城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年四月七日          関根弘興牧師
                ヨハネ一九章二三節〜三〇節
イエスの生涯55 
  「十字架上の七つのことば 2」

23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(新改訳聖書)


イエス様は、当時、最も極悪な犯罪人を処刑する道具であった十字架につけられました。
 イエス様が十字架につけられた場所は「ゴルゴタ」という場所でした。「ゴルゴタ」とは「どくろ」という意味で、ラテン語では「カルヴァリアCalvaria」、英語では「カルバリCalvary」と言います。ゴルゴタには、三本の十字架が立てられました。真ん中にイエス様、そして、その両脇に極悪な犯罪人がつけられたのです。
 イエス様は、その十字架の上で、七つの言葉を発せられました。前回は、ルカ23章に記録されている最初の二つの言葉について御一緒に考えましたね。次のような言葉でした。

1 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

イエス様が十字架上でお語りになった最初の言葉は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」というとりなしの祈りの言葉でした。皆さん、イエス様の十字架上の言葉は、赦しの祈りから始まりました。それは、当時のイエス様を十字架につけた人々のためだけでなく、私たちのための祈りでもありました。イエス様は、私たちに対しても、「わたしは、あなたの罪を背負った。だから、あなたは赦されている」と言ってくださるのです。

2 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 イエス様の十字架の両側には、二人の犯罪人が十字架につけられていました。その一人が、イエス様に向かって、「おまえはキリストではないか。自分と俺たちを救え」とわめきちらしました。しかし、もう一人は、この極限の状況の中で、彼をたしなめて、こう言いました。「おまえは、神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは自分のしたことの報いを受けているのだからあたり前だ。だかこの方は悪いことは何もしなかったのだ。」そして、イエス様に向かって「イエス様、あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と告白しました。すると、イエス様は「まことにあなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と約束されたのです。
 この十字架につけられた犯罪人は、救いを受けるために自分の力では何もすることができませんでした。ただ、「イエス様こそ永遠の御国へと導いてくださる方である」と告白することしかできませんでした。しかし、その告白によって、イエス様は、彼に永遠のみ国の住まいを約束されたのです。
 私たちもこの犯罪人と同じです。自分の力で何かをして救いを受けることは決してできません。ただ、イエス様を救い主として告白し信頼するときに、罪の赦しと永遠のいのちを受けることができるのです。救いは、行いによるのではなく、ただ、イエス・キリストが十字架で成し遂げてくださった贖いの恵みによるのです。

 さて、今日は、残りの三番目から七番目までのイエス様の言葉を見ていきましょう。

3 「女の方。そこに、あなたの息子がいます」「そこに、あなたの母がいます」(ヨハネ19・26ー27)

25節に「イエス様の十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた」と四人の女性が紹介されていますね。
 マタイ27章56節では、十字架のそばに「マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた」とと、母マリヤを除いた三人が記録されています。
 それから、マルコ16章1節にはイエス様の復活の日の朝にイエス様のお墓にいった三人の女性がいて、それは「マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ」だったと書かれています。 この三つの記事を合わせて考えると、まず、はっきりわかるのは、イエス様の母マリヤとマグダラのマリヤです。マグダラのマリヤについては、ルカ8章2節に「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ」と書かれています。
 それから、「クロパの妻のマリヤ」は、マタイ27章の「ヤコブとヨセフとの母マリヤ」、そして、マルコ16章の「ヤコブの母マリヤ」だろうと考えられています。
 そして、「母の姉妹」、つまり、イエス様の母であるマリヤの姉妹というのは、マタイ27章の「ゼペダイの子らの母」、そして、マルコ16章の「サロメ」だろうと考えられています。つまり、イエス様のお母さんのマリヤには、サロメという姉妹がいて、その人が、十二使徒の中のゼベダイの子ヤコブとヨハネのお母さんだったのではないかというのですね。このヨハネは福音書を書いたヨハネです。ということは、イエス様と福音書を書いたヨハネは、いとこ同士だったということになりますね。
 さて、今日の箇所の26節に女性たちのそばに「愛する弟子」も立っていたとありますが、これは、この福音書を書いたヨハネ自身のことだと考えられています。ヨハネは、自分が書いた福音書の中で自分について言及するときは、「イエス様に愛された弟子」「イエス様の愛する弟子」という表現を使っているのです。
 ですから、イエス様は、十字架の上から、母マリヤに「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われ、また、いとこである弟子のヨハネに対して「そこに、あなたの母がいます」と言われたわけですね。
 マリヤは、十字架上で苦しむ我が子の姿を見て、嘆き悲しんでいたでしょう。イエス様は、そんな母マリヤを思いやり、「わたしがいなくなった後は、このヨハネを息子として頼り、世話になってください」と言われ、また、そばにいたヨハネに「これからは、わたしの母をあなたの母のように思って面倒見てほしい」と言われたのです。イエス様は、御自分が激しい痛みと苦しみの中にあっても人を思いやることを忘れない方なのですね。
 27節には、「その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」とあります。マリヤとこの弟子が本当の家族のようになったわけですね。
 この出来事は、教会の姿を象徴的に表していると考えることもできます。私たちも、イエス様の十字架によって罪が赦され、永遠のいのちを与えられ、神の子とされることによって、互いに神の家族の一員となりました。
 パウロも、エペソ2章19節でこう言っています。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」

4 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27・46)

さて、イエス様の十字架刑は午前九時頃から始まりました。そして、十二時になったとき、突然全地が暗くなり、三時まで続いたとマタイの福音書に記されています。昼間なのに暗闇が覆うその時に、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。これが四番目の言葉です。
 この言葉だけを読むと、「神の子イエスも父なる神に見捨てられたのか。イエスの十字架は失敗だったのではないか」と考えてしまう人もいるでしょう。しかし、そう考えるのは、聖書もイエス様の十字架の意味も知らないからです。
 イエス様は、神なる方であるのに、人として来てくださいました。それは、罪のないイエス様が人々の罪を身代わりに背負い、すべての罰と呪いを受けるためです。イエス様の十字架は、私たちを何とかして救おうとする神様の深い愛と、罪を決して見逃すことのない神様の正しさを同時に表すものだったのです。
 イエス様は、私たちの代わりに十字架にかかり、正しく義なる神様に断罪されました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、イエス様が審判者である父なる神様の前で私たち罪人の代表として十字架の罰と呪いを一身に背負われた苦しみの叫びであり、また、愛と恵みに満ちた神様との関係が完全に絶たれてしまうという絶望の叫びだったのです。ですから、この叫びこそ、イエス様が私たちの罪をすべて背負ってくださった、ということの確かな証拠なのです。
 また、この叫びは、詩篇22篇1節の「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」と同じ言葉です。詩篇22篇は「キリストの受難の詩篇」と呼ばれ、将来、救い主が味わう苦しみを預言したものです。つまり、この叫びの中にも、イエス様こそ、旧約聖書で預言されていた救い主であることが、明らかにされているのです。

5 「わたしは渇く」(ヨハネ19・28)

 次に、今日の箇所の28節には、こう書かれていますね。「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」
 このように書いてあると、イエス様が、「この言葉を言っておかないと聖書が成就しないから、息を引き取る前に忘れずに言っておかなければ」と思って「わたしは渇く」と言われたように感じる方がおられるかもしれませんが、そうではありません。この福音書を書いたヨハネは、「イエス様は十字架上で『わたしは渇く』と言われたけれど、それは、ずっと以前から旧約聖書で救い主に関して預言されていたことだったのですよ」という意味でこう書いているのです。
 旧約聖書の詩篇69篇3節には、「私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました」と書かれています。また、詩篇22篇15節には、「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます」と書かれています。どちらも救い主が受ける苦しみを預言したものです。その通りのことがイエス様に起こったのです。
 イエス様の「わたしは渇く」という言葉には、二つの意味が込められていると考えることができます。
 一つは、イエス様が十字架上で実際に渇きに苦しまれたということです。肉体的な渇きもありましたが、それ以上に、父なる神様との交わりが途絶えてしまうという最も苦しい霊的な渇きがありました。私たちの罪のために、神様の愛や恵みから切り離されてしまったわけですから、どうして渇きを覚えないはずがあるでしょうか。
 もう一つは、イエス様が御自分から求めておられるという意味での渇きです。イエス様は、何とかして人々を滅びの状態から救いたいという大きな渇きを持っておられました。そして、その渇きをいやすために、十字架という神様から与えられた苦い杯を飲み干す決心をなさったのです。イエス様は、無理強いされて嫌々ながら十字架につけられたのではなく、御自分から進んで十字架につけられました。そして、「わたしは渇く」と言われました。それは、「わたしは、すべての人の救いを渇き求めているのだ。そのために、この苦しみを味わうことも厭わないのだ」という思いが込められていたのではないでしょうか。
 
6 「完了した」(ヨハネ19・30)

 そして、30節で、イエス様は「完了した」と言われました。 この言葉は、ある事柄がただ終わったというだけでなく、成就したことを表す言葉です。イエス様の十字架によって何が成就したのでしょうか。
 パウロは、ローマ10章4節でこう書いています。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」
キリストが来られるまでは、人は、神様の律法を自分の力で守ることによって救いを得ようとしてきました。しかし、律法を完全に守ることのできる人など誰もいません。皆、神様の前で断罪されるしかない状態です。律法は、私たちが神様の基準に達することができない罪人であることを教える役割を果たしましたが、私たちに救いを与えることはできませんでした。
 しかし、イエス様は、別の救いの道を用意してくださいました。イエス様が十字架について私たちの罪の罰をすべて受けてくださったので、イエス様を自分の救い主として信じる人はみな罪のない正しい者として認められ、神様との親しい関係を持つことができるようになります。そして、神様のいのちによって生かされ、神様とともに歩むうちに、自分の力ではなく、内側から律法にかなう者に変えられていくというのです。
 ですから、私たちは、救われるために律法を完全に守らなくてはと必死に努力する必要はなくなりました。律法を守れない自分に絶望する必要もなくなりました。ただ自分の弱さを認め、そんな自分に代わって十字架にかかってくださったイエス様を信じ、赦しと救いを感謝して受け取り、神様の愛と恵みの中で喜んで生きていけばいいのです。
 つまり、イエス様が「完了した」と言われたのは、私たちの救いが完了したということです。
 考えてみてください。もし十字架が失敗なら、イエス様は「失敗した」と言うでしょう。また、もし御自分の意に反して十字架につけられたのなら、「やり残したことがまだある」「不当な仕打ちだ」と叫ぶことでしょう。しかし、イエス様は、「完了した」と言われました。イエス様は、私たちの救いに関わるすべてのことを「完了」してくださったのです。私たちがすべきなのは、ただイエス様を信じ、救いを受け取ることだけなのです。

7 「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)

ルカ23章で、救いのみわざを完了されたイエス様は、最後に「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られました。イエス様は、最初から最後まで、父なる神様のみこころに徹底的に従われました。神の子であるイエス様が、父なる神様の御計画に従って私たちと同じ立場にまで下ってきてくださり、私たちの代わりに十字架の苦しみを背負ってくださいました。そして、最後に御自身の霊を父なる神様におゆだねになったのです。
今日の箇所の30節では「そして、頭をたれて、霊をお渡しになった」と記されていますね。
 この福音書を書いたヨハネは、ここで「お渡しになった」という表現を使っていますね。「イエス様は、人々のねたみや企みによって無理矢理十字架で殺されたかのように見えるけれど、実は、イエス様御自身が自発的に十字架にかかり、自ら父なる神に霊をおゆだねになったのだ」と言いたかったのかもしれません。

 前回と今回の二回に分けてイエス様の十字架上の七つの言葉を見てきました。この七つの言葉を通して、私たちは、十字架に赦しがあり、永遠の約束があり、神の家族とされる恵みがあり、私たちが何一つつけ加える必要のない完全な救いがあることを知ることができます。この十字架にこそ、罪を決して赦すことのない神様の義と、私たちを何とかして救いたいという神様の愛が示されているのです。
 パウロは、第一コリント1章18節にこう書いています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」
この「十字架のことば」は、「十字架のストーリー」とも訳せます。イエス様がどのようにして十字架につけられることになったのか、また、イエス様が十字架で何をお語りになったのかを知ることによって、私たちは神様の愛と義の表れである十字架の力を知り、十字架によってもたらされる圧倒的な赦しと恵みの中に安息することができるのです。
 今週もイエス様の十字架を見上げつつ、愛され、赦され、救われた喜びと感謝をもって歩んでいきましょう。