城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年五月一九日          関根弘興牧師
                マタイ二八章一六節〜二〇節
イエスの生涯60(最終回) 
   「いつまでも共に」

 16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(新改訳聖書)


 イエス様は、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかり、墓に葬られましたが、三日目に復活なさいました。弟子たちは、イエス様が死んでしまったと思って意気消沈し、生きる目的を見失い、恐れて隠れていたのですが、その弟子たちの前に復活したイエス様が現れ、「平安があるように」「わたしはあなたがたを遣わす。聖霊を受けなさい」とお語りになったのです。この時から弟子たちの新たな人生が始まりました。
 さて、弟子たちが最初に復活のイエス様にお会いしたのはエルサレムでしたが、その後、弟子たちはガリラヤに下っていきました。なぜなら、イエス様が十字架にかかる直前に弟子たちに「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」(マタイ26章32節)と言っておられたからです。また、イエス様が復活された日の朝、空の墓を見た女性たちに御使いが現れ、こう告げました。「急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。」(28章7節)
 前回は、そのガリラヤにある湖のほとりで弟子たちがイエス様にお会いした出来事を見ましたね。弟子たちは、ガリラヤ湖で夜通し漁をしたのですが、一匹も捕れませんでした。その時、湖畔にイエス様が現れ、「船の右側に網をおろしなさい」と言われたのです。その通りにすると、大漁の魚が捕れました。それで、弟子たちは、湖畔におられる方がイエス様だとわかったのです。弟子たちがイエス様のもとに行くと、イエス様は、彼らのために朝食を用意してくださっていました。また、イエス様は、ペテロに「あなたはわたしを愛しますか」という質問を三度繰り返してなさいました。ペテロは、イエス様が逮捕されたとき、「イエスなど知らない」と三度もイエス様を否定してしまったので、そのことがずっと心の傷として残っていたのでしょう。でも、ガリラヤ湖のほとりでイエス様が「わたしを愛しますか」と三度質問なさったとき、ペテロは、「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と三度答えました。また、イエス様は、ペテロの答えを聞いて、「わたしの羊を牧しなさい」、つまり、「わたしを信じる人々の信仰を支える助けをしていきなさい」という使命をお与えになりました。それによって、ペテロは、自分の弱さもすべてイエス様におゆだねして、イエス様に与えられた新しい使命に生きる道を歩み始めたのです。
 さて、今日の箇所には、もう一つのガリラヤで起こった出来事が記されています。
 いつもイエス様と行動を共にしていた十二弟子のうち、イスカリオテのユダはイエス様を裏切って去って行ったので、十一人が残っていました。その十一人が「イエス様の指示された山に登った」と書かれていますが、この山の名前や場所は記録されていないのでわかりません。しかし、イエス様が弟子たちに大切なことを教えたり不思議なみわざを現したりなさる場所は、山の上が多いのですね。
 例えば、イエス様はガリラヤの山の上で「山上の垂訓」と呼ばれる説教をなさいました。その中で大切なことをたくさん教えておられましたね。また、イエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人を養われたのも山の上でしたし、十二弟子をお選びになったのも山の上でした。また、ペテロとヤコブとヨハネは、イエス様とともに山に登り、そこでイエス様が栄光の光り輝くみ姿に変わるのを目撃しました。そして、今日の箇所でも、イエス様は、山の上で大切なことを弟子たちにお語りになったのです。
 弟子たちは、山に登った時、少し離れたところにいるイエス様を見つけたようです。すぐに礼拝した弟子もいれば、それが本当にイエス様かどうか疑った弟子もいました。しかし、イエス様が近づいて来られると、疑いが晴れたようです。彼らはイエス様のことをよく知っていましたから、近くで見れば、間違いなく本物のイエス様だとわかったのでしょう。
 そこで、イエス様は、彼らに三つの大切なことをお語りになりました。詳しく見ていきましょう。

1 イエス様の権威

 イエス様は、まず、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と言われました。
 イエス様は、公の活動を始められてからずっと、御自分に権威があることを様々な形で示してこられました。例えば、イエス様は、当時の学者たちが驚くほどの権威をもって教えを語られました。また、病気の人を癒やし、悪しき霊に捕らわれている人を解放する権威があることを示されました。権威をもって罪の赦しを宣言なさいました。また、嵐を沈めたり、いちじくの木を枯らしたり、弟子たちに大量の魚を捕らせるなど、自然界を支配する権威があることも示されました。それは、御自分が神に遣わされた神の子であり、まことの救い主であることを明らかにするためでした。そして、イエス様は、御自分から進んで十字架にかかり、三日目によみがえることによって、御自分が本当に罪の赦しと永遠のいのちを与える権威を持つ救い主であることを証明されたのです。
 今日の箇所で、復活したイエス様は、これから弟子たちを全世界に送り出そうとしておられました。そこで、改めて、弟子たちに「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と言われたのです。弟子たちは、これから様々な困難に遭遇することになります。激しい迫害も経験するでしょう。しかし、イエス様は、「わたしにはいっさいの権威が与えられているのだから、わたしを信頼していれば大丈夫だ。わたしからあなたがたを奪うことができるものは何もない。あなたがたの永遠のいのちと平安と希望は決して失われることはないのだ」と言われるのです。
 ところで、イエス様は、「わたしにはいっさいの権威が与えられている」と言っておられますね。イエス様は神そのものなる方ですから、初めから権威を持っておられる方です。ですから、本来なら、「権威が与えられている」ではなく、「権威を持っている」と言ってもいいはずですね。しかし、イエス様は、神としての立場を捨てて、私たちと同じ人となって来てくださり、父なる神の権威に従って歩む姿を模範として私たちに示してくださいました。
 ピリピ2章6節ー11節に、こう書かれています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
 イエス様は、父なる神のみこころに従順に従われたからこそ、父なる神からいっさいの権威が与えられたのです。ですから、イエス様の権威は、威張り散らしたり、人々を自分の思い通りに支配したり、無理強いするための権威ではありません。自分勝手なことをするための権威でもありません。イエス様の権威は、父なる神様のみこころに従うことにより与えられる権威、つまり、私たちを愛し、救い、生かし、養い、導くという神様のみこころを行うために用いられる権威なのです。ですから、イエス様の権威のもとに生きるときにこそ、私たちは、本当の平安と希望と喜びを持って生きていくことができるのです。

2 イエス様の命令

 そのイエス様が弟子たちにこうお命じになりました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
この命令の中心は、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」ということです。といっても、これは、あらゆる国の人々をイエス様の権威に無理矢理服従させなさいという上から目線の言葉ではありません。
 先ほど、お話ししましたように、イエス様御自身が神様のみこころに従順に従われました。ですから、人々をそのイエス様の弟子とするということは、人々がイエス様の姿から学び、神様のみこころに従順に従うことができるようにしていくということです。
 では、なぜイエス様は、「すべての人を弟子としなさい」とお命じになったのでしょうか。御自分のためでしょうか。そうではありません。すべての人にとってイエス様の弟子となることが最も幸いな生き方だからです。マタイの福音書11章29節で、イエス様は、「わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」と言っておられます。つまり、イエス様の弟子となって、イエス様から学べば学ぶほど、私たちは安らぎを得ることができるのです。イエス様は、一人一人を深く愛しておられるがゆえに、一人一人の最善を願っておられるがゆえに、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われたのです。
そして、イエス様は、続けて、人々をイエス様の弟子とするために大切な二つのことを言われました。

@バプテスマを授けなさい

 まず、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける」ということです。
 バプテスマとは洗礼のことです。イエス様の時代、異邦人がユダヤ教に改宗するときには洗礼を受けることになっていました。また、バプテスマのヨハネという人は、人々に救い主イエスをお迎えする準備をさせるという使命を神様から与えられていましたが、「天の御国は近づいた。悔い改めて、神様に立ち返りなさい」と宣べ伝え、悔い改めのしるしとして人々に洗礼を授けていました。
 しかし、イエス様が今日の箇所で命じておられる洗礼は、「父、子、聖霊の御名によって」施されるものです。この「御名によって」の「よって」と訳されている前置詞は、直訳すると「その中へ」(英語では、into)という意味です。つまり、イエス様の命じられた洗礼とは、父、子、聖霊の三位一体なる神様の中に飛び込み、神様の中にどっぷりと浸り込むことを意味しているのです。
 また、パウロは、ロマ6章4節ー5節でこう言っています。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」 つまり、洗礼は、キリストと共に死に、キリストと共に復活することを象徴的に示す儀式でもあります。古い自分が死んで、新しい永遠のいのちによみがえることによって、三位一体の神様の中に飛び込んで生きることができるようになるのですね。
 ですから、洗礼は、単なる入会式ではありません。キリストと一つに結ばれた者として神様の愛と恵みの中に飛び込み、その中で生きていく新しい人生の出発なのです。
 ところで、現在行われている洗礼の方法には、大きく分けて二種類あります。全身を水に浸す浸礼と水滴を頭にかける滴礼です。城山教会では、滴礼を行っています。
 では、初代教会は、どのような洗礼式をしていたのでしょうか。一世紀後半から二世紀にかけて書かれた「ディダケー(十二使徒の遺訓)」という文書があって、その中に、洗礼のことがこう記されています。「バプテスマに関しては、次の方法でバプテスマせよ。・・・流水の中でバプテスマをせよ。流水がなければ、他の水の中で、また、冷水でできなければ温水でせよ。そのどちらもなければ・・・頭に水を三度注げ。」つまり、教会が始まって間もない頃から、浸礼も滴礼もどちらもあったということですね。
 大切なのは、洗礼のやり方ではありません。イエス様も、洗礼のやり方をこうしなさい、ああしなさい、とは言われませんでした。先ほどもお話ししたように、洗礼は、イエス様とともに死んで復活することの象徴であり、三位一体の神様の中に飛び込み、浸かることです。そして、洗礼を受けて神様の愛と恵みの中で歩み始めた人々は、同じ神の家族として一つにされていくのです。
 ですから、イエス様がお命じになった洗礼は、ユダヤ人も異邦人も関係なく、あらゆる国の人々が受ける必要があるものなのです。

A教えなさい

それから、イエス様は、「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と言われました。
 「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのこと」、それは、イエス様が約三年間、みそばにいた十二弟子たちに教えてこられたことです。イエス様は、これから天の父のみもとに昇っていこうとしておられました。そこで、こんどは、ユダを除いた十一人の弟子たちが、イエス様が教えられたことを他の人々に宣べ伝えていく使命を与えられたのです。
 それから、「守る」という言葉には、「実行する」という意味と「大切に保持していく」という意味があります。イエス様は、「わたしの言葉を実行し、大切に保ち続けるように、人々を教えなさい」と言われたわけですね。
 では、イエス様の教えの中心は、どのようなことでしょうか。
それは、「イエス様こそ旧約聖書の中で預言されていたまことの救い主だ」ということです。
 旧約聖書を読むと、人が愛といのちの源である神様に背を向けた結果、神様との麗しい関係が破壊され、罪と死の支配の中で苦しむようになったこと、神様と関係を回復しようとしても人の努力では不可能なこと、だから、神様が人々を救うために救い主を遣わすと約束してくださったことが書かれています。また、その救い主とは、どのような方で、どのようにして来られ、どのようなことをなさるのか、ということが旧約聖書に預言されています。
 そして、イエス様が来られ、「わたしこそその救い主だ」と言われたのです。弟子たちは、イエス様の姿を間近に見て、たしかにイエス様において旧約聖書の預言や約束がすべて成就したことを知りました。そして、「この方によって以外に救いの道はない」と確信したのです。
 イエス様は、神である方なのに私たちと同じ人として来てくださり、神様の愛や恵みの素晴らしさを身をもって教えてくださいました。人がいくら努力しても自分の力では救いを得ることはできないこと、しかし、ただイエス様を救い主として信じるだけで救われることを示してくださいました。そして、イエス様は、私たちの代わりに十字架ですべての罪の罰を受け、神様の赦しを受けることができるようにしてくださいました。また、三日目によみがえり、御自分がまことに神から遣わされた救い主であり、罪と死の力を打ち破り、永遠のいのちを与える力があることを証明されたのです。弟子たちは、そのイエス様の姿をつぶさに見聞きし、また、実際に復活したイエス様にお会いし、聖霊を与えられたことによって、「イエス様こそまことの救い主です。イエス様を信じるだけで、救われます」と大胆に世界中の人々に証言していくことができるようになったのです。
 その弟子たちの証言をもとに新約聖書がまとめられました。ですから、その直接の目撃証言者である弟子たちがこの世を去った後は、聖書を通して、イエス様の教えを知り、実行し、守っていくことができるのです。
 教会の歴史をみると、初代教会がスタートしてすぐに、異端が起こってきました。「イエスは救い主ではない」と言ったり、「イエスの十字架は失敗だった」と言ったり、「イエスを信じるだけでは十分ではない。人間の側の努力も必要だ」と教えたりするグループが起こってきたのです。今でもそのような異端はたくさんあります。だからこそ、私たちは、聖書に書かれているイエス様の教えを学び、大切に守り、イエス様がまことの救い主であり、神様の恵みにより、ただイエス様を信じる信仰によって救われるのだということを確認し続けていく必要があるのです。

3 イエス様の約束

イエス様が三つめに言われたのは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」ということです。「世の終わりまで」とは、この世界の終わりまでということです。イエス様は「あなたがたは、世にあっては患難があります」と言われたことがありますね。この世に生きている間は、苦しいこと、悲しいこと、様々な試練があります。でも、いつも、どんな時も、イエス様が共にいてくださるというのです。しかも、イエス様は、「あなたたちがいつもわたしと共にいるように頑張りなさい」と言っておられるのではありません。イエス様がわたしたちのもとに来て、ともにいてくださるというのです。たとえ私たちがイエス様を忘れてしまっている時でも、イエス様はともにいてくださるのです。
 イエス様は、この後、弟子たちの見ている前で、エルサレム近くのオリーブ山から天に昇って行かれました。それは、イエス様こそ神様のもとで栄光を受けるふさわしい方であり、一切の権威が与えられている王の王であるということを示す出来事でした。しかし、イエス様が天に昇って行かれたら、「いつも、あなたがたとともにいます」という約束は無効になってしまうのでしょうか。いいえ、そうではありません。前にお話ししたように、イエス様は天に昇った後、御自分の代わりに聖霊を送ってくださいました。聖霊は、父なる神、子なるイエス・キリストと同じ本質をもっておられる方ですが、人として来られたイエス様と違って、一人一人といつも共にいることがお出来になります。ですから、私たちは、今、どこにいても、主が私と共におられるということを信頼して歩むことができるのです。

さて、今まで、六十回に渡ってイエス様の生涯を学んできました。イエス様こそ、聖書が指し示しているまことの救い主です。イエス様といつも一緒にいたヨハネは、福音書にこう記しました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1章14節)
 イエス様は、神の栄光に輝く方、また、恵みとまことに満ちておられる方です。そのイエス様がいつも共にいてくださることを感謝しつつ、与えられた恵みの福音を大切に守りながら、これからも聖書に親しみ、聖書から教えられていきましょう。