城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年五月二六日          関根弘興牧師
                 第一ペテロ一章一節〜二節
ペテロの手紙連続説教1 
   「選ばれた人々」

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(新改訳聖書)

 今日から、ペテロの手紙第一、第二の連続説教を始めます。 新約聖書には、二十一通の手紙が載っていますが、それぞれの手紙を読むときには、誰が、誰に対して、いつ、どこで、何の目的で書いたのかを知ることが理解に役立ちます。
 このペテロの第一の手紙はどうでしょうか。書いたのはもちろんペテロです。そして、今日の箇所を見ると、誰に対して書いたのかわかりますね。それについては、後で詳しく見ていきましょう。いつどこで書かれたかについては、手紙の内容から、紀元六十三年頃、ペテロがローマに滞在していたときに書かれたのではないかと考えられています。そして、この手紙の目的は、5章12節に書かれています。ペテロは「この恵みの中に、しっかりと立っていなさい」と書いているのですが、つまり、「どんな困難や試練の中でも、揺るがされることなくキリストの恵みの中にしっかりと留まっていなさい」と励ますために、この手紙を書いたわけです。
 私たちも、これからこの手紙を読んでいくときに、キリストの恵みの中にとどまり続けることの素晴らしさを学んでいけたら幸いですね。

1 ペテロについて

 この手紙の最初に、ペテロは、まず、自分を「イエス・キリストの使徒」であると紹介していますね。
 「イエス・キリストの使徒」と呼ばれる人は、十三人います。イエス様といつも生活と行動を共にしていた十二弟子のうち、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダを除いた十一人、そして、ユダの代わりに選ばれたマッテヤ、それから、復活のイエス様に出会って使徒となったパウロです。
 その中でも、ペテロはリーダー的な役割を果たしていました。ペテロについては、福音書と使徒の働きにいろいろと書かれているので、詳しく知ることができます。
 ペテロはガリラヤ湖の漁師でしたが、イエス様に招かれると、何もかも捨てて従っていきました。自分こそイエス様の筆頭弟子だと自負していて、イエス様に対して「あなたは、生ける神の御子キリストです」と素晴らしい告白をしました。また、「たとえ、牢であろうと、死であろうと、ご一緒になら、どこまでもついていきます」と勇ましく宣言していました。ところが、イエス様が捕らえられて裁判を受けているとき、ペテロは、「イエスなど知らない」と三度も強く否定してしまったのです。彼は自分の弱さ、情けなさに号泣しました。取り返しのつかないことをしてしまったという自責の念と挫折感に打ちひしがれました。しかし、イエス様は、十字架にかかって死んで葬られた後、三日目に復活し、ペテロの前に現れ、ペテロの心を癒やし、立ち直らせ、「これからは、自分の力に頼るのではなく、わたしを信頼して、兄弟たちを力づける働きをしていきなさい」と、新しい使命を与えてくださったのです。
 それからは、ペテロは、各地を回り、イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝えるようになりました。また、教会のリーダーの一人として、仲間たちを支える働きをしました。そして、ペテロの書いた手紙は、多くの教会で回覧され、各地のクリスチャンたちに慰めと励ましを与えていったのです。

2 手紙の宛先

 この手紙の宛先は、「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している選ばれた人々」です。
 ここに書かれている地名は、今のトルコにあたる小アジアの地域のものです。ペテロがこの手紙を書いた当時には、キリストの福音が小アジアの各地にも広がり、教会ができていました。
 イエス様を信じた人々は、それぞれの地域で信仰を守っていましたが、「私たちの国籍は天にある。この世は仮の住まいにすぎない」という意識を持っていました。クリスチャンは、この世では、寄留者であり、天の御国に向かう旅人なのです。私たちもそうですね。
 ところで、当時のクリスチャンたちが置かれていた状況は、どのようなものだったでしょうか。この手紙を読むと、彼らが様々な試練の中にあったことがわかります。
 当時のローマ帝国内では、宗教は、認可宗教と否認可宗教に区分けされていました。キリスト教会がスタートした当初、ローマ帝国は、キリスト教をユダヤ教の一分派と見なしていました。ユダヤ教は認可宗教だったので、キリスト教会も自由に礼拝を持つことができたのです。しかし、ネロ皇帝の時代、ローマの大火が起こり、それがクリスチャンのせいにされてしまいました。そして、皇帝は、ただちにキリスト教を否認可宗教とし、禁教令を出しました。といっても、ローマ帝国は広大ですから、すぐに帝国全体に渡って大きな迫害が起きたわけではありません。しかし、ネロ皇帝以降、クリスチャンは、クリスチャンであるということだけで犯罪者扱いされる理不尽を経験していくことになるのです。ただし、取り締まりは、各地域の総督のさじ加減ひとつで左右されるものでした。現代にたとえれば、交通違反の取り締まりの厳しい地域とそうでない地域があるようなものですね。また、何か苦情が出たり問題が起こると急に取り締まりが厳しくなるということもあったようです。
 ですから、ペテロがこの手紙を書いた当時は、まだ迫害が嵐のように吹き荒れるような時代ではありませんでしたが、地域の総督の思惑一つで逮捕されてしまうことがあった迫害初期の時代でした。
 そして、苦難や試練は他にもありました。ユダヤ教からキリスト教に回心した人は、ユダヤ人のコミュニティーから追い出され、非難されました。また、社会や家庭の中で信仰を理解しない人々との様々な軋轢や葛藤がありました。それは、昔も今も変わりませんね。
 ペテロは、そんな様々な試練の中にあるクリスチャンたちにこの手紙を書き送ったのです。

3 ペテロの呼びかけ:選ばれた人々へ

 さて、ペテロは、手紙の宛先である小アジアのクリスチャンたちに「選ばれた人々へ」と呼びかけていますね。この「選ばれた」と言う言葉は、本来、旧約聖書の中で神様に選ばれたイスラエルの民に使われる言葉でした。しかし、ペテロは、「イエス様を信じる人々は、民族も国籍も関係なく、すべて神様に選ばれた民なのだ」というのです。この手紙を受け取ったクリスチャンたちは、この「選ばれた人々」という言葉に大いに励まされたのではないでしょうか。
 そして、ペテロは、神様の選びがどのようなものであるかということを2節で説明しています。

@父なる神の予知に従って選ばれた

まず、「父なる神の予知に従って選ばれた」とありますね。それは、「父なる神様が、あらかじめ立てておられた御計画に基づいて選んでくださった」ということです。
 私たちは、自分で人生を選び取ってきたと考えます。自分で教会に来て、イエス様を信じる決心をしたと考えるのです。ですから、信仰を継続していくことも、クリスチャンとして成長していくことも、自分が正しく選択し、努力していかなければならないと考えてしまうわけです。でも、そう考えていると、自分の判断や努力に限界があることに気づいて焦ったり、落ち込んだりすることになります。また、自分が選んだのだから、いつでも手放すことができると思ってしまうこともありますね。
 しかし、実は、私たちがイエス様を信じることができるようになったのは、神様が私たちを選び、引き寄せてくださったからなのです。その神様の助けがなければ、私たちは決してイエス様を信じることができなかったでしょう。
 ところで、「選ばれる」という言葉を聞くと、普通は、それにふさわしい資格や条件を満たしているからだと思いますね。しかし、聖書は、「あなたには何の資格もないけれど、神様が無条件で選び救ってくださったのだ」と教えているのです。神様は私たちを救うための計画をあらかじめ立てておられました。なぜでしょうか。神様が私たちを愛しておられ、何とかして救いたいと思っておられたからです。私たちがどんなに愚かであても、罪深くても、裏切ったり反抗したりすることがあっても、神様の愛は決して変わることはありません。ペテロは、そのことを痛感していたことでしょう。私たちがどのような状態にあっても決して左右されることのない神様の深い愛によって、私たちは選ばれたのです。
 それから、「選ばれる」という言葉を聞いて、私たちがもう一つ考えてしまうのは、「選ばれる人」と「選ばれない人」がいるのかということです。神様に選ばれるのに何の資格も条件も要らないとしたら、選ばれるか選ばれないかは神様の気分次第で決まるのではないかと思ってしまうのです。しかし、そうではありません。神様はすべての人を愛しておられ、すべての人に救いの道を示しておられ、すべての人を招いておられます。しかし、その招きに答えるかどうかを決める自由を神様は与えておられます。神様は私たちを強制的に無理矢理に引き寄せようとはなさいません。それでは愛とは言えませんね。神様は、私たちが神様の愛の招きに気づき、自分から応答するのを忍耐強くまっておられるのです。そして、神様の招きに答える人は、誰でも「選ばれた人」であり、その背後には、神様の招きや導きがあったということなのです。

A御霊の聖めによって選ばれた

次に、「御霊の聖めによって選ばれた」とありますね。
 これは、ちょっと難しい表現ですね。宗教改革者のルターは「わたしは自分自身の理性や力によって主イエス・キリストを信じたり、彼の元にいったりすることはできないと信じている」と語りました。つまり、私たちは、自分だけでは神様の招きに応えてイエス様を信じることは無理だというのですね。でも、助けてくださる方がいます。それが聖霊です。神様は、父なる神、御子イエス、聖霊の三位一体の神様です。父、子、聖霊は、いつも同じ目的のために協同してみわざをなしておられます。父なる神が救いの計画を立てて招いてくださいますが、聖霊は、私たちがその招きに応答し、イエス・キリストによって完成された救いを受け取ることができるように助け導いてくださるのです。
 では、その聖霊の「聖め」によって選ばれたというのは、どういう意味でしょうか。
 「聖め」という言葉を聞くと、日本では「おきよめ」のイメージを持つ人も多いでしょうね。塩をまいたり、水で洗ったりして汚れをきよめるというイメージです。また、聖められるというのは、清廉潔白な非の打ちどころがない人になるということだろうと考える人もいるでしょう。
 しかし、聖書が教える「聖め」は、そういう意味ではありません。聖書の「聖める」という言葉には、「区別する」という意味があります。「神様のものとして区別される」「神様の専用品として取り分けらる」という意味なのです。ですから、「御霊の聖めによって選ばれた」とは、「聖霊によって神様の専用品にされた」という意味なのです。私たちがまったく汚れのない完璧な人になるという意味ではないのですね。
 聖霊は、私たちが救い主イエス・キリストを信じることができるように助けてくださいます。そして、信じた私たちのうちに宿ってくださり、私たちが神様の専用品として生きることができるようにしてくださるのです。
 ヨハネ14章26節で、イエス様はこう言っておられます。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」聖霊は、いつも私たちとともにいて、神様のみこころを教え、イエス様の言葉を思い起こさせながら、私たちが神様のものとしてふさわしい歩みができるように助けてくださるのです。
また、第二コリント3章18節で、パウロはこう書いています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 私たちは、信じたからといってすぐに完全無欠な聖人君主になるわけではありません。心の中には、汚い部分がたくさんあるし、弱さや失敗もあります。自分自身を見て失望してしまうこともあります。こんな自分は神様にふさわしくない、見捨てられてしまうのではないかと不安になることもあるでしょう。
 しかし、安心してください。神様は、そんな私たちを御自分のものとして認めてくださっています。そして、聖霊が私たちをイエス・キリストに似た者へと変えていってくださるというのです。ですから、自分で無理に頑張ろうとするのではなく、聖霊が私たちを神様にふさわしい者にしてくださることを信頼し、聖霊の働きにお委ねしていこうではありませんか。

Bイエス・キリストに従い、その血の注ぎかけを受けるために選ばれた

 では、私たちは、何のために選ばれたのでしょうか。ペテロは、「イエス・キリストに従い、その血の注ぎかけを受けるように選ばれた」のだと書いていますね。
 イエス様は、神なる方なのに、私たちと同じ人となって来てくださいました。そして、神様とはどのような方なのかを身をもって示し、また、人としてどのように生きていくことが最も幸いなのかという模範を示してくださったのです。そのイエス様に従って生きることが、私たちにもっともふさわしい生き方なのですね。
 では、「イエス様の血の注ぎかけを受ける」とは、どういうことでしょうか。
 旧約聖書で「血を注ぐ」のは、契約を結ぶ時、そして、罪の贖いをする時でした。
 契約を結ぶということについて、旧約聖書で最も重要なのは、シナイ山で神様とイスラエルの民が契約を結んだ出来事です。神様は、シナイ山でモーセに十戒の書かれた石の板をさずけ、律法を与えました。モーセは、それをイスラエルの民の前で朗読し、民は「主の仰せられたことは、みな行い、聞き従います」と誓いました。その時、モーセは、主にささげた雄牛の血を民に注ぎかけて、「これは、主があなたがと結ばれる契約の血である」と宣言したのです。この時、神様と民の間で結ばれた契約はどのようなものだったでしょうか。「神様の律法を守れば、神の民として、神と共に生きていくことができる」という契約でした。しかし、民は、この契約を守ることができず、律法に逆らい続けました。契約は破綻してしまったのです。その結果、人は、自分の力では神の律法を守って、神の民として生きることはできないということがわかりました。
 そこで、神様は、新しい契約のためにイエス様を遣わしてくださいました。イエス様は最後の晩餐の時、ぶどう酒の杯を示し、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われました。新しい契約とは何でしょうか。「イエス・キリストを信じるだけで、神の民となり、神と共に生きることができるようになる」という契約です。その契約を有効なものとするために、イエス様は、十字架にかかり、血を流してくださいました。イエス様が私たちのすべての罪を背負って十字架で罰を受けてくださったので、私たちの罪は完全に赦され、自由に聖なる神様のもとに近づけるようになったのです。ですから、イエス様の血の注ぎかけがあるからこそ、私たちは神様に選ばれることができるのです。
 また、イエス様の血は、私たちがクリスチャンになったあとも、絶えず私たちの罪をきよめ続けてくださいます。第一ヨハネ1章には、たとえ私たちが罪を犯しても、「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」と書かれています。また、ヘブル9章14節には、キリストの血は、「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とする」と書いています。
 ですから、私たちは、イエス様の血の注ぎかけを受けることによって、神様の専用品として、また、イエス・キリストに従う者として、いつまでも歩み続けていくことができるのです。

4 ペテロの祈り:恵みと平安があるように

 それから、ペテロは、「恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」と祈っています。
 「恵み」とは、代価を払わずに無償で与えられるものです。 神様は、私たちが神様のために何かしたからとか、私たちが努力したからとか、善行や修行を積み重ねたからとか、立派な人間になったからとか、何かをささげたからということで救いや祝福を与えてくださるのではありません。神様は、私たちを愛しておられるゆえに、私たちに必要なものを備え、与えてくださるのです。私たちのいのちも信仰も希望も、すべては神様の恵みによって与えられているのです。神様は、時には、失敗や試練も与えてくださいます。私たちの成長に必要だからです。
 もし神様の恵みがなければ、私たちは信仰生活を続けていくことはできません。それどころか生きていくことさえできないのです。
 マタイ5章45節には「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨をふらせてくださる」と書かれています。神様は、いつでも誰にでも惜しげなく恵みを注いでくださっているのです。そして、その恵みを受け取ってほしいと願っておられます。それなのに、その恵みに気づかなかったり、無視したり、拒否する人がいるのですね。そして、自分の努力や頑張りだけで生きていこうとしてしまうのです。私たちが、もし恵みなしに自分の頑張りで信仰生活を送ろうとしたら大変でしょうね。私たちは、神様の恵みによって救われたのですから、信仰生活の中でも神様の恵みを喜んで受け取っていくことが大切なのです。
 ペテロの「恵みが、あなたがたの上にますます豊かにされますように」という祈りには、「あなた方がもっともっと神様の恵みに気づいて、感謝しつつ、まずます豊かに受け取っていくことができるように」という意味が込められているのではないでしょうか。
 それから、ペテロは「平安」を祈っていますが、これは、イエス様から与えられる平安という意味です。イエス様は、ヨハネ14章27節でこう言われました。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」イエス様が与えてくださる「平安」とは、争いや悲しみや困難がまったくないという意味ではありません。どんな状態の中にあっても神様を信頼して揺るぐことなく歩んでいくことができる平安です。それは、私たちを慰め、励まし、落ち着きとゆとりを与えるものです。
 どうか、今週、恵みと平安が、皆さん一人一人の上にますます豊かにされますように。