者はだれでも、イエス様があふれるばかりの恵みを満たしてくださる、それが福音の本質です。この犯罪人は、自分の犯罪のためにローマ法に従って十字架刑で死にました。しかし、イエス様の十字架のゆえに、罪赦され、正しい神様との関係を回復し、天のみ国へ入ることができたのです。彼は自分の十字架によって死にましたが、イエス様の十字架によって罪赦され、永遠の救いを受けることができたのです。
 イエス様は、私たち一人一人のためにも十字架についてくださいました。私たちがそのことをただ信じ受け入れるとき、イエス様は一方的な恵みによって、赦しと救いと永遠のいのちを与えてくださるのです。
 エペソ2章8節ー9節には、こう書かれています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」