城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年四月二一日         関根弘興牧師
                 ヨハネ二〇章一節〜一八節
イエスの生涯57 
    「空の墓」

1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。(新改訳聖書)


 今日は、イエス様の復活を記念するイースター(復活祭)です。イエス様は、金曜日に十字架につけられ墓に葬られましたが、ユダヤ式の数え方で金、土、日という三日目の週の初めの日である日曜日に復活されました。このイエス様の復活については、四つの福音書がそれぞれの視点から記録していますので、その内容を見比べながら、イエス様の復活の日の出来事を見ていくことにしましょう。

1 空の墓

前回お話ししましたように、イエス様が十字架上で息を引き取られると、アリマタヤのヨセフとニコデモがイエス様の遺体を引き取り埋葬しました。遺体に没薬を塗り、香料を添えて亜麻布で巻き、岩をくりぬいた墓に納めて入り口を大きな石で塞いだのです。また、ローマ総督ピラトの命令によって墓石は封印され、番兵が見張っていました。それは、「弟子たちがイエスの遺体を盗み出して『イエスはよみがえった』というデマを言いふらすといけないから、番兵を置いてほしい」とユダヤ当局がピラトに要請したからです。
 そして、日曜日の朝になりました。今日の箇所にはマグダラのマリヤの名だけが書かれていますが、マルコの福音書には、マグダラのマリヤを含む三人の女性がイエス様の遺体に香料を塗るために墓に行ったと書かれています。この女性たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と道々案じながら墓に向かっていきました。ところが、墓に着くと、石はすでに脇に転がしてありました。
 マタイの福音書には、大きな地震が起こって墓の入口を塞いでいた石が脇に転がされ、その時現れた御使いの姿を見た番兵たちは震え上がり、都に戻って、祭司長たちにすべてのことを報告したと書かれています。
 マグダラのマリヤたちは、その後で、墓に着いたのでしょう。空の墓を見たマリヤは、急いでペテロともう一人の弟子ヨハネの所に行って、「だれかが墓から主を取って行きました」と伝えました。マリヤはイエス様の遺体が誰かに持って行かれたと思ったのですね。
 イエス様の復活を否定しようとする人々の中には、誰かが遺体を盗んでいったのだという「盗難説」を唱える人が多くいます。しかし、もしそうだとすると、誰が取っていったのでしょうか。
 ある人は、墓泥棒だと考えます。イエス様の埋葬の時に高価な没薬と香料が大量に使われました。それを見ていた墓泥棒が盗んだのだと考えるのです。しかし、墓泥棒が普通狙うのは遺体ではなく、遺体と共に納められる埋葬品です。遺体と共に亜麻布で巻かれた没薬や香料を手に入れるために遺体ごと運び去ったと考えられなくもないですが、説得力はありません。亜麻布だけは残されていたのですから。
 また、弟子たちが盗んだと考える人もいます。しかし、弟子たちは、みな散り散りに逃げ去り、恐れて隠れていました。そんな弟子たちが番兵に監視されている墓からわざわざイエス様の遺体を盗み出すような大胆なことができるでしょうか。しかも、自分たちでイエス様の遺体を盗んでおきながら、後に、どんな迫害にも屈せず、命がけで「イエス様は復活した」と世界中に宣べ伝えていくことなどできるはずがありません。また、マタイの福音書には、番兵たちの報告を聞いたユダヤ当局が、その番兵たちに多額の金を与えて、「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ」と指図したことが書かれています。しかし、それは、おかしいですね。眠っていたなら、どうして犯人が弟子たちだとわかるのでしょう。
 盗難説は空の墓を説明するのに一番合理的だと思われていますが、それでは説明がつかないのです。

2 残された亜麻布

 さて、マリヤの報告を聞くと、ペテロとヨハネは急いで墓に向かいました。そして、墓の中に「亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た」と書かれていますね。ヨハネはどうしてイエス様の遺体を包んでいた布について、このように詳しく記録したのでしょうか。
 一つは、当時から主張されていた盗難説に対して反論するためだったのかもしれません。墓泥棒がわざわざしっかりと巻いてある布をほどき、しかも、ほどいた布をまた巻き戻して置いていくようなことをするでしょうか。誰が盗んだにしても、番兵の隙を狙ってなるべく早く持ち去らなければならなのですから、そんな手間をかけるとは考えられません。つまり、遺体を巻いていた布が残されていたという事実は、盗難説を否定する有力な証拠となるわけです。
 もう一つは、イエス様の復活が特別なものであることを示すためではないかと考えられます。以前、ラザロという人が死んで四日後に、イエス様がラザロを生き返らせたという出来事がありました。イエス様が墓の前で「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれると、ラザロは布でぐるぐる巻きにされた状態のまま出て来たのです。一方、イエス様の復活の場合は、巻かれた布は墓に残されていました。つまり、イエス様の復活は、ラザロが生き返ったのとは全く違う性質のものなのだということをヨハネは記しているわけです。イエス様の復活は、単なる蘇生ではなかったのです。

3 「見て、信じた」、しかし、「まだ理解していなかった」

空の墓と残された亜麻布は、ヨハネの信仰の原点となりました。8節に「見て、信じた」とありますね。ヨハネは、自分が空の墓と残された亜麻布を見て信じたのだと記しているのです。しかし、次の9節では、「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」と書いています。「信じた」と言ったり、「まだ理解していなかった」と言ったり、どういうことでしょうか。 ヨハネは、空の墓と残された布を見てイエス様の復活を信じました。しかし、その意味について、聖書と関連付けて十分に理解することがまだできていなかったのです。
 私たちも「信じているけれど、そのことの意味をきちんと理解していない」ということはよくありますね。
 私の父は、よく電話をかけてきます。その多くがパソコンに関する質問です。「何をやってもパソコンが終了しない。一時間も格闘しているのだけれどできない。どうすればいい」「簡単だよ。電源切れば」ってな具合ですね。父は、パソコンを使って仕事が出来ると信じて購入しました。しかし、まだ理解していないことがたくさんあって、その性能を十分に味わえないでいるのです。こうしたことは、私たちの日常生活にはたくさんありますね。
 信仰生活も同じです。イエス様の十字架と復活を信じていても、「こんな駄目な私では赦してもらえないのではないか」とか「もっと頑張ってしっかりした信仰を持たないと神様に見捨てられてしまうのではないか」と思ってしまうことがありますね。それは、イエス様の十字架による赦しがどれほど完全なものであるか、また、イエス様の復活のいのちがどれほど力あるものなのかをまだ十分に理解していないからなのです。でも、理解が深まっていくにつれて、主の恵みの素晴らしさをもっと味わうことができるようになっていくのです。

4 復活の主に最初に出会った人

 さて、ペテロとヨハネが帰った後、実際には三人の女性がいたのですが、ヨハネは、特に、マグダラのマリヤにしぼって記録しています。
 このマグダラのマリヤは、ガリラヤ湖の南西に位置するマグダラという町の出身でした。ルカの福音書には、「イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出された」と書かれています。この「七つ」という数字は、具体的な数を示すというよりは、最悪な状態を示すものではないかと思われます。つまり、マリヤは、医者も匙を投げてしまうような悪質な病にかかっていて、肉体的にも精神的にも疲れ切って、希望を失いながらもかろうじて生きていたのでしょう。しかし、イエス様によって癒やされ、生きる力が与えられ、イエス様や弟子たちと共に行動するようになりました。マリヤは、イエス様の十字架のもとにもいましたし、イエス様の埋葬にも立ち会いました。そして、日曜日の朝、イエス様の遺体に香料を塗るために墓に行ったのです。
 ちなみに、ヨハネの福音書8章に、姦淫の現場で捕らえられた女性が登場しますね。ユダヤ当局者たちは、この女性をイエス様の前に連れてきて、「この姦淫の女を律法に従って石打の刑で殺すべきか、それとも、赦すべきか」と判断を迫りました。イエス様が「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われると、皆、そこから立ち去り誰もいなくなったと書かれていますね。この女性がマグダラのマリヤだと考える人がいます。しかし、聖書には、どこにもそのようには書いてありません。別人と考えたほうがいいでしょう。
 さて、マグダラのマリヤが泣きながら身をかがめて墓の中をのぞき込むと、白い衣を着た御使いが二人すわっていました。マルコの福音書では「真っ白な長い衣をまとった青年」がすわっていたと書かれています。御使いは、マリヤに「なぜ泣いているのですか」と問いかけました。マリヤは、「どうしてそんなことを聞くのか」と思ったかもしれませんね。「主の遺体を誰かが持って行ってしまって行方不明なのだから、泣くのはあたりまえでしょう」という気持ちだったのかもしれません。
 しかし、マリヤが振り返ると、なんとそこにイエス様が立っておられました。そして、イエス様も「なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか」と言われたのです。マリヤは、それがイエス様だとわからず、園の管理人だと思って、「あなたがあの方を運んだのでしたら、どこに置いたか言ってください。私が引き取ります」と言いました。ちょっと間の抜けた話ですね。マリヤは、イエス様の遺体のことばかり考えていて、イエス様が目の前にいるのに気づかなかったのです。
 でも、イエス様が「マリヤ」と名前を呼ぶと、マリヤは、すぐにイエス様だと気づき、「ラボニ(先生)」と答えました。イエス様に名前を呼ばれた時、マリヤはイエス様の復活の事実を知ったのです。
 ルカの福音書19章には、エリコの町に住んでいた取税人ザアカイのことが書かれています。彼は、町一番の嫌われ者でしたが、イエス様がエリコの町を通られると聞いて、イエス様を一目見たいと思いました。しかし、群衆が集まっていて、背の低いザアカイは見ることができません。そこで、いちじく桑の木に登って眺めていました。すると、イエス様が木の下に立ち止まって、「ザアカイ」と名前を呼ばれたのです。ザアカイは、自分の名が呼ばれたことで心開き、大喜びでイエス様を自分の家に迎え入れ、そこから彼の人生は大きく変わっていきました。
これは、私たちが復活したイエス様に出会うときも同じではないでしょうか。イエス様の方から声をかけてくださるからこそ、私たちもイエス様に応答できるようになるのだと思います。
 イエス様は、私たちを十把一絡げに扱うような方ではありません。一人一人の名を呼んでくださるのです。イエス様の最も短いメッセージは、心を込めて「名を呼ぶ」ということです。「わたしは生きている。いつもあなたと共にいて、あなたを助け、導き、恵みで満たすことができる。だから、わたしのもとに来て、わたしを信頼して生きていきなさい」という思いを込めて名を呼んでくださいます。今日、こうして礼拝をささげているとき、また主を賛美しているとき、聖書を読んでいるとき、祈っているとき、復活の主は一人一人の名を呼んでくださっていることを知っていただきたいのです。
 イエス様は、ヨハネの福音書10章3節-4節でこう言われました。「しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。・・・羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」
 一人一人の名を呼んで招き、導いてくださるイエス様に、ついて行こうではありませんか。

5 すがりついていてはいけない

 復活のイエス様に出会ったマリヤは、驚き、喜び、イエス様にすがりつこうとしました。イエス様が十字架で死んでしまった、しかも、墓からイエス様の遺体がなくなってしまったと思っていたわけですから、イエス様に再びお会いできた今、もう放さないぞとばかりにすがりつきたい気持ちはわかりますね。
 しかし、イエス様は、17節で「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです」と言われたのです。これは、マリヤを冷たくあしらわれたのではありません。「わたしはまだ父のもとに上っていないから、すがりついていてはいけない」と言われたのです。これは、不思議な言葉ですね。イエス様が父なる神のもとに上っていってしまわれたら、ますますすがりつけなくなるのではありませんか。
 では、イエス様が「父のもとに上る」と言われたのは、どういう意味でしょうか。これは、イエス様がもうすぐ天に昇って行かれることを指しています。イエス様の十字架は、救いの成就でした。そして、復活は、イエス様が神様から遣わされたまことの救い主であることを証明し、十字架によって救いが与えられることを保証するものです。そして、昇天、つまり、イエス様が天に昇って行かれることは、イエス様が神と等しい方として栄光を受けられることを示すものです。イエス様の栄光とは、十字架と復活と昇天によって完結するものなのですね。
イエス様は、昇天し、神の右に座し、私たちの主としてすべてを支配してくださいます。また、神の御前でいつも私たちのためにとりなしてくださいます。そして、イエス様は、ヨハネ16章7節でこう言っておられましたね。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」つまり、イエス様は、天に昇り、御自分の代わりに助け主である聖霊を送ると約束してくださったのです。イエス様が肉体を持ったままこの世におられたら、すべての人といつも共にいることはできません。しかし、イエス様が天に昇った後に聖霊が来て信じる一人一人の内に宿ってくださることによって、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」というイエス様の約束が実現するのです。父なる神、子なるキリスト、聖霊は、同じ本質を持つ三位一体の神様だからです。
 ですから、イエス様がマリヤに「わたしにすがりついていてはいけない」と言われたのは、「わたしがここにとどまっているよりも、わたしが父のもとに行ったほうが、もっと素晴らしいことが起こる。あなたの内に聖霊が与えられるので、わたしはいつもあなたと共にいるようになるのだ」という意味でいっておられるわけです。
 聖書の記録を見ると、イエス様は、復活してから四十日の間、五百人以上の弟子たちの前に現れた後、弟子たちの目の前で天に昇って行かれました。そして、その昇天の十日後に弟子たち一人一人の上に聖霊が下ったのです。それ以降、弟子たちは、聖霊に導かれ、聖霊の力に満たされて、世界中にイエス様の十字架と復活の福音を宣べ伝えるようになったのです。

6 神の家族

さて、今日の箇所の最後で、イエス様は、マリヤに「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい」と言われました。
 十字架と復活と昇天、この三点セットが成し遂げられるとき、一つのことがはっきりと見えてきます。それは、「神はイエス様の父であるとともに、信じる私たち一人一人の父でもある」ということです。また、イエス様は、恐れて身を隠し失望の中にいた弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでおられますね。私たちは、イエス様を信じ受け入れるときに、父なる神の子となり、イエス様の兄弟姉妹となります。つまり、神の家族の一員とされるのですね。

復活して今も生きておられ、天の栄光にあふれるイエス様は、今も私たち一人一人の名を呼んでくださいます。そして、「わたしの兄弟、姉妹」と呼びかけてくださるのです。私たちはそのイエス様のみ声を素直に受け取り、イエス様を信頼して歩んでいきましょう。