城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年四月二八日         関根弘興牧師
               ヨハネ二〇章一九節〜二十三節
イエスの生涯58 
   「聖霊を受けよ」

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(新改訳聖書)


 イエス様は、十字架につけられた後、三日目に復活されました。イエス様が十字架につけられたのは金曜日でした。そして、ユダヤ式の数え方では金曜日を含めて数えるので、三日目というのは日曜日になります。イエス様は、週の初めの日である日曜日に復活されたのです。
 この復活の出来事は、四つの福音書にそれぞれ違う視点から記録されていますので、全体の流れをすこし整理しておきましょう。
 日曜日の朝早く、いつもイエス様に付き従っていた女性たちが、イエス様の遺体に香料を塗ろうと思って墓に行きました。道々「あの墓の入り口を塞いでいる大きな石を誰かにどけてもらわなければ」と話していたのですが、着いて見ると、大きな石はすでに脇に転がしてあり、墓の入り口が開いていました。マタイの福音書には、番兵たちが夜通し墓の番をしていたのですが、急に大きな地震が起こり、石が脇に転がり、顔がいなずまのように光り輝く御使いが現れたので、番兵たちは恐れて震え上がり、エルサレムに急いで帰って祭司長たちに報告したとあります。それで、女性たちが行ったときには、墓の入り口が開いていたわけですね。そして、イエス様の遺体が消えていました。「だれかが主を取って行った」と思ったマグダラのマリヤは、すぐにペテロとヨハネのもとに行って報告しました。
 ペテロとヨハネは、すぐに墓に行って、墓の中にイエス様の遺体がないこと、また、遺体に巻いてあった亜麻布だけが置かれているのを目撃しました。先週お話ししたとおり、ヨハネの福音書の中で、ヨハネは、自分自身が「空っぽの墓と残された亜麻布を見て信じた。しかし、まだ理解していなかった」と記しています。ヨハネは、自分の信仰の原点は空の墓と残された亜麻布を目撃したその時にある、しかし、その時は復活の意味を十分理解していなかったのだ、ということを言いたかったのでしょう。
 さて、ペテロとヨハネが帰っていった後、マグダラのマリヤは、まだ墓のそばにとどまっていました。そのマリヤに、イエス様は姿を現わし、御自分が復活したことを示されたのです。
 そして、その日の夕方、復活したイエス様は、弟子たちの前にも姿を現されました。それが、今日の箇所です。
 イエス様は、ここで弟子たちにいくつかの大切なことをお語りになっています。その内容を詳しく見ていきましょう。

1 「平安があなたがたにあるように」

 弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸を閉め切っていました。イエス様がいなくなってしまい、自分たちの身も危険になっている、そういう失意と恐れの中にいたのです。また、弟子たちは、イエス様が逮捕される前は、「何があってもあなたについて行きます」と勇ましいことをいっていたのに、イエス様が逮捕されると、皆、散り散りに逃げ去ってしまいました。ですから、「私は、イエス様を裏切ってしまった」という罪悪感にもさいなまれていたことでしょう。
 そんな彼らのところにイエス様が来られました。そして、開口一番、「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。
 イエス様は、「お前たち、よくもわたしを裏切って逃げて行ったな。あれだけ世話したのに。ほらこの手の傷を見ろ」とは言われませんでした。弟子たちを非難したり叱責するのではなく、かえって、「平安があなたがたにあるように」と語りかけてくださったのです。弟子たちは、どんなにほっとしたことでしょう。
 ところで、新約聖書はギリシヤ語で書かれていますから、この「平安」という言葉は、原文ではギリシヤ語の「エイレーネ」となっています。ヘブル語では「シャローム」という言葉です。「シャローム」は、今でもイスラエル人の挨拶の言葉として使われています。「こんにちは」も「さようなら」も「シャローム」です。
 では、イエス様も「こんばんは」という挨拶のつもりで「シャローム」と言われたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、21節でも、もう一度「平安があなたがたにあるように」と言っておられますね。イエス様は、「平安があなたがたにあるように」と二回も繰り返し言われました。つまり、この言葉は、単なる挨拶ではなく、大切なメッセージを伝える言葉なのです。
 では、イエス様が言われる「平安」とはどのようなものでしょうか。もちろん、弟子たちは、この時、復活したイエス様にお会いして、イエス様が今一緒にいてくださるという安心感を味わったことでしょう。しかし、イエス様の言われる「平安」には、それ以上の意味も含まれているのです。
 ヨハネ14章27節で、イエス様は、最後の晩餐の時に弟子たちにこう約束されていました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 イエス様の与える平安は、この世の平安とは違うというのです。ドライブインに立ち寄ってちょっと休憩しましょう、というような一時的なものではありません。イエス様がくださる平安は、私たちが生きていく上で大切な土台となる平安なのです。それは、どのようなものなのでしょうか。

@赦されていることからくる平安

 まず、最初に「平安があなたがたにあるように」と言われたとき、イエス様は、御自分の手とわき腹を示されました。イエス様の手には、十字架に打ち付けられた時の釘の痕が、そして、わき腹には兵士の槍で突き刺された傷が残っていました。つまり、イエス様は、御自分が十字架にかかり、血を流したことを弟子たちに改めて示されたのです。
 イエス様が十字架上で流された血は、私たちの罪の赦しのためでした。ヘブル人への手紙9章22節には、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあります。また、ヨハネの手紙第一1章7節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」とあります。イエス様が十字架で流された血によって、私たちは、すべての罪からきよめられ、赦されたのです。
 ですから、イエス様が「平安があなたがたにあるように」と言われた言葉の中には、「この手を跡を見なさい。わき腹を見なさい。あなたがたの罪が赦されるために、わたしは十字架上で血を流した。だから、今、あなた方の罪は赦されている。安心しなさい」という大切なメッセージが込められているのです。
 赦されていることを知ると、平安が生まれます。お互いの人間関係でもそうですね。まして、イエス様の十字架によって完全な赦しが宣言されているのですから、私たちは、安心して神様の前に出て、神様を父と呼び、神様との親しい関係の中で生きていくことができるのです。

A使命に生きる平安

 次に、21節で、イエス様はもう一度「平安があなたがたにあるように」と言われましたが、それに続けて「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言っておられます。つまり、ここには「わたしがあなたがたを遣わすのだから、安心して生きていきなさい」というメッセージがあるのですね。
 弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて戸を閉め切って隠れていました。もう自分の人生はおしまいだ、意味がない、これから何を目標に生きていったらよいのかわからない、という状態でした。人生の意味も目的も見失い、ただ恐れと不安の中にいたのです。しかし、イエス様は、「わたしがあなたがたを遣わす。あなたがたには、使命がある。生きる意味があり、目的があるのだ。あなたがたの存在には価値があるのだ」と言ってくださったのです。弟子たちは、死を打ち破って復活されたイエス様と出会い、生きる使命を与えられることによって、閉め切った扉を開いて、イエス様が遣わしてくださる場所に大胆に出て行くことが出来るようになったのです。
 そして、この約束は、一部の限られた弟子たちだけに語られたものではなく、今日ここにいる私たち一人一人にも与えられています。「平安があなたがたにあるように。わたしがあなたがたを遣わします」とイエス様は一人一人に言ってくださるのです。
 しかし、「そう言われても、私など何もできません。使命を与えられて遣わされるなんて、私には無理です」と思う方がおられるかもしれませんね。
 でも、安心してください。イエス様は、何かをしなさいと言っておられるのではないのです。
 イエス様は、一人一人をよく御存知ですから、それぞれにふさわしい場所に遣わしてくださいます。私たちがここにいるのは、偶然ではありません。教会でも、家庭でも、職場でも、学校でも、今置かれている場所は、イエス様が遣わしてくださった場所です。イエス様によって、ここに遣わされて生きているのです。そして、遣わされた場所で、イエス様の救いを喜び、神様を礼拝しつつ、聖書の約束に励まされ、神様の愛と恵みの中に生きていくときに、主の恵みを運ぶ器として用いられていくのです。
 ですから、どこにいても、「今、わたしはイエス様によってここに遣わされている」という自覚と自信を持って歩んでください。今まで出来ていたことが出来なくなってしまうこともあります。健康状態が悪くなることもあります。でも、生かされている限り、私たちは皆、イエス様によって遣わされた場所にいるのです。もし病気で入院したら、この病院に遣わされたのだと考えるのです。そして、「主よ。あなたが私をここに遣わしてくださったのですから、私を、この場所に主の恵みと愛を運ぶ器にしてください」と祈っていくのです。私たちは、どこにいても「ここが主が遣わしてくださった場所だ」という平安をもって生きることができるのです。
 でも、時々、「主が私を遣わしてくださった場所はここだろうか」と疑問を覚えることもあるでしょう。主は、時に応じて様々な志を与えて、導いてくださいますから、その場所に何が何でも固執するのではなく、柔軟性を持つことが大切です。どのような導きがあるとしても、主が私が行くべき場所に遣わしてくださることを信頼しつつ歩んでいきましょう。    

2 「聖霊を受けなさい」

 さて、イエス様は、次に22節で、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。
 ヨハネ15章26節で、イエス様は、十字架につけられる前に弟子たちにこう約束されていましたね。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」イエス様は、助け主である聖霊を遣わすと約束してくださいました。
 「使徒の働き」の2章には、聖霊が来られたことが人々にはっきりわかる形で示された有名な出来事が記されていますね。「ペンテコステ」、日本語では「五旬節」と訳されている祭りの日に、弟子たちが集まって祈っていました。「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」というのです。その時から、弟子たちは、世界中にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるようになりました。この日は聖霊降臨日と呼ばれ、また、教会の誕生日とも言われています。
 ここで、イエス様が復活されてから、ペンテコステの聖霊降臨までの出来事を整理しておきましょう。イエス様は、復活した後、四十日の間に五百人以上の弟子たちの前に姿を現されました。そして、四十日目に弟子たちの見ている前で、オリーブ山から天に昇って行かれました。天に昇る前に、イエス様は、弟子たちに「聖霊が注がれるまで、エルサレムにとどまっていなさい」とお命じになっていました。それで、弟子たちはエルサレムで共に集まって祈っていたのです。そして、イエス様が天に昇られてから十日後、つまり、復活の日から数えて五十日目のペンテコステの祭りの時に、弟子たちに聖霊が注がれたわけです。
 このペンテコステの出来事を読むと、弟子たちはこの時初めて聖霊を受けたような印象を受けますね。しかし、今日の箇所では、イエス様が復活された日の夕方に、イエス様が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたと書かれています。これは、どういうことでしょうか。
 おそらく、この福音書を書いたヨハネは、「あのペンテコステの出来事は、実は、イエス様が復活された日に既に始まっていたのだ」ということを記したかったのではないでしょうか。
 ペンテコステの時には、聖霊が誰の目にもはっきりわかるように弟子たちに注がれましたが、その出来事が起こる以前から、弟子たちは、共に集まり、共に祈り、イエス様を裏切ったユダの代わりに別の人物を選んで使徒に任命するなど、これからの働きのための準備を着々と進めていました。つまり、教会としての働きは、ペンテコステの出来事の前からすでに始まっていたわけです。
 確かに、ペンテコステの聖霊降臨の出来事をきっかけに、弟子たちを通して神様の不思議なわざが行われ、福音が全世界に宣べ伝えられるようになりましたが、実は、それより前に、イエス様が復活された時から弟子たちは聖霊を受け、新しい人生をスタートしていたということなのです。
 つまり、復活したイエス様を信じ、受け入れるその時に、イエス様は一人一人に聖霊を与えてくださるということなのですね。イエス様が私たちのために十字架にかかり、復活して今も生きておられることを信じる時、聖霊が私たちの内に宿ってくださいます。そして、その聖霊が聖書を理解する力を与え、神様の愛とイエス・キリストの恵みの素晴らしさを教え、私たちを導き、必要を満たし、成長させ、神様の栄光を現す器として用いてくださるのです。
 先ほどお話ししましたように、イエス様は私たちをそれぞれの場に遣わされますが、その時に「わたしは一緒に行かないから、あなただけで行って来なさい。行ってらっしゃい」と手を振って見送るような方ではありません。「わたしはあなたを遣わすが、あなたがひとりぼっちにならないように聖霊を与える。聖霊なる神がいつもあなたとともにおられるから安心しなさい」と約束してくださるのです。
ところで、イエス様は、「聖霊を受けなさい」と言うときに、弟子たちに息を吹きかけられましたが、この「息を吹きかける」という表現は、とても大切な意味のある言葉です。
 創世記2章7節にこう書かれています。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」人は、神様の息が吹き込まれて初めて人として生きるようになったのです。それは、人が、肉体だけの存在ではなく、神様のいのちによって生かされ、神様と親しい関係を持つことができる存在であり、神様を思い、永遠を思う心を持つ者として生かされているということです。
 また、旧約聖書に出てくるエゼキエルという預言者は、神様の言葉をこう伝えました。「見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」と。つまり、神様が息を吹き入れるとき、死んでいた者が生き返る、新しいいのちによって生きるようになる、と約束されているのです。私たちがイエス様によって聖霊を受ける、ということは、新しい人生の出発でもあるのですね。復活したイエス様は、恐れと失望の中にいた弟子たちに姿を現し、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われました。それが弟子たちの新たな人生の出発となったのです。
 日本語で「あの人は、○○さんの息のかかった人だ」というような表現がありますが、私たち一人一人は、イエス様の息のかかった者です。父、御子、聖霊の三位一体の神様の霊が与えられているのです。だからこそ、いつも神様と共にいる平安と生きる力が与えられ、真実の愛を味わいつつ歩んでいくことが出来るのです。
 
3 「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」

 さて、イエス様は、23節で少し難しいことを言われました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」これはどういう意味でしょうか。
 マルコの福音書2章7節には「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」とありますね。罪を赦すことができるのは神様だけです。私たち人間は、誰の罪も赦す権威など持っていません。ですから、ここでイエス様が言われたのは、「あなたがたに誰かの罪を赦すか赦さないかを勝手に決める特権を与える」という意味ではありません。そうではなくて、私たちには、それぞれが遣わされた場所で聖霊の導きと力を与えられながら伝えることのできるメッセージがあるということなのです。それは、イエス様の十字架によって罪が赦され、イエス様の復活によって新しいいのちと平安が与えられるというメッセージです。つまり、私たちは、「あなたの罪はすでに赦されているのですよ。その赦しを受け入れて、イエス様のいのちを受け取って生きてください」と伝えていくことができるということなのです。
 パウロは、ローマ人への手紙10章14節ー15節でこう語っています。「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」
 私たちは、イエス様の赦しといのちとを伝えることができる者としてそれぞれの場に遣わされ、生かされているのですね。そして、私たちを通して、他の人々にもイエス様の赦しといのちがもたらされていくのです。
 ただし、だからといって、気負いすぎて限界以上に頑張ろうとしたり、相手の状態やその場の状況を考えずに勢いだけで無理矢理突き進んだりするのではありません。
 イエス様は、「わたしの平安の中で生きていきなさい」「聖霊がいつもあなたと共にいて、あなたを助け導き支えるから大丈夫だ」と約束してくださっています。ですから、私たちは、聖霊にゆだね、関わりのある人々のために、心を込めて神様の赦しといのち、喜び、平安が注がれていくことを願い、期待しつつ、今置かれている場所が遣わされた場所なのだと頷きながら進んでいきましょう。
 今週も主の平安が豊かにありますように