城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一九年六月九日            関根弘興牧師
                 第一ペテロ一章六節〜九節
ペテロの手紙連続説教3 
   「信仰の結果」

6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。(新改訳聖書)

この手紙は、様々な試練を味わっている人々に対して、「どんな時にも神様の恵みの中にとどまっていなさい」と励ますために書かれました。前回の箇所では、ペテロは、試練の中でも、イエス様の復活によって生ける望みと朽ちることのない資産が与えられていること、神の御力によって守られていること、また、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくことができるということを書き記していましたね。
 そして、その続きである今日の箇所で、ペテロは、「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます」と記しています。
この「大いに喜んでいます」と訳されている言葉には、「踊り上がるように喜んでいる」「狂喜乱舞している」という意味があります。
 皆さんは、最近、踊り上がるような喜びを経験していますか。「私は、喜びより悲しいことの方が多いです」と言われる方もいるかもしれません。「躍り上がって喜ぶなんてことは、めったにありませんよ」という方もいるでしょう。私たちが躍り上がって喜ぶとしたら、仕事で大成功を収めたとき、試験に合格したとき、長年の希望がかなったとき、宝くじに当たったときなどでしょうか。
 しかし、ペテロは、試練の中にあっても踊り上がるような喜びを味わうことができるのだと教えています。そして、この手紙の相手一人一人の姿を思い浮かべながら、「あなたがたは大いに喜んでいます」と書いています。そして、それは、9節にあるように「信仰の結果である、たましいの救いを得ているから」だというのです。
 今日は、人生に襲う様々な試練をどのようにとらえていけばいいのか、また、試練を通して何がもたらされるのかということを御一緒に考えていきましょう。

1 「試練」という言葉の意味

 ところで、聖書に出てくる「試練」「試み」という言葉は、原語ではどちらも同じ言葉ですが、いろいろな内容が含まれています。
 ペテロは1章6節で「しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが」と書いていますが、この「悲しみ」と訳された言葉は「心が痛む、悩む」という意味です。試練には、心が痛み、悩むような出来事が含まれていますね。病気や怪我など、肉体の痛みが伴う場合もあります。そして、聖書では、イエス様の福音を伝える弟子たちが味わった様々な迫害も試練と呼んでいます。
 また、試練には、「誘惑」という意味もあります。例えば、イエス様は、公の活動を始める前に悪魔の試みをお受けになりました。「神様に従って生きるのはやめて、自分のために自分の思うとおりに生きればいいではないか」という誘惑です。また、エデンの園でアダムとイブは、「神様の言葉は、本当に信頼できるのか」「神は本当は自分勝手なのではないか」「自分が神のようになって自分の人生の支配者になったほうがいいのではないか」と神様の愛や真実を疑わせるような誘惑を受けました。
 そのように試練には様々なものがありますが、どの試練にも共通していることがあります。苦しみや悲しみや迫害にしろ、甘い誘惑にしろ、試練のときにはいつも、「あなたは、それでも神様を信頼し続けるのか」という選択に迫られるのです。「試練」は、それをどのように受け取っていくかによって、私たちを訓練、鍛錬、精錬するものにもなれば、逆に、私たちを神様から引き離し、悪しき方向に向かわせるものにもなってしまうということなのですね。
 私たちが毎週の礼拝で祈っている「主の祈り」の中に「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」という祈りがありますね。これは、「試練がまったくありませんように」ということではなく、「私たちを神様から引き離してしまうような試練に会わさないでください。試練に会ったときも、私たちが神様から離れて悪に向かうことがありませんように」という祈りなのです。
 ペテロは、イエス様から教えられたこの祈りをいつも祈っていたに違いありません。自分のためにも、教会の仲間たちのためにも祈っていたでしょう。そして、試練の中にいる仲間たちに試練の積極的な意味を教え、励まし続けていたのです。
 パウロも、試練を積極的に受け止めるようにと、繰り返し手紙の中で書いています。例えば、第一コリント10章13節では、こう書いています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
 ヤコブも、ヤコブ1章12節でこう書いています。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」
 ヨハネも、ヨハネ黙示録3章10節でイエス・キリストの言葉をこう記しています。「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
 試練に会ったときに、それを積極的に受け止め、神様の約束を信頼し続けるならば、心の底から喜びが湧いてくる、そのことを彼らは体験的に知っていたのです。

2 信仰の試練がもたらすもの

さて、ペテロは、今日の箇所でも、信仰の試練を非常に積極的にとらえ、それがいかに尊いものかということを説明しています。
 7節で「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります」と書いていますね。この「尊い」という言葉は、直訳では「すばらしい値打ちがある」という意味です。信仰の試練は、純金よりももっとすばらしい値打ちがあるものだというのです。信仰の試練があるからこそ、人格的に成長し、神様の恵みをさらに深く知ることができるようになるのだ、とペテロは確信していました。
 聖書の様々な登場人物を見ても、そのことがよくわかります。 例えば、旧約聖書のモーセはどうでしょう。彼は、エジプトの王女の養子として宮廷で成長しましたが、四十歳の時、大きな失敗をして荒野に逃げ、羊飼いとして生活しなければならなくなりました。しかし、その間に彼は、謙遜を学び、荒野での生活の仕方を身につけることができたのです。そして、八十歳になったとき、神様に大きな使命を与えられました。エジプトで奴隷生活を強いられていた何百万人ものイスラエルの民をエジプトから脱出させて、約束の地まで荒野を導いていくという使命です。神様は、モーセとイスラエルの民のために様々な奇跡を起こして救い出し、何もない荒野で毎日マナという食べ物を与え、水を与え、進むべき道を示してくださいました。ところが、民は、神様に逆らい、モーセに不平不満をぶつけてばかりいました。敵が襲ってくることもありました。モーセには、毎日のように様々な試練が襲ってきたのです。彼は、祈らずにはおれませんでした。しかし、出エジプト記33章11節には、こう書かれています。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」モーセは、試練の中でいつも神様に祈り求め、神様は、モーセに友のように親しく語りかけてくださったのです。つまり、試練があったからこそ、モーセは神様をより深く知ることができたのです。
 それから、新約聖書の使徒パウロは、何かの病気を抱えていたようです。ガラテヤ4章14節で「私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました」と書いています。パウロの病気は、他の人にとっては、つまずきになりかねませんね。イエス様のいやしを語りながら、自分が病気をもっているわけですからね。パウロ自身にとっても病気を抱えながら福音を伝えなければならないことは大きな試練でした。ですから、パウロは、自分の病気をいやしてくださいと何度も神様に祈り求めました。すると、神様は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。パウロは、「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と書き記しました。パウロは、病気という試練を通して、神様の恵みを深く知ることができたのです。
 ある方がこう言われました。「さまざまな試練があるということは、さまざまな恵みが与えられることだ」と。確かに振り返ってみるとそのとおり、と頷くことが出来るのではないかと思います。私たちは、試練があるからこそ真剣に祈り求め、聖書のことばに力があることを知ることができ、また、試練があるからこそ、神様が今も生きてみわざをなしておられることを味わっていくことができるのだと言ってもよいと思います。
 そして、試練は何をもたらしてくれるでしょうか。

(1)混じりけのない純粋な者にされる

 金は、火で精錬されて純粋になっていきますが、私たちも試練によって精錬され、混じりけのない純粋な者とされていきます。それは、どのような者になるということでしょうか。

@子供のような者

 イエス様は、ルカ18章17節で、「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と言われました。信仰とは、理屈でもなければ、議論でもありません。語りかけられた言葉をそのまま単純に受け入れていく純粋さが大切なのです。クリスチャンとして成長して行くにつれて、信仰はとてもシンプルなものとなっていくのだと思わされます。 
 詩篇18篇30節に、「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾」とあります。主のみことばが純粋だからこそ、私たちは、そのままを受け入れればいいのです。試練を通して、私たちは、神様のことばがそのまま受け入れるに値するものであることを知ることができます。そして、知れば知るほど、単純にみことばを信じて歩んで行くことができるようになっていくのです。

A希望を持つ者

人は何か期待して待つものがあれば、どんなものをも受け入れ、耐えていけるものです。未来に明確な希望をもっていると、今の試練に耐えることができます。どうせ、わたしの将来は駄目に決まっている、将来にまったく期待も希望もない、と思ったら、試練の中で忍耐していくことなどできないばかりか、忍耐すること自体が馬鹿馬鹿しく感じてしまうでしょう。しかし、例えば、病気になって、医者に「手術をすれば、治ります」と言われたらどうでしょう。手術には痛みも伴うし、いろいろな不自由を強いられるでしょうが、回復できるという望みがあれば耐えることができますね。
 パウロは、ローマ5章3節-5節でこう記しています。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」試練を通して、精錬されながら、私たちは、品性が練られ、決して失望に終わることのない希望を持つことができるようになるというのですね。
 どんなときにも、ただ聖書の約束を信頼し、希望を持って歩んで生ける者、それが、混じりけのない純粋な者なのです。

(2)称賛と光栄と栄誉に至る

といっても、どんな辛いときも悲しんだり、落ち込んだり、不平を言ってはならない、喜んで元気に生きていきなさい、というのではありません。試練のまっただ中にいるときは、それどころではないでしょう。
 私たちは、「訓練」とか「鍛える」という言葉を聞くと、「私がもっと強くなって、立派な信仰者となって、どんなことにも動じないようにならなければならない」と考えてしまいがちですね。そして、もしそのようにできなかったら、訓練が足りなかった、鍛えられ不足だった、と思ってしまうのです。
 しかし、聖書は、「信仰の試練によって、あなた自身が立派にならなければならない」と言っているのではありません。
 ペテロは、「イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になる」と書いていますね。人生の最後に、イエス様から称賛と光栄と栄誉が与えられるというのです。イエス様が「よくやった。あなたはわたしの誇りだ」と称賛してくださるというのですね。そして、それは、私たちが立派な人間になったからではなく、私たちが、試練の中でも信頼することをやめなかったからだというのです。考えてみてください。イエス様がこう言ってくださるのです。「あなたは、地上の生涯をよくぞ生きた。いろいろな失敗も挫折も試練もあった。横道にそれてしまうようなときもあった。頼りないこともたくさんあった。けれど、わたしを信じ続けて今に至った。よくやった。あなたは、わたしの光栄であり誇りだ。」イエス様がそう言ってくださるなら、それで十分ではありませんか。
 私の兄が毎日配信しているメールマガジンがあります。先日、こんなことが書かれていました。
 「アドニラム・ジャドソンは、犠牲と苦しみの中で誠実に役割を意識し、それに徹して生きた人です。三十八年間のミャンマーでの生活を通して聖書全巻をミャンマー語に翻訳しました。彼は言語学的な才能を生かし、ミャンマー語の辞書と文法書を編纂し、多くの現地人を翻訳作業のために教育しました。宣教師としての最初の改心者を得るまでに六年。英国のスパイの嫌疑をかけられて投獄、拷問などを受けました。奥さんのアンは、アドニラムの投獄中、翻訳中の聖書の原稿を枕の中に隠して守ったと言われています。彼の人生は窮乏、耐乏生活の連続でした。しかし、彼はビルマを愛し、そこを去りませんでした。
 彼の息子さんが紹介しているアドニラム・ジャドソンの有名な言葉があります。『苦しみと成功とは、結び合わされているものです。もしあなたが、苦しむことなしに成功を収めたとすれば、それはあなた以前の誰かが苦しんだからです。もしあなたが、成功を見ることなしに苦しんで終わったとすれば、それはあなたに続く誰かの成功のためです。』孤立型の人生観ではなく、継続的、絆型の人生観ゆえに失敗はないということになります。自分には成功体験が少ない人生だったとしたら、それは、ある人達があなたの経験を知り、それを土台に成功を納める日があるでしょうし、何も無理なく成功できたとすれば、あなたの前に生きた人たちの数知れない苦悩を土台にしての結果なのだということです。高慢、ひとりよがり、あるいは絶望、ひがみの世界ではなく、どうなるにせよ、神は私を誰かのための、いいえ、神様のための有用な素材・道具としてお用いくださると信じる事ができたら、きっと今日を生きられますね。うまくいく日もあるし、そうでない日もあるのです。でも、どちらにせよ、そこで終わるものではありません。」
信仰の試練は、称賛と光栄と栄誉に至るということを、いつも心に留めていきたいですね。
 
3 信仰の結果

 そして、ペテロは、8節と9節でこう言っています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
ペテロは、自分の以前の姿を思いながらこの言葉を記したのではないかと思います。「自分は、イエス様を間近に見ていたのに、『イエスなど知らない』と三度も否定してしまった。それなのに、この手紙の宛先の人たちは、一度もイエス様を見たことがないのに、愛しており、信じている。なんとすばらしい信仰に生きているのだろう」と深い感慨を込めて記したのではないでしょうか。
 イエス様は、イエス様の復活を信じようとしなかったトマスに、「見ないで信じる者は幸いです」と言われましたね。それは、実際にイエス様を目で見なくても、イエス様を信じるなら、見たと同じような感動と喜びを持って生きていくことが出来るということなのです。
 聖書は、人として来られたイエス様の外見については、ほとんど触れていません。どんな顔で、背は高いか低いか、痩せているか太っているか、どんな服装だったかなどは、一切書いていないのです。しかし、私たちがイエス様を信じて生きていくために必要なことは、すべて書かれています。イエス様がどれほど愛に満ちた方であるか、どれほど確信に満ちた話し方をされたか、どんなに人々を憐れみ、助けられたか、どんなにすばらしいみわざをなさったかなど、私たちが心から信じ、愛することのできるイエス様の姿を伝えているのです。
 イエス様は、私たちのために十字架についてくださるほどに大きな愛を示し、また、復活して死を打ち破り、一人一人に永遠のいのちを与える力があることを示されました。ペテロは、そのイエス様を愛し、信じて、自分自身の内側に栄えに満ちた喜びがわき上がってくる経験をしました。だからこそ、そのイエス様を宣べ伝え、信じた人々が自分と同じ経験をすることを確信していたのです。
 この「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び」は、イエス様を信じる人たちだけが味わうことのできる特別な喜びです。ペテロは、それは、たましいの救いを得ているからだと書いていますね。
「たましいの救い」とは、心だけが救われたということでありません。人としての生き方そのものが救われたということです。罪責感や死の恐れや将来の不安や虚しさから解放され、神様に愛されていることを喜びながら、自分らしく、希望をもって神とともに歩む生き方に変えられたということなのです。
 パウロは、多くの試練を味わう中で、「私たちは、悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる」と言いました。神様を信頼していれば、悲しみや苦しみがあっても、喜ぶことができるのですね。ですから、パウロは、第一テサロニケ5章16節ー18節で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と勧めています。
 私たちも、試練の中でも感謝と賛美をささげていきましょう。