城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年五月五日           関根弘興牧師
                 ヨハネ二一章一節〜一七節
イエスの生涯59 
   「三度目の顕現」

1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(新改訳聖書)


 14節に「イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である」と書かれていますね。イエス様は、今日の箇所の前にマグダラのマリヤやエマオに向かっていた二人の弟子たちにも姿を現されましたから、この三度目というのは、いつもイエス様と共にいた十二弟子と呼ばれる弟子たちのもとに現れたのが三度目だったというふうに考えればいいでしょう。では、その三度のそれぞれの時にどんなことがあったでしょうか。

1 一度目:週の初めの日の夕方

 この時のことは先週の説教でお話ししましたね。イエス様は、復活した日曜日の夕方、恐れて戸を閉め切っていた弟子たちのもとに現れ、「平安があなたがたにあるように。わたしはあなたを遣わす。聖霊を受けなさい」とお語りになりました。イエス様が生きておられることを知り、イエス様に息を吹きかけられて聖霊を受けた弟子たちは、ここから、平安と希望に満ちた新しい人生をスタートさせることになったのです。
 ところが、その時、トマスだけはその場にいませんでした。トマスが戻ってくると、他の弟子たちが興奮しています。「おい、トマス、復活したイエス様がここに来られたぞ」「あれは幻なんかじゃない。手とわき腹の傷が確かにあった」「トマス、お前、肝心なときにどこに行ってたんだよ」などと言ったことでしょう。しかし、トマスは、仲間が興奮すればするほど、冷めていきました。なぜ自分だけイエス様に会えなかったのか、と悔しさや落胆を感じたことでしょう。そして、こう言いました。「私はこの目でイエス様の手やわき腹の傷を見、この手でその傷に触らなければ、決して信じない」と。

2 二度目:八日後

 その八日後、つまり、ユダヤ式の数え方では翌週の日曜日に、イエス様はこのトマスにも現れてくださいました。トマスは復活されたイエス様と出会い、即座に「私の主。私の神」と告白しました。すると、イエス様は「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と言われたのです。 実は、このイエス様の言葉は、よく誤解されます。「トマスのように疑い深い態度はよくない。見なくても信じる素直な人にならなくてはならない」という意味だと思う人が多いのです。 しかし、イエス様はそういう意味で言われたのではありません。イエス様は、ここで、「見て信じる者」と「見ずに信じる者」を比較して「見ずに信じる者のほうが幸いだ」と言っておられるのではないのです。
 確かに、トマスには仲間の言葉を信じようとしない頑なさがありました。しかし、他の弟子たちも、実際に自分の目でみるまでは信じられなかったのです。トマスだけが、特に疑い深かったわけではありません。つまり、弟子たちはみな、「見たから信じた」のです。
 実は、弟子たちがイエス様を実際に見ることは、イエス様の復活を証明するためにとても大切なことでした。彼らはイエス様をよく知っていましたから、実際に復活したイエス様にお会いしたとき、それが本当にイエス様だとはっきり証言することができるからです。弟子たちは、イエス様の復活の目撃証言者となり、そのことを世界中の人々に宣べ伝える使命を担っていたのです。
 しかし、ヨハネがこの福音書を記している頃には、実際の目撃証言者である弟子たちのほとんどは天に召され、残っているのは、彼らの目撃証言を記録した文書と空の墓だけになっていました。そういう時代に、ヨハネは、この福音書を書き、「私も他の仲間も、確かに復活のイエス様にお会いした」と記しました。そして、「イエス様が言われたように、実際に見なくても、私たちの証言を聞いてイエス様が復活したことを信じる人々は幸いなのだ」という意味でイエス様の言葉をここに記録しているのです。
 私たちは、もし復活したイエス様にお会いしたとしても、それが本当にイエス様かどうかはわかりませんね。でも、聖書に書かれている弟子たちの目撃証言によって信じることができます。そして、イエス様をこの目で見ることはなくても、見たと同じような感動、喜び、恵みを味わうことができるのです。
 第一ペテロ1章8節ー9節には、こう書かれています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

3 三度目:ガリラヤ湖で

 さて、復活のイエス様が現れた一回目と二回目の時は、弟子たちはエルサレムに滞在していました。過越の祭りの始まる前にイエス様と共にエルサレムに行き、イエス様の十字架と復活の出来事の後、祭りが終わるまでエルサレムに滞在していたのです。そして、祭りが終わるとガリラヤに向かいました。そのガリラヤでイエス様は、また姿を現されたのです。
 1節の「テベリヤ湖」とは、「ガリラヤ湖」のことです。2節には、「シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた」とあります。合計七人の弟子たちがいたことになりますね。おそらく彼らのほとんどがガリラヤ出身だったでしょう。
 弟子たちは、エルサレムで復活のイエス様にお会いした後、なぜガリラヤに行ったのでしょうか。それは、イエス様の指示があったからです。以前、イエス様は、最後の晩餐の後にオリーブ山に行かれたとき、弟子たちにこう言っておられました。「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」(マタイ26章32節) また、イエス様が復活された日、空の墓に行った女性たちに御使いがこう告げました。「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。」(28章7節)
 そこで、彼らはガリラヤに戻ってイエス様が現れるのを待っていたのです。

@ガリラヤの意味

 では、どうしてイエス様は、わざわざエルサレムから遠く離れたガリラヤで弟子たちに会おうとなさったのでしょうか。これには、大切な意味があるのではないかと思います。
 弟子たちが復活したイエス様に最初にお会いしたのはエルサレムでした。その時、エルサレムは、ユダヤ最大の祭りの最中で、特別な宗教的雰囲気と熱気に満たされ、町全体が聖なる場所のように感じられたはずです。日常からかけ離れた一週間だったでしょう。皆さんも経験があると思いますが、たとえば、礼拝に出席して心から賛美をしているうちに、平安に満たされて感謝と喜びがあふれてくるということがありますね。でも、家に帰った途端、現実の日常が待っているわけですね。家事や仕事に追われ、つい愚痴は出るし、イライラもするわけです。「あれ、主は、本当にここにおられるのかな」と思わず疑ってしまうことがありませんか。しかし、ガリラヤは、エルサレムから遠く離れた弟子たちにとって親しみのある場所です。イエス様は、特別な時に特別な場所にだけおられるのではなく、ごくありふれた日常の場に来てくださるのです。
 また、ガリラヤは、イエス様が最初に公の活動を開始された場所です。弟子たちの多くは、この場所でイエス様を信じ、従うようになりました。弟子たちの原点とも言える場所ですね。その場所で、イエス様は弟子たちとお会いになったのです。
 
Aイエス様の指示

 さて、弟子たちは漁に出ました。そのうちの何人かは以前漁師をしていたので、一時的にもとの仕事に戻っていたのかもしれません。ところが、夜通し漁をしても一匹も捕れませんでした。しかし、夜が明けると、イエス様が岸辺に立って、「船の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」と言われ、そのとおりにすると、大量の魚が捕れたのです。
 それを見て、ヨハネはすぐに「主だ」と気づきました。なぜなら、弟子たちは、以前、同じような経験をしていたからです。ルカの福音書5章で、イエス様は、公の活動を開始されたばかりの頃、ガリラヤ湖のほとりに来られました。そこではペテロたちが網を洗っていました。夜通し漁をしたのに一匹も捕れなかったのです。イエス様はペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。その通りにやってみると、大量の魚で網が破れそうになったのです。それは、彼らがイエス様の弟子となるきっかけとなった忘れることのできない出来事でした。そして、今再び同じようなことが起こったのです。ヨハネは、思わず「主です」と叫び、ペテロは、わざわざ上着をまとって湖に飛び込んで岸まで泳いで行きました。ペテロは、大変律儀でおもしろい男ですね。

B大漁の魚

 さて、ヨハネは、とれた魚が百五十三匹だったとわざわざ記しています。この百五十三という数字に何か意味があるのではないかと、多くの学者がいろいろなことを考えました。学者というのは、いくら考えても答えが出ないようなことを一生懸命考えるものですね。
 たとえば、あの有名なアウグスチヌスという人は、「一から十七までを足し算すると百五十三になる。だから、十七という数字に特別な意味があるに違いない」と考えました。そして、「十は、十戒のことで、これは旧約聖書の律法を象徴している。そして、七は、イエス様の恵みが十分であることを表す数で、新約聖書を表している」と考えたのです。つまり、百五十三とは、律法(旧約聖書)と恵み(新約聖書)によってイエス・キリストのもとへ導かれるすべての人々を表わしているのだと解釈したわけですね。また、ヒエロニムスという人は、「このガリラヤ湖には百五十三種類の異なった魚がいたのだろう。百五十三匹捕れたのは、世界中のすべての民を表している」と解釈しました。でも、聖書に正解が書いてあるわけではないので、百五十三という数字をいくら眺めても、わからないものはわからないのです。数字にこだわるのはやめましょう。
 この出来事から言えるのは、「イエス様によって、多くのものが集められる」、あるいは、「イエス様は豊かな恵みを与えてくださる」ということでしょうね。

C朝食の備え

 さて、弟子たちが陸地に上がったとき、イエス様は、炭火をおこし、魚とパンを用意してくださっていました。そして、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と言われました。「わたしのために朝食の用意をしなさい」と言われたのではありません。その逆です。イエス様ご自身がお腹をすかせた弟子たちのために朝食を用意してくださったのです。また、イエス様は「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい」と言われましたが、その魚もイエス様が捕らせてくださったものですね。
 弟子たちは、ガリラヤの日常生活に戻って、エルサレムでの経験が何か遠い、普段の生活からかけ離れたもののように感じ始めていたかもしれません。しかし、イエス様は、彼らの最も身近な生活の場に来てくださり、朝食を用意してくださったのです。しかも、有り余るほどの豊かな朝食でした。
イエス様は、私たちの必要なものを備えてくださる方です。肉体の必要も心の必要も物質的な必要も備えてくださるお方です。私たちは、「主の祈り」の中で「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、主は、私たちの日常の中にいてくださり、すべての必要なものを備えてくださる方なのですね。

D「わたしを愛しますか」

 さて、朝食を済ませると、イエス様はペテロに質問されました。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか」と。これは、他の弟子たちの愛とペテロの愛を比較なさっているのでしょうか。そうではありません。イエス様は、誰が一番自分を愛しているかなどと競わせるような方ではありません。では、どうしてイエス様は、このような質問をなさったのでしょうか。
 以前、ペテロは、イエス様に「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言い張りましたね。「イエス様を愛することにかけては、自分が一番だ」と自負していたのです。しかし、イエス様が逮捕された時、ペテロは「イエスなど知らない。関係ない」と三度もイエス様を否定してしまいました。ですから、今では、自分を他の弟子と比べて誇ることなどできなくなっていました。それどころか、イエス様を裏切ってしまったという罪責感や、自分にはイエス様の弟子と呼ばれる資格がないのではないかという思いを持っていたことでしょう。
 そんなペテロにイエス様は、「あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか」と質問されたのです。以前のペテロなら、「はい、もちろんです」と胸を張って答えたことでしょう。しかし、今は、「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」としか答えられませんでした。すると、イエス様は、さらに「あなたはわたしを愛しますか」という質問を二度繰り替えされました。全部で三度繰り返して質問なさったわけですね。ペテロがイエス様を否んだのと同じ三度、繰り返されたのです。さすがに三度目の時はペテロは「心を痛めて」とありますね。でも、ペテロは「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と再び答えたのです。
 ペテロは、イエス様が自分の心の思いをすべて見抜いておられると強く思わされていました。イエス様は、最初からペテロが三度もイエス様を否んでしまう弱い者であることを知っておられました。ペテロが挫折と失意の中にいることも知っておられました。また、ペテロは、網いっぱいの魚が捕れたのを見て、以前、自分がイエス様の弟子として従う決心をした時のことを思い出し、イエス様と過ごした約三年間の様々な出来事を想起したに違いありません。
 今、彼は、ただ自分のありのままの心を主に見ていただくしかないと感じていたのでしょう。「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。主よ。あなたはいっさいのことをご存じです」と答えました。「私は弱くつまずきやすい者ですが、私の内には、あなたを愛する心があります。あなたは、それを知っていてくださいますよね」と告白したのです。
 これは、決してペテロだけのことではありません。私たちは時には、ただ自分の気負いや勢いで「イエス様、愛することなら誰にも負けません」と威勢のいい告白することがあるかもしれません。でも、そう答えられなくなってしまうような出来事を経験したり、自分の弱さにうなだれしまうこともあるのです。そんなとき、思い出してください。主は、私たちのありのままの姿を知り、受け入れてくださっています。ですから、「私は弱さも欠けもありますが、主よ、私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と告白していこうではありませんか。

E「わたしの羊を牧しなさい」

 そして、イエス様は、ペテロに新しい使命をお与えになりました。「わたしの羊を牧しなさい」と言われたのです。
 この命令は、ペテロがすべての人の羊飼になるということなのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様は、ヨハネの福音書10章で、イエス様ご自身が羊飼いであると言っておられます。ペテロは、他の人々と同じ羊にすぎません。ここでイエス様がペテロに「わたしの羊を牧しなさい」と言われたのは、「わたしを信じる人々の信仰生活を支える助けとなっていきなさい」ということなのですね。
 イエス様は、以前、ペテロにこう言われました。「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22章31節〜32節)つまり、「わたしの羊を牧しなさい」というのは、「信仰の兄弟たちを力づけてやりなさい」ということなのです。自分の弱さを思い知ったペテロに、イエス様は、癒やしと励ましと新たな使命を与えてくださったのです。
 私たちも同じです。復活の主に出会うとき、ありのままの自分が認められていることを知り、新しい使命に生きる者へと変えられていくのです。