城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年六月二日            関根弘興牧師
                  第一ペテロ一章三〜五節
ペテロの手紙連続説教2 
   「生ける望み」

3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。(新改訳聖書)


先週からペテロの手紙連続説教を始めました。
 ペテロは、なぜこの手紙を書いたのでしょうか。5章12節に「この恵みの中に、しっかりと立っていなさい」とあります。ペテロは、この世で様々な試練を味わっているクリスチャンたちに対して、神様の恵みがどんなに素晴らしいかを思い起こさせ、「どんな時にもこの恵みの中にしっかり立っていなさい」と励ますために、この手紙を書いたのですね。

1 神がほめたたえられるように

 さて、前回は、この手紙の最初の部分を読みましたが、ペテロは、手紙の相手を「選ばれた人々」と呼びました。それは、「あなたがたは、自分の力ではなく、神様の救いの御計画に従って選ばれ、導かれ、救われて、神様の専用品として生きることができるようになったのです」という意味でした。そして、ペテロは、「恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」と祈りました。
 そのように神様の恵みを思い巡らしながら書いているうちに、ペテロの内には、抑えきれないほどの賛美が湧き上がってきたのでしょう。今日の3節では、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」と賛美の言葉を記しています。まず、この言葉を詳しく見ていきましょう。

@「ほめたたえる」とは

 「ほめたたえる」とは、お世辞や褒め言葉を並べて相手を持ち上げ、相手の気分を良くすることだと考える人がいます。以前、私にこう言った方がいます。「関根さん、『神をほめたたえよう』と言うけれど、神様はそんなに人からほめられたいのですか。私は、人からほめられたいとは思いませんけどね。」しかし、それは、まったくの誤解です。神様が私たちの評価を求めておられるわけではありません。私たちが、神様のすばらしい恵みを知れば知るほど、神様を心からほめたたえずにはいられなくなるのです。そして、その私たちの姿を見て、神様も喜んでくださるのです。
 詩篇136篇などを読むと、「神様をほめたたえる」という言葉は、「神様に感謝する」と同じ意味で用いられています。ですから、「神がほめたたえられるように」というのは、「神に感謝がささげられるように」ということでもあるのですね。

A私たちの主イエス・キリストの父なる神

 ところで、ペテロはここで、ただ「神」がほめたたえられますようにではなく、わざわざ「私たちの主イエス・キリストの父なる神」がほめたたえられますようにと記してますね。なぜでしょうか。
 イエス様は、いつもイエス様に従っていた弟子たちに対して、「わたしの父は、愛とまことと恵みに満ちた方だ」「わたしの父は、あなたがたの罪を赦し、永遠のいのちを与えるために、わたしを遣わしてくださったのだ」ということを教え、それを身をもって示しておられました。ですから、弟子たちは、イエス様を通して、イエス様の父である神様の愛と恵みの深さを知ることができたのです。
 ですから、ペテロは、「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。また、ヨハネは、ヨハネ3章16節でこう記しました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神はそのひとり子イエス様をお与えになるほどに私たちを深く愛しておられる、ということを弟子たちは知ったのです。
 私たちは、神様に愛される資格のない者でした。神様との親しい関係が破壊され、罪と死に支配されている状態でした。しかし、神様は、そんな私たちを深く愛しておられるので、御自分の愛する御子イエスを私たちのもとに遣わし、このイエス様によって私たちを救うという御計画を立ててくださいました。イエス様が十字架にかかり、本来は私たちが受けるべきすべての呪いと罰を引き受けてくださったので、私たちは、イエス様を信じるだけで赦され、罪のない者と認められ、永遠のいのちによって新しく生まれ、神様とともに生きることができるようになったのです。
 パウロは、ローマ5章8節でこう書いています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
 そして、それだけではありません。ヨハネ1章12節-13節には、こう書かれています。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」また、ローマ8章14節-15節で、パウロはこう記しています。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」
 神様は、イエス様によって私たちを救ってくださっただけでなく、イエス様を信じる一人一人に聖霊を与えて神の子として生きることができるようにしてくださいました。そして、私たちが神様の愛の呼びかけに応えて大胆に神様のみもとに近づき、「アバ、父よ」「お父ちゃん」と呼びかけるとき、神様は、放蕩息子を迎え入れた父親のように、大いに喜んで迎え入れ、豊かな恵みで満たしてくださるのです。
 私たちが神様を天の父と呼ぶことができるのは、私たちを愛し、私たちのために御子イエスを遣わしてくださった父なる神様の大きな愛のゆえなのです。ですから、その「イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」とペテロは書いているわけですね。
 
2 神の大きなあわれみ

 さて、ペテロは、続けて、神様が私たちにどのような恵みを与えてくださっているかを説明しています。

@「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(3節)

 この「大きなあわれみ」とは、「大きな愛」と同じ意味と考えていいでしょう。
 そして、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」とありますが、神の御子イエス様は、私たちのために十字架にかかって死んで葬られましたが、三日目によみがえられました。それによって、何がわかったでしょうか。イエス様がよみがえられたことによって、イエス様がまことに神の御子、救い主であることが証明されました。イエス様の十字架の贖いは完全であり、罪と死の束縛を打ち破ることができるものだということが証明されたのです。
 また、イエス様がよみがえられたことによって、イエス様の約束は必ず実現するということも証明されました。イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10章28節)と約束しておられました。その約束のとおり、イエス様はよみがえられ、そのイエス様を信じる私たちも永遠のいのちを与えられて新しく生まれ変わることができるようになったのです。そして、「死んでも生きる」「決して滅びることがない」「永遠に神様とともにいることができる」という希望を持って生きることができるようになりました。その希望は、「生ける望み」です。単なる虚しい願望ではなく、実現が確実に保証されている希望なのです。
 ですから、パウロはローマ5章5節で「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と宣言しています。また、ローマ8章32節では、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と書いています。御子イエス様を十字架につけるほどに私たちを愛してくださっている神様が、私たちを失望のまま終わらせることなどありえないではないか、とパウロは確信していたのです。
 私たちは、生まれ変わりたい、もう一度人生をやり直したい、と思うことがありますね。パソコンなら、スイッチ一つで古いデータを全部消してまっさらな状態に初期化することができますが、私たちの人生は、そうはいきません。しかし、よみがえられたイエス・キリストを信じるなら、私たちは、神様の永遠のいのちを受けて新しく生まれ、新しい人生をスタートできる、と聖書は教えているのです。
 それは、ペテロ自身の経験でもありました。彼はイエス様が逮捕されたとき、三度も「イエスなど知らない」と否定してしまいました。後悔と自責の念にかられて、生きる希望さえも見失ってしまいました。しかし、よみがえったイエス様に出会って、彼は、新しい人生をスタートすることができました。
 しかも、新しい人生には、決して失望に終わることのない希望があります。人は、希望があれば、どんな困難も乗り越えていくことができますね。私たちも、神様の豊かな愛を信頼し、希望を持って進んでいきましょう。

A「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(4節)

 先ほどお話ししましたように、私たちは、イエス様を信じることによって、神の子となることができました。それは、ただ神様を「お父さん」と呼べるようになっただけでなく、神様の相続人になったということでもあるのです。すごいことですね。
 私たちが父なる神様から相続するのは「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産」です。それは、どのようなものでしょうか。聖書には、次のように書かれています。「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。」(詩篇16篇5節)「神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」(詩篇73篇26節)「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」(哀歌3章22節)
 つまり、私たちが受け継ぐ資産とは、神様御自身だということですね。
 そして、それは「天にたくわえられている」とありますが、「天」というのは、「空の遙か上」という意味ではなく、「神様がおられるところ」ということです。そして、イエス様は、ルカ17章21節で「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と言われました。それは、神様が信じる人と共にいてくださるということです。つまり、「神様が信じる私たち一人一人と共にいてくださる。それこそ、私たちが受け継ぐ永遠に滅びることのない素晴らしい資産なのだ」ということなのですね。神様の内に、私たちに必要なもの、最善のものは、すべて備えられています。そして、私たちは、そのすべてを受け継ぐことができるのです。ですから、安心して、生きていくことができるのですね。
 しかし、そういうことを聞くと、「自分は弱く、失敗も多い。本当に、生ける希望や朽ちることのない資産を持つ人にふさわしい生き方をしていけるのだろうか」と少し不安に思ってしまう方もいるかもしれませんね。でも、大丈夫です。次の5節に素晴らしいことが書かれているのです。

B「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。」(5節)
 
 「私たちは、神の御力によって守られている」とペテロは言います。全能の神様が守ってくださっているのです。ですから、恐れや心配があるときは、その約束に立ち返ってください。
 ただ、気になる言葉がありますね。「信仰により」という言葉です。「神様が守ってくださるかどうかは、私の信仰にかかっているのか」と思って、不安になったり、負担を感じたりする方もいるでしょう。
 私たちは、自分の信仰がいかに当てにならないかを知っていますね。状況や気分次第でジェットコースターのように変わってしまいます。この手紙を書いたペテロでさえ、「私は死んでもイエス様についていきます」と言っていたのに、いとも簡単にイエス様を裏切ってしまいましたね。ペテロ自身が、自分の信仰が当てにならないことを痛感していました。ですから、ここでペテロは「あなたがたが頑張って信じ続ければ、神様は守ってくださいます」と言っているわけではないのです。
 イエス様も、からし種ほどの信仰があれば十分だと言われたことがありましたね。皆さんは、からし種を見たことがありますか、砂粒よりも小さくて、ちょっと風が吹いただけでも吹き飛ばされていってしまうようなものです。でも、私たちには、そんな小さな小さな信仰さえあればいいというのですね。
 なぜなら、聖書の教える「信仰」、別の言葉で言えば、「神様への信頼」とは、私たちの力や努力や頑張りにかかっているのではないからです。神様は、私たちの状態に関わりなく、私たちを愛し、守ってくださいます。私たちが手を放してしまうことがあっても、神様のほうでしっかりと手を握り続けてくださるのです。ですから、私たちは、ただ、その神様の愛と力に信頼して、すべてをお任せすればいいのですね。それがペテロの言う「信仰により」の意味なのです。
「でも、神様が守ってくださっているにしては、辛いことがたくさんあるのはどうしてだろう」と思う方もいるでしょう。
 実は、聖書が教える「守られる」というのは、辛いことや苦しいことが全くないという意味ではありません。クリスチャンになっても、また、クリスチャンになったからこそ、試練に遭遇することもあります。しかし、試練の中でも神様の守りを見い出すことができると聖書は約束しています。
 聖書には、試練についてこう書かれています。
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント10章13節)
「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12章10節ー11節)
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1章2節ー4節)
 父なる神様は、私たち子どもを愛しておられるので、時には懲らしめて反省させ、時には、試練を通して訓練し、成長させてくださいます。神様は、私たちが耐えられないような試練に会わせることはなさいませんし、必ず脱出の道を備えてくださると約束されています。私たちが試練に耐えられるように励まし、慰めてくださるのも神様です。
 でも、試練のただ中にあるときは辛いですから、愚痴や不平も出て来ますね。落ち込んだり、何も手につかなくなってしまうこともあるでしょう。しかし、それでもなお、聖書の約束を思い起こし、試練のただ中で神様の守りがあることを信頼し、神様をほめたたえていくことができれば幸いですね。
 私たちの生涯は、その終わりの時までずっと、神様の御力によって守られています。神様のまなざしは、一人一人の上に絶えず注がれているのです。そして、最後には「終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」とペテロは書いていますね。
 この「終わりのときに用意されている救い」とは、どういうものでしょうか。
 私たちはイエス様を信じた時に、完全な罪の赦しと永遠のいのちを与えられました。その救いは、決して取り消されることはありません。救いのみわざが私たちの内に始まっているのです。私たちは、イエス様を信じた時に新しく生まれ、今、神の子供として成長の過程にあるのです。その途中で、つまずくことも失敗することもありますが、終わりの時には、完成された姿になると聖書に約束されています。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3章18節)
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」(第一ヨハネ3章2節)
 感謝ですね。この地上では苦難も困難もありますが、しかし、栄光から栄光へと変えられていき、最終的には、キリストに似た者とされるのです。
 そして、黙示録21章4節黙示録の中には、このように記されています。「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
 それが、「終わりのときに現されるように用意されている救い」なのです。
 私たちは、地上では旅人です。この地上では、たくさんの悲しみや苦しみを経験するでしょう。しかし、私たちは、神様を親しく「お父さん」と呼び、生ける望みが与えられ、最終的な救いの完成に向かって進んでいます。ですから、今週も、主イエス・キリストの父なる神がますますほめたたえられますように、と賛美しながら歩んでいきましょう。